15 水火拮抗
玄智真人へ師事を始めてから、五十年が経った頃。
彼女は師や師兄、兄弟弟子たちと紅火山へ登り、火口を望んでいた。
低い標高、赤土の山の上。山頂を丸くくり抜く火口の中、赤く滾る溶岩の深淵には、彼女の同類がいると。北徳の同門たちはその同類――南慧の禍による生存者を救いにきたのだと。
彼女はそう聞き及んでいた。
同類は火口から延びる神鉄の鎖に繋がれたまま、火の海に投げ入れられていた。北徳の道士たちは焼けた鎖の熱を氣で払いつつ、鎖を引き上げた。
鎖に引きずられ、姿を見せた彼は、人の形を保ってはいたが。
溶岩の羊水に浸かり続けていまや、異形の存在としてこの世に二度目の生を受けた。
火口に引き上げられるやその炎の眼を見開き、火眼金睛は北徳の道士連へ襲い掛かる。
そして大地を溶かす炎熱、吹き上がる劫火。
兄弟弟子が次々に炎に飲まれ果てていく中で。
彼女――清流道人の胸に去来していたのは、火眼金睛への共感だった。
命を弄ばれ。
身勝手な探究心の犠牲にされて。
火眼金睛が炎とともに吐き出していたのは、やるせない憤りだ。
そして。霊薬精製の実験体にされた者にしか分からない、激情。
清流は炎を避けながら、酒を煽っていた。彼女はこのとき既に酒に溺れていた。いや、酒という『戒め』を課せられていた。
戒めなくば。
酩酊した感覚の奥底にあるその激情に、彼女は自分自身、戦慄したものだ。
やがて炎の化身は力を削られ。余力を失い、その身は再び火口へ封印された。
――救いにきたはずなのに。
兄弟弟子の肉が焦げる匂いの中。彼女は犠牲を悼みつつも、火眼金睛へ少々の憐みを覚えていた。
同時に、火眼、ひいては自身が『いきもの』として正解か否か、是か非か。そんな疑問も胸の内に抱くのだった。
その問いは数百年経った今も、胸中に沈殿したまま。
心に決めたはずの、今でも。
――屠らねば。
火眼金睛への憐憫を抑えつけて、清流は唇をきつく噛みしめた。
ここは亮水のほとり。先ほどまで火と土と木が荒れ狂い、地形の乱れた一帯には、いまは大量の水が渦巻いている。
握った手の中では、締め付けた火眼の喉の内で、火氣が暴れ狂っているのが分かる。
どうやら火眼は清流のことを覚えていないらしい。紅火山の溶岩は、彼の記憶まで焼いてしまったようだ。
「……火眼よ。互いに哀れな身の上だが」
火眼を吊り下げる清流の腕から、黒々とした氣が立ち昇る。
「やはり我らは在ってはならぬもののようだ。安心しろ、黄泉路は供をしてやろう……!」
「ほ、ほざけ……!」
黒い氣を押し返すように、赤い氣が噴出した。赤は炎へ変じ。
「ちっ」
掴んでいた清流の腕をまたたくまに灰燼に帰す。
しかし清流の顔は、痛覚など微塵もないように色を変えない。
まるで、手指の形の透明な器に水が満ちるように。
その腕があった場所へ傷口から清い水が満ち、瞬く間に元通りの白い腕を形作った。
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「おい黄雲!」
乱入した清流道人を指でさしながら、巽は大声を上げた。
「清流先生もなんか腕はえてんぞ! そういう術あんのか!?」
「し、知るかあんなの!」
黄雲も混乱のあまり大声で返した。
先ほど、雪蓮と戦っている火眼も傷口を自分で癒していた。おそらく不老不死をもたらす霊薬の特性を、ある程度模倣している『贋作』だからこその芸当だろう。
対して黄雲。彼は人間として生を受け、道士としての修行を積んではいるものの、あくまでもヒトの範疇で生きている。道術を使ったとしても、無くなった腕を生やすなんてマネはどだい無理だ。
ならば先ほど、彼の腕を再生させたのは。
少年の目は、腕の中、気を失っている少女――雪蓮へ向かう。
「いったい何なんだ、霊薬って……?」
戦いの最中、疑念は尽きることなかったが。
「黄雲!」
師匠の呼び声に、少年は顔を上げた。
「今すぐ雪蓮を連れて街へ戻れ!」
ほど離れた場所から、清流の声は朗々と響く。おそらく氣を調節して、よく聞こえるようにしているのだろう。
黄雲は雪蓮を俵担ぎにして立ち上がった。
「わ、わかってますよ!」
「それと黄雲」
清流は漆黒の瞳で火眼を牽制しながら、続ける。
「私の部屋、寝床の床板。すべてが終わったら剥がしてみるといい」
「……どういうことです」
弟子の問いに、彼女の口調は少々普段のあけすけさを取り戻した。
「私も貯金をしていたということさ。さあ、後事は我が師に任せてある」
「ちょっと、それって……!」
黄雲が言いかけたところで。周囲を流れる水は、再び水嵩を増した。
「うわっぷ!」
水は黄雲と雪蓮、巽を巻き込み、西から東への急流と化して奔っていく。
ごうごうと流れる水をかき分け黄雲は水面に顔を出し、遠くなる黒い背中へ向けて叫んだ。
「師匠!」
「さらばだ、弟子よ!」
三人の身体はあっという間に東へ流され、清流の声もそれ以降聞こえなくなった。
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流れの果て、黄雲たちの姿が消えそうになる前に。
「霊薬!」
追いすがろうとした火眼。
その行く手をさえぎり、清流はよりいっそう氣をたぎらせた。
東へ流れていく金氣に、今にも爪を突き立てたい衝動をこらえて。
「待てよ火眼。私も霊薬がほしくてほしくてたまらないんだ……!」
「貴様、同類だな……!?」
「こっちも必死で耐えてるんだ。だから少しは我慢しろよ」
言うなり右手に水氣を集め、清流は距離を詰めて右の手のひらを火眼の腹へ突っ込んだ。
瞬間。
「ぐあっ!」
噴射される、凝縮した水流。高圧で発せられた一撃は火眼の腹部を貫いた。真っ赤な血の混じった水流が背後にばたばたとこぼれる。
続けて周囲に満ちた河水が盛り上がった。
「潰れろ!」
大量の水が、倒れた火眼めがけて殺到する。高く上がった水は瀑布のように火眼へ降り注いだ。炎の化身は押し寄せる水圧に血を吐くが。
彼を中心に突如ボコボコと気泡が上がり、瞬間水と熱を散らしての大爆発。超高温の水蒸気があたりを包んだ。
「うっ……」
白い蒸気に喉を焼かれた清流がつんのめり、その背後からは隙をついて朱塗りの棍が迫る。
「おおお!」
気合とともに火氣をこめた一撃。殴り飛ばされた清流からも、血がほとばしった。
「ぐぅ……」
清流は流血する頭をおさえて立ち上がり、火眼は棍を杖のようについて身体を支えている。
そして互いに睨みあうことしばし。二人の傷は見る間に塞がり、裂傷や火傷は姿を消した。
しかし。
(回復に使う分だけ、氣は減っていく、か……)
それが贋作の限界だった。老いず、死なずとはいえ、氣を使って傷を癒せば、その分氣の容量を消費する。
氣が枯渇すれば死ぬ。赤い眼に厳しい色を浮かべた火眼も、それを自覚しているようだった。
「早急に殺してやる!」
勝負は先に相手の氣を枯渇させた方が勝つ。
火眼は消費を抑え、棍にだけ氣を集中させて清流を襲うが。
もとより彼女に、勝つ気はない。
「どうした火眼金睛! 遠慮はいらんぞ!」
「くっ……!」
高温の棍を素手で掴み、清流は笑みを浮かべた。棍から白い煙が立っているが、清流の白い指は健在だ。
「全力でかかってこい。ほらほら、こんな棒っきれではすぐに冷めてしまう」
送りこんだ水氣が、棍の熱を見る間に下げていく。
「このっ……!」
「幸いこの付近に人はいない。存分に氣を奮って戦うがいいぞ、こんな風にな!」
清流から発せられたどす黒い氣が水面を伝う。
氣に呼応した水面からしぶきをあげて現れたのは無数の、透明な剣身。
「亮水の剣よ!」
水の剣は彼女の声に応じて宙へ舞い上がった。棍を掴まれたままの火眼、反応が少し遅れる。
「切り裂け!」
片手で印を結ぶと、水の剣は一糸乱れぬ動きで火眼へ切っ先を向け。
無数の刃は勢いつけて火眼へ一点集中。
「…………!」
叫び声をあげる前に喉が切り裂かれ、絶叫のような息遣いの中、彼の身は千々に刻まれた。
しかし肉片となり切る前に。
「うおおおお!」
再び響く火眼の怒号。再生速度は切り裂かれるよりも早く。
骨のはみ出した指で氣を手繰り、火眼は水氣の中心へ向けてそれを爆発させた。
火炎は大気を爆発させながら清流へ向かう。
「そんなもの!」
清流は厚い水の盾を張るが、襲い来る爆炎の様子が妙だ。
炎は爆縮し一筋の直線へ凝縮され、赤い光線となって標的を薙ぎ払う。
光線は水の盾ごと、彼女を横真一文字に裂いた。熱と痛みを感じる前に、水の術はほどけ、身体は腹を境に真っ二つに崩れ落ちる。
「う、う……」
清流の上半身は、どさりと地に落ちた。
目の前には、焼けた腸を晒す自身の半身。彼女が意識を集中すると、下半身はパシャリと水と化した。
ずるりとそれに地面を這わせ、再度己が内へ取り込む。彼女の半身には再び傷口から水が満ち、胴から下が復活した。
「…………」
互いに氣をぶつけあい、削り合い、二人はゆらりと立ち上がる。
本来水は火に克つが。火眼が五百年の時をかけてため込んだ火の氣は、相克などたやすく超越しているようだった。
しかし、その火の氣も徐々に削られているようで。
「お前は……」
荒い息で、火眼が口を開いた。
「お前は死ぬ気か。おれを道連れにして……!」
その言葉に、同じく息を荒げていた清流の口角が吊り上る。
「馬鹿者め、最初に言っただろう。黄泉路へ供をしてやると」




