10 黄雲老師の道術講座
天を衝く程に高いその山は、鬱蒼と生い茂る樹木に覆われている。
天究山。
清流の師が棲家にして、太華北端の霊山だ。
雲に覆われた山頂を見上げながら、清流道人は麓の渓流に立ち尽くしている。やはり山麓も鬱蒼としていて、辺りは濃い霧のような氣に満ちていた。
彼女が踝を浸しているその流れは、天究山より流れ来たるものだ。かの山が天より受けた雨水を、その山肌に伝わせ、集積し、水流と為したもの。足元に感じる流れは凛として冷たく、心地良い。
山に向かい、清流は恭しく礼を捧げた。
と、彼女の体は水と化す。足元の黒々とした流れに同化した彼女は、流れに逆らって天究山をひといきに昇り上がった。
「……今日は七合目か」
水源の地点からざばりと再び姿を現しながら、清流は眼下を見下ろした。
天究山の水の源は、頻繁に位置を変える。相変わらず不思議で難儀な山だ。彼女はそう懐かしく思いながら山頂を見遣った。
「よっと」
山肌から突き出た岩を、白い指が掴む。
湿った苔に覆われた岩石を手掛かり、足掛かりにして、清流道人は急峻を登攀する。周囲の歯朶が頰や手足を引っ掻くので、少々痒い。
山肌は霧に濡れて滑りやすかったが、彼女は難なくするすると、山頂指して登って行く。
「やあ、息災か」
途中、出くわした毒蛇に挨拶を投げかけながら。清流道人は無事、目的の山頂、師の住まう洞穴へとたどり着いたのだった。
横長に口を広げているその洞穴。女性にしては背の高い清流、少々屈みながら中へ足を踏み入れた。
「師匠」
真っ暗い洞へ呼びかける。
暗い岩肌の中で、彼女の声が残響した。
光と緑に溢れた外界と隔絶された、黒い空間。日も差さぬその奥底から現れたのは、白い影。
「……清流よ」
低くしわがれた声。
藜の杖を手に、粗末な衣を身につけて現れたのは。
一匹の、白猿。
「師匠……」
清流はその場に膝をつき、拝師の礼を捧げる。白猿は黙ってそれを受け、彼女が立ち上がるのを待って口を開いた。
「相変わらず長らえているようだの。ここに来るのは百何十年ぶりか」
「ええ。……此度は猿猴ですか」
師の姿を眺めながら、清流は微笑んだ。
白猿は首肯する。
この山の営みは変わらんな、と清流は胸中に思う。
玄智真人。
今彼女の前に立つ、白猿だ。
数百年前、清流が初めて教えを受けた時、玄智真人は人の姿だった。
それが初代。
一人目の真人は天究山へ籠り、山の獣へ己が人格と道術、叡智の限りを伝授し、自身の分身と成した。
初代の死後。二人目の玄智真人は狸だったが、彼もまた別の獣へ、同じことを行なった。
そうして連綿と受け継がれてきた存在が、彼女の師・玄智真人。
まるでこの山に宿る神のように、この一個の人格は生き続けている。
この営みを知る者の中には、それを「洗脳」と呼ぶ者もいた。清流もそれは否定しない。
彼女は知っている。師が他の命に、己が人格を植え続けている理由を。それが他ならぬ清流自身のためであるということを。
今や、天究山の玄智真人を知る者は、当人とその弟子だけ。
「お前の来意は分かっている」
真人は視線を、南、そして南東へと巡らせた。
その仕草だけで師の言わんとすることを察し、清流は頷いて見せる。
「師よ。ご推察の通り、霊薬が依り代を得、火眼金睛が紅火山より蘇りました。ご助力を賜りたい」
「ふむ」
白い毛皮の中、黒い皮膚に覆われた猿猴の顔。玄智真人は猿の眼を細めて見せた。
「……もちろん、助力は惜しまん。が、お前も気付いておる通り……」
白猿は困ったように口をへの字に曲げる。
「わしゃ見ての通りの老猿、この身体には氣もほとんど残っておらん」
そう言って真人は背を曲げた。そんな彼を気遣うように、洞窟の奥から黄色いものが転がるように駆け寄ってきた。
「そろそろ『次』へ継承を行おうと思っておったところだ」
側に寄り添う黄色い子狐の毛並みを撫でながら、真人はため息をついた。
子狐の尾は三つに分かれている。どうやら既に少しずつ、世代交代を始めているようだ。
再会してすぐ、清流には分かっていたことだった。白猿から滲み出る氣は、すっかり老いの衰えを見せている。
もとより真人には、火眼金睛との戦いにおける加勢を期待していたわけではない。
「師匠」
くたびれた白猿へ、清流は呼びかける。
「私がお願いに参ったのは、まずはあなたのお知恵をお貸しいただくこと」
そして、と彼女は続けて言う。
「我が戒めを解いて頂きたい」
「…………」
真人の瞳は、鋭さを帯びる。
「師匠、火眼を討つは元よりこの私」
清流は腰に吊っていた瓢箪を掴むと、目の前の師へ放り投げた。
真人は長い腕を伸ばし、それを受け取る。そして、その視線は再び南東へ。
「……清流よ。今までよく、耐えておったようだが」
しわがれた声が、重々しく問う。
「良いのだな。氣の開放と引き換えに、お前の中の獣欲が暴れまわること、今までの比ではない」
「百も承知」
弟子のしたり顔には、冷や汗が浮かんでいる。
「でなければ、奴めを屠ることができませんので」
清流は思い出していた。
南の神山・紅火山の朱に染まった火口を。
煮え滾る火の海から引き出された、哀れな被験体の瞳を。
恨みがましく燃える、炎の眼を。
「屠る……か」
同じことを思い出しているのだろうか。真人の老いた瞳に、後悔の色が滲んでいる。
「……それしか、やり方は無いのかのう」
「…………今は」
「ふむ…………」
洞穴に沈黙が訪れた。
遊びたい盛りの子狐だけが、無邪気に真人の衣を引っ張っている。
「良かろう」
静寂を終わらせて、真人は頷いた。
「戒めを解く。これよりは己が理性にて、欲に打ち克つがよい」
「はっ……」
清流は地面へ額をこすりつけるようにして、跪いた。
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「はい注目。変態でも分かる、黄雲老師の道術講座〜」
どんどんぱふぱふ。
やる気のない声で囃し立て、黄雲は授業の始まりを告げる。
ここは清流指定の目的地。川沿いのだだっ広い荒野だ。
黄雲の前にぐでんと座っている巽は、不満そうな眼差しで少年を睨んでいる。
「はーあ、かったるー。なんでお前みたいなクソガキを、老師と仰がにゃならんのだ!」
「師匠を一日好きにしていい権利」
「黄雲老師!!」
相変わらずスケベ単純な男である。
特に労力を要さない口車によって、巽にやる気を引き出させた黄雲。さっそく授業を始める。
「いいか良く聞けクソニンジャ。お前は氣の使い方がど下手くそのど素人だ」
「老師! 開始早々ムカつきます!」
「それは重畳。で、そのど素人がちょっとだけ上達するために必要なことを、今から伝授してやろう」
かったるい口調で黄雲は続ける。
「いいか。氣の基本は呼吸法だ」
黄雲老師曰く。
「原始、この世界が生まれる折り。太源龍の吐いた気息……すなわち『氣』によって、陰陽五行が生まれたそうだ」
「これ話長くなるやつ?」
つまり、この世界は龍の息吹より生まれたということ。
土も木も火も金も水も。
元々は太源の『氣』から成り立っている。
「と、いうわけで。僕たち道士は太源に倣い、呼吸を整えることで心身の氣を養って、道術に利用しているわけだ」
「ふーん……」
分かっているやらいないやら。ニンジャは気の無い返事。
「きちんと修行した道士ならば、然るべき時に氣を発し、そうでない時は収めているものだが……」
黄雲はそこでビシッと巽を指差す。
「お前はそこの基本がなっていない! 道術を使うのはいいが、使った後も氣は垂れ流し! 普段の生活でも垂れ流し!」
「ひでえなぁ、まるで下がゆるいみたいな言い草じゃん」
「お前は色々ゆるすぎるっ!」
心外だぜ、と肩を竦める巽に、黄雲早くもこめかみに苛々がこみあげる。
そこを何とかこらえて。
「誰に道術を教えてもらったか知らんが、ともかくだ。今のままだと氣を無駄遣いし過ぎる。時間も無いからとっとと調節の術を身に付けてもらうぞ」
「なぁ、クソガキ老師」
鼻息荒い黄雲へ、巽は疑問を挟む。
「俺も確か、呼吸がどうのって習ったけどさー。ちゃんと術を使う時とそうでない時とで、切り替えてるぜ」
すーはーってな、と巽は得意げだけれども。
老師は呆れたように、盛大にため息を吐いた。
「あのなぁ、バカヤロウ。お前呼吸って、口か鼻で息吸うことだって思ってるだろ?」
「それ以外なにがあんだよ?」
「まったくもって中途半端だな、素人め」
小馬鹿にしながらも几帳面な性分なのか、黄雲は彼へ詳しく解説して見せる。
「いいか、まず今のお前の状態。口か鼻ですーはーして術を使ってます」
「へい」
「本来ならこんだけじゃ術は使えないんだがな。おそらくお前の生来の呼吸が、木氣と相性がいいんだろう」
「ほう」
「しかし! 気管支と肺に横隔膜、つまり肉体だけを使う呼吸では、氣の制御に不十分だ!」
「肉体だけ?」
「そう、我ら道士は身体と精神、すなわち肉体と魂魄を表裏一体のものとし、それぞれを氣で繋ぎ合わせることで奇跡を起こしている」
ここまでの説明を聞いても、巽の表情は釈然としない。「それで?」と三白眼は胡乱げな色を浮かべ、目の前に立つ少年を見上げた。黄雲もその視線に応じる。
「つまり、僕が言いたいのはだな。お前の魂魄には氣が通い切れていない、せっかく肉体へ取り込んだ氣だが、魂魄に留め置ける弁が無いためにダダ漏れになってるってことだ」
「なげぇ」
「人に説明させといてテメエ」
ともかく。巽は魂魄を使って呼吸しなければならない、ということだ。
「でもどうやって?」
当然の質問である。いきなり「魂で呼吸してみよう」などと抽象的でふわっとしたことを言われても、困惑するのが当然の反応だ。
黄雲はびしり、と人差し指を立てて修行法を述べる。
「手っ取り早くやるなら瞑想だ」
「瞑想……」
告げられた修行法も、やはり抽象的でふわっとしている。
「あれか、目を閉じて座禅を組んで、的な……」
「そうだな」
「…………」
覆面の中の表情は心底不安げだ。巽、そういう集中力を要する作業が大の苦手である。特にこう、女っ気が一切ないものだと特に。
「俺それ多分無理だわ」
「安心しろよ、血反吐吐かせてでも習得させてやる」
「何をどう安心すればいいんだよ」
安心しろと言う割に、黄雲の顔に笑みはなく、巽も戦々恐々と応じている。
老師はふと気を緩めて、話題を切り替えた。
「まあいいや。瞑想については後で教えてやろう。次にもう一個大事なことだ」
「まだあんのかよ……」
ごろりと巽、やる気なしの仕草でその場へ寝っ転がる。
その様に眉をひくつかせつつ若干ご立腹の様子で、黄雲老師は話を続けた。
「で。ちゃんと氣を扱えるようになった後の話。本来、実はそれだけだと道術は使えない」
「うそっ!?」
がばりとニンジャは身を起こした。巽は慌てて懐から愛用の棒手裏剣を取り出して、老師へ反論する。
「でも、俺使えるぜ! ほら!」
巽の握った木の棒から枝が伸び、桜の花を咲かせてみせた。
彼の実演に「そうだな」と軽く頷いて、黄雲は腰帯から木剣を引き抜く。そしてそれを巽へ投げて寄越した。
受け取ったニンジャは、怪訝な顔。
「……ん?」
「ひとつ課題だ。その桃の木剣にも、同じように花を咲かせて見せろ」
黄雲の指示に、巽は眉根を寄せる。
「……なんで?」
「いいから」
「いや、だからなんでって」
「……できないんだろ?」
「で、できるしっ」
「いいや、できないんだな」
「でっ、できるっつーの!」
押し問答の末に、巽はやけっぱち。桜の枝を放り投げ、彼は両手で木剣を握った。
そして木剣へ氣を込める。黄雲にも、氣の流れが巽から木剣へ伝うのが分かる。
しかし。
「………………」
待てど暮らせど、一向に花は咲かない。
「やっぱりな」
予想通りの結果に、黄雲はにやりとほくそ笑み、巽は気まずそうに視線を逸らしている。
「……今日は調子悪かっただけだし」
「ははん、そりゃ負け惜しみだな。ならば、なぜ花が咲かなかったか。答えは、お前がこの木剣を管轄する神に認められていないからだ」
「管轄する神?」
また訳の分からない単語が出てきた。木剣を雑に奪い返しながら、黄雲は構わず続ける。
「この太華には、天に地に、様々な神がいらっしゃる。我ら道士が術を行うには、まず己が氣を整え、神々の許可を得る必要があるのさ」
例えば、と黄雲は自身を例に挙げる。
「僕の場合、うちの道廟で祀っている燕陽翁の許可を得て、じーさんの支配圏内で道術を使っているわけだ」
「つまり、その支配圏外へ出ると……」
「ただのせこいガキになる」
「自覚あったんかい」
ともかくとして、道士が術を使うには、必要な事が二つ。
肉体と魂魄で、正しく呼吸すること。
そして道術を使う土地や術の管轄の神から、許可を得ること。
「ちなみに、これ」
言いながら黄雲が取り出したのは、神行符。脛へ貼り付け氣を込めることで、走行速度や跳躍力を高めることができる札だ。
「こういう護符や呪符の類も、神へ術を使う許可を得るための文言が書かれている。この神行符の場合は、脚力・走力を司る天神へ宛てたものだな」
「ふーん……」
「太華では、神の許可を得ないと道術は使えない。先ほどお前が桃の花を咲かせることができなかったのは、こういうわけだ」
黄雲は説明を終えるが、巽はまだ腑に落ちない様子だ。
彼の視線の先には、桜の枝。何となく言いたいことを察した黄雲は、枝を拾いつつ彼へ確かめるように尋ねた。
「なあ巽。この桜の枝は八洲から持ってきたんだろ?」
「そうだけど」
「桜だけじゃない、この間の身代わりの藁も、葛も大根も」
つまり、巽の木氣に応じてくれるのは、彼が持ち込んだ八洲産の植物ばかりということだ。
黄雲の憶測を聞き、巽、愁眉を開いてなんとなくほっとした雰囲気。
「ふーん。じゃあつまり、俺の氣に反応してたのは、八洲の神様ってことかぁ」
「さあ。僕は八洲の神なんて全然知らんし分からん」
「ふふふ、八洲の神はあらゆる物に宿っておいでだからな! 我が国の森羅万象全てに宿っていると思え!」
「興味ねえわ」
八洲の神は置いておいて。黄雲にはひとつ、巽へ告げねばならないことがある。
今朝、燕陽翁へ頼んだことだ。
「とにかく、お前の得物や持ち物だけじゃ心許ないからさ。今朝じーさんに、お前がこの周辺の植物に道術を使えるよう、許可取っといたからな」
「!!」
その言葉を聞くなり、巽の目に宿る狂喜の光。
明らかによからぬことを企んでいる。
「マジかよ! それってその辺の木を操って、通行人の女の子にさらにやらしくあれこれできるってことじゃん、やっべえ!」
やはり企んでいた。しかし許可を得たと言っても、制限がある。
「言っとくけど、火眼金睛を倒すまでの期間限定だからな!」
「はぁっ!? 未来永劫に俺のスケベ天下じゃねえのこの亮州は!?」
「ざっけんな! んな公序良俗を乱す真似ができるか!」
「やだやだやだー! いますぐ亮州帰るー、帰ってスケベの天下布武ー!」
「師匠を一日好きにしていい権利!」
「失礼、取り乱しました黄雲老師」
荒ぶるニンジャを落ち着かせて、黄雲はげんなりと肩を落とした。
これからしなければならないこと。
巽に魂魄を使っての呼吸を叩き込む。
さらに己の修練。
師匠が言うには、火眼金睛の予想襲来時刻まで、あと三日ほど。
それまでに二人とも、それなりに仕上がっていなくてはならない。
(僕だって帰って商売がしたい……)
何故にこんな僻地で訳の分からん物の怪を待ち構え、破廉恥ニンジャと水入らずで過ごさねばならないのか。
無事に事が終わったら、師匠から金品をせしめねば。
黄雲は密かに心に誓いつつ、巽へ不機嫌な声を放つ。
「よーし、じゃあ今から瞑想の特訓だ! 泣いたり笑ったりできなくしてやる!」
「うぇー……」
なんとも緊張感の無い空間で、彼らの特訓は始まりを告げた。
本作品における「道術」や「氣」については、ほぼオリジナル設定です。
ちゃんとした道教における導引(呼吸法)や気の考え方は、より奥深く玄妙極まりないので、ぜひ気になる方は図書館で文献を探してみてください。
そうすることで拙作のテキトーさ加減が浮き彫りに(ry




