11 風雲急
黄雲達が街を発ってから、三日過ぎた。
最初、小うるさい兄貴分がいなくなったことを喜んでいた子ども達は、二晩過ぎた今、「哥哥は?」「あのクソ野郎まだ帰んないの?」としきりに雪蓮へ尋ねている。
困り顔でそんな質問の数々をかわしながら、昼前、雪蓮は西の空を見上げるのだった。
三人は無事でいるのかな、と晴天に案じてみるが、のどかな日和はただひたすらにのどかなだけ。
本堂の石段には燕陽翁が腰掛けて、うららかな好天の下、日向ぼっこ。雪蓮も雪蓮で、子ども達の気を紛らわせるため、てんつくてんつくと鞠をついていた。
「雪蓮」
呼び声。清流堂の門前からだ。よく聞き知ったその声に、雪蓮は思わず顔をほころばせる。
「お母さま!」
鞠つきを一旦中断して、雪蓮は門口に立つ母を出迎えた。
知府夫人は侍女を数人連れて門前で待っている。後ろに控えた侍女の抱えている籠の中には、野菜や果物といった食材。
夫人は気の強そうな面立ちに、気恥ずかしそうな表情を浮かべて佇んでいる。
本来は侍女達だけで雪蓮や子ども達の食事を用意する手筈だったのだが、どういうわけか知府夫人までもがそこに混じるようになったのだ。
わけを聞いても、母は「娘の食事を用意するのに、理由はありません!」と顔をそらすばかり。
しかし親子ゆえ、母の本心はなんとなく娘には伝わるもので。
一昨日からなにくれと世話を焼く母を、雪蓮はこそばゆく、嬉しく思うのだった。
「わー!」
「昼ごはんだー!」
子ども達も鞠を放り出して、侍女が持っている籠へ駆け寄った。苦笑する女性達のさざめきの中、逍、遥、遊は好物の果物を見つけて歓声を上げている。
「これはこれは、ご夫人、皆様方」
「あ、ああ! 土地神さま……!」
挨拶をしに燕陽翁も腰を上げるが、夫人方、相手は神とあってどう接して良いものか、未だに分かりかねている。
本来なら廟で拝むべき相手が、立ち上がって動き回っているのだ。困惑やむかたなし。
客人達が一通り土地神を拝んだところで。
「お母さま! 今日は何を作ってくださるの?」
「そうねえ……朝はお粥を食べたのでしょう。お昼は炒め物でも作りましょうかしら」
屋敷ではあまり料理をしない夫人だが、この数日は腕によりをかけ、なかなか凝った献立に挑戦している。侍女たちの手助けもあって、これがなかなか美味い。
ただ少し。雪蓮は申し訳ない気持ちも覚えるのだ。
遠く西では、黄雲や清流道人が、自身のために危険な物の怪と戦っているかもしれない。
こんなにのんきにしていて、いいのかな。
しかし、腹の虫は彼女の気持ちとは関係なしに鳴いているし、母もいつになく優しい。夫人の優しく尋ねる声。
「雪蓮、手伝ってくれる?」
「はいっ、もちろん!」
以前より柔らかくなった母の言葉に、少女は懊悩を今しばしおさめ、安らいだ微笑で答えた。
しかし。
「……少々お待ちを」
親子の会話に割って入ったのは、燕陽翁だ。
翁は雪蓮親子の前を通り過ぎ、ひとりの侍女の前で立ち止まる。
「そこなおぬし」
「? なんでございましょう?」
年配のその女性は、目をぱちくりさせている。その彼女の腹めがけて、燕陽翁は突然拳を繰り出した。
「んなっ!」
周囲の瞠目。老爺は意に介した風もなく、目の前の存在に拳を伸ばしたまま。
土地神の腕は、女性の腹部を貫通している。いや。
「……やはりばれていましたか」
前のめりに倒れる侍女の背後から現れた、金髪碧眼。
「あ、あなたは……!」
「江天山!」
夫人が悲鳴のように叫び、雪蓮が身構える。
再び現れた美男は、相変わらず柔和な笑みを浮かべている。舞台の上で見たときにはきらびやかだったその微笑も、今となっては底知れぬ不気味さをたたえていた。
再び現れた金髪の美男に、雪蓮の胸は心地悪い動悸を鳴らし始める。一体、なぜ、いま、ここに。
少女の目の前。燕陽翁は倒れかける侍女を支えてやり、地面へそっと下ろした。侍女の腹は何事も無く、無傷だ。
老爺のきつく細められた眼差しは、金髪の青年へ刺さったまま。
「鴻鈞道人、と申したか」
「ふっ……」
鴻鈞道人は柔らかい笑みを漏らした。
青年は優美な仕草と物言いで口を開く。
「燕陽の神よ。この街……とりわけこの廟周辺に張り巡らされた結界、お見事でした。入り込むのにとても難儀しましたよ」
(張ってたんだ、結界……)
鴻鈞の言葉に、雪蓮はひとりそっと思う。普段の老爺はずっとのんびりしていて、そんな素振りなど見せなかったからだ。
ひとり感心していた彼女を、母親が慌てて抱きしめる。視界の隅では、侍女達が子ども達をかばっているのが見えた。
見上げた母の顔は完全に恐慌をきたしている。
「なにをしに来たのです!」
知府夫人、柳眉を吊り上げて怒りの形相。
「誰か! 誰か警吏を!」
夫人が叫ぶと、門近くにいた侍女が慌てて街へ転び出て行った。
それを涼しい表情で見送って、鴻鈞道人が続ける。
警吏など、気に留めた様子もない口振りで。
「ま、そちらの侍女の氣と同化して、身を潜めつつお邪魔させていただきました。遅ればせながら、御免くださいませ」
「来訪を許した覚えはない。去れ」
答える老爺の声に、いつもの陽だまりのような暖かさは皆無だ。鋭い拒絶に、「おやおや」と鴻鈞道人は肩を竦めて見せる。
「できぬ相談です。用事があって参りましたので。そこな雪蓮殿を」
白い指が、少女を指し示す。
「どうしても、火眼金睛と引き合わせねばなりませんから」
鴻鈞は「せっかく火眼を蘇らせたのに、ここにいられたんじゃ甲斐がありません」と言葉を続ける。
人を食ったような態度に、燕陽翁、白い眉を引き締め前へ進み出る。
「笑止!」
白髯を翻し、氣の奔流が湧き上がった。氣は天高くまで立ち昇る。
「ほう」
翡翠の目が細まる。
「合図、ですか。それはちと厄介」
つぶやくと、青年はおもむろに燕陽翁へと歩み寄る。
燕陽翁も白髪をはためかせながら、両腕を構えた。
「それ以上近寄らせんぞ!」
しわがれ声が叫ぶ。
翁が腕を振りかざすと、青年の足元へ白く、光の線が走った。
「縛!」
複雑怪奇な文様が地に走り、鴻鈞道人の足元を囲う。ぴたり、と鴻鈞の歩みが止まった。金髪の下の表情は、少々苦々しげに歪む。
「くっ……!」
「我が封地で勝手はさせぬ! その紋から外へは出られぬと思え!」
老爺は両手で印を結びながら声高に告げた。
鴻鈞道人の足は、紋様の中心に貼り付けられかのように微動だにしない。
ところが。
「なんてね」
苦しげな表情から、さらりと元の柔和な顔へ戻り。
鴻鈞道人は何事も無かったかのように、歩を進めた。
「なっ!」
驚愕する燕陽翁の目の前で、紋は破られ白い光は搔き消え、青年は老爺へ迫る。
「これでも元役者、演技は得意中の得意でして」
照れ笑いのような表情とはちぐはぐに、鋭い動作で鴻鈞は燕陽翁と同じ印を結ぶ。
すると今度は老爺の足元へ、黒い紋が浮き上がる。
「こ、これは……!」
「すみません、時間をかけたくないもので」
燕陽翁の足はぴたりと地へ張り付き、動かない。
脂汗を額に浮かべ、老爺は通り過ぎる若者を振り返る。
「この紋……あなたは……!」
「さて、ご夫人に雪蓮殿」
燕陽翁を捨て置いて、鴻鈞道人は雪蓮親子の前へと迫る。
「し、痴れ者っ!」
娘を後ろへかばいつつ、母は声を荒げた。
「それ以上近寄ってご覧なさい! わ、私が! 今度こそ私がこの子を……!」
「お、お母さま……!」
敵意のこもった眼差しを受けて、鴻鈞は「やれやれ」と首を横に振る。
「ご夫人、申し訳ないが。時間がありませぬゆえ」
「あっ……」
翡翠の瞳のひと睨み。視線を受けただけで、知府夫人は縛り付けられたように動けなくなる。
「お母さま!」
「せっちゃん!」
母を気遣う雪蓮の元へ、侍女たちの手から逃れた三人の子どもたちが駆け寄ってきた。いずれも憤然と勇ましい表情で、美男子の前へ立ちはだかる。
「やいやいやい! よくもじーさんやおばさんを!」
「ちょっと見た目がいいからっていい気になりやがって!」
「遊、顔より性格派だから!」
「だめだよみんな! 危ないから下がって!」
雪蓮の制止も聞かず、子どもたちはわっと飛び出した。しかし。
「まったく」
ひらりとそれをかわして、鴻鈞は悠然と雪蓮の目前まで歩み寄った。
「あ、あれっ?」
「動けない……」
勢い余って転んでしまった子どもたちまで、不可思議な金縛りの餌食になっている。
「さあ、雪蓮殿」
手を伸ばしてきた鴻鈞道人に。
「たぁッ!」
雪蓮は問答無用とばかり、伸ばされた腕を引っ張って懐へ入り、喉仏目掛けて手刀を叩き込む。
「おっと」
難なくそれをかわす男だが。
「甘いっ!」
雪蓮はその股下をくぐり、背後から飛び上がって頚椎を狙う。金髪の上から拳を打ち付けるが。
「やれやれ。お転婆なお嬢さまだ」
ぱしり、と大きな手のひらで一撃は防がれる。鴻鈞は間髪入れず、逆の手で雪蓮の細い首を掴んだ。
「うぐぅ……!」
背の高い男に首元を掴まれ宙に吊り下げられて、雪蓮の足がだらりとぶら下がる。
しまる喉、狭まる呼吸。雪蓮は苦悶の表情で、なおも男の手をほどこうと両手に力をこめた。
しかし、びくともしない。
「せっちゃん!」
「雪蓮……!」
金縛りにされた皆が、無理矢理後ろを振り返りつつ叫ぶ。
侍女たちも腰が抜けたのか、慄いた表情で立ち上がれずにいる。
皆の視線の先で。
「は、はなしてっ……!」
「時間がありません。このままで失礼」
彼がそう口にすると、突如まばゆい光が辺りを覆った。
それが消える頃には。
鴻鈞道人は雪蓮ともども、忽然と姿を消していた。
同時に、燕陽翁、知府夫人、子どもたちにかかっていた金縛りが、嘘のように解ける。
「雪蓮っ!」
夫人が慌てて娘がいた地点へ駆け寄るが、後の祭り。もはやそこには何の痕跡も無い。
「せっちゃんは……?」
「消えちゃった……」
ぽかんと呆ける子ども達。
燕陽翁はがくりと膝をつく。その側へ、夫人が駆け寄った。
「土地神さま……! 娘は、あの者は……!」
「……すまぬ、ご夫人」
老爺は苦渋をかみしめつつ、詫びを口にする。
「あの者……あの者は……」
かの美男が使った緊縛術の紋様。
地の神たる燕陽翁の力を凌駕する存在。
「天仙……!」
老爺は天を仰いだ。
青い青い空の先、九天を睨む。
--------------------------------------
時間は少々遡る。
亮水のほとりで修練の二人組。黄雲と巽は、特訓特訓また特訓の三日間を送っていた。
今しも草むらの上で、巽が黙々と瞑想に勤しんでいる。
最初、彼は仰天したものだ。瞑想中に息をするななどと言われては。
「無理だろ」と断固拒否したものの、黄雲は道術を使って巽の鼻と口に土を詰め、無理矢理修行を敢行したのである。
これ死ぬわとニンジャは思ったが、意外といけるもので。
巽は生死の境で己が霊魂を意識し、周囲に生い茂る草木から氣を分け与えてもらうことで、何とか永らえることができたのだった。
途中、三途の川が見えたり、無一文で渡し賃を用意できず追い返されたりという幻覚を見たりもしたが。ニンジャは今日も元気である。
ともかく臨死体験が功を奏したのか、巽は拙いながらも「魂魄呼吸法」を会得したのであった。
「ふっ……この短期間で道術の真髄に達するとは……。俺は自分の才能が怖い」
「おい集中しろ」
黄雲はポコリ、と木剣で巽の覆面を叩く。
間に合って良かった、と内心黄雲は安堵している。一応これで巽も戦力になるわけだ。相手が実力未知数の大妖怪とあって、安心とは言い切れないが。
「なあなあクソガキ老師! 俺結構覚え早い方だろ!? な、な!」
「うるせえよ」
それに誇らしげな巽が心底うざったい。
これが普通に勤勉で殊勝な青年だったなら、黄雲も普段の辛口毒舌を甘く緩めて、褒めそやしただろう。
しかし相手は変態迷惑クソニンジャ。
「いやこれは俺、お前追い越しちゃったかもしんないわー、絶対モテてモテてしゃーないわぁ。できる男ってつらー」
「頼むからお前去勢されろよ」
黄雲の口舌は自然、豆板醤で味付けされた鳥兜の如く、えげつなくなる。
かしましい相棒に疲れた表情を浮かべ、黄雲はふと背後を振り返った。彼の後ろ、西の方向には。
「……土塁って、こんなもんでいいのかな」
まるで城塞のように、荒野を南北に遮る土の壁がそびえている。一つだけではなく、東西を五重の壁が守っていた。
壁はもちろん、黄雲が土術を使って作り上げたものだ。
修行により急成長を遂げた巽の助けを借り、壁の中には竹の根や八洲産の植物などを通し、頑丈に補強してある。
黄雲も巽の面倒を見つつ、独自に鍛錬を積んでいた。それなりに氣の容量は増えた気がするし、手応えもあった。しかし疲れた。
だが、休んでいるいとまは無いようだ。
「…………」
昨日から感じる氣。南から南東へ、そしてこちらへ真っ直ぐ進んでくる、火の氣。
(これが、師匠の言っていた……)
火眼金睛。
実際にその存在を感じると、腹の底にそら恐ろしさがわだかまってくる。
おそらく神行符のようなものでも使っているのか、火氣の進行は思った以上に速い。
(大丈夫かよ、師匠間に合うのかこれ?)
おそらく敵はまもなくここへたどり着くだろう。弟子はげんなりと北の空を見てみたが、師匠の気配はいまだに無い。
「はーあ、やだやだ帰りたい……」
気弱に頭を振った時だった。
突然、何の前触れもなく。彼の上に何かが落ちてきた。
「いてっ!」
重くて柔らかいそれは。
「いたた……」
「おっ、お嬢さん!?」
彼の背中で呻いているのは、遥か東、亮州城内にいるはずの、雪蓮お嬢さんだ。
「……黄雲くん!?」
「あれ、せっちゃん?」
唐突に現れた雪蓮に、巽も目を丸くしている。
いそいそと黄雲の上から立ち退いて、雪蓮はきょろきょろと辺りを見回した。
「こ、ここは……」
「お嬢さん……どうしてここに……!」
起き上がる黄雲は、驚愕と戸惑いをないまぜに尋ねる。しかし、雪蓮にもこの状況が掴めていない様子。
「な、何て言ったらいいか……あっ!」
ふと思い出したように雪蓮は顔を上げ、武術の構えを取りつつ辺りを警戒し始めた。「何してんの?」と怪訝そうな巽へ、少女は告げる。
「江天山! じゃない、鴻鈞道人! 私、さっきあの人に捕まって……!」
「なんですって!」
黄雲は仰天した。
「そんな馬鹿な! 土地神のじーさんは!?」
「なんか金縛りにされちゃった!」
「んなアホな!」
どんな術士だよと、にわかに信じられないながらも、黄雲の目の前には雪蓮の姿。ここにいるはずのない彼女。相変わらずその身体からは強烈な金氣が溢れているので、まやかしでも何でもなく、本人に間違いない。
土地神を金縛りにできる道士なぞ、聞いたこともない。再び現れたという鴻鈞道人に、黄雲はいっそう訳が分からなくなった。
しかし、混乱している暇はなかった。
黄雲の感じる火氣が、急に速度を増した。まるで塔から落ちる鉄球のような加速度で迫っている。
「危ないっ!」
叫ぶなり黄雲は氣を全開。己と雪蓮、ついでに巽の足元の地面をえぐり、三人の身を土中深くへ沈める。
刹那。
遥か上方を、熱気が通り過ぎて行く。土の中にいる三人の体の芯に、むっと熱がこもった。
いつまでも地中に潜っているわけにもいかない。黄雲は慣れたものだが、雪蓮は息継ぎをしなければ死んでしまう。
「ぷはっ!」
黄雲は雪蓮の脇を抱え、水中を蹴上がるようにして地上へ顔を出した。巽は自力で地面を掘り上がっているようだ。
「え……」
見上げた地上の光景に、三人は危機感もそこそこに、呆気に取られた。
黄雲と巽が築いた五層の長大な障壁には、西から東へ貫くように大穴が空いている。断面は超高熱で焼かれたのか、いまだに赤い光がジリジリとこびりつき、焦げ臭い匂いを放っていた。
「嘘だろ……」
普段お気楽な巽が、戦慄した眼差しでそれを見る。
五層の壁の東側、一番安全だったはずの地点。貫通した壁の穴を悠々と通り、それはゆっくりとした歩みで現れた。
「霊薬……」
つぶやく声。そしてその容貌も、十代半ばの少年だ。
その白銀の頭髪は逆立ち、神将のような赤い装束に身を包み、得物なのか、手には朱塗りの棍を握っている。
見た目こそ、黄雲達とそう変わらない年頃の子どもだ。
しかしその風貌の中で、特に異様だったのは。
「なんだあの眼……」
ほど離れた場所からでも分かる、炎を閉じ込めたような瞳。
虹彩は真っ赤に燃えて、瞳孔の奥は金色に光っている。
「あれが、火眼金睛……」
様子を伺いつつ、黄雲は北の空をちらりと仰いだ。
師匠の氣は、やはり微塵も感じられない。
(どこで油売ってんだあの濁流は!!)
危機的状況、来ない師匠。
亮州で待っているはずの雪蓮は隣で目をパチクリさせていて、巽は役に立つんだか立たないんだか。
炎の瞳は、じっと雪蓮を睨みつけている。
——やるしかないか!
黄雲、ほとんど観念するような心境で覚悟した。




