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12 攻防

 岩窟。清流は閉じていた目を開く。

 南東の街から天高く、よく知った氣が打ち上がったのだ。

 

「師匠」


 正面に立つ白猿を呼ばわる。玄智真人(げんちしんじん)は「む」と短く頷いた。

 清流道人はこの洞穴で三日間、霊山の氣を浴び続けていた。

 師より『戒め』を解かれた身体は軽く、身体に染み込む霊氣は心地よい。一方で、南東から感じる金氣への衝動は格段に増した。

 欲望を理性で抑えつけ耐え続けたが、いま。

 南東、亮州より発せられた氣が、()つは今と告げている。

 南から迫る火の氣も、弟子達が待つ地点へと近付きつつあった。

 

「玄智師匠。行ってまいります」

「……ああ」


 真人は憂いのこもった眼差しで、跪く弟子を見つめる。

 礼を終え、立ち上がった彼女の面立ちは凛と引き締まっていた。何かを、決意したように。

 出口を振り返った清流は、しかし違和感を覚える。

 山麓に突如、知らない氣が生じたのだ。同時に天究山の水氣が、急速に消えていく。

 清流は色をなして白猿に向き直った。玄智真人も同じく異変を感じ取ったらしく、猿面に焦った表情を浮かべている。

 

「師匠、これは!」

「いかん、何者かが山の水脈を吸うておる……!」


 二人は洞穴の出口を駆け抜け、山頂から遥か下方を見下ろした。

 山の麓、天究山から流れ出る沢のあたりに、巨大な何かがうずくまっている。遥かな高みからも体躯の詳細が判然とするほどの巨体だ。

 牛のような身体に、曲がった角を持つそれ。ずるずると、恐ろしい勢いで沢の流れを呑むそれは。

 

「あれは……!」

「彼は饕餮(とうてつ)。我が友人です」

「!?」

 

 背後から答える声。此度も前触れの無い、突然の出現だ。洞穴の入り口にもたれているその男。金髪碧眼。

 

鴻鈞道人(こうきんどうじん)!」


 二人分の敵意のこもった視線を受けて、鴻鈞道人は柔和に微笑んで見せる。場違いに柔らかい笑みで、男は続けた。

 

「お気付きだと思いますが、この山の水脈はそろそろ尽きます。まもなく饕餮が飲み干してしまうでしょう」

「何が目的かっ!」

「無論、足止め」


 短く答えて、翡翠の瞳は山麓の方へ視線を落とす。

 

「さてさて、さすが貪欲な我が友。もう吸い尽くしたようですぞ」


 水脈だけでは足りないのか、饕餮は山に宿る水氣までを吸収し始めた。山の草木が一斉にしおれ、褐色に色あせていく。

 全ての緑が茶色へ枯れていく光景に、玄智真人は目を(みは)る。喉元からは「ああ……」と嘆息が漏れた。

 

「さあ、清流道人。あなたの水の道は無くなりました。神行法を使っても、弟子の元へたどり着くにはしばし時間がかかるでしょう」

「貴様……!」

「それと」


 鴻鈞道人は清流の怒りの表情をさらりとかわし、人差し指を立てて続ける。

 

「感じてみてください、亮水のほとりの氣を。あなたの好物の匂いがしませんか?」


 言われるまでもないことだった。先ほどまで南東に感じていた金の氣が、この男の出現とともに、弟子達がいるはずの地点へと移動している。火眼の氣も急速に勢いを増していた。


「この下衆め……」

「睨まないでくださいよ。我らにかかずらわっている場合じゃないでしょう?」


 ご安心ください、と鴻鈞は顔をほころばせる。

 

「我らは用事が済みましたので、ここいらでおいとまさせていただきます。やあ、今日は色んな所へお邪魔して疲れ申した」

「ほざけ!」


 清流は一気に間合いを詰めた。手刀へ氣をこめて、にこにこと笑っている男へ振り下ろすが。

 すでにその姿は搔き消え、標的を失った手刀は虚しく岩壁をえぐった。

 

「ちっ! またしても!」


 ほぞを噛む清流。

 山の下から、咆哮が上がる。牛とも虎とも、なんとも形容できぬその声。一帯の水を飲み尽くした饕餮は、一声吼えたかと思うと、これまた突然掻き消えた。

 

「なんと……なんということだ……」


 今の出来事に、玄智真人は愕然と肩を落としている。

 清流は岩から手を引き抜いて、師匠の元へと駆けた。

 

「師匠! 私はすぐに参ります!」

「……清流よ」


 焦る弟子を引き止めて、真人は低い声で告げる。

 

「あの男……。事は……思った以上に重大だ。だから頼む」


 低い声は、すがるような声音へ。

 

「生きて帰ってこい……!」


 お前の力が必要だ。師匠の真剣な眼差しに、清流は。

 

「……申し訳、ありません」


 俯いて告げる。

 

「師匠。まことに勝手ながら、後事は頼みました」

「清流!」

「御免!」


 師匠の声を背後に置き去りにして、清流は山頂から宙へ踊り出た。空中で水に変じ、真っ逆さまへ地上へ。

 山麓へ着水後、その姿は再び人へ戻った。間髪入れず、清流は足裏へ氣を込める。

 足に彫られた神行の紋様に氣が満ちて、彼女は風のように走り出した。

 水の流れに乗じたならば一瞬だったものを。

 鴻鈞道人の所業に怒りを煮やしながら、彼女は走った。

 

(黄雲、雪蓮、巽……!)


 そして。

 

(火眼……!)


 彼女は一陣の風となって、亮水を目指す。


-------------------------------


 亮水のほとりでは。黄雲、雪蓮、巽の三人と、火眼金睛(かがんきんせい)が無言で向き合っている。


「…………」


 銀髪の少年は、こちらへ向けて手のひらを差し伸べた。

 彼の全身に滾る溶岩の如き氣が掌中へ集束し、一瞬の静寂が訪れる。

 この膨大な氣の(うごめ)き。まるで火山の熱量を一点へ集中させたかのような。

 次に何が起こるのか黄雲には容易く分かる、分かってしまう。

 

「お嬢さん掴まって! 巽!」

「は、はいっ!」

「んあっ?」


 叫ぶなり彼は雪蓮の体を掴み、地を蹴って脛へ氣をこめた。準備しておいた神行符が目覚めて、瞬時にその場を離脱する。直後。

 

「ッ!」


 向けられた手のひら。凝縮された火氣が放たれて、荒野を炎の奔流が吹き荒れた。

 

「ふざけんなあのクソ師匠!」


 熱風に煽られながら、黄雲は毒づく。

 振り返った視線の先。陽炎の中、今まで自分達がいた場所は。地面は炭化し黒く抉られ、所々に赤い光の残滓が燻っている。その黒い道のような痕跡が、熱源である火眼から黄雲達がいた場所を越え、遥かな視界の先までも。

 

「とんでもねえ化け物じゃねえかクソ濁流!」


 こんな化け物を押し付けた師をなじるも、本人の姿はここになく。

 

「おい黄雲!」


 代わりに彼へ言葉を投げたのは、からくも炎から逃れた巽。

 

「やべえ尻が焼けた!」


 逃れられてなかった。

 したたた、と隣を走るシノビの臀部からはぷすぷすと、煙が上がっている。

 

「…………」


 敵は無言のままで、再びこちらへ手のひらを構えた。その中心に氣の凝縮。

 

「またか!」

 

 黄雲は雪蓮と尻の焦げた巽とをひっ掴み、慌てて進路を曲げた。

 間髪入れず、二発目の火炎放射。三人の脇を炎の波濤が舐めるように過ぎ去っていく。余波の熱風にむせてしまいそうだ。

 

「おいどうすんだ黄雲!」

「どうするの!?」

「どうするも何も!」


 走りながら巽を突っ放し、小脇に抱えた雪蓮を器用に背中へ背負い直して、黄雲は二人へ叫ぶ。

 

「こんなのとまともにやってられるか! とにかく逃げて逃げて逃げまくる!」


 黄雲はやけくそになりながら言うと、懐をまさぐって丹薬の袋を取り出した。その中から三粒を口に含み、袋を巽へ投げて寄こす。

 

「これは!?」


 袋を受け取りながら巽が問う。

 

「活身丹だ! 三粒飲め、体力氣力が増すぞ!」

「うへっ、苦いなこれ」


 素顔が見えぬよう覆面を少しだけめくって、ウグイス色の丹薬を飲み込み、巽は渋い表情。しかしその走力は瞬く間に格段に向上した。

 

「おおっ、すっげえなこれ! めっちゃ走れるぞ!」

「バカ、はしゃいでる場合か! いいか、逃げつつ僕を援護するんだぞ!」

「黄雲くん後ろ!」


 後ろを振り返った雪蓮から、焦りに満ちた声が飛ぶ。即座に走る方向をずらすと、再び背後を熱気が通り過ぎて行った。

 

「あの火力をバカスカと……!」

「でもあいつ足遅くね? 楽勝じゃね?」


 巽が様子を伺いつつ、走りながら言う。確かに火眼、あまり移動をしていない。

 

「じゃ、じゃあこのまま走ってたら逃げ切れるかなっ?」

「バカ言わないでください! あいつここに来るまで、どんだけ速く走ってきてたと思うんです!」


 黄雲が背中の雪蓮を振り返った時だった。

 

「黄雲くん、前っ!」

「おわっ!」


 皮肉にも黄雲の言葉通り。一瞬でこちらへ駆け寄り、前方から迫る火眼金睛。向き直った黄雲、慌てて雪蓮もろとも身を逸らすが。少々間に合わない。

 

「っ!」


 火眼は手にした棍を振るい、黄雲へ打ってかかる。しかし。

 

「おっとさせるか!」


 しゅるり、と朱塗りの棍に、近くの地中から太い(つた)が絡みついた。巽は木氣を発しつつ黄雲達へ視線を送る。

 

「いいか! お前を助けたんじゃないからなっ! せっちゃんだからなせっちゃん!」

「なんでもいいよ! 一応謝謝(シエシエ)な!」


 やりとりしながら、黄雲は踵を返し距離を取る。

 その背を見送りながら、無表情の火眼の腕から、握った棍へ氣が送られる。

 そして、棍に絡みついた蔦はちりちりと燃え上がり一瞬で炭と化した。

 

「なんとなくそんな気がしてた! おい黄雲急げ!」


 木氣にとって火は弱点だ。しかし時間は稼げた。巽は遠くなった黄雲達の背へ声を飛ばす。

 火眼は巽には目もくれず、雪蓮目掛けて地を蹴った。

 一足で何尺をも飛び越え、赤い風のように彼は黄雲達へ再び迫る。

 

(やはり神行法か! しかも結構な使い手ときた!)


 正直、符を使った黄雲の簡易な術よりも速い。距離はあっという間に縮まるが。

 

「ところがどっこいかかったな!」


 叫びつつ黄雲、土氣を周囲へ張る。と、走る火眼の目の前に土の壁がせり上がりその進路を阻んだ。

 正面だけではない。四方八方を巨大な土壁で囲み、黄雲はさらに氣を練り上げる。両手で印を結べば。

 

「埋まれ!」


 土壁を一気に火眼へ倒壊させ、地中深くへと押し付けるように沈める。

 生き埋めにされた大妖は、土の中で沈黙しているのだろうか。しん、と辺りが静まり返る。

 

「や、やっつけたの……?」

「いや……」


 黄雲が走り去りつつ雪蓮の問いに答えた瞬間。

 土が弾けて炎柱が吹き上がった。火の物の怪は健在である。

 炎の柱から飛び出して、火の様な瞳は未だ雪蓮を追い続けている。

 

「あー! しぶといししつこいしあっついし!」

 

 黄雲、文句を言いながら走るが、状況は芳しくない。

 

「しかもお嬢さんは重いし!」

「えっ」

「あなた何回おぶさるんですかいい加減!」

「だって……」


 確かに何回か黄雲の背中のお世話にはなっているが、別に雪蓮が進んで背負われているわけではない。毎回のっぴきならない事情があってのこと。

 しかも重いとは。

 今回のこののっぴきならなさの中、どうでもいいことで雪蓮の乙女心は傷を負うのだった。

 ともかく。

 黄雲と火眼とでは、火眼の方が速度で勝る。

 稼いだ距離も再び詰められ、無言の物の怪は再び火の氣を充填させている。

 

「ばっ、ばか! やめろやめろ!」


 黄雲は後ろの物の怪へ声を張る。

 

「よく考えろよ! お前お嬢さんが食いたいらしいけど、その火力で燃やしたら一瞬で消し炭だぞ!」


 それは忠告というか、やけくその怒鳴り声だった。

 ところが、ぴたり。

 

「…………」


 火の妖怪は唐突に氣の集中を止める。黄雲の声に応じたかのように。

 

「それはまずい」


 火眼は口を開いた。無表情はそのままに、彼は尚も黄雲への距離を詰める。

 

「ならば燃やすのはやめる」

「は、はあっ!? ありがたいけどいいのかお前っ!?」


 思わず話が通じて、逆にぎょっとする黄雲だったが。

 

「お前を殺せば、その女を食えるというわけだ」


 続く言葉は、黄雲への殺害宣言。

 そして火眼は有言実行の男。黄雲の横へ並ぶと、朱の棍を振りかざし、横ざまから彼の脳天めがけて突きを入れた。

 鋭い一撃。慌てて走りを止めて棍の軌道から逃れていなければ、黄雲は今ごろ脳漿を撒き散らしていたかもしれない。

 立ち止まる黄雲達から少し行き過ぎた地点で、火眼は土煙を上げて止まった。

 ひゅん、と軽く振るった棍から火花が散っている。おそらく氣の出力を抑えて、棍に集中させているのだろう。

 

「やばいな……あの棍に触れるのもまずい」


 火傷くらいなんてものじゃない。おそらくあれに触れてしまった部位は、即座に炭化する。そういう温度だ。

 凶悪な熱を纏うそれを手に、火眼は再びこちらへ迫る。

 と、そこへ。

 

「黄雲、せっちゃん!」


 シノビの叫びとともに、二人の身体を太い蔦がからめ取った。そして火眼の目前で黄雲を雪蓮もろとも、思いっきり振り上げて投げ飛ばす。

 

「たっ、巽!」

「ふっ、礼はいらねえぜ」

「ばかやろっ、飛ばし過ぎだっ!」

「め、目が回りそう……」


 空中から文句を言う黄雲に、やれやれと肩を竦めて、巽は火眼を遠巻きに眺めている。炎の瞳も、ようやく黒ずくめを認識したようだ。

 

「……お前も邪魔するのか」

「おーこわ。ま、いっくらでも邪魔してやるぜ。こちとら清流先生と酒池肉林が待ってんでい!」


 言うなり巽は素早く印を結んだ。九字と呼ばれる八洲(やしま)の忍者が使うそれは、精神を統一するためのもの。

 巽は木氣を練り上げて、周囲に燃え残った植物へ呼びかける。

 

「みなぎれ木氣よ! 芽生(めば)えて伸びて繁殖しやがれ!」


 周囲の植物は急速に芽吹き、成長し、かしましく実り始めた。

 細木は大木へと渦巻く様に成長を遂げ、蔦植物は太い茎をしならせて。火眼はおろか、周辺一帯を覆い尽くす様に緑がはびこる。

 亮水のほとりに、突然森が現れたかの様だ。

 八洲産の檜のてっぺんに陣取って、巽は誇らしげに火眼を見下ろした。

 

「さあ! お前のお目当のせっちゃんはこの森のどこか、立ち込める俺の木氣で探知できまいっ!」


 うははははは!

 巽は声高らかに、きょろきょろしている火眼を嘲笑った。

 そんな彼を、難を逃れた二人は木々に隠れながら眺めている。

 

「巽さん、すごいね!」

「……認めたくないけど、あいつ才能はあるんですよ」


 度を越した破廉恥さえなければと、黄雲は感心しているのかげんなりしているのか、よく分からない表情。

 

「…………」


 しばらく辺りを見回して、炎の瞳は黒ずくめへと向かう。

 無表情のまま、ぶっきらぼうに呼びかけた。

 

「おい」

「んだよ」

「女を出せ」

「やなこった!」

「…………お前も殺せばいいのか」


 赤と金の目を細めて、火眼は棍を構えた。そして地を蹴り、その姿は一瞬にして檜の上の巽の目前へ。

 

「あぶねっ!」


 高温の棍をすんでのところでかわして、巽は地へ飛び降りる。しかし上空から重力通りに帰ってきた火眼、棍の先を黒ずくめの脳天へ向けたまま落下。

 

「だからあぶねっつの!」


 やはりこれも避けるが、朱塗りの棍はなおも火花を散らしつつ振るわれる。巽は迫る熱気に汗をにじませながら、攻撃をかわし続けた。

 

「黄雲くん、巽さんが……!」

「しょーがないなぁ……」


 少々分が悪くなってきたニンジャのために、黄雲は太華式の印を結んで土氣を発した。

 視界の先、巽の足元へ穴があく。

 

「おっふぁ!」


 間抜けな声を上げて落下する巽を包む様に、瞬時に口を閉じる穴。火眼は振りかぶった棍をぶつける相手を失い、つんのめった。

 そこを。

 

「頼む、亮水の流れよっ!」


 黄雲は水氣を発して、背後の川の流れを誘った。

 二人の足元を濡らして、亮水の流れが森へ流れ込む。

 

「み、水が!」

「僕の術ですってば。静かにしててください」


 元々黄雲は氣の扱いが器用なたちで、一番得意の土氣以外の四行も、ある程度扱うことができる。

 今回は三日間の特訓で、火氣の弱点である水氣を練る修練を重点的に行なっていた。

 水は地面へ染み込み、土と柔らかく混じって泥となる。

 その泥を。


「行け!」


 一声叫んでさらに氣をこめると、森の土全体が泥となり、火眼の足をずぶりと飲み込んだ。

 

「な……!」


 思わず物の怪は足を引き抜こうとするが、もがけばもがくほどに泥は絡みつく。そしてその足を、腰を、首を。地中に飲み込もうとするのだった。

 

「やい黄雲!」


 逆に巽は泥だらけで地中から這い出てきた。

 

「馬鹿野郎! あやうく窒息死だクソガキ!」

「生きてたからいいじゃん」


 軽口を叩く彼らの目の前で、火眼は銀髪の先までも泥に飲み込まれてしまった。

 

「おい、あいつやっと死んだか?」

「いや……」


 森の中を軽々と飛んで隣へ着地した巽へ、黄雲は緊張の面持ちを解かずに言う。

 

「見ろよ。煙出てんだろ」


 黄雲が指差した先。火眼が沈んだ地点からは、白い煙が燻っている。しかし苦手な水に体を浸しているためか、氣は先刻に比べ弱まっているようだ。

 

「へぇ……しかしやっぱり炎の化け物、水には弱いんだな」

「よし、今のうちにじゃんじゃん水かけとこう」

「お前鬼だな」


 三白眼と雪蓮のじとっと責めるような視線を気にせず、黄雲はさらに水氣を練った。亮水の豊かな流れは、森の地面をさらに湿らせる。

 

「……なんだか少しかわいそう……」

「かわいそうなもんですか! あなたを食おうとしてるやつですよ! まあ、なるべく半死半生に留めようとは思いますが……」

「でも……」

「なあ。食うってなによ、性的な意味で?」

「それにしても……いやぁ。このまま奴めをうまいこと降参せしめたならば、もしかして出ませんかねぇ! 特別報酬!」

「うーん……」

「俺の話聞いてくれよう……」


 どうやら優勢らしい雰囲気は、三人へ緊張の緩みをもたらした。黄雲は金に思いを巡らせて、雪蓮は良心の圧迫に胸を痛め、巽はスケベな話がしたい。

 しかし化け物退治は終わっていなかった。

 沈黙していた火眼は、突如氣を解き放った。

 

「あ」


 泥から吹き上がる炎柱。閃光に顔を照らされる三人。

 火眼は身を(さいな)む水氣の一切を灼き尽くし、再びその姿を現した。

 

「やべっ」

「あっ、てめ!」


 危機感を察知した巽は、いち早く川へ向かって駆け出した。火眼の氣は終息するどころか、さらに膨れ上がっている。

 

——森を焼き尽くす気か!


 さっきは燃やさないつったのに、と内心毒づくが、火眼は構わず氣を練り続けている。

 すぐに逃げられる場所は、と黄雲は雪蓮の腕を掴んだ。

 一番身近なところへ。黄雲は氣を発して、雪蓮もろとも土中へ飛び込んだ。刹那。

 

「…………!」


 火眼金睛を中心に、地上を放射状に炎の円環が広がる。円環の内側は灼熱地獄を孕み、森と泥を灰燼へと変える。

 

(なんてやつ!)


 深い土中。黄雲は遥か上に広がる炎の渦を感じながら、土の中を泳いでいた。

 神行符を使って走るよりも速く移動できるはずの地行術。その術をもってしても、円環の広がりはその速度を上回っている。

 

(地上へ炙り出す気か)


 尋常ではない火氣の広がりは、おそらく金氣の探知に邪魔な森を始末するためでもあり、窒息寸前まで追い詰めて、火炎の圏外に出たところを狙うためでもあり。

 道士の黄雲は一日くらい土の中にいても大したことはないが、問題は雪蓮だ。掴んだ腕からは、すでに苦しそうな脈拍が伝わってくる。

 時間が無い中、思案しなければならない。このまま彼女を連れて火眼と再び相対(あいたい)するか。それとも直接亮州の清流堂へ連れ帰り、彼女を置いてとって返すか。

 黄雲は後者の考えに首を横に振る。下手をするとこの化け物を街へ(いざな)いかねない。それはだめだ。

 となると、やはり。

 彼女をかばいつつ、戦わねばならない。

 しかし、雪蓮を捕食せんと欲する火眼金睛は言うに及ばず、その同類たる師匠が来たら……。

 考えたいことは山ほどあったが、掴んだ腕、少女の脈と氣は弱まりつつある。地上の火眼は加減を知らないのか、いまだに炎を放ち続けているようだ。

 

(お嬢さん……)


 衰弱する彼女を救う術は、なくはない。

 ただそれを実行するのに、少年は若干の逡巡と懊悩を要した。そして、周囲の土から生命維持に必要な氣を分け与えてもらい。

 雪蓮の体を引き寄せて、指でその顎を支えて。

 

 一方の雪蓮は、苦しく朦朧とする意識の中、自分の唇に柔らかいものがふれる感触を覚えていた。

 そして、口からふき込まれる息吹。優しいそれは喉元から肺に抜け、息苦しさが和らいだ。

 しばらくその感覚が続き、やがて地上から伝わっていた熱気が収まると。

 唇から柔らかいものが離れて、ふわっと身体が上へ引っ張られる。

 

 そして再び舞い戻った地上。

 雪蓮を地面へ下ろし、黄雲は火氣の中心を見据える。

 陽炎の中から、ゆらりと火の物の怪は姿を現した。

 

「やいっ! 火眼金睛!」


 雪蓮へ背を向けて、黄雲は人差し指の先を火眼へ突きつける。

 

「よく聞け! お嬢さんには指一本触れさせん!」

「…………」

「我が師の到来まで、ここはこの黄雲が死守してみせる!」


 勇ましく響く声の後ろで。

 雪蓮は顔を真っ赤にして、少年の後ろ姿を見つめるのだった。

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