2 呪符
「うぅむ……」
清流は亮州の街を南から北へ突っ切りながら、頭を悩ませていた。
気分の悪さは、住処の古廟から遠のくほどに散じていく。今はある程度体力も恢復し、酒を飲む余裕も生まれ、歩みも段々と普段の千鳥足に近くなりつつある。
道人は道中の酒店で瓢箪に酒を継ぎ足してもらい、飲みながら街を歩いていた。
しかし、まだあの金氣を遥か後方に感じ、未だにぞくりと背筋が震える。
いつものしたり顔は影をひそめ、彼女は思案に暮れていた。
清流道人に懊悩をもたらしているものは、ふたつ。
もちろんひとつは件の怪異だ。雪蓮の身中に棲み着いたそれは、ここ数日で力を増し、その存在を誇示するかのように氣を振りまいていた。
もちろん清流、雪蓮を引き取った当日から手を尽くしている。したり顔の裏で、やることはやっていたのだ。
初日、体内に腕を差し入れて氣を探ったことに始まり、毎晩彼女の氣脈を視つつ、己が氣を発し、怪異の弱体化試みている。さらに先日渡した白虎鏡には、金氣を抑える仕掛けを施しておいた。
しかし結果はどうだ。怪異はあの日の用心棒稼業の最中に突然力を増し、白虎鏡の抑制を跳ね除け、さらに金氣を溢れさせて今に至っている。
(私の失策だったか)
不甲斐なさが胸中に染み入り、形の良い唇が悔しげに歪む。
このままでは、また繰り返してしまう。あの時を。
そうなれば、私は、彼女は——。
清流道人はかぶりを振るう。悪い考えを、振り払うように。
心配事はもうひとつある。
件の怪異を彼女にもたらしたのは、一冊の書物。
問題はその書物の出どころだ。以前彼女が崔知府へそれを問うた際、知府は言葉に詰まりながら、彼の義兄の名を挙げた。
劉仲孝。知府夫人の実兄であり、王宮の高官らしい。
なぜそのような人物が、こんなものを寄越したのだろう。
書物に怪異が宿っているとは知らず、他意なく贈ったのか。それとも。
清流は何かの意図を感ぜずにはいられない。なにしろこの書物、題名は『霊秘太源金丹経』。
彼女もよく知っている書だ。忘れがたい憎しみとともに。
ともかくだ。
(私では雪蓮の怪異は如何ともしがたい)
心底不甲斐ないが、自覚するしかない。
かくなる上は。
清流の視線は、遥か北の空へ向かう。
知府に会えば、切り札について許可を得ねばなるまい。この街をしばらく離れることになる。
もちろん書物の出どころについても疑念を呈し、なるべく劉仲孝を警戒するよう警告もしなければ。
——気が重い。
どっしりと肩に荷を負いながら、清流の歩みは崔家の邸宅前で止まる。時刻はもう昼前だ。
門の番をしていた下男に来意を告げ、知府に目通りを願い出ているところへ。
「おお、清流殿! 今お着きか!」
「伯世殿……」
当人が門前まで駆けてくる。何やら息急き切って、慌てている様子だ。
「ちょうど良かった、清流殿!」
「一体何事で?」
「見ていただきたいものがある」
崔知府は目元に困惑の色を浮かべて言う。
清流が詳しく問ういとまも無く、知府は「こちらへ」とすぐに屋敷へ彼女を招き入れた。
「何なんだ?」
懊悩を一旦頭の隅に追いやって、清流は導かれるままにその背を追った。
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彼女が案内されたのは、大猪に襲来され、未だに修繕を行なっている屋敷の北側だ。壁は崩されたまま、基礎や骨組みはむき出しの状態だ。申し訳程度に木材で骨組みが新たに組まれているが、この屋敷は元々石柱で支える造り。肝心要の石柱がまだ加工中とのことで、竣工の目処は立っていないとのことだった。
人足達が多数行き来しているその場所の片隅に、屋敷の残骸と思しき瓦礫が山と積まれている。
知府の足取りは、その瓦礫の山を目指していた。
「清流殿、こちらを」
彼が指し示したのは、瓦礫の横に並べて置かれている、木材らしきもの。
おそらく屋敷の支柱として使われていたものだろう。四本並べ置かれたそれは、折れたり削られたりと損傷が激しい。
不安げな表情の知府の前で清流はしゃがみこみ、木柱を覗き込んだ。
「これは……」
道人は目を見開いた。ぞくりと総毛立つ。
四本の柱。その上部には、それぞれ一枚ずつ札が貼り付けられている。
白い短冊には、不可解な赤い文様。余白にはびっしりと呪詛のようなものが書き込まれていた。紙の劣化具合から見て、十年ほど前からここに貼られていたと見ていい。
間違いない。これは呪符。
清流はこの呪符を目にして初めて、周囲が異様な雰囲気に包まれていることを知る。まるで突然、冥府へ落とされたかのようだ。
「なんだ、これは……」
清流の額には、瞬く間にじわりと汗が浮く。知府邸は何度も足を運んだが、こんな気配は初めてだ。
「今朝、瓦礫の運搬をしている際に、人足が偶然見つけたものです」
彼女の側にしゃがみこみながら、知府が告げる。
まず一本が瓦礫の山から見出され、不審に思った知府が命じて、残り三本も周辺のあちこちから見つかったとのこと。
息が詰まるほどの呪詛の空気に、清流は肺が押し潰されそうに感じる。浅い息をしながら、彼女は呪符へ手を伸ばす。
それに触れてみて、今まで気付けなかった理由がやっと分かる。
「隠匿の呪法……他にも、何重も……」
呪符に触れている指が震えている。感じ取れるだけでも、様々な呪法がかけられていた。
特に、隠匿の呪法。呪符を仕掛けた本人以外の道術士からの探知を拒む術式である。呪符そのものを目にしたことで、その効果が解けたようだが。
しかし。
最も強く感じる呪詛の叫びに、清流の声も自然震える。
「伯世殿、まさかこの木柱が囲っていた部屋は……」
「……娘の」
雪蓮の部屋です。
知府の視線は、木柱の中程に注がれている。丈比べの跡だろうか、「雪蓮、五歳」と可愛らしい筆跡が残っている。
「清流殿、いったいこれは何なのでしょう? 私はこんなもの見たこともない、屋敷にこのような妙な物があるなどとは……」
例え道士でなくとも、その異様さは十全に知府へも伝わっているようだ。
戸惑う崔知府へ、清流は重々しく口を開く。
呪詛が叫ぶ、最も凄烈な望みとは。
「……賛美だ」
「賛美?」
「太源を、賛美している」
彼女の中で、疑念が一本に繋がった。
雪蓮のもとへあの書物が贈られてきたのは、偶然などではない。
企みが動いているのだ。おそらく、十数年も前から。
「伯世殿。あなたの娘御は、とんでもないことに巻き込まれたかもしれません」
「とんでもないこと、とは……」
「今はまだ、何とも。しかし、この呪符の目的はただ一つ」
清流道人の漆黒の瞳は、崔伯世をまっすぐに捉える。
「雪蓮殿を、太源の供物とすること」
そして、と低く囁く声で、清流は続ける——。
知府邸の庭園に、下男と侍女が集められている。
いずれも十年以上前から勤めている者ばかりだ。
彼らの前へ立つは、難しい顔の崔知府と、いつものしたり顔の清流道人。
「さて、皆の衆」
清流は先ほどの呪符を指につまみ、一同へピラリとかざして見せる。
「知っている者あらばお教え願いたい。この札に見覚えのある者は?」
侍女と下男達は、小首を傾げてうなるばかり。
「清流殿……ここにはいないのでは?」
崔知府はひそひそと道人へ囁きかける。
十年の間に、辞めて郷里へ帰った者も少なくない。犯人がここにいるとは限らないのだ。
知府の言葉に相槌を打ったものの、清流は「さりとて」と反論。
「この中に、呪符を持ち込んだ者がいる可能性もある。賭けてみましょう」
そう答えて、清流は真っ黒な双眸で下働き一同を見渡した。
と、空気がピンと張り詰める。一人の女が、目を見開いたまま手を挙げた。
「私です。私がそれを屋根裏の支柱に貼りました」
清流の発した氣に当てられて、女は滔々と答える。
無論、無理矢理言わせたわけではない。ちょっとだけ正直になるように、各々の氣を調節しただけだ。
「さて、それは誰かに命じられてかな?」
ゆったりとした歩みで、清流は女へ近付く。やはり女は正直に答えた。
「奥様に命じられましたので」
「いつ頃だ」
「十三年前に」
「呪符はどこから手に入れたか、覚えているか?」
「旅の劇団の役者から貰ったと」
「劇団……」
女の氣を解いてやり、清流は知府を振り返った。その顔には、鬼気迫る表情。
「お聞きになられましたか、伯世殿」
「ああ、確かに」
知府にとっては、にわかに信じがたい内容だ。まさか我が妻が、娘の部屋に呪符を仕掛けるなどと。
知府の顔に、血の気が昇る。
清流はその心中を察し、諌める。
「伯世殿、まだ奥方を疑われるのは早うござる」
「しかし、家内は雪蓮を供物に……」
「まずはご夫人に詳しいお話を聞きましょう。流れの劇団の役者というのが、臭い」
「あのう」
知府と道人の会話に、割って入る声。
先ほど、正直に話してくれた侍女だ。今度は彼女、氣に当てられたわけでもなく、自分の意思で喋り出す。
「その役者の方ですが……今はこの亮州に定住して、繁華街の方で興行しておいでだそうです」
「なんと」
清流の表情はより険しくなる。ふと頭に浮かぶのは、弟子の黄雲が愚痴っていた、今日の雪蓮の予定だ。
「あの、道士さま……」
話し終えた侍女は、突然声を震わせる。しわの寄った目尻からは、ぽろりとこぼれる涙。
「わ、私……こんな、お嬢さまを訳の分からぬ魔性の供物に捧げるような、そんな呪符を……。健康祈願だと聞いておりましたので、そんな、そんなつもりは……」
たどたどしくそう言って、彼女は顔を覆い、その場に崩れ落ちた。わっと泣き出したその侍女を、同僚の侍女達が「泣くのはおよしよ」と優しくなだめにかかる。
「伯世殿。あの侍女は正直に話してくれました。どうか罰をお与えになりませぬよう」
清流の言葉に、知府は低く「うむ」と頷く。彼も色々と頭の中がまとまらぬのだろう。腕組みして難しい顔だ。
清流はまだしゃくりあげている侍女へ近付き、しゃがみこんで目線を合わせ、問う。
「教えてほしい。件の役者、名を何といい、どこで興行をしている?」
「名は……」
その役者、名は江天山といい、街の東側にある繁華街の勾欄(芝居小屋)にいるという。
まだしゃくり上げている侍女に礼を言い、清流は立ち上がった。
「伯世殿。奥方は今どちらへ?」
答えを分かりきった口調で彼女は問う。知府、侍女の言葉に今度は脂汗をかきつつ応じる。
「……芝居だ。今、その者の申した、勾欄に……」
「やはり」
清流は言わないが、その勾欄にはもう一人が向かっているはずである。
太源の供物、崔雪蓮が。
知府へは他にも話すべき事柄がたくさんあるが、どうやら事態は一刻を争うようだ。
「伯世殿、失礼」
清流はつと踵を返し、むき出しの地面の上を歩く。
知府や周囲の者達が瞬きをしている間に、彼女の姿は跡形もなく消えてしまった。
下男侍女、一同目をぱちくり。
「旦那さま、いったいこりゃあどういう……」
状況が飲み込めない下男が知府へ問うが、伯世とてこの成り行きが飲み込めない。
何より一番腑に落ちないのは、呪符の賛美の声を聞いた後に、清流が知府へ囁いた一言だ。
「霊薬、とは……どういうことだ?」
——雪蓮殿を、太源の供物とすること。
——正確には太源の齎したもの、太源の血肉のかけら。
——あなたの娘に宿っているものは、霊薬だ。