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16 とんぼ返り

 まだ彼が幼く、満足に氣を練ることができなかった頃のこと。

 

「やーい、親なしー」

「拾われっ子!」

「お前、いらないから親に捨てられたんだろ?」

「やい、ぐず! 役立たず!」


 彼は孤児(みなしご)という身の上に、この街では珍しい茶色い髪を備えていたためか、近所の悪童の標的にされていた。

 髪を掴まれ殴られ蹴られ、買ってくるよう頼まれたおつかいの包子(パオズ)は、地面に落とされ踏みつけられた。

 

「行こうぜ」

「うん!」


 悪童たちが去って行った後。彼はそのまま路地裏にうずくまり、日が暮れるまで土まみれの包子を見つめていたのだった。

 あたりが茜色にとっぷり染まったころ。

 

「黄雲?」


 育ての親は心配して、薄暗い路地裏まで探しに来てくれた。黒い衣の彼女を一瞥するなり、彼はぐすっと鼻を鳴らす。

 

「どうした、傷だらけじゃないか」

「ごめんなさい……」


 師匠の顔を見ることができなくて、彼は顔を伏せた。そしてその視線は、目の前でひしゃげているものへ。

 

「包子が……」


 おつかいを果たせなかったことが、心底不甲斐なかった。

 悪童たちの言う通り、自分はやはり役立たずだ。

 唇をかみしめている彼の前にしゃがんで、師匠はにっこり笑ってみせる。

 

「大丈夫さ。ま、食べれんこともないだろう」

「土まみれなのに?」

「ああ。さ、帰ろう黄雲」


 師匠は不器用な手つきで彼の頭を撫でて、包子を拾い上げる。

 彼は師匠の背におぶわれて、家路についた。

 

「ねえ、お師匠さま」

「なんだい、黄雲」


 帰り道。背で揺られながら、彼は師へ問いかける。

 

「僕、いらない子だから捨てられたのかなぁ」


 お母さんに、と少年の声は今にも泣き出しそうだ。

 師は「よいしょ」と背中の幼子を揺すり上げ、柔らかい口調で答える。

 

「そんなことはないよ。お前の母君はやむにやまれぬ事情があって、私にお前を預けていったのさ」

「でも僕、いじめられるし、おつかいも満足にできない役立たずだし……」


 いじけている弟子に、師は呆れたように息を吐いた。優しさのにじんだ仕草で。

 

「黄雲。この言葉を覚えておきなさい」

「?」

「無用の用、だ」


 たとえば、と師は先ほどの、土まみれの包子を取り出した。それをパクリと食べてみせる。

 当然、その咀嚼(そしゃく)の音にはじゃりじゃりと、土の音が混じる。

 

「……お師匠さま、おいしくないでしょ」

「そうだな。食べ物に土が混じっていると、正直に言っておいしくない。衛生面でもよろしくない」


 しかし、と師匠は続ける。

 

「だからといって、土という存在そのものは、必要ないと思うか?」


 師の問いかけに、彼は首を横に振った。


「……土がなかったら、こうやって地面の上を歩けないよ」

「そうだな」


 師匠は笑って、また一口。

 

「土がなくば作物は育たず、動物や人も生きていけず、また道を敷くこともできない。土は人獣草木にとって不可欠の存在だ」

「…………」

「こんなふうに食べ物に混じっているときは邪魔な存在だが、そうではなく、土としての本分を全うしている時、私たちにとってなくてはならないものとなる。そうだろう?」

「うん……」

「物事の一面だけを捉えて、無用と断じることほどもったいないことはない。いいかい。森羅万象、どんな物事にも価値はあるのだよ。何かを無用と感じるときは、その物事に対する見方がずれているだけなのさ」

「どんなものにも、価値が……」

「うむ。どんなに無用と思える物事にも、存在する意義は必ずある」


 これが無用の用だ、と師匠は締めくくる。少年も「無用の用」と師匠の言葉を小さく反芻した。

 

「お前をいじめた悪童どもからすれば、お前は役立たずの孤児に思えたのだろうが」


 黄昏が色を濃くしていく中で、師匠の言葉はなおも柔らかく耳に響く。

 

「私にとってはかけがえのない、大事な家族だよ」


 近付いてきた住まいの道廟。彼の視界の中で、その門扉がじわりとにじむ。

 

「無論、お前の本当の母もそう思っているはずだ」

「…………」

「己の価値を信じて生きなさい、黄雲」

「お師匠さま……」


 必死で涙声をこらながら、彼は師匠の肩の上から手を伸ばす。

 

「僕にも包子、ください」


 師匠がふっと笑う声。やがて彼の手のひらに、泥だらけの包子が載せられた。

 少年はぱくりとそれを頬張る。

 潰れかけた包子と、じゃりじゃりとした土の食感が入り混じっていた。

 師匠の背で、彼はやっきになってそれをむさぼる。


 世の中に、いらないものなんかない。

 

 無用の用という言葉は、決して美味とは言えない泥だらけの味とともに、幼い黄雲の記憶へ刻み込まれるのだった。

 

 

-------------------

 

 

 ぼこり。

 突然菜園の土が盛り上がったので、清流堂にいた面々はぎょっとしてそちらを見た。

 目の前で娘を連れ去られ、さめざめ泣いていた知府夫人も。それを慰める侍女たちも。

 雪蓮を守れなかった失態に苛まれつつ、亮水上流から大挙して押し寄せる大水を街へ通さぬため、本堂に座して街全体へ氣を張り巡らしていた燕陽翁も。

 そして鴻鈞道人の再来に備え、包丁や草刈り用の鎌を持ち出し、その辺をウロウロしていた逍・遥・遊の三人組も。

 

「なんだなんだ!」

「敵襲だ敵襲!」


 逍と遥が武器を手に、菜園めがけて駆け出すが。

 作物を散らして地面から這い出してきたのは、よく見知った顔だった。

 

哥哥(がーが)!」

「げほっ、げほっ」


 氣を使い過ぎたのか、黄雲は咳き込みながら這い上がった。その後ろからひょっこり、青い顔の巽も顔を出す。

 黄雲の口の中には、じゃりじゃりと土の味が満ちている。普段は口腔はおろか、服の中に一粒たりとも砂を通さない黄雲も、此度の騒動ですっかり消耗しきっていた。

 あれから彼ら三人は、急流に乗せられて一気に東まで駆け下り、亮州近くで地下へもぐって、地行術で清流堂を目指したのだった。

 そして黄雲は地面からもう一人を、ずるりと引き上げる。

 

「雪蓮!」


 ずぶ濡れの上、泥だらけになった雪蓮だ。母の知府夫人は慌てて立ち上がり、彼女へ駆け寄った。

 

「雪蓮! 雪蓮!」

「大丈夫、気を失っているだけです」


 黄雲はそう言って雪蓮の身体を夫人に預けると、ふらりと立ち上がる。そこへ。

 

「黄雲よ!」


 本堂から同じく慌てて近づいてきた燕陽翁だ。

 

「先ほどから西方の様子を感じていたが……おぬし……」


 この付近一帯を管轄するこの土地神には、支配圏内の様子を手に取るように見渡すことができる。黄雲が一時右腕を失ったことも、雪蓮が宝剣を手に火眼金睛と一戦交えたことも知っている。

 黄雲もそれを承知で、老爺の言葉をさえぎった。

 

「話は後です。じーさん、亮州とお嬢さんはお任せした!」

「お、おぬし!」


 黄雲は老爺に背を向けて、「巽」と黒ずくめへ呼びかける。

 

「おい、活身丹の袋はまだ持ってるな?」

「ああ、あるけど……」

「くれ」


 ぶっきらぼうな要求に、巽の三白眼は困惑の色を浮かべた。


「いや、なんで? まさかまた飲むとか言わねえよな?」

「その通りだよ。いいから早く」

「バ、バカかお前は!」


 活身丹を服用するということは、すなわち。


「お前またあそこに行く気かよ! 正気の沙汰じゃねえな!」

「…………」


 また水火の入り乱れる、西へ戻るということだ。

 巽は口汚く黄雲の意向をなじりつつも、止める気はさらさらないらしい。「死ぬなら勝手に死ねよ」とばかりに、あっけなく懐から丹薬の袋を取り出した。

 慌ててそれを制したのは、燕陽翁だ。


「ま、待ちなさい! 黄雲よ、見たところかなり氣を消費しておる、それに既に活身丹を使ったばかりだろう!」

「ですが……」

「やめておきなさい。師を思う気持ちは、よく分かるが……!」

「師を思う?」


 黄雲の疲れ切った眉が、ぴくりと動いた。続いてその顔にに浮かんだのは、心底生意気ないつもの表情。

 

「バカをおっしゃい、誰が誰の心配をするですって!?」

「い、いやお前さん……」

「言っときますけど、ぼかあのクソ濁流の心配なんか一切してません! ただ!」


 彼の剣幕に狼狽する燕陽翁へ、黄雲は続ける。

 

「ただ、あのクソ師匠に死なれると困るんです! 今まで立て替えた酒代も戻ってきてないんですよ分かります!?」

「そんな理由か黄雲よ!」

「あの阿呆は別れ際に床下に遺産があるなどとほざいていましたが! 普段のあの体たらく、いったいどれほどの銭があるやら分かったもんじゃない! きっと子どもの駄賃にも及ばぬはした金、まあ貰えるものは貰いますが!」

「も、もういい黄雲よ!」

「いいですかじじい、僕は師匠を案じて死地へ赴くわけじゃない! あの死にたがりのクソを口八丁手八丁でとっちめて、生きて帰ってそして稼いで僕の財産を潤してもらう、それだけです!」

「こ、この守銭奴め!」


 最終的には燕陽翁の首もとを掴んでぐらぐら揺さぶって、黄雲は師に対する己が思いを語り切る。徹頭徹尾ろくでもない。

 周囲からの呆れた視線を物ともせずに、黄雲はニヤリと口角を上げた。

 

「さあさあ、ご理解いただけましたか我が本懐。師匠にはこの先も生き残っていただいて、僕にとって有用な存在でいてもらわねばなりません」


 悪どい笑みを浮かべる彼に、横に立つ巽から丹薬の袋が飛んでくる。パシッとそれを受け取って、黄雲は活身丹を三粒飲み込んだ。

 

「さて、というわけで行って参ります。ああそうそう、万が一本当に死んだ場合に備えて、紙銭だけはご用意をお願いしますよ」


 死後のことを語る口ぶりも、覚悟や諦めとは程遠い。冥府でも紙銭という元手を使い、地獄の沙汰も大儲け。我欲が透けて見える言い方に、燕陽翁も呆れ果てるしかない。


「……まったく、お前さんは。昔はもっと可愛げがあったのにのう……」

「昔は昔、今は今。じゃ、ここは任せましたよじーさん」

「おい待てよ黄雲!」


 土氣を練り始めた黄雲を制したのは、今度は巽だ。黒ずくめは黄雲が握っていた丹薬の袋をひったくる。

 

「お、おい巽」

「…………」


 そして三白眼で袋を見つめることしばし。

 彼の胸中には、いましも選択の天秤が掲げられていた。

 片側には己の命。

 そしてもう片側には、清流の巨乳。

 彼は煩悶していた。いのちをだいじにか。清流先生好き放題か。

 かくて命と乳が天秤に乗せられる。その瞬間。

 のしりと乳側の皿が重く下がり、巽の命は三千丈の彼方に吹っ飛んだ。

 

「俺も行くぜ!」

「お前……」

「ふっ、お前にばかりいいカッコはさせられんからな!」

「…………」


 黄雲の眼差しは呆れていた。どうせスケベな算段でも巡らしていたのだろうと、巽の心中は見透かされている。

 

「勝手にしろよ」

「おうおう、勝手にするわ!」


 軽口を叩きつつ、巽もウグイス色の丹薬三粒を取り出して、覆面めくって躊躇なく飲み込んだ。もちろん素顔が見えぬよう。

 

「じゃ、行ってきます! ご夫人、知府殿へ特別報酬のお口添え、よろしくお願いしますよ!」

「俺もご褒美に全裸の美女百人用意しといてくれ!」

「…………」


 一同の呆れ切った視線の中。黄雲と巽は再び氣を充溢させて、むき出しの地面へ飛び込んだ。

 水面に飲み込まれるように、彼らの姿は土中へ消える。

 

「……哥哥」

「やっぱあれ病気だよ……」


 逍・遥・遊の三人は、兄貴分を案じるよりもドン引いている。一部始終を見ていた夫人や侍女たちも、あっけにとられていた。

 

「まったく……」


 燕陽翁も周囲と同様に呆れた視線を送っていたが、不意にふっと口元を緩ませる。

 

「素直じゃないやつだのう……」


------------------------------


 そして再び、彼らは亮水のほとりへ顔を出した。

 地中より飛び出でて見つめる前方、水と炎のぶつかり合い。

 炎は天を焦がすが如く燃え上がり。

 水はその炎を追うように、飛沫を上げて吹き上がる。

 ふれあう二つの氣の間で白く蒸気が湧き立って、周囲に高熱を振りまいていた。

 黄雲と巽は、ぎりぎり余波を喰らわぬ位置に立ち尽くし、呆然と目の前の天変地異を眺めていた。

 

「…………」


 来なきゃよかった。

 

 二人の胸に風のように後悔が訪れた。しかし後悔はやはり風のように去っていく。二人とも、為さねばならぬことがあってここへきたのだ。

 

「おい、どうする! 付け入る隙がねえぞ!」

「参ったな、どうやって師匠と合流するか……」


 舞い戻って早々、二人は思案に暮れた。加勢するどころではない。下手に介入すると死ぬ。

 しかしゆっくり考え事にふけるひまもなかった。

 突如前方で爆炎が上がる。さらに天を裂くように、赤い光が一筋。

 その赤い光線は空を(ひるがえ)り、黄雲たちがいる地点めがけて地を走った。

 

「わ! わ!」

「ひええなんじゃこりゃ!」


 わけがわからないながらも逃げる二人。振り返り見れば、光線の軌道上の地面が赤くドロドロに溶けている。

 間違いなく触れたら死ぬ類のものだ。

 しかも。

 

「げえっ! あいつ、あんなに……!」


 同様の光線が、水火の交わる場所の天に幾筋もきらめいていた。思わず清流の身が心配になるが、氣を感じれば確かに彼女はまだ生きている。

 ここはとりあえず、自分たちの身の安全を確保するしかない。

 

「巽!」

「おう!」


 黄雲が土の氣を練って前方に穴を開け、二人ともその穴めがけて飛び込んだ。後ろの光線は彼らの逃走経路から外れ、大きく逸れた場所の地面をえぐり取り、消え去った。

 二人が逃げ込んだ穴では。黄雲がさらに土氣を操り、開けた穴の前方に土を高く盛り、かつ覗き穴を設けて簡易な塹壕(ざんごう)が形作られる。

 覗き穴から前方を伺って、黄雲は額に冷や汗を流していた。

 

「参ったな。ほんとどうしたもんか……」

「おいおい、あんなの一体どうするんだよ……」


 やっぱ俺帰ろうかな、とうんざりしている巽は放っておいて。

 覗き穴からは、段々と師匠と火眼金睛が、視認できる距離へ近付いているのが分かる。

 無意識に雪蓮の発する金氣を追っているのか、戦場はこちら側、東へと移動しているようだ。

 

(それより……)


 なんとなく黄雲には、気になることがある。

 遠目だが、赤い火炎と光線を散らし続けている火眼金睛。

 

(五百年溶岩漬けだったくせに、一応呼吸はするんだな)


 覗き穴から小さく見える彼は、肩を大きく上下させて、荒い呼吸をしているようだ。

 それにそれは師匠も同じ。火眼金睛の目の前で、水の氣を荒れ狂わせている黒い衣の女道士。彼女もその気になれば水に潜ったまま何日でも過ごせるくせに、今は同じく荒い呼吸に身を任せている。

 

(氣が少なくなってきてるのか……)


 こんなに激しく戦っていれば、元々持ち合わせた氣を大きく消耗するのは自然の道理。おそらく大気中の氣を吸い込んで、わずかにでも補給しているのだろう。

 

「お、おい、黄雲!」

「なんだよ、うるさいなぁ」


 観察に夢中の黄雲は気付いていない。巽が焦って彼の肩をバシバシ叩く理由を。

 

「だからおい黄雲気付けよこっち向け!」

「いやなんだよお前は! うっとおしいなクソニンジャ!」


 やっとそちらを向いた黄雲は、瞠目(どうもく)した。

 

「うっわ、なんだこのお猿! いつの間に!」


 黄雲と巽の隣に、さも当然と言いたげな様子で陣取っている、一頭の白い猿猴。

 猿のくせに、人間のように衣を着て、(あかざ)の杖をつく彼は。

 

「ようやく気付いたか」

「しゃべった!?」


 人語を話した。

 

「やれやれ。お前さんが黄雲か?」

「そ、そうだけど……」


 猿が人の言葉を喋ったことに対する、黄雲達の驚愕。そんな驚きへさほど配慮も説明もせず、猿猴は人間のような仕草で続ける。

 

「私は玄智真人(げんちしんじん)。お前の師匠・清流道人の師だ」

「しっ、師匠の師匠……!?」


 黄雲の声音は、自然すっとんきょうに響いた。

 師匠の師匠が猿。人間の言葉をしゃべる、猿。

 巽も三白眼をひんむいて驚いている。

 しかし、黄雲の驚きの一言は存外大きく響いていたもので。

 

「黄雲! いるのか!?」


 塹壕の近くまで寄せて来ていた清流の耳に、その声はしっかり届いていた。

 

「師匠!」

「戻ってきていたか……」


 土盛りから飛び出した弟子を、清流は苦しげな顔で見つめている。その腕の中には。

 

「くっ、はなせっ!」


 首元を捕まえられて、拘束されている火眼の姿。

 清流は彼を抑え込みつつ、塹壕の中の氣を感じ取った。黄雲だけでなく、白い毛並みの猿猴までそこにいる。

 

「玄智師匠まで……」

「清流先生、俺もいるぜ」

「…………」


 巽は特にふれられない。

 清流は視線を黄雲へ戻し、口を開く。

 

「まあいい、ちょうど良かった。黄雲!」


 清流は火眼の首元をぎりぎりと締め上げながら、声高に叫んだ。

 

「今こそ預けておいた札を使うときだ! さあ氣を込めろ!」

「…………」


 黄雲は土塁の上から清流を見据えつつ、懐から例の札を取り出した。

 三日前。師匠より預かった、『起』と書かれたその札。

 塹壕の下でそれを目にした玄智真人が血相を変える。

 慌てて白猿は土塁を駆け上がって、黄雲の腕を掴んだ。

 

「ま、待て黄雲! それは……!」

「師匠は黙ってていただきたい!」


 清流の怒号が、真人の声をかき消した。その顔には、怒っているような、苦しんでいるような。あるいは悲しんでいるような諦めているような、そんな複雑な表情。

 

「さあ黄雲、やれ!」


 そんな表情を無理に歪めて、清流は口端を上げた。あいも変わらず、その腕の中では火眼金睛がもがいている。

 黄雲は。

 

「…………」


 無言で札を破り捨てた。

 

「なっ……!」


 弟子の所業に、清流の目が見開かれる。

 

「なにを……!」

「こっちの台詞だクソアマ!」


 うつむかせていた顔を上げ、黄雲は師匠へ怒鳴り返した。

 

「大方自爆でも考えてたんでしょう、この濁流! クソクソ、クソ師匠!」

「黄雲……」


 黄雲は破り捨てた札をゲシゲシ踏みつけて、(まなじり)をかっ開き師匠へ指を突きつける。

 

「だいたいねえ! いまのお猿とあなたとのやりとりで! あの札がどういうものかしっかり分かりましたし!」

「…………」

「そもそも先ほどあなたが遺言のようなくだらん言い置きをしたときに、薄々気付いてましたから! あなたがこの戦いで死ぬ気だってこと!」


 すぅっ、と息を吸い込んで、黄雲は今まで以上に大きな怒声を師へぶつける。

 

「自爆の引き金を弟子へ引かせるとは! 弟子に師匠を手にかけさせるとは! 言語道断、愚の骨頂ともいうべきその所業! だいたいねえ師匠!」


 叱っているのか諫言なのか。弟子の言葉は続く。

 

「ぼかぁねえ! あなたが酒毒に侵された挙句肝臓を患って死のうが、路上で泥酔して馬に轢かれて死のうが、どんな死に方をしようが正直どうでもいいんです! いいんですが!」


 黄雲、己を見つめる漆黒の瞳へ不敵に笑いかける。

 

「己が価値を諦めて死ぬことだけは、あなたの弟子であるこの僕が許しません!」

「黄雲……」


 弟子のまっすぐな眼差しに、清流の黒い瞳がたじろいだ。

 そのとき。

 

「くっ!」


 隙をつき、火眼が清流の腕をはねのける。

 

「しまった! 玄智師匠、二人を!」

「清流!」


 慌てて氣をたぎらせる清流、同じく氣を練る火眼。

 場には再び水が押し寄せ、熱が満ちていく。

 

「いかんいかん! ほれ行くぞ二人とも!」

「ぐぇっ」

「んぐっ」


 玄智真人は(ましら)の腕を伸ばして、黄雲と巽の首根っこを掴む。そしてそのまま全力疾走。

 猿とは思えぬ脚力で、真人は地面を蹴って素早くその場から離れた。その背後では再び滾った水火が、それぞれを喰い合うように高く立ち昇る。

 ほど離れた場所に土煙を上げズザザと立ち止まり、真人は掴んでいた二人を投げ飛ばす。

 

「いだっ!」

「あだだっ!」

「無事だな二人とも」

「投げ飛ばしておいて何という言い草!」


 むくりと起き上がり、黄雲は真人へ苦情を飛ばす。

 

「いやしかしまさか、僕の師爺(しや)がお猿だとは……」

「悪かったな猿で」

「それよりさー。どうすんのこれから」


 清流と接触はしたものの、自爆は止めたものの。

 再び始まった激しい死闘に、黄雲と巽はやはりなすすべが無い。

 しかし。二人の視線はじとりと一頭へ向かう。

 

「お猿よお猿。あなた師匠の師匠なんでしょう? どうにかできないんです?」

「だよなー。清流先生のお師匠なんだろー?」

「う、うむ……」


 白猿は申し訳なさそうに、顔を伏せる。

 

「まったくもって不甲斐ないのだが……わしゃもう老齢で……」

「ほーん」

「つまり特になんの手出しもできないと」


 目上の猿に向かって、この二人の言い振りは遠慮がない。

 白猿はなおも申し訳なさそうに続ける。

 

「弟子が血相を変えて山から発ったので、慌てて術符や丹薬を携えてやってきたのだが……なかなか手の出せぬ有様よ」

「ほう」

「術符や丹薬と」


 老猿の吐き出した言葉に、黄雲と巽は顔を見合わせる。

 ともにその目元へ浮かんだのは、悪どい笑みだった。

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