3 邂逅
想像していたのと全然違う。
でもなんて魅力的なのかしら。
少女は夢心地で街を歩いていた。
衛兵に見つからなかったのは、幸運だった。
屋敷のある官庁街から抜けて、一路ひときわにぎやかな場所へ。
大通りに沿って立ち並ぶ建物の、なんと壮観なことだろう。見上げれば屋根瓦、そして本邦風の反り返った破風の連続で、目が回りそうだ。
それから市場に連なる屋台、おいしそうな何かの香り。そして溢れる、人、人、人。
大通りには荷馬車が往来し、馬蹄が鳴る度に土煙が舞った。目にほこりが入り、痛みに涙がこみ上げるのも新感覚。
近くの水路からだろうか、ざわめきの合間に舟唄が聴こえてくる。
雪蓮は全身で、生まれて初めての街を楽しんでいた。
空飛ぶ仙人も、火を吹く竜も、溢れんばかりの美丈夫もいない。想像していたものとは違ったが、何と楽しいことだろう。
浮足立っていた彼女は、ふと屋台のひとつに目を留める。おいしそうななにか……よく分からないけれど、お菓子のようなものが店先に並べられている。色とりどりの丸い麩菓子のようなものは、屋敷では見たことのないものだ。
「もし」
「はい、いらっしゃい!」
恰幅の良い女店主が迎えてくれる。雪蓮はどきどきしながら、「これくださいな」とお菓子らしきものを指差した。
「はいよ、五銭ね!」
「ごせん……?」
何かを要求するように手を差し伸べる店主に、雪蓮は目が点。ごせんとはなにか。
しばしきょとんとして、はたと思い当たる。
そうだ、お店で買い物をするときは、お金が必要なんだ!
そして彼女は今、金銭を持ち合わせていない。突発的に脱走してきたのだ。脱走犯は文無しだった。
しおらしく持ち合わせがないことを告げると、店主は「またお金があるときにきな」と、ぶっきらぼうな口調の割に晴れやかな笑顔で、手を振ってくれた。
そうか、お金が無いと何にもできないんだ。
その場を後にしながら、雪蓮はしょんぼりとしおれた花のように頭を垂れる。
一瞬、やはり屋敷に帰ろうかという考えがよぎるものの、いやいやいや! とまだまだ外界を楽しみたい気持ちがそれを吹き飛ばした。
そう、お金じゃないのだ。楽しいことは、お金で買えるものだけじゃないはず。きっと。
「あれっ?」
考え事をしながら歩いていると、ふと妙なところに入り込んでしまったようだ。
そこは日陰に覆われた路地裏。いつの間にか市場の喧騒から遠いところに来てしまった。市場の地面を覆っていた石畳は途切れ、むき出しの土が靴の下にある。
戻ろう。楽しい市場へ向けて踵を返した雪蓮だったが。
気付かなかったのだ。後ろから人が歩み寄っていたなんて。残念ながら衝突は避けられず。
「いたた……」
互いにぶつかって、それぞれしりもちをついてしまった。そして周囲にチャリンチャリンと、金属でできた小物の落ちる音。
目の前で自分と同じように痛みにうめいているのは、雪蓮と同じ年頃の少年だ。
地面には、丸く平べったく、中央部に穴の開いた小さな金属がいくつも散らばっている。ああ、おぼろげに見覚えのあるこれは確か、お金だったはず。
きっと彼が落としたものだろう。「ごめんなさい!」とさっそく拾い集めようとすると。
(あれ……? ない?)
今しがた地面に散らばっていたお金は、一瞬にして姿を消していた。
たくさん落ちていたはずだけれど。見間違いだったのかしら。いやでも、確かに散らばっていたはず……。
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よ……」
呆然としている雪蓮をよそに、少年は何事も無かったかのように立ち上がり、手のひらの上でなにかを数えている。
「良かった、全部ある……」
ほっとしたように少年が言った。手のひらから財布らしき袋へ、数えていたそれをチャリチャリと滑り落とす。
数えていたのは、お金? もしや散らばった小銭を、一瞬で拾い集めたということ?
それとも、お金が散らばっていたと見えたのは、単なる見間違い?
何も言わずに立ち去ろうとする彼の腕を、雪蓮は思わず掴んでしまった。
もちろん怪訝な視線が振り返る。
「なんです? 僕忙しいんですけ……」
「いまのどうやったの!?」
つっけんどんに少女が尋ねた。思いっきり少年の太めの眉がゆがむ。
やっかいなのに絡まれたと、しっかり彼の顔に書いてあった。
「……なんのことでしょう」
はぐらかす少年だが。
「いま! あなたが落としたはずのお金! 落としたはずなのに消えちゃった!」
息急き切って断片的な口調になりつつ、雪蓮は興味津々に少年を見つめている。
「さあ、見間違いじゃないですか?」
好奇の視線をしれっと冷たく見返して、少年はさっさと立ち去ろうとした。のだが。
腕は掴まれたまま。少女はキラキラとしたまなざし。げんなりする少年。
「なんです、まだ何か?」
「あ、あの……えっと……」
正直、散らばっていた小銭のことはどうでもよくなっていた。彼の言う通り、きっと見間違いだったのだろう。
雪蓮の興味は、小銭よりも、目の前の彼に移っていた。茶色っぽい癖毛の下、生意気そうな太い眉の下の瞳は、迷惑そうにこちらを見ている。
彼女の興味を引いているのは、彼が身に付けている黄色地の布だ。浅葱色の胡服の上に、右肩から袈裟懸けに重ねられたそれ。肩の上にあたりには、陰陽を表す太極の図印が刺繍されている。
世間知らずの彼女も知っている。すなわち道士であることを示している印だ。
「あなたもしかして、道士さま?」
「そうですけど」
こともなげに言う少年。その返答を聞くなり、少女の瞳はいっそうキラキラ輝いた。
「すっごーい! ほんとのほんとに道士さま!? 私、初めて見たわ!」
「へ、へぇ……」
「ねねね! 道士さまって霞や雲しか食べないってほんと? 雲に乗って空飛べる? 竜呼べる?」
「いや、全部無理っすね……」
道士と分かるなり、矢継ぎ早に繰り出される質問。明らかに不機嫌な態度だった少年も、勢いに気圧されている。
ところが、彼女の興奮に水を差すかのように。カーン、カーンとどこからか、鐘の音が響き渡った。
「あの鐘は……」
「夕刻の鐘ですね」
街の北側にある鐘楼から鳴らされる鐘の音は、住民なら誰もが知る時告げの鐘だ。少年の言う通り、今鳴り響いている音は酉の刻を告げている。
はたと雪蓮、空を見る。茜色だ。
街の散策に夢中で、空がこんなに赤くなるまで気付かなかったのだ。
脳裏によぎるは、屋敷からの脱出前。出掛ける直前の母の一言。
『夕刻の鐘が鳴るまでには帰ります』
雪蓮の顔色が、さっと青くなった。
一方の少年は、鐘が鳴ってから少女が静まり返ったので、これ幸いと踵を返す。
「じゃ、もう遅いんで僕はこれで……」
「あーーーー!」
突然の叫び。不意を突かれた少年は驚いて振り返り、少女はあわあわと狼狽した様子で頭を抱えている。
「ど、どうしようどうしよう! もうお母さまが帰ってきてしまっているわ!」
夕刻の鐘が鳴る前に帰る、ということは、すでに鐘が鳴っている今、母は屋敷に帰ってきているということだ。きっと屋敷に帰ってきた母は、感想文の進捗を確かめに雪蓮の部屋へ訪れるはずだ。そしてもぬけの殻の部屋を見て、きっと今頃金切り声を上げているに違いない。
「かかか、帰らなきゃ私……!」
「そうですか、お気をつけて」
他人事な少年に見送られ、少女は家路を急ぐ……つもりだったが。
二、三歩。とっとこ歩いて雪蓮、そのまま立ち止まってしまった。そして何となくその場で見守っていた少年を振り返り、一言。
「どうしよう……道が分からないの……」