1 胡蝶の夢
夢の中で、彼女は胡蝶になった。
複眼の捉える花畑の中でふわふわと、胡蝶は無作為に花を選び、蜜を吸った。
かと思えば一面の荒野の中、彼女は猛々しい獅子の身を借り、縞模様の不思議な馬に爪牙を立てて血と肉を貪る。
今度は兎の視界を得た彼女は、瞬く間に狼の牙に食まれ、熱く疼く痛みの中、死を迎えた。しかし目を開けば、そこはまた別の生き物の世界。
ある時は深山の猩々となり、またある時は海底の貝となり。
気がつけば天を衝くような摩天楼のそびえる街を、時間に追われて走り。かと思えば、振り返れば今度は異邦の街、瀟洒な街並みの中ふわりとした装束を身に纏い、踵の高い靴を履いてゆったり歩く。
虫に。鳥に。獣に。太古の不定形の生き物に。そして、人に。
さながら花畑をさまよう胡蝶のごとく。命の灯火を花に見立て、時空と生命を混濁させた空間の中、彼女は様々な生物の意識を点々とうつろい、その息吹の記憶を追体験していた。
飛ぶ鳥は空の青さに視界を染め、岩礁の沙蚕は飛沫の中を這いずり、土中の蝉の子はまだ見ぬ太陽を夢見ている。
子どもの誕生を喜ぶ父の心、親と死に別れる子どもの心。
飢えにあえぐ荒野の民、戦乱の中惨たらしく死ぬ異国の戦士。高層の摩天楼から酒杯をくゆらせ見下ろす街の灯、瞬間場面は便所へ、そして厠で食べる昼飯の味。
爆裂する信管。一帯を焼き尽くす炎に、喜ぶ者、焼かれる者。伴侶を喪った寡婦の慟哭に喉は裂け、平和な街の地下では無名の舞姫が今日も踊る。
牡牛になって牝牛とまぐわい、古代の微生物はつがいを持たずに増殖し、そしてみんな死んでいく。
数十億年の集積、咲き誇る那由多の花々。胡蝶は暗く寂しい宇宙の闇を、ふよふよと頼りなくさまよい続ける。
きらり。何かが輝いた。
不意に沸き起こった超新星の光。熱線は花々を、胡蝶の翅を、寸毫の間も与えずに灼き尽くす。
意識の消える前に、彼女は見た。
断末魔の星の光に照らされて、漣立つように輝くそれは。
寂しく独り無限の闇を往く、龍の鱗——。
目が醒めると、そこにいたのはいつもの崔雪蓮だった。
朝の光の中、もはや見慣れた部屋の景色。
黒い髪はぐっしょりと汗に濡れ、白い頰に張り付いている。
夢、というにはあまりにも。あまりにもおそろしく、甘美で、かなしい。
少女は胸を押さえている。ドキドキと、鼓動にまだ余韻が残っている。
しばしの静寂。
やっとのことで、少女は言葉を紡ぐ。
「わあ、すごい夢だったぁ」
この崔雪蓮、元来能天気な性分である。その一言で彼女の感想はあっけなく終わった。畏怖とか感傷はあんまり無い。
さらに、窓の外からは爽やかな風と朝日。壮大で意味深な夢の印象をさっぱり溶かされ、雪蓮はいつもの調子で身支度にかかる。
「今日の朝ごはんは何だろな〜」
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「うまそう」
「うまそう」
「うまそう」
「うまそう」
「いいにおい」
「めっちゃいいにおい」
「食べたい、食べたい」
今日の清流堂の塀の上には、一段と類がたかっている。普段は五、六匹ほどの彼ら、今朝は二十匹ほどに増えて、塀から堂内を覗き込んでいた。
「また今日はやたらいるな……」
呆れた口調で、黄雲は塀を見上げている。しかし類たちはさすがに、塀に埋め込まれた魔除けの結界は越えられないようで。タヌキ顔の眉間にしわ寄せ、悔しげに唸っている。
「うー! うー!」
「じゃまー! 結界じゃまー!」
「はいはい邪魔で結構結構」
そしていつもの通り木剣に蹴散らされ、類たちは塀から路地側へぽろぽろ落ちていく。
「あー!」
「あな口惜しや! あな口惜しや!」
「いずれ貴様の肉を食ろうてやるー!」
可愛らしい声で物騒な捨て台詞。やれやれと彼らを見送った黄雲、途端に目元へ戸惑いの色を浮かべ、その瞳は雪蓮の部屋の窓を見やる。
「……やはり、お嬢さんの氣か……」
辺り一帯に、濃霧のように金氣が立ち込めている。彼女の氣の昂り方は、この日は特に酷い。
類が集まってくるわけだ、と黄雲は腕を組む。頸のすぐ後ろで鋭利な刀身が翻っているようなこの氣の感覚は、あまり気分のいいものではない。
「どうしたものかな」
彼女の中にいる何かが原因なことは、まず間違いない。
しかし現状それを追い出す手段はなく、清流道人もどうやら手をこまねいている様子。
このままでは。
「契約不履行で報酬がなくなってしまう……!」
黄雲、心配するところはもちろん銭である。やれやれ困った困ったと、少年は厨へ戻るのだった。
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「おかわり!」
木の碗を高々と掲げて叫ぶのは、巽だ。
食卓を囲むのは彼を含め、雪蓮、逍、遥、遊の五人だ。黄雲は食べ終わった食器の始末をしていたが、巽の一声に憤然と立ち上がった。
「お前、どんっだけ食うんだよ!」
「いやまだ三杯目だぜ?」
巽は一体どうやって食べているのか、食事中一度も口元から覆面を外さずに飲食している。ゆえに彼の素顔はいまだに謎だ。
この頃では皆すっかり慣れたもので、いまさらそれに触れる者は誰もいない。
さらにこの食卓には、もう一匹魔物が潜んでいる。
「おかわり!」
「お嬢さんまで……」
あなたもう五杯目でしょうが! と黄雲が噛み付くが、雪蓮はいつものことなので気に留めない。それどころか、巽と結託しておかわりを要求するのである。
「おっかわり! おっかわり!」
「ない! もうない! 終わりだっつの!」
おかわりの大合唱に、黄雲は空の鍋をお玉で叩いて応戦する。三人の子ども達は、呆れた様子で成り行きを眺めていた。
そんな食卓の喧騒へ、ふらりと黒い影が現れる。
「皆、おはよう……」
清流道人である。戸口へ寄りかかるように立っている彼女、顔色が真っ青である。
「……どうしたんです?」
師の異変に、弟子は眉根を寄せる。他の者からも心配そうな声や視線が飛び交うが。
「いや、大事ない。今から出かけてくるよ……」
そうは言うものの、明日をも知れぬ病人のような口調だ。
道人の漆黒の双眸は一瞬雪蓮を捉えたようだが、すぐに彼女から視線を外した。
「どちらへ?」
「崔知府の屋敷だ」
行き先を問う弟子に、か細い声で清流は返す。ふぅん、と黄雲は大して心配のこもらない声。
清流はゆっくり後ろを向き、壁に弱々しく手を這わせ、ふらふらと廊下を立ち去っていく。
いつにない様子に、巽。
「清流先生、よろしければ俺がお供を……」
「無用だ」
ニンジャの申し出をぶっきらぼうに断って、清流は出かけていった。
「黄雲くん、本当に大丈夫かしら……」
雪蓮が心配して問うが、弟子の返答は冷淡だ。
「大丈夫でしょう。多分酒の飲みすぎですよ、飲みすぎ」
「とてもそうには……」
そもそも清流道人、毎日酒浸りの自堕落生活。いまさら飲みすぎなどとは。
そうは思っても、罷り間違っても自堕落なんて指摘できない雪蓮である。
「清流先生大丈夫かな?」
「さあ」
「遊びに行こー」
逍、遥、遊の三人組は多少清流を心配しながらも、二言三言で気分を切り替え、食堂を出て行く。淡々としたものである。巽も堂の外から響く女人の立ち話に反応してか、いつの間にか姿を消している。
「本当に大丈夫かしら……」
「心配です?」
なおも心配そうに廊下の方を見ている雪蓮へ、黄雲は食器を拭きながら口を開く。
「なら、今日はやめておきますか」
「!」
その一言に、雪蓮ははっと息を呑む。
予定があるのだ。大事な大事な、ずっと楽しみにしていた用事が。
「分かりました。師匠を今すぐ引きずり戻して今日は大事を取るということで……」
「わあーー! 待って待って!」
少年の言葉を遮り、雪蓮はわたわたと手足をばたつかせる。
「そ、それは……それはどうにか……」
「でも師匠が心配なんでしょう?」
「もちろん! でも……」
清流と楽しみな用事との間で煩悶する少女に、黄雲はあきれてため息。
「……師匠なら大丈夫ですよ。あれでもこの街一番の道士なんですから」
彼の口調は、別に師を誇っているわけではない。淡々と事実を述べているだけだ。
あのクソアマはそう簡単に死にゃしません、とはっきりきっぱり断じる黄雲に、それならと雪蓮、もごもごとつぶやく。
「……やっぱり、お芝居行きたい」
「別に僕はやめてくれても良かったんですけど」
雪蓮が楽しみにしている予定は、彼にとって面倒臭いもののようだ。彼女が街へ出かける度に、お守りをさせられている黄雲である。
「じゃ、昼餉を食べたら出ますから。ちゃんと準備しといてくださいよ」
「はーい!」
いかにもかったるそうな口調の黄雲に、雪蓮は元気いっぱいに応じるのだった。




