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5 紅火山の昔話

 崔家の邸宅。

 先に黄雲と雪蓮、そして知府夫人たちが。

 そのしばらく後に、青ざめた顔で清流道人がたどり着いた。

 知府も含めた一同は、屋敷の応接間に会している。

 清流は東側の壁にもたれかかり、雪蓮はその清流の指示で西側の壁際へ追いやられていた。少女の隣には黄雲が並び、師の指示で、物の怪が彼女へ寄って来ぬよう目を光らせている。

 夫人は椅子に腰掛けてうなだれていて、崔知府はその周りを忙しなく歩き回っていた。


「なんという……」


 知府は真っ赤な顔で、先ほどから低い声で唸っている。

 憔悴しきった夫人の告白に、怒り心頭だった。

 夫人の語ったことのあらましは。

 

「雪蓮の生まれる前のことでした……」


 三人目の子を宿して、まだ間もない頃。

 毎日を退屈に過ごしていた身重の夫人は、侍女の噂で街に美貌の役者が滞在していることを知る。取り巻き侍女の口添えで、知府から外出の許可を得た夫人は、無事に目当ての役者に(まみ)え、知府夫人という身分を上手く使い、親交を結ぶに至った。

 このくだりで、知府が夫人と役者との密通を疑ったりもしたのだが、本筋には関係のないことである。

 両親が浅ましく罵り合う光景に(こうべ)を垂れる雪蓮を、黄雲は少し気の毒に思った。

 ともかく。雪蓮の出産前後はしばらく疎遠にしていたものの、娘が侍女にも預けられるようになると再び、気晴らしと称して夫人は街へ向かった。行き先はもちろん。

 江天山は、無事出産を終えた彼女へ、祝いとして件の札を手渡しながら、こう言った。

 

「この護符は南慧道(なんけいどう)紅火山(こうかざん)の道士が書き上げた、大変有り難いものです。しっかり健康を祈念したものですが、ひとつ条件がある」

「条件?」

「今ここにおいでの方以外、お屋敷の方にこの札を見られぬことです。娘御がお過ごしになられる部屋へこっそりと、床下か天井裏へお貼りください」

「あら、難儀だこと」


 ねえ? とその時の夫人は、周囲の取り巻き侍女へ笑いかけた。しかしその難儀さが余計に、札の効力への信憑性をいや増すように感じられる。

 夫人は札を屋敷へこっそり持ち入り、取り巻きのひとりへ天井裏へ貼り付けるよう言いつけたのだった。

 こうして呪符は崔家の屋根裏で人知れず呪詛を放ち、まもなく江天山は劇団を連れて街を去った。

 その江天山、十数年もの間姿を見せなかったが、去年ふと思い立ったように亮州の城市へと舞い戻り、勾欄(こうらん)を開いたという。

 

「ふむ。ならばご夫人。庭園の四阿(あずまや)はもしや、例の役者の口添えで?」

「ええ……風水にお詳しいというので」

「やれやれ……」

 

 夫人の返答に、清流は呆れたように頭を振った。どうやら庭の魔除けを妨げた四阿も、天山の入れ知恵だったらしい。

 知府はというと、いまや椅子に座り込み、黒檀の机の前でがっくりとうなだれている。

 

「伯世殿」


 呼びかけた清流の声には、励ますような響き。

 

「そうがっかりなされるな。相手がご夫人好みの美貌で、類い稀な話術に長けた、当世第一級の巧言令色だっただけのこと」

「なっ、慰めになっておりませぬ!」

「ははは。当の本人が自らを認めておりましたよ、巧言令色と」

 

 ただし、ただの口先三寸の色男でないのが厄介だ。

 

「伯世殿。彼奴(きゃつ)めはおそらく仙道の類です。それも相当な手練れ」

「仙道?」

「なあ黄雲?」


 東側の壁から、いつものしたり顔が弟子へ発言を促す。

 しかしそのしたり顔も、よくよく見れば取り繕ったように、目元がひくひくと不自然だ。それを見なかったことにして、黄雲。

 

「ええ。間違いなくあいつは道士か何かです。ご息女をお守りする際、右腕へ電撃のような氣を送り込まれました」


 師匠の術も破られましたし、と一言付け加えると、崔知府の髭はいっそう不安げに歪む。

 

「清流殿の術を破ったと……」

「そうですな。私も修行不足ということだ」

「そんな……」


 知府の視線は足元へがっくり落ちる。

 清流道人が術比べに負けた、ということだ。

 妻は騙され、娘は呪われ、頼みの綱も破られた。

 素性も目的も分からぬ、謎の美男に。

 崔伯世が暗澹とした気分に囚われるのも、仕方のないことだった。

 

「しかし」


 清流の声が、知府の苦悶へ割って入る。

 

「喫緊の問題は、件の役者ではありませぬ」

「まだ何かあるのか!?」


 知府の苦悶は軽くなるどころか、より重くなった。

 清流の声音には、彼の懊悩を和らげる意図は一切感じられない。現状をきつく究める鋭さで、彼女は続ける。

 

紅火山(こうかざん)火眼金睛(かがんきんせい)


 紅火山。先ほど夫人の独白にも現れた、呪符の出どころだ。

 

「その名の通り、紅火山に封じられし……まあ、物の怪と言っても差し支えなかろう」

「も、物の怪……」

「火の氣に長じ、その気になれば四方百里は楽に灼き尽くしてしまうでしょう」

「な……。その物の怪の話題を、今、なぜ」

「それがここに来るらしい」

「なんと!」


 崔知府の驚きたるや。椅子に腰掛けていた尻が飛び上がったほどだ。

 

「むむぅ、なぜそんな物の怪まで……」

「…………」


 わなわなと恐慌をきたす知府。夫人はいつの間にやらさめざめと涙を流している。

 雪蓮は重苦しい場の雰囲気に相変わらず頭を垂れていて、黄雲はじっと師の動向を伺っている。

 

「まずは、お話しましょう」


 清流は口を開く。どこか、諦めた様子で。

 

「謎の男、火眼金睛、そして雪蓮殿に宿る怪異。この複雑怪奇な状況を少しでも整理するには、語らねばならぬようです」


 そう言って清流が話し始めたのは、五百年も前の昔話だった。

 

 

 

「前の王朝の、そのまた前になりますか。当時、錬丹術に傾倒する道士が多数おりましてな」


 錬丹術。丹薬を精製する術。

 当時の道士はこぞってこの錬丹術へのめり込み、至高の丹薬を生み出さんと躍起になっていた。

 至高とはすなわち、不老不死の霊薬。

 しかし、いかに人数寄り集まれども智慧(ちえ)を持ち寄れども、一向に霊薬は現れない。副産物として数多の良薬と毒薬を生み出しながらも、彼らの悲願は達成されずにいた。

 そんな時。

 天仙を名乗る奇妙な男が現れて、苦悩する追求者達へ一冊の本を手渡した。

 それが『霊秘太源金丹経れいひたいげんきんたんきょう』。

 大半の道士は男も書物も眉唾と断じ、己が道で錬丹術を修めようとしたものの、どこにでも酔狂はいるもので。

 一部の道士たちは男を信じて、話に乗った。

 さて、その書物。記された内容こそ、使い古された太源の起源と、ありきたりな丹薬の記述。しかしひとたび手を触れたなら。

 氣の道に通じた彼らが書を手に取ると、そこに記された以上、それこそ王宮の書庫を凌駕する知識が、氣脈を通じて心中へ流れ込み、膨大な智慧(ちえ)を彼らに与えたのだった。

 天仙から得た書を手掛かりに、彼らは研究の活路を開く。

 それからの彼らの事績は、「智慧を合わせ霊薬を練り、皆総じて昇仙した」などと簡素な伝説として、現在も一部の地方に伝わっている。

 が、実態は違った。

 繰り返されたのは、人体実験だった。

 

「書物がもたらした智慧は、実に膨大で魅力に溢れ、冒涜的でした。智慧という悪魔が囁くのです。霊薬の(もと)はヒトの中にあるぞ、と」


 ヒトの氣を研ぎ澄ませ、磨き上げた先に霊薬はあると。

 しかし、書物の知識が語るのは、真実のひとつ手前まで。

 ここから先は自ら見極めよとばかりに、その先を知りたがる人々へ、書物は沈黙を貫いた。

 道士達は途中まで得た霊薬の製法を手掛かりに、その先の霊薬を目指して手を尽くす。

 彼らは方々の地方へ出向き、太華の人々の中から氣に優れた者を見出しては連れ帰った。錬丹術の聖地、神なる火山・紅火山へ。

 そしてそれらの人々を、五行——木火土金水それぞれ適性のあるものへ組み分けし、実験は行われた。

 

「惨たらしいものでした。木氣に優れた者は木のうろへ閉じ込められ食事も与えられず、金氣に優れた者は剣山に落とされました。土氣は言うまでもなく土中へ生き埋め、水氣と火氣に優れた者はそれぞれ水火へ投げ入れられました」


 清流の口調は淡々としている。子へ寝物語を語るように、地獄絵図は続く。

 

「何が悲惨かと言うと、それでもなお生き残る者がいたことです」


 木と一体化して生きた者もあれば、剣山から起き上がった者も。半ば土竜(もぐら)と化しながら土中から再び姿を現わす者もあり、水火より生還した者もあり。

 生き残った彼らを待っていたのは、さらなる実験だった。

 もはや生存者は霊薬の材料でしかない。生き肝が霊薬では、いや心臓ではと体のあちこちを(えぐ)られて、せっかく長らえた生はあえなく散っていく。

 犠牲を重ねても、霊薬は一向に姿を見せず。

 いつしかこの非人道的な所業に呆れ果て、道士達の多くは去っていった。中には行いを改めさせようと、中心組織へ抗争を仕掛けた一団も。

 なんとしても実験を続けたい者は結託し、そのまま紅火山に居座って「南慧道(なんけいどう)」を名乗った。

 人道を重んじる一団は北へ拠点を移し、「北徳道(ほくとくどう)」を名乗る。

 二つの組織は反目し合い、激しい抗争を繰り広げたものの。

 時は無情に流れ、結局南慧道は霊薬を生み出せずに廃れ。

 北徳道も徐々に瓦解して、今では跡形もない。

 太華の大地に残虐非道をもたらした件の書物は、天仙とともにいつしか姿を消していた。

『霊秘太源金丹経』は当時、盛んに筆写されて現在も写本が多数残っている。

 しかし、不思議な力を持っていたあの原書は、歴史の闇に今なお消えたままである。

 

「さて、南慧道の道士たちはその末期、ある一人の哀れな実験台を、溶岩たゆたう紅火山の火口へ投げ入れました」


 昔話のしめくくりまで、清流は淡々とした口調。

 

「彼らは火鍋に豆を投じるような気安さだったことでしょう。しかし彼は生きた」


 火の氣に優れた彼は、炎熱渦巻く業火の中で、じっと耐えるように生き続けた。

 やがて南慧道が廃れ、その所業が忘れられ、数百年が過ぎた今の今まで。

 

「それが、紅火山の火眼金睛。南からやってくる脅威です」




 清流が口を閉じた後、部屋はしんと静まり返った。

 各々、顔をうつむかせ口を結び、話の余韻に耐えている。

 かくもおどろおどろしい、事の顛末に。

 最初に口を開いたのは、崔知府だった。

 

「しかし、分からん。火眼金睛とやらは、何をしにここへ来るというのだ? 例の役者がけしかけたのかもしれぬが……」

「あの時……」


 夫の言葉へ被せて、知府夫人も口を開く。

 

「あの時、あの……あの者は、『雪蓮の氣に感じて』などと申しておりましたが……」


 夫人の視線は、壁際へ佇む娘へと注がれている。

 少女の頰は青ざめていた。

 

「仰る通り」


 清流の口調は重い。

 

「彼は霊薬の製法を模した、言わば模造品だ。肉体と魂魄は霊薬として未完成、ゆえに真なる霊薬を取り込み、自身を完成させることこそが彼の宿願」


 そして、と道人は対面の壁へ人差し指の先を向ける。

 示された先にいるのは、雪蓮。

 

「そう、あなた方の娘御に取り憑いたるは、五百年より以前の(いにしえ)に、天人より(もたら)された真の『金丹経』。すなわち——」


 霊薬(エリキサ)

 

 再び部屋を静寂が包んだ。

 

「いや、ちょっと待ってくださいよ」


 おもむろに手を挙げたのは、黄雲だ。師へ突っかかるようないつもの調子で、彼は続ける。

 

「少しおかしくはないですか? その変な書物とやらは確かに、触ると不思議な知恵が湧いて来る代物だ。でも、そいつは霊薬の製法を教えるだけでしょうに、どうしてその本自体が霊薬だと断定できるんです?」


 というか、わざわざ『えりきさ』なんて異国の言葉で言わないでください、分かりづらい。

 

 最後に苦情まで添えて、少年は疑問点を指摘した。師も弟子の言葉に「もっともだな」と相槌を打つ。

 

「そうだなぁ……。まあ、根拠があるとするならば」

「するならば?」

「私の勘だ!」


 おいこら。

 今までの真面目な雰囲気が台無しである。黄雲も、濁流てめえと、知府の御前を忘れて師へ噛み付いている。

 はぁ、と崔知府、嘆息した。

 清流師弟のやりとりに呆れて、ではない。

 娘の境遇を思ってである。それは、夫人も同じ。

 

「あの……道士さま」


 夫人が泣き顔を上げて、清流へ呼びかける。鼻をすすりあげながら、母は問うた。

 

「娘は……雪蓮は一体、どうなってしまうのでしょう?」

「ああ。霊薬に取り憑かれたなどと言われても、私たちにはさっぱりどういうことなのか……」


 崔夫妻の戸惑いは(きわ)まっていた。先の非道な話の筋は、探求のあまり道を外れた者の恐ろしさこそ語れど、肝心の霊薬がいかなるものかは明かしていない。

 

「それが分かれば、苦労はありませんな」


 多少不躾な言い回しだが、清流の表情は実に困惑に染まっている。「なにせ前例が無い」と、続く口調は悔しげだ。

 

「ただ、いま分かることは二つ。火眼金睛は雪蓮殿を取り込む、いや、捕食するためにここへ来るであろうこと」

「ほ、捕食!?」


 夫人、再び卒倒。慌てて知府が席を立って夫人を支え、事なきを得た。今度は意識を保ったままだ。

 

「それから、雪蓮殿に霊薬を取り憑かせ、何事かを企む者共が暗躍しているということ」

「それはつまり……」

「江天山……いえ、鴻鈞道人(こうきんどうじん)。そして、劉仲孝」

「お、お兄さまが!?」


 あの役者の後に挙がった名前に、夫人が狼狽する。無理もない、彼女の実兄だ。


「そう、あなたの御兄上も疑わざるを得ない。なにせ『金丹経』の出どころだ」


 疑念や不安に駆られているのだろうか。夫人の細い肩は、小刻みに震えている。

 清流は少し声音を柔らかくして、続けた。

 

「良いですか、お二人とも。ここは御兄上に対し、素知らぬふりを通してください。警戒はしつつも、普段通りに文のやりとりを行うのです」

「ふ、普段通りにと……」

「宮廷官僚とあらば、中々に用心深い人物でしょう。しかし、人間ふとボロを出してしまうもの」


 意地の悪い笑顔で彼女は言う。

 

「劉仲孝殿個人での企みか、もしくはそれ以上の何かがあるのか。分かりかねますが、今は何も知らぬふりをして、待ちましょう。手がかりが転がり込んでくるのを」


 知府と夫人は、ごくりと固唾を飲み込んだ。同時に、深く頷いてみせる。

 ふたりへ頷き返し、清流。

 

「火眼金睛の件は我らにお任せいただきたい。必ずやご息女を守り通して見せましょう」


 そう言って漆黒の眼差しを、不安そうな雪蓮へと注ぐ。

 いつものしたり顔を浮かべてはいるが、終始顔色は青ざめたままだった。

 

「……少々しゃべり過ぎました。少し休憩を」


 しばしの休息を願い出て、黒い長衣は踵を返す。

 

「…………」


 全員が無言で、彼女が部屋から出るのを見送った。

 黒い後ろ姿が廊下へ消える。

 さて、雪蓮。彼女も顔面蒼白で、事の次第に戦々恐々としていた。

 己が内に宿るモノの、恐ろしさと不可解さ。

 そら恐ろしくなって唇を引き結んでいるだけの彼女だったが、ふとその目の前に、浅葱色の見慣れた袖が差し出される。

 

「お嬢さん、これ」


 黄雲が雪蓮へ差し出したのは、愛らしい白い虎の顔。白虎鏡だ。

 

「これ……」

「しばらく席を外します。少々なら白虎鏡が身を守ってくれるでしょう」


 言いながら雪蓮へそれを手渡して、少年は清流と同じ方へ歩いて行く。

 

「黄雲くん……」


 彼の顔は見えなかったが、なんとなく、普段と違うような。憤りともなんとも言えぬ感情が働いているような、声音だった。

 やがて黄雲の背中も、廊下の薄暗がりに隠れていった。

 

------------------------------

 

「師匠」


 屋敷の入り口付近、人気の無い日陰の中に、師の姿はあった。

 

「どうした? 雪蓮の警護は」


 陰の中でしゃがんでいる師匠からの問いに、「白虎鏡を持たせています」と答えて、黄雲は彼女の前に立ちはだかる。

 口を開いて、黄雲はいきなり本題を切り出した。

 

「…………師匠。あの男は確か、師匠の事を、火眼金睛の『同類』と呼んでいましたよね?」

「…………」


 弟子の問いに、師匠は黙している。

 

「僕の言いたい事、分かりますよね」

「……さあな」


 清流は血の気のない顔でしらを切る。そんな師匠の反応を、弟子は是と受け取ったようだ。

 

「紅火山の錬丹実験、不完全な霊薬未満の魔性。なんでしたか、火眼金睛のように模造品とされた者は、真正の霊薬を求めると」

「…………」

「先ほどあなたは『なぜその書が霊薬だと分かるのか』という僕の問いに、『勘だ』と答えておりましたが」


 師匠を見つめる弟子の眼差しが、細くなる。

 

「師匠、あなたは勘でもなんでもなく、己の確かな感覚でそうと分かるんでしょう。なぜなら——」

「黄雲」


 清流道人は立ち上がり、彼の言葉を制した。

 

「言わずとも良い。お前の考えてることは正しいよ」

「師匠……」


 初めて、黄雲は年相応の不安げな表情を浮かべた。見下ろす清流は、やれやれと腕を組みながら言葉を続ける。

 

「私の内心はお前の思っている通りだよ。そう、私も火眼金睛と同類」


 ふっ、と一度息を吐き、表情に真剣な色に染めて、彼女は言う。

 

「だが、何の罪もない雪蓮を救いたいと思うのは、本心だ。言葉だけでは何の信用の材料にもならんが、今は信じてくれとしか言えない」

「…………」


 黄雲は師匠の目を真っ直ぐ見つめたまま、何も言わない。

 そよそよと、風だけがのどかに吹き去っていく。

 

「分かりました」


 やがて、黄雲はしっかりと頷いて見せた。不安げな様子は影を潜め、いつもの小生意気な調子に戻っている。

 

「信じてますよ、師匠のこと。信用を裏切ったら罰金千金ですからね」

「そいつぁちょっと払えないなぁ……」


 師弟は普段通りのあけすけさ。貯金しろだの何だのと、軽口を叩き合う。

 

「そうだ、師匠」


 黄雲、にわかに表情を変える。今度はなんとなく、照れたような、むくれたような。

 

「その……お嬢さん、師匠のこと気にしてるみたいですよ。急に嫌われたようにでも思ってるんじゃないですか?」

「あいやぁ……」


 その言葉が一番彼女の心に刺さったようで。清流は少し申し訳なさそうにうつむきつつ、「不可抗力とはいえ」と自責の念に囚われている様子。

「申し開きがあるならお伝えしますが?」という弟子の問いかけに、清流、しばし考えてこう言った。


「先ほど、お前に言った通りでいいよ。信じてくれと」

「承りました。伝言料は三百銭でよろしいか?」

「高いわ」


 普段通りのやりとりの間も、師匠の顔は青いまま。

 黄雲はその理由を察しつつも、それ以上には追求しない。

 清流にもはや説明する気が無いのが、見え透いているからだ。

 やがて黄雲は伝言料をツケにして、屋敷の中へと戻って行く。

 清流はなおもしばらく休憩を取り、日が傾き始めた頃、応接間へと戻るのだった。

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