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18 符水の計

「終わりだ」


 火眼がごく簡単に終わりを告げる。

 充満した火の氣が爆裂……するほんの少し前。

 

「…………!」


 己の命を消し切るほどの熱量を覚悟していた清流だったが。ふとその足元からずぼりと、人間の手が飛び出した。

 

「!?」


 驚く清流の足首を掴み、手は彼女を地中へ引きずり込む。

 彼女の視界は一転暗闇へ。足首を掴んだ者はさらに地中深くへもぐっていく。

 

(黄雲か!)


 足元の氣は、よくよく知っている弟子の氣だ。陽光を浴びてあたたかくやわらかい、この亮州の土壌のような。

 同時に、頭上に感じるすさまじい熱量の火氣。熱は段々遠のいて、やがて弟子はほど離れた地点へ浮上を始める。そして。

 

「ぷはっ!」


 彼らが顔を出したのは、川の流れのほとり。亮水の流れはこの苛烈な戦いの中何度も干上がったが、後から後からこんこんと、水は上流から流れてくる。

 背中が熱い。おそらく、火眼が先ほど放った大火焔の余波だろう。まともに食らっていれば、今ごろ。

 

「黄雲……」


 疲労に覆われた表情を弟子へ向ける。黄雲は清流の背後方面を見やりながら、火眼の様子を伺っているようだ。

 

「まったく、世話の焼ける師匠ですね」


 さすがの大火力攻撃の後とあってか、火眼はしばし動く気配を見せない。弟子は少々時間の余裕を得たことを確認して、呆れた笑みで師を振り返った。

 

「お前……どうして……」

「どうして逃げなかったんだ、って?」


 師匠の言葉の先を察して、黄雲はいつものように、小馬鹿にした仕草で肩をすくめてみせる。

 

「勝算があるからですよ。これを」


 黄雲は懐からばらりと術符を取り出した。

 そしてそれを乱雑に清流へ手渡す。

 

「これは、玄智師匠の……」

「さきほど巻き上げ……いただいてきました」


 渡された札に視線を落とす。『縛魂符』、『殺氣符』、それぞれ二十枚ほどか。

 しかし、火氣に長じた火眼金睛。いかに強力な術符とはいえ、たちどころに燃やされるのではないか。

 そんな疑問へ答えるかのように、黄雲は短く告げる。

 

「師匠。符水をお使いください」

「符水……そうか!」


 弟子の言葉に、清流ははっと顔を上げた。彼女の黒い瞳にうつる弟子は、にやりと意地悪く笑っている。

 

「いいですか師匠。それを使ったら、水と化して川へお逃げください。その後のことは、見ていれば分かります」

「黄雲、お前は……!」


 黄雲は言うべきを言い終えたとばかりに、さっさと土にもぐろうと氣を練り始める。呼び止めた清流へ、今度は憮然とした表情。

 

「あなたに死なれたら困るんです。あと一応……火眼のやつも」


 せいぜい迷惑料をふんだくらせてくださいと言い置いて、黄雲は土中に飛び込み、姿を消した。

 

「…………」


 残された清流は、手中の札をじっと見つめる。そして立ち上がり、振り返る。

 さきほどすさまじい熱量を振りまいていた火の氣はすっかり霧散し、爆心地の火眼の氣がよく()える。

 清流道人は歩き始めた。渡された術符を手に、炎の化身のもとへ。

 ざざ、と川の流れがさざめいて、東へ向かう流れの一部が彼女の後を追う。

 

(火眼も、か)


 弟子の放った意外な言葉は、驚きを経て彼女の肺腑へしみこんでいく。

 先刻までの悲壮感が、嘘のようだ。黄雲の託した一計は、清流はおろか、火眼までをも救おうとしているらしい。

 

(行こう。これ以上弟子に無様は見せられぬ)


 晴れ晴れと、彼女を歩みを進めた。

 漆黒の瞳へ、生への渇望を宿して。

 

----------------------

 

 轟音、残響。そして、しばしの静寂。

 白光と爆煙が晴れた。彼を中心に地面は大きく半円に抉られ、足元に溜まっていた熱が上空へと逃げていく。

 逃げていったのは熱ばかりではないようだ。

 

「逃したか……!」


 標的を灼いた手応えはない。あの一瞬で、うまく逃げおおせたらしい。

 火眼は大きく息を吸い込んだ。五百年に渡って溜め込んできた氣の蓄えは、この数刻で容赦なく流出してしまっていた。

 だが。

 あの黒衣の道人の消耗は、己を大きく上回っている。

 再び現れたとて。彼女の氣を削ぎ尽くすのは、時間の問題だ。それよりも。

 火眼はまっすぐ東へと踏み出した。あの少女の腹をさばき、はらわたを引きずり出して魂魄とともに喰らわねばならない。もはや本能とも言うべきその欲求に従って、火眼は歩み始める。

 

「火眼!」


 しかし、再びあの声が彼を呼び止める。あの黒い衣の、女道士の声が。

 彼の目の前。半円にえぐられた地面のふち。不意に飛沫(しぶき)が上がり、大量の水が押し寄せた。

 水勢は瞬く間に火眼が立つ爆心地跡へ注ぎ込まれていく。

 

「何度来ようと!」


 火眼は水を避けつつ再び氣を練る。大気を吸い込み、取り込んだ自然の氣を肺と魂魄で還元し、陽の氣に満ちた火行の力へ。

 しかし不意に、その呼吸が止まった。肺を貫く衝撃。背後からの痛みに、炎の眼は後ろを振り返る。

 

「貴様……!」

「よう」

 

 気安く、したり顔で再来した清流道人だ。疲労の色はいまだ頰にこびりついているが。しかしその双眸に、もはや惑いはない。

 彼女の周りにはふよふよと、人の頭ほどもある水の塊が浮遊している。いずれもその内側に、一枚ずつ術符を内包していた。

 肺を貫通する傷を炎で癒し、火眼は間髪入れず右手を構え、炎を放った。

 

「おっと」


 浮遊した液体から炎へ向けて、水流が放射される。凄まじい勢いのそれは、火眼の放った氣を真っ向から切り裂いた。

 おそらく先ほど、後方から彼の背を貫いたのはこれだろう。しかし、火眼にとっては、取るに足らない水鉄砲。

 

「それがどうした」


 間断なく火眼は氣を練り上げる。先方に攻撃のいとまを与えぬよう、手早く、そして膨大に。

 水の塊は彼女と火眼の周囲を取り巻いて、何十という数が漂っている。しかしそれがなんだ。全て彼女を上回る氣で力押しに消し去ればいい。

 

「くるか……!」


 清流はそれを待っていた。火眼の内で瞬時に大量の氣が生成されるのを。

 機を見計らい、清流はパシャリと水に化す。足元の流れと同化して半円の爆心地から地上へさかのぼり、瞬く間に一路、亮水の本流へ。

 

「炎よ!」


 呼び声に応じ、火氣は再び満ちて場を蹂躙する。

 閃光、火柱。

 清流が置いていった水の塊は、一様にジュッと音を立て、中に入った術符とともに蒸気と化した。

 

「また逃げたか……!」


 今度も清流を焼き殺した手応えは無い。失した氣を補うように、火眼は再び息を吸い込んだ。

 肺の奥底、魂魄の深みまで。

 異変はすぐに訪れた。

 

「ぐっ……!?」


 朱塗りの棍がからりと落ちて、火眼自身も地へ膝をつく。

 からだが動かない。氣脈に溜め込んでいた力が、見る間に減っていく。

 

「しまった……あの術符……!」


 火眼はすぐに理解した。あの黒衣の女が残した浮遊する水の数々、埋め込まれた術符。

 

「……吸ったか」


 少々離れた川辺(かわべり)で、清流はひとりごちた。

 炎の跡から感じる火眼の氣は、刻々と減じている。あの勢いが、嘘のように。

 黄雲が案じた、符水の計。

『縛魂符』は、動きを封じる呪符の中で最も効果が高いもの。

『殺氣符』はその名の通り、体内に貯蔵した氣を減らす術符だ。

 符水とは、術符を水に浸し、札の効果を水そのものへ写し取る術のこと。

 札そのものを単に火眼に貼り付けても、焼き尽くされるだけ。

 ならば。符水となして効力を水に広げ、熱して蒸気としたなら。

 

「まったく、あいつはずる賢いというか……」


 弟子の一計に、清流はやれやれと黒髪をかきむしった。

 符水をこんな風に使うなど、聞いたことがない。しかし、黄雲らしいといえばらしい。

 

「いやはや、とんでもない孫弟子だな」


 清流から少し離れた場所で、玄智真人は呆れ半ば、感心半ばの口調で顎をなでている。

 傍に立つ作戦の発案者は、クソ生意気に誇らしげ。

 

「いかがです我が計略! あるものは全て利用する、そう敵の能力すらも!」


 黄雲は作戦がうまくいって上機嫌極まりない。悪どい笑いが止まらない。

 しかし、まだ戦いは終わらない。最後の総仕上げが待っている。

 

「さあここからが肝心要! 巽、師爺! それと!」


——師匠!

 

 黄雲は背後の川辺に立つ、清流道人を呼ばわった。

 

「行きますよ! あのクソ迷惑なクソ野郎をとっちめて、いざふんだくれ迷惑料!」


 黄雲は言うなり駆け出した。氣を減らされ続けている、火眼目掛けて。

 

「やれやれ、行くかの」


 杖の番を子狐に任せ、玄智真人も後に続き。

 

「清流先生! 俺もいるよ!」


 清流に手を振りながら、巽も駆け出した。

 

「……まったく」


 先ほどまで火眼と向き合って煩悶していたのが、馬鹿馬鹿しいくらいだ。清流はふっと息を吐きように笑い、彼らに続いて駆け出した。

 

 

 

「うぅ……!」

 

 術符の蒸気はもはや霧散した。至近距離でそれを吸った火眼のみが、場にうずくまり氣の減少にあがいている。

 黄雲たちはその彼目掛けて駆けていた。

 

「次に僕らがやることは! あいつを瀕死中の瀕死へ追いやること!」


 そうでしょう師爺! と黄雲は後ろを走る白猿へ問いかける。

 

「そうだ! 死ぬ寸前まで追いやり、力封じの術を食らわせる!」

「ぎりぎり死なせねえとかめんどくせえ……」


 巽がぼやくが、作戦は既に走り出している。見えてきた半円の陥没の中央で、火眼が四つ這いになっているのが見えた。

 

「亮州の大地よ!」


 まず黄雲が氣を練り上げた。印を結び、目の前の地面へ氣を伝わせる。

 

「さあそいつを包囲してくれ!」


 黄雲の呼びかけに応じ、火眼の周囲、半円の外周に沿うかのように、土壁がせりあがった。

 八角形の内側に火眼を閉じ込めて、土壁には一分の隙間もない。壁は高く高く、伸びて行く。

 

「こ、これは……!」


 閉じ込められた火眼は、炎の眼を困惑させている。少なくとも、自身にとって良い状況でないことだけは分かる。

 

「くそぉっ……!」


 ぎりぎりと魂を締め付ける呪符の力を、徐々にだが跳ね除けつつ、火の妖は立ち上がる。

 こんなところで往生できない。東に感じるあの氣を、記憶を、人間としての自分を。

 

「…………!」


 呪符に抗う火眼の口から、鮮血がこぼれる。氣を練れば練ろうとするほど、氣脈から力が流れ落ちていくが。

 東へ向けられた手のひらから、赤く火の氣があふれ出す。

 

「あいつ……! この後に及んでまだ氣を練るか……!」


 土壁の強度を上げながら、黄雲が舌を巻く。彼も既に疲労困憊の上、今日は活身丹を六粒も飲んでいる。氣の使い過ぎからか、鼻から血が滴った。

 

「おっしゃ黄雲、俺に任せろ!」


 今にも炎を噴出させそうな火眼に、巽が声を上げる。懐から何がしかの種子を取り出して、土壁の外へ植え付ける。そして。

 

「!?」


 瞬く間に成長を遂げたその植物は、土壁の下を通り火眼の足元へ到達。人の腕ほどもある根が火眼の足に絡みつき、わさわさと緑の葉を茂らせる。

 

「おらおらー! (くず)だぞ葛!」


 巽の操る葛は、火眼の足から吸い上げた氣を糧に成長を続ける。呪符の効力に加えて葛による吸収。たまらず火眼は、右手に集めた火の氣を葛へ向けた。

 

「さらに!」


 巽は得意の棒手裏剣を、目の前の土壁目掛け投げつけた。

 高い壁の、下から上へ数十本。八洲(やしま)式の印を結んで、木氣を送り込めば。

 棒手裏剣は弾けるように成長し、黒い幹が土壁を上下に連なった。最後にふわりと花開く、薄桃の花々。

 

「さあ道は開いたぜ、お猿師匠!」

「うむ!」


 巽が架けた桜の木々。猿猴はその黒い幹に手を伸ばし、手慣れた様子で上へ上へと駆け登っていく。

 玄智真人が土壁を登る最中。

 

「清流師匠!」


 土壁を維持しながら、黄雲は最後に追いすがってきた我が師を呼んだ。

 

「おう!」


 清流は駆け寄りつつ印を結び、すぐそばを流れる亮水へ氣を送る。

 思いっきり息を吸い込み、肺と魂魄で陰の氣を練り上げた。水行の力をもって、彼女が白い腕を振り上げると。

 

「さあ、亮水よ! 最後の力を貸してくれ!」


 川の流れがそのまま、宙へ持ち上がる。

 川幅をそのままに、亮水はまるで空を漂う水の帯のよう。

 水の帯は土壁の上空へゆっくりと移動して。八角形の中心、火眼の真上の部分が割れ、どうっ、と水が土壁の中に落ちていく。

 

「あ……」


 炎の眼は、空から落ちてくる水をただ見つめるのみ。

 やがて空から落ちてくる大瀑布に、火眼はなすすべなく飲み込まれた。

 氣を削がれ、動きを封じられ。

 相克の相性としては最悪の、水責めにされ。

 火眼の氣は見る間に弱り果てていく。

 

「よし、よくやったぞ弟子たちよ!」


 一同を労いながら、玄智真人は八角形の最上部、土壁の縁へ到着した。

 そして猿猴は複雑な印を結び、氣を高め。

 

「火眼金睛!」


 土壁の最下部で死にかけている彼へ、大声と術式を叩きつける。

 猿猴の前に浮かんだ、白い光の紋様。玄智が(ましら)の腕を振り下ろすのを合図に、水をすり抜け土壁の底へ落ち、紋様は火眼の身体にしみこんでいく。

 

「……終わったのか?」

「……多分」


 地上で成り行きを見守っている黄雲と巽。正直、火眼の氣は死にかけていて良く分からない。

 

「黄雲!」


 しばらくして、玄智真人の声が響いた。

 

「もういいぞ。土壁の水を抜いてやってくれ」


 柔らかい声音。巽と黄雲は、ほっとしたように顔を見合わせた。

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