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1 すれちがい

一尺=約30cmくらいだと思ってお読みくださいませ。

「あなたに礼を言うべきなのかは分かりませんが」


 そう前置きして、黄雲は頭を下げた。

 

「右腕の件、まことにありがとうございました」

「えっ、あ、あの……」


 礼を受けながら、雪蓮はあたふたと戸惑っている。

 当然だ。彼女には黄雲の右腕を治した記憶など、無いのだから。昨晩は元通りになった黄雲の右腕を見て、果てしなく驚いていたくらいだ。

 ともかく覚えてないことに礼を言われても……と雪蓮は困惑甚だしい様子。

 さらに言うと彼女、『宝剣龍吟』を地中の砂鉄から構成したことや、火眼と互角に戦ったことも覚えていないようだった。

 だが、黄雲としては、雪蓮——ひいてはその身体を借りていたものに右腕を救われたことは事実。

 そんなわけで黄雲は、例の前置きをしつつも雪蓮へ礼を述べるのであった。

 ここは清流堂の本堂裏手。二人の他に人の姿はなく、一番盗み聞きしていそうな忍者は現在、意識不明の重体だ。

 あの炎噴き上がる壮絶な死闘は昨日のこと。

 疲労で昼過ぎまで寝ていた黄雲、起きるなり雪蓮を呼び出して冒頭のやりとりに至っている。

 そして。彼が目を覚ましてからいの一番に自分に会いにきたという事実に、雪蓮の胸はドギマギと、先ほどから騒がしく高鳴っているのだった。

 

「あ、あのそんな! 私だって、あの……」


 頬を少し赤らめながら雪蓮は続ける。

 

「私も! 助けてもらったし、えっと、その、あの時の、せっ、せっぷ……」


 盛大に言葉に詰まりながら言いかけた挙句。

 

「きゃーーーー!」

「…………」


 突如両手で真っ赤な顔を覆い隠し、恥ずかしげに叫ぶ乙女。

 一方、見つめる黄雲の視線は気狂(きちが)いを見る眼差しである。

 

「いやーーーー! きゃーーーー! い、言えないわ! せ、せっぷ…………ん、なんてきゃーーーー!」

「……ああ」


 ぴょんぴょん跳ねつつ本堂の壁に正拳を叩きつける雪蓮に、壊しやしないかとハラハラしながら黄雲は思い当たる。

 あれだ。火眼から逃げようと試みている最中。地中で酸素が足りず、死にかけていた雪蓮を救ったあれだ。

 

「ただの人工呼吸ですよ」

「……え?」


 黄雲が冷静に飛ばした一言に、はしゃいでいた雪蓮が静止する。壁に拳を突き入れた姿勢のままで。

 

「だから人工呼吸ですよ。ただのね」

「人工呼吸……」


 恥じらいのあまり接吻と言えず、舞い上がっていた乙女へ、何とむごい言い換えか。

『接吻』という言葉の持つ桃色の響き輝きは失われ。

 対して『人口呼吸』という語に情はなく、ただただ救命措置の緊迫さと救護者の義務感のみを聞く者へ与えている。

 

「あの時ああしなきゃ、お嬢さん死んでましたし。あなたを死なせるとヘタすれば僕、打ち首ですし。致し方なくですよ、致し方なく」

「い、いたしかたなく……」


 雪蓮の頰から赤みが消えていく。元気一杯だった握りこぶしは、へなへなと下へ落ちていった。

 途端に一切の興奮を失った雪蓮へ、黄雲はなおも続ける。しれっと悪意なく残酷に。

 

「僕にはあなたを霊薬(エリキサ)、及び襲い来るその他物の怪から守るという役目がある以上、あなたに対し救護義務があるわけですよ。だから命を守るのは当然のこと。でなければ報酬がありませんから」

「報酬……」

「なのでその一件に関してはお気になさらず」


 淡々と言い終える守銭奴。雪蓮はもはや固まっている。

 要約するとあの接吻、「金のために仕方なく」ということだ。

 口付け・口吸い・接吻へ至る、その原動力はすなわち愛。そう信じていた雪蓮の先入観が瓦解した瞬間である。

 

「あ、でも」


 ふとこのクソ野郎は眉をしかめる。気まずそうに開口するなり、飛び出したのは口止めだ。

 

「ま、まあさすがに誤解を受けかねませんので、他言は無用ですよ。特に御尊父と御母堂へは絶対に口外しないでくださいね!」

「…………」


 黙って彼の話を聞いていた雪蓮。

 その顔に、再び赤い色がこみ上げる。先刻のような浮ついたような赤ではなく、唇を噛みしめぷくっと頰を膨らませ、眉間を寄せて頰へ昇らせるその色は、まさしく怒りの赤。

 

「わっ、わたし! はじめてだったのに!」

「えっ、ちょっ」


 令嬢は怒声を上げる。あらぬ疑いを受けかねない発言内容に、黄雲は思わず周囲の気配を伺った。

 

「ちょ、ちょっと! 声が高い! やめてくださいよ、誰かに聞かれたら……!」

「はじめてだったのにひどい!」

「だからお嬢さん!」

「あんなに優しくしてくれたのに! ぜんぶお金のためだったのね!」

「だーかーらー!」


 怒りの雪蓮、昂ぶる。発言内容はやはり、誰かに聞かれでもしたら妙な誤解を誘発しかねない意味深さ。

 黄雲は反射的に懐をまさぐるが、いつものアレが見当たらない。無理矢理口をつぐませる術符・『箝口符(かんこうふ)』をどうやら、用意していなかったようだ。

 

「お嬢さんってば!」


 仕方なしに黄雲、向かい合う雪蓮の背後の壁をドンと叩いた。彼としては何とか黙ってほしかっただけなのだが。

 十三年間知府邸に引きこもり、酸いも甘いも知らなかった乙女への、唐突たる壁ドン。

 雪蓮は押し黙った。きゅん、と突然のときめきを胸に鳴らしつつ。

 黄雲は壁に手を当て、雪蓮の顔を覗き込んだ姿勢をじっと保っている。

 少年としては威嚇のつもりだった。それ以上しゃべるなと、態度で示しているつもりだった。残念ながら目の前の夢見がちは別の受け取り方をしていた。

 

「あの!」

「あの……」


 かたやつっけんどん、かたや少々とろけた呼びかけで。

 同時に互いを呼んだ彼らは、ピタリと合った視線を、そろって同じ瞬間にフイと外した。黄雲はいらいらしたように、雪蓮は恥じらうように。

 雪蓮はちらりと、外した視線を再び黄雲へ戻してみる。

 盗み見た彼の顔は、真剣な色を帯びている。何か考え込んでいる様子だ。

 

 さっきは報酬だなんだと言っていたけれど。

 

 もしかして、という淡い期待を雪蓮が抱いた時。黄雲は再び口を開いた。

 意を決したように、言葉を紡ぐ。

 

「…………すみません、あなたの気持ちも考えずに、一方的に」

「こ、黄雲くん?」

「僕は義務感からでしたが、お嬢さんがその……あの行為をどう受け取るかを、きちんと考えるべきでした」

「黄雲くん!?」


 こちらを慮る言い方に、雪蓮の期待値は雲をぶっちぎらんばかりの勢いで急上昇していく。

 

(まさかまさかまさか!)

 

 夢見がち乙女の脳裏に白昼夢が展開される。

 妄想の中では、すっかり好青年となった黄雲(身の丈六尺)が、雪蓮の手を取りまっすぐ見つめつつ、殊勝にも愛を告げていた。

 

『接吻の責任は取ります、このまま僕と添い遂げてほしい! 実は前からあなたのことが……!』


 そして二度目の口付けへ。


好好(ハオハオ)! 非常好(フェイチャンハオ)!)

 

 もはや現実の五尺二寸とは別人である。内なる雪蓮は心中の妄想へ好好(ハオハオ)叫びつつ、再び連続正拳突きを繰り出すが。

 現実は非情である。

 

「…………………ッ! お嬢さんこれをっ!」

「へっ?」


 ちゃりん。白昼夢を醒ます金属音。

 雪蓮の手のひらへ差し出されたのは、穴の空いた銅貨が三枚。

 

「……黄雲くん、これは?」


 問う乙女へ。

 この拝金主義の守銭奴黄雲、痛恨苦渋の表情でしぼりだす様にのたまう。

 

「い、慰謝料です」

「慰謝料?」

「精神的苦痛に対してですよ。はじめての接吻が僕ですみませんでした! はいこれで終了!」


 あ、ちなみに。と、クソ野郎のクソ外道極まりない釈明は続く。

 

「その三銭のうち二銭は慰謝料、残る一銭は口止め料ですからね! というわけで口外無用、これにて解決!」


 金銭感覚に乏しい雪蓮でも分かる。

 慰謝料と口止め料、合計三銭は安い。安すぎる。

 いや、それよりも。

 

「黄雲くん?」

「なんです? 安いとか言わないでくださいよ。別にお嬢さんの身体に傷をつけたわけでもなし、持ち物を壊したわけでもなし。気分を損なったくらい、その程度の補償で妥当です」

「…………」

「むしろこの僕が金をくれてやるんだから、ありがたいと思ってほしいくらいですよ」


 やれやれと肩をすくめるその表情。照れ隠しの気配があればまだ許せたものを。黄雲の顔色、普段となんら変わらぬ生意気さ加減。

 

「もーーーー!」


 雪蓮は憤慨した。

 乙女の純情を踏みにじり、金銭で解決しようとする浅ましさ。

 

「黄雲くんのバカっ! 知らないっ!」


 手のひらの銭を突っ返し、雪蓮は大股に踵を返す。

 

「わっ、やった!」


 黄雲は戻ってきた銭に安堵している。その声すら腹立たしい。

 ふんっと不機嫌に鼻を鳴らして、雪蓮はつかつかと本堂裏から去って行った。その後ろ姿を視界の隅に収めつつ、黄雲は戻ってきた小銭を眺めている。

 

「……おや?」


 手のひらの上に、銅銭は二枚しかない。

 残り一銭は単なる返し忘れか。それとも。

 

(口止め料だけでいい、ってことか?)


 少年が憶測を立てたところに、去ったはずの雪蓮が壁の角からひょっこり顔を出す。相変わらず不機嫌な表情から、繰り出されるのは。

 

「べーっだ!」


 あっかんべえ。

 余すところなくご機嫌斜め具合を見せつけて、箱入り娘は今度こそ踵を返し行ってしまった。

 

「なーにがべー、だ!」


 黄雲も眉間にしわを寄せ、同じく不機嫌に「べー」と舌を出して見せる。

 

「……ったく、僕だってはじめてだったつの」


 彼の最後のぼやきは雪蓮へ届かず。

 

「……別に嫌じゃなかったのに」


 手の中で一枚銭を転がしながらつぶやく彼女の声もまた、黄雲には聞こえなかった。

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