1 可憐なあの子は空を飛ぶ
「おーい、兄い。早く行こうぜ」
「ああ、もう少し待ってくれ」
「ったく……」
亮州快晴、雲ひとつない青空の下。
ごった返す市場のただ中で、ひときわ衆目を集めるこの二人組。
一人は身の丈六尺以上。虎体狼腰、黒髪白皙の美丈夫。足下には一頭の大型の犬が付き従っている。
そしてもう一人は、これまた緑なす黒髪の華奢な少女。その可憐な容貌は、瑶池にほころぶ瑞々しい蓮の花のよう。
美少女は屋台を覗き込んでいる美丈夫へ、呆れたようにため息を吐いた。二人の姿に、街行く老若男女は「素敵!」「かわいい!」と見惚れている。
「おーい、兄いってばー!」
美少女は美丈夫を「兄い」と呼んで急かすが、当の兄い、屋台の店主と熱心に話し込んでいて全く応じる気配がない。
「おおっ、これは美味!」
美丈夫、茹でたて熱々の野菜餡水餃子に夢中だ。
「はぁ……」
はふはふと美味そうに、黒酢の絡んだ水餃を頬張っている兄貴分へ、美少女二度目のため息。
しびれを切らしたように、少女は柳眉を逆立て、苛立ちを隠さずに言葉を投げた。
「もういいよ! 兄い、オレ先に行ってるからな!」
「ああ店主、こっちは違う味付けかい? 精進物ならば是非いただきたいが……」
「だーっもう!」
美少女、憤慨。
その口調に女っ気は皆無で、彼女の言動の一切は、まさしく男勝り。
彼女はくるりと兄いに背を向けると、のしのしと淑やかさの欠片もない足取りで歩み始める。
「ったく! 任務で来てるのを忘れちまったのかい、兄いはよ!」
可憐な彼女を街中の視線が追うが、少女、気にせず街の南方へ向かって歩みを続ける。
「兄いがあの調子なら仕方ない。オレが霊薬を回収しなければ!」
-------------------------
「完っ全っ! 復活ーー!!」
清流堂の庭では、はた迷惑な存在が復活を宣言していた。
三日三晩の生命の危機から、見事脱した覆面黒ずくめ。
変態ニンジャの木ノ枝巽である。
庭木のてっぺんに陣取って「ふふふん」と得意げな彼に、黄雲は苦々しげな面持ちを浮かべ、雪蓮はにこにこと素直に回復を祝っている。
「よかったね、巽さん!」
「なにが良かったんだか……」
「とうっ!」
各々がそれぞれの反応を示す中、巽は木の上からくるりと身を翻し、見事に着地。
するとその彼の頭上へ、どこに隠れていたのか一匹の子狐が顔を出した。
「あっ、お前いつの間に!」
「きーっ!」
とっさに振り払おうとした巽の指に、三尾の子狐が食らいつく。
「なにしやがるこのやろっ、るーるーるー!」
「きーーーーっ!」
「おいやめてやれクソニンジャ。そいつはお前の恩狐だぞ」
黄雲は呆れながら、一人と一匹に割って入った。
恩狐、というのも。
「お前が意識不明の間、誰が看病してたと思ってんだ?」
「きれいなおねーちゃん?」
「あほかっ! 話の流れで分かれや、その狐だっつの、狐!」
そう、病床の巽を甲斐甲斐しく看護していた者こそ他の誰でもない、この小さな愛らしい狐である。
この狐、先日火眼の力を封じた際、大量の水に押し流されていたところを巽に救われている。
そのことに恩義を感じたのか。誰も世話をしようとしない巽の面倒を、ただ一匹で見続けてきたのだった。
「……というわけで、この狐殿はお前の恩狐というわけだ。さあ三跪九叩して感謝しろ」
「なあ、それって他の奴らは俺を見捨てたってこと?」
「なあせっちゃん?」と振り向いた巽の視線から、雪蓮は目をそらす。一抹の気まずさ。
一応理由を述べるなら、巽の体質のせいで、女性陣は彼の看病に手を出すことができなかったのだ。黄雲は単に面倒くさいという理由である。
「ともかくも、そりゃ面倒かけたな狐よ。あんがとさん」
「きーっ!」
「だからなぜに噛む」
礼を言われたにも関わらず、子狐はなおも巽の指に噛み付いている。
さてこの子狐。というか、子狐の師匠の玄智真人。
実は既に、この清流堂にはいない。一昨日、天究山へと帰ってしまったのだ。真人が別れ際に言うには。
『わしは荒れ果てた天究山を、元の霊山に戻さねばならん。我が弟子の三尾を置いて行くゆえ、何かあればこの者に伝えてくれ』
というわけで、残されたのがこの子狐——三尾である。
次代の玄智真人となるべく修行を積んでいるこの狐、魂魄が現在の玄智と繋がっているそうで。真人はこの狐を、連絡役として清流堂へ残して行ったのだった。
有事の際には三尾へ伝言すると、天究山の玄智真人へ即座に伝わるそうだ。
ちなみに、燕陽翁も元の神像に戻って、土地神の通常業務に励んでいる。本堂奥の祭壇には、見慣れた柔和な笑みの老爺像が安置されていた。
本日。清流は知り合いから失せ物探しの呪い依頼があったため、城内の西方面へ出かけている。子ども達は面白がって彼女に着いていった。
火眼はというと。
「くかー……」
言うまでもない。
さて、話は庭の三人に戻る。
復活した巽の目的はただひとつ。
「さあっ! 三日分のスケベを補充しに、いざいざ街へ繰り出さんっ!」
「どうせまた雷に打たれるだけだろ?」
やる気満々の巽に黄雲が茶々を入れるが、黒ずくめ、余裕の表情で「チッチッチ」と指を振って見せる。
「ふふふ、忘れたか。俺の道術がかくも強力に成り果てたことを!」
「……そうだっけか?」
「そうだっ! そう、いまやこの亮州中の植物がこの俺の支配下!」
試しにとばかりに、巽は木氣を高め、そばの庭木へ送り込んだ。
「さあさあ庭の木よ! うねうね伸びてそこなせっちゃんにいやらしいことを!」
「まあっ」
破廉恥の気配に、雪蓮が身構えるが。
庭木に変化は、ない。
「あ、あれ?」
「忘れてんのはお前だろ……亮州の植物へ道術が許可されてたのは、火眼と戦うときだけだったっての」
小馬鹿にした調子で、黄雲は木氣不発の理由を告げた。
巽もやっと思い出したのか、三白眼がはっと見開かれる。
「げーっ! そういやそうだった、期間限定だった!」
「ばーかばーか。諦めて真人間になりやがれ!」
「だが俺は挫けない!」
この男、往生際の悪さに関しては当世一。巽は瞬時に懐から棒手裏剣を取り出した。
「すっぽんぽんを見るまではーっ!」
「わあ!」
もちろん投げつける先は、現在紅一点の崔雪蓮。
しかし彼女、もはや手慣れた様子で棒手裏剣を次々にはたき落とし、最後の一本をはっしと掴むと。
「成敗っ!」
巽へ鋭く投げ返す。
ぶすり。
「ぐはーーっ!」
刺さった先は、あろうことか眉間である。
「あっ! ご、ごめんなさいっ!」
とっさに急所を狙ってしまった雪蓮、おろおろと途端に狼狽するが。
「ふっ、心配しないでくれせっちゃん。これくらいかすり傷だぜ」
「ああ、良かった……」
厨房害虫並みの生命力を持つこの男、これしきで死んだりはしない。何事もなかったかのように棒手裏剣を眉間から引き抜き、傷跡からはぴゅっと血が吹き出した。それでもニンジャはピンピンしている。
彼が死ぬときは、女人の乳しり太ももに触れたとき。
相変わらずのニンジャに。
「はぁ、また近隣から苦情の嵐か……」
黄雲は戻ってきた日常に、げんなりと青息吐息を漏らすのだった。
そんなやりとりが続く、気だるい午後。
珍客は突如訪れる。
「そこなお三方」
「?」
門の方から響く、凛とした声。
わいわいと騒がしかった黄雲ら三人は、一様にそちらを振り向いた。
いつの間に現れたのだろうか。
開けっ放しの清流堂の門扉。その扉に背中を預け、斜に構えた仕草で佇んでいるのは。
「おおっ! 超絶! 美少女!」
巽の狂喜に満ちた言葉の指す通り。そこへ佇むは、可憐極まりない美少女がひとり。
緑なす長い黒髪を左側頭に集めひとつに結って流し、少々つり目がちの瞳はぱっちりと気の強そうな光を放っている。
丈の短い衣の裾からは、すらりとした脚が伸びていた。
彼女をひと目見るなり、三尾は「ふーっ!」と毛を逆立て、いかにも警戒している様子。
そんな子狐に構わず。
「お尋ねしたいのだが、よろしいか?」
美少女は微笑みを浮かべながら問う。続く言葉は。
「こちらに霊薬があるというのは、本当かな?」
「なっ、こいつ……!」
少女の口から飛び出した、『霊薬』という言葉。
黄雲はにわかに表情を引き締める。慌てて雪蓮の前に立ちはだかり、門口の少女に相対した。
「霊薬を知っているとは……お前何者だ!」
「やれやれ、質問をしているのはこっちなんだがな」
少女は軽く頭を振りながら、門から背中を離した。その微笑に、好戦的な色が混じる。
「まあいいや。とっとと霊薬を取り戻せば目的達成だ。まどろっこしいことはやめだやめだ!」
そう言って少女は、着ていた服の合わせ目に手をかけた。
そしてふわり。躊躇なく脱ぎ去られた衣服が、宙を舞う。
「おおおおっ!!」
巽のみ緊張感なく目を輝かせているが。
美少女の裸体は、残念ながら露わとならない。代わりに。
突如どこから現れたか、ひらりと弧を描いて飜る紅い絹布。その絹布の一端を掴み、美少女の服装は煌びやかな衣装へと変じている。
しかしその装束は、軽装とはいえ武人が纏うような意匠。腰には豹皮の小物入れを携え、右腕には金色の腕輪。その手に握るは、細かな細工が見事な長槍。
美しい黒髪の結び目には、白い蓮の花を模した髪飾りが現れた。
「なっ、なんと……!?」
「えっ、えっ!?」
美少女の変化に、黄雲と雪蓮は度肝を抜かれている。
ここまでの変化であれば、「なんかたちの悪い物の怪か何かですかね」と、黄雲も割り切れた。しかし。
彼女の足元を見て、いや、見上げて。黄雲たちはあんぐり口を開くしかない。
「ふんっ」
美少女は鼻を鳴らす。その彼女、宙に浮いている。
両足の下には、くるくると回る車輪のような輪が左右にひとつずつ。
この不思議な輪が揚力を生み出しているのだろうか。美少女は二輪の輪の上でぷかぷか浮いて、挑戦的な笑みを浮かべている。
「な、一体どういう……?」
「浮いてる……!」
「どうでもいい! かわいい!」
三者三様の反応に、美少女は「ふっ」と吐息を漏らした。
そして槍を大仰に振りかざし。
少女は声高々に、その名を一同へ知らしめる。
「我こそは、托塔李天王が第三太子! 中壇元帥・那吒である!」
美少女——那吒は、凛とした声で続ける。
その語り口は、愛らしい外見に似合わず物々しい。
「天界におわす玉皇大帝より命を受け、至宝を取り戻しに参った。さあ、我が槍の餌食となるか、霊薬を差し出すか! どちらか疾く選ぶがいい!」
「天界……!?」
少女の放った言葉に、黄雲は目を見開いた。
那吒は宙に浮いたまま、一同を見下ろしている。その可憐かつ壮美で、不可解な姿はまさに天仙。
こちらを見下ろすそのかんばせには、不敵な笑みが浮かんでいた。
【お断り】
本来、道教神である那吒の『那』は、口偏を付した字で表記します。
執筆環境の事情で、本作では『那吒』と表記させていただきますので、ご了承ください。
あと「美少女?」と引っかかった、中国神話に造詣の深いあなた!
次回までその疑問はぜひ、心に秘めておいてくださいね……!




