7 お兄ちゃんは心配性?
「はぁ……」
黄昏の知府邸門前で、黄雲と雪蓮は同時にため息を吐いた。
今日一日であまりにも色々と起こりすぎたのだ。心身に疲労を感じながら、少年少女は帰路へ一歩を踏み出す。
ちなみに清流道人は、まだ知府夫妻と話し合いを続けている。遅くなるから先に帰れとのお達しだ。
「おい! 待て、ちょっと待て!」
南方向目指して歩き始めていた二人を、呼び止める声。
振り返った先、屋敷の方から走り寄ってくる人影は。
「お兄さま!」
「はぁっ、はぁっ……」
屋敷から大して離れていないのに息を荒げるその人物は、崔家長男・崔子堅だ。
子堅、ぜえはあと大げさに呼吸をして、雪蓮の肩をがっしり掴む。
「き、聞いたぞ雪蓮……お前、とんでもない化け物に狙われたそうだな……!」
「え、ええ。そのようです……」
「そのようですとは何だ! 緊張感が足りんぞ我が妹よ!」
「ええと……」
突然現れ突然呼び止め、突然のこの剣幕。
崔家の長男は何かひとり勝手に盛り上がっていて、雪蓮は肩を掴まれぐらんぐらんと揺さぶられている。それを早く帰りたげな黄雲の視線がじとりと見ていた。
「おい、そこの!」
「僕のことです?」
「おい、雪蓮は助かるんだろうな!?」
子堅は黄雲に対してもつっけんどんである。
黄雲も黄雲で、いつも雪蓮へ向けるが如くの冷たい目線。
「知りませんよ。僕だってその火眼なんたらとかいう化け物、今日初めて知ったんですから」
「し、知らんだと……!?」
黄雲の返答に、子堅の顔色は黄昏の中でも分かるほど、血の気をみなぎらせる。
子堅、激昂。
「ばっ、馬鹿者! お前は我が父に雇われたのではないのか! それを無責任に分からんなどとはっ!」
「この間『こんな奴らに任せるとは崔家の名折れ』と仰られたのはどこのどなたでしたかねぇ」
口角泡を飛ばす子堅に、黄雲も不遜な表情と物言いで応じている。成り行きに、雪蓮は当然慌てふためくしかない。
「お、お兄さまに黄雲くん! こんなところでケンカは……」
「黙ってなさい雪蓮! 前から私はこいつが気に入らなかったんだ!」
「へーへー、それはそれは光栄ですな。お気に召していただかなくて大変結構」
「ほらこういう物言いだ! いいか雪蓮、こんなやつと一緒にいると性根が曲がってしまう。帰るならあの仙女の如き女性と一緒に帰りなさい!」
「せ、清流先生は……その……」
子堅は悪気など無かったに違いない。ただ気になる女性をそれとなく話題に上らせただけのこと。
しかし雪蓮が思い起こしたのは、江天山と一戦交えた後の清流だった。雪蓮を寄せ付けぬ、あの荊のような言葉と空気。
少女の顔に暗澹とした影が差したその時。「はいはい」と呆れた調子の黄雲が、兄妹の間へ割って入った。
「子堅殿が妹君を心配なされていることは、よーっく分かりました!」
「そうだ! 我が妹を心配して何が悪い!」
「それから我が師に懸想されてることも」
「あばばば……! な、なにを仰るクソ道士!?」
黄雲の指摘に、子堅、途端にしどろもどろ。その挙措はなんとも初心というか……端的に言って童貞くさい。
巽とは別方向に面倒臭いやつ、と心中で腐しながら、黄雲は良家の跡取り息子へしっしっと追い払う仕草。
「はいはい、そろそろ僕ら帰りますんで。師匠ならしばらくお屋敷にいるそうなんで、まあ頑張ってください」
「き、貴様……!」
生意気道士の適当にも程がある激励を受けて、子堅はさらに怒気を顔へ上らせている。と思われたが。
「ふ、ふん! 私は屋敷へ戻るが! あくまで勉学の続きをするためで、決して貴様のお師匠殿を覗き見るつもりはないぞ! いいか、一切無いんだからな!」
精一杯の言い訳を、紅潮した頰で。
必死の彼を見つめる二人分の眼差しは、白けている。
「せ、雪蓮! 兄はお前の無事を祈っているぞ! では!」
「は、はい……」
最後にとってつけたように妹へ一言付け加えて、子堅の姿は屋敷の門の奥へ消えていった。一部始終を見ていた門番の下男は、口を押さえて笑いをこらえている。
「……相変わらず愉快な兄上で」
「あの、一度ならずごめんなさい……」
今日は色々あったはずなのに。
なんとも滑稽味のある空気に取り残されて、疲労感倍増しの二人だった。
歩き出す歩幅も、どこか疲れている。
「ところでお嬢さん」
やっとこさ帰路を再開した黄雲は、歩きながら口を開いた。こちらを振り向く雪蓮の表情は、疲労の色に加え、憂鬱の気配。
「その……師匠のことですけど」
「あ……」
先ほど子堅が清流の話題を切り出してから、彼女の表情は暗い。黄昏が暗さを増す中でもはっきり分かる。
「えーと……最近様子がおかしくて、あなたに対して、少々険のある態度に思えるかもしれませんけど」
「う、うん」
黄雲を見つめる雪蓮の瞳は、真剣だ。
黄雲も言い澱みながら、慎重に言葉を選ぶ。
「あれは、その……お嬢さんのためを思ってというか、自分を律しているがゆえの態度と言いますか……」
これがなかなか難しい。
師匠の事情をぼかしつつ、本心が伝わるように。この塩梅の調整に苦心した挙句、結局彼は説明を投げた。
「ともかく! 信じてくれ、だそうです」
「信じて……」
黄雲は師匠の言葉そのままを、雪蓮へ届けるのだった。これで伝言料分の働きはしたぞと、ふんぞり返る少年の目の前で。
「そっか……」
雪蓮の表情と声色は、ひとまず納得したようだ。
「信じて、ということなら……私が嫌われてたわけではないのかしら?」
「なんです、嫌われたとでも思ってたんですか?」
黄雲は意地悪な顔で一笑に付して、歩みを早める。
「嫌われた方がまだマシかもしれませんよ」
「ちょっと、それってどういう意味?」
「さあ」
はぐらかし、彼は雪蓮の前方に位置どりを保ったまま歩き続ける。彼女から表情を、隠すように。
待ってよ、と追いすがる少女の声。構わず進む黄雲の眉間は、険しくしわを寄せている。
思い起こすのは、鴻鈞道人と名乗った男の言葉と、先の清流との会話。
——清流道人。火眼金睛の、同類。
それが意味するところは。
(師匠も実験台だ。五百年前の)
その考えは少年の中で、確信に変わっていた。
(火眼金睛がお嬢さんを喰らおうと欲するということは)
同類たる清流にも、同じ欲があるはずだ。
霊薬の宿主・崔雪蓮を喰らおうとする欲求が——。
(師匠……)
いま彼女は、必死で己の中の欲を抑え付けているのだろう。その結果があの刺々しさと、蒼白な顔面。
(参ったな)
のんきに金だの銭だの言ってられない事態である。
改めてとんでもないことに巻き込まれたものだと、黄雲は嘆息するのだった。
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清流堂へ帰った後にも、難事は待ち構えていた。
「えーー!? なに、俺もその変なのと戦えって!?」
巽である。
この男は黄雲達の波乱万丈たる一日などつゆ知らず、今日も今日とて街の女性に破廉恥を仕掛けていたらしい。黒ずくめがさらに黒々と焦げている。
「いやさぁ、いくら清流先生のお願いでもよ。なんかその凄そうな物の怪と戦えってのは御免だぜ」
巽は食卓でふんぞり返って断固拒否の構えである。
清流はまだ帰宅しておらず、黄雲と雪蓮は困り顔で卓を囲んでいた。
雪蓮、自分の身を守るためとはいえ、四方百里を焼き尽くすような化け物と戦ってほしいなどとは、とてもじゃないが言えるわけがない。二人とも巽の気持ちはよく分かるのだ。
「でもな、巽」
黄雲は珍しく真面目な面持ちで諭す。
「このまま手をこまねいていたら、このお嬢さんは化け物に喰われる。街にも被害があるかもしれないんだぞ。お前の大好きな女どもだって、大勢死ぬかもしれない」
「そ、それは……。でも、俺だって自分の命が惜しいし! 他人がどうなろうと俺が助かればそれでいいし!」
「ちっ……」
良心に訴えかける作戦は失敗である。そもそもこの阿呆に良心の存在を期待する方がバカだったのだ。
巽を動かすにはあれしかない。
「じゃあ巽」
「んだよ。何言っても無駄だぜ」
すっかりヘソを曲げているニンジャへ、黄雲はニヤリと口角を上げて見せる。
「師匠を一日好きにしていい権利」
ガタタッ。
巽は椅子を蹴り倒しながら、勢い良く黄雲の前に跪き、頭を垂れる。土下座である。
「僕から師匠に口添えして頼んでやろう。なに、あのクソアマは羞恥心なぞ一片もないただの痴女、多分普通に脱ぐ」
「黄雲さま! 何卒! 何卒お口添えを!」
黄雲は知っている。ここ数日、巽が破廉恥に興じようとして、雷に打たれ続けていることを。結局スケベな事が何一つできていないということを。そして欲求不満に陥っていることを。
案の定この単純スケベは二つ返事で話に乗った。「とっとと倒しに行こうぜ!」と途端に乗り気である。
しかし、話の流れにむくれている世間知らずがここに一人。
雪蓮は破廉恥な話の成り行きに、おかんむりである。
「ちょっと黄雲くん! ご本人のいないところで、そんないやらしい提案を……!」
「いいじゃないですか。大丈夫大丈夫、師匠なら笑って許してくれます」
「もうっ!」
ぷくっと頰を膨らませて、雪蓮はそっぽを向いた。
と、そこへ。
「ねえ、哥哥……」
「お前たち」
部屋の戸口からひょっこり顔を出したのは、逍、遥、遊の三人組だ。子供たちは寝間着姿で、眠い目こすりつつこちらを見ている。
「明日から哥哥と先生いなくなっちゃうって本当?」
「ぼくらのごはんはー?」
「なんだい、飯の心配かよ」
黄雲は言いながら席を立ち、子供たちの前にしゃがみこんだ。
「食事なら、知府のお屋敷から来るお手伝いさんが作ってくれるそうだ。僕と師匠は、いつ帰れるか分からない」
「子供たちよ、俺もしばしここを空けるぜ。寂しいだろ」
「いや全然」
「清々するわクソ野郎ども」
子供たちの返答に可愛げは毫も無い。
「せっちゃんも行くの?」
「いいえ、私はここでお留守番」
「わあい!」
「よかったぁ!」
「その態度の違いは何なんだガキどもよ……」
対応の違いに、黄雲と巽は少し肩を落とした。まあ確かに、普段叱ってばかりの黄雲や破廉恥三昧の巽に比べれば、よく遊んでくれる雪蓮の方が居心地がいいのだろう。
そんな子供たちにため息を吐きつつも、黄雲は年長者として、留守中の心得を言い含めねばならない。
「いいか。僕らの留守中、お嬢さんはともかく、お手伝いの人やじいさんの言うことをよく聞かなきゃだめだぞ」
「はーい」
「? 黄雲くん、じいさんって?」
雪蓮が思わず問いを挟んだ。
突然話の中に現れた、「じいさん」なる人物に、巽も三白眼へ不思議そうな色を浮かべている。
「ああ、二人とも知らなかったっけ」
そうだそうだと、今思い出した風の訳知り顔で、黄雲は頷いて見せる。
「まあ、明日になれば分かりますよ」
少年はもはや説明も面倒とばかりに、伸びとあくびをしながら部屋を出て行く。後には三人の子供たちも「ねむー」「寝よ寝よ」と続く。
「……どういうこと?」
「さあ……」
食卓に残された二人は、顔を見合わせるのだった。