8 出立
待ちわびていた外界の、なんと寒々しいことか。
炎の海から目覚めた彼は、ひんやりと感じる火口の空気の中、ぼんやり佇んでいた。
時間が経つにつれ、意識ははっきりと欲望を訴える。
憎い。喰らいたい。
東から吹く風より香る、憎らしく芳しい金の氣。
それは血の匂いに似ている。
自身がどうして数百年の眠りより蘇ったのか、思考を巡らす余裕は無かった。
猛禽が鼠を狩るように、虎狼が小獣の血肉を求めるように。
白髪の下の炎の眼へ本能の火を灯しながら、彼は歩き出した。
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白々と東の空を照らす朝日。街には朝靄が満ちている。
いつもより早い時間に目覚めの刻を迎えた清流堂の面々は、本堂の真正面に簡易な祭壇をしつらえていた。
長机に白い布をかけたものへ、神鏡や蝋燭、供物の果物を並べ、準備が整ったところで、清流道人が呪文を朗々と読み上げている。
結局道人は、昨晩住まいであるこの古廟へ帰って来なかった。姿を見せたのは今朝のこと。おそらく知府邸へそのまま泊まり込んでいたのだろう。
知府夫妻も屋敷からこちらへ出向き、儀式の一部始終を黄雲たちとともに眺めている。何を祈念する儀なのかを、一切知らされぬままに。
雪蓮は両親と並んで立っていた。母は昨日の気まずさもあってか、ずっとだんまり。父も一連の事件が気がかりなのか、雪蓮の肩に片手を置いたまま口を閉じている。
黄雲は知府夫人に興味津々の巽の足を踏んづけつつ、師を見守っていた。逍、遥、遊の三人組は、ごしごしと目をこすりつつ佇んでいる。
一同の眠たげな視線を浴びながら、神を言祝いでいた清流道人。
その声が、ぴたりと止んだ。
「……さて」
振り返るしたり顔。朝焼けの中、今日も少々顔色が悪い。
「ご安心くだされ、伯世殿にご夫人。そして雪蓮。燕陽翁のご助力が得られましたぞ」
柔らかい調子で言う彼女へ、知府は怪訝そうに首を傾げた。
「ほ、ほう……。いや、言ってはなんだが、いまいちピンと来ないものですな」
「ピンと来ない?」
「分かるわー」
大人の会話にウンウンと同意を示したのは、巽だ。覆面をコクコク頷かせながら、彼は聞かれてもいないのに話し出す。
「いやぁ、こう朝から儀式するっつーからさ。早く起きて準備してみんな見てたわけじゃん? で何にも起こらないんだもん。なんかこうブワーッと彩雲が出るとか、分かりやすい奇跡が起きるのを待ってたっつーか? ねえおじさん」
「む、むぅ……」
黒ずくめの言葉は、まさに知府の言わんとすることだったらしく。知府は難しい顔で致し方なく頷いた。
崔知府も複雑な心境である。まさか以前投石刑に処したはずの破廉恥犯罪者と、こんなところで再会するとは。
ともかくとして、巽の正直な感想にまず言葉を返したのは、黄雲だった。
「お前、本当に何にも起きてないと思うか?」
「えっ、なに? 人知れずなんか変わったとか言うわけ? やめてよそういうじわっとしたやつ、もっと派手に行こうぜ!」
「それじゃあお言葉に甘えまして」
巽に答えたのは、黄雲の声では無かった。「えっ?」とニンジャがそちらを振り返ると。
「わっ!!」
「うわーっ! 誰ー!?」
巽の背後に立っていたのは、見知らぬ老爺。
優しげな顔立ちのこの老人、大声を上げて巽を驚かせると、人懐っこい笑顔でにんまり笑った。
白髪白髯。小柄な身体に質素な衣服。
あっ、と雪蓮は声を上げた。よくよく見覚えのある人物だったからだ。
「お初にお目にかかる。とは言っても、うち何人かは昔からよく知った顔ぶれだがなぁ」
髭をなでつけながら、老爺は名乗った。
「わしはこの燕陽の土地神。気軽に燕陽翁と呼んでくれ」
莞爾。
その笑顔を、雪蓮はよく知っている。毎日本堂で見ている顔立ちそのものだ。この廟で祀られている、あの木像の老爺に違いない。
慌てて彼女は本堂、いつも木像が安置されている場所へ視線を走らせた。そこはもぬけの殻である。
「崔知府にそのご夫人。そして娘御よ。こうやって顔を合わせるのは初めてだが、わしはそなた達のことをずっとずっと昔から知っている。なんせ土地神だからのう」
崔親子へ歩み寄りつつ、燕陽翁は語りかける。飄々としながらも、どこか温かみのある声音。一見その辺にいそうな、気のいい普通のじいさんである。
目を丸くする知府と夫人の間から、わぁっと歓声を上げながら雪蓮は彼へ駆け寄った。
「すごいわ、本当に神さまなのね!」
「ふふふ、お前さんは信じてくれたようだね」
「ええ、いつもご神像を拝しておりましたので!」
「か、神……?」
「まあ……」
娘とは対照的に、知府夫妻はにわかには信じられない様子。なにせ一見、そこらにいそうな気のいいじいさん。
「信じられませんか?」
「せ、清流殿……!」
祭壇の前から声を掛けてきた清流に、知府は戸惑った様子。清流道人も「まあ確かに」と彼の意を汲んで、燕陽翁へ向けて口を開く。
「燕陽翁。伯世殿の信用を得るためにも、アレを今頼めるか?」
「合点承知」
清流の問いかけににんまり返して、老爺はぐっと両手を握り合わせた。その両の拳を高々と天に掲げ。
「ふんっ!」
ぐっと気合いを込める。
街を覆っていた朝靄はさっと搔き消え。静謐な空気に一瞬満たされたかと思えば。
「うひゃー」
「逃げろー」
「あっ、類」
堂の塀を伝って逃げ去っていくのは、いつも虎視眈々と雪蓮をつけ狙っている物の怪・類。
類だけではない。
類に混じって人面鳥身の物の怪が。不定形の煙のような妖怪が。
街の至る所から現れ、宙を舞いながら、喚き、逃げ惑い、去っていく。妖力が弱いのか、中には朝陽に焼かれて消えていくものもいる。
阿鼻叫喚の魑魅魍魎達は、蜘蛛の子を散らすように亮州の街から逃げ去るのだった。
「…………い、いまのは」
清流堂の門から顔を覗かせて一部始終を見ていた崔知府は、あっけにとられている。
「娘御を狙う妖魔を、一斉に退散させてご覧にいれました。雑音は少ないほうが良いですからな」
燕陽翁は、ひと呼吸置いて続ける。
「例の鴻鈞道人と名乗る男。己の氣を隠す術に長けておりますゆえ、街へ入ってきたことが少々分かりづらい。万が一この燕陽へ再来しても、他の雑音が無ければ多少見つけやすいことでしょう」
「お手並み素晴らしいが……、『多少』か……」
「ええ、多少は多少。『絶対』とはお約束できませぬが、全力を尽くしましょう」
「むぅ……」
知府は低く唸る。
先ほどの気合一閃で、神であることに疑いはなくなったようだが、それでも老爺の言葉に不安は残るようだ。
崔知府は清流へ問いかける。
「清流殿……鴻鈞道人とやら、一体何者なのでしょう?」
「ふぅむ……」
「十数年前から我が家に呪符を仕掛け、娘の体を供物に仕立て上げ……一体何が目的だと言うのだ?」
「お父さま……」
雪蓮の髪の毛を撫でながら、知府の声は悲痛だ。
清流はじっと顎に指を当てて、考え込んでいる。
「今はまだ……判断材料が少なすぎますが……」
言い澱みながら清流は口を開いた。
「もうしかすると、今は廃れた南慧道の残党か……」
「そうか……」
清流の返答に頷く知府。だが、清流はまだ顎に当てた指をそのままに、何か考えを巡らしている様子。
そんな師匠はさておいて。
「ちょっと、おい! 黄雲! 痛いんだけど!」
「うっせ! いいから大人しくこっち来いや!」
「いーやーだー! 荒っぽくするんなら綺麗なおねーちゃん連れて来いや!」
弟子の黄雲は、喚く巽の首根っこを掴み、無理矢理燕陽翁の前に引きずっていた。
「……なんじゃの?」
怪訝そうな燕陽翁へ、黄雲は巽に指を突きつけて言う。
「あのさ、じーさん。僕ら亮水の近くで火眼なんちゃらと戦わなきゃいけないらしいんだけどさ」
「知っとるよ」
面識があるからか、燕陽翁は黄雲に対してあけすけな口調である。
「でさ、じーさん。こいつ素人だけど、一応木氣使いなわけ。だからお願いしていいか?」
「……ま、今回だけ特別だな。よかろう」
「えっ、何? なにごと?」
読めない会話の流れに、巽はきょろきょろ二人を見比べる。
「……ほい、これでよし」
「ん、助かる」
「だからなんなの?」
巽、やりとりの内容がさっぱり分からない。しかし黄雲、この道術素人への説明を後回し。
「後で教えてやるよ。それより、そろそろ出発するみたいだぞ」
彼の視線の先では、師匠が知府夫妻へいとまごいをしているところ。心配そうな知府達へ、清流は微笑を浮かべつつ何事か話している。
「黄雲くん、巽さん!」
「お嬢さん」
眺めていた二人の元へ、ぱたぱたと雪蓮が駆けてきた。
品の良い面立ちに、やはり心配そうな色を浮かべている。
「あの……ごめんなさい、私のせいで危険な目に……」
「別にお嬢さんのせいじゃないでしょ。迷惑料をふんだくるなら、火眼なんとかと鴻鈞道人からにしますよ」
「あー、両方とも女じゃないとかマジ盛り下がるんだけど」
「あ、あの……」
思わず雪蓮が戸惑うほどに、二人とも普段通りの言動だ。
しかし。
敵は四方百里を焼き尽くすという化け物。雪蓮は頰を引き締めて、真剣な瞳で黄雲を見つめる。
「黄雲くん……どうか、気をつけてね」
「俺は?」
巽は置いておくとして。
不安そうな少女の言葉に、黄雲はふんと鼻を鳴らして、小馬鹿にしたような視線を彼女へ落とした。
「そう簡単にくたばりゃしませんよ。なに、危なくなりゃ逃げるだけですし」
「で、でも……!」
「まぁ、万が一僕が死んだら死んだで、紙銭でもじゃんじゃか焼いてください」
紙銭とは、紙で金銭を模したものだ。太華には死者が冥土で金銭に困らぬよう、紙銭を焚き上げることで死者の財産とする風習が古くからあるのだ。
「そんで僕の冥福に貢献してくださいよ」
「も、もう! 心配して言ってるのに!」
地獄の沙汰もなんとやら。そんな言い振りに、雪蓮は心配顔を不機嫌にむくれさせている。
いつもの調子で軽口を叩いていた黄雲だったが、ふと口元を引き締めて真剣な表情。
むすっとしている雪蓮へ眼差しを向けて、「お嬢さん」とひとつだけ言いつけた。
「いいですか、何があっても鉄剣だけは手に取ってはなりません」
「え……?」
突然の指図に、聞き返す雪蓮だったが、少年は問答無用とばかりに背を向けて、清流堂の外へ向けて歩み始めるのだった。
「……鉄剣?」
黄雲を追いかける、雪蓮の不思議そうな視線。なぜ急に鉄剣を、と雪蓮は訳が分からない。
「行くぞ」
そんな雪蓮の脇を、言葉少なに清流が通り過ぎて行く。
黒い衣に気付いたとき、雪蓮の心臓がどきんと跳ねた。
一瞬逡巡があったが、雪蓮は彼女がそばを通り過ぎるその前に。
「清流先生っ!」
意を決して呼びかけた。
声に応じて、清流がはたと足を止める。
「あのっ……、信じてます!」
少女は道人に向けて、言い切った。
言わねばと思っていた一言。
あの棘のある態度を味わった後に声をかけるのは、少し勇気のいることだった。
そして振り向いた清流道人の顔は、穏やかな微笑。
「ありがとう」
清流はそっと雪蓮の黒髪を撫でて、再び門へ向けて歩き出した。
雪蓮、触れられたところを指でさわってみる。
清流道人の指も声も、少し震えていた気がした。
「清流先生……」
「ねえ、俺は?」
そして誰にも声をかけられない巽であった。
「よーし、じゃあ出発しますか」
清流に続き、黄雲も肩掛けの袋を背負い、木剣を腰帯に差して歩き出す。呆然としている巽を「はよこい」と急かして、三人の背中は門前へ。
「燕陽翁」
出発の直前。清流は土地神を呼ぶ。
「万が一の時は、手筈通り氣を打ち上げてくれ」
「おうとも」
「伯世殿、ご夫人」
彼女は続いて、知府夫妻に面を向ける。
「我ら全力を尽くします。すまないが、うちの孩子たちをよろしく頼みます」
「ああ、任された。心置き無く化け物退治に励んでくれ」
「先生……」
知府達の足元では、三人の子どもたちが眠そうに彼女たちを見上げている。
「いいか、お前たち。燕陽翁や大人の言うことをよく聞いて、良い子で待ってなさい」
「はーい」
「よし」
では、と清流は踵を返す。
後に黄雲と名残惜しげな巽が続いて、三人は朝日差す街を南門指して歩き始めるのだった。
「清流先生ー! 黄雲くーん! ついでに巽さーん!」
小さくなる三人の背へ、雪蓮は大きく声を張る。
「絶対無事で帰ってきてねー!」
「俺ってついでなの?」
扱いに納得できない巽のつぶやきは、朝の空気に溶けて消えていった。




