6 兎の皮をかぶった虎
二本の棒手裏剣は少女を狙う。
その衣を引き裂き、まだ幼い素肌を白日のもとへ晒さんがために。
「あ!」
雪蓮は己を狙う、劣悪なる淫欲の刃に気付く。
そして。
「!」
瞬間、少女は手刀二発。棒手裏剣の残骸はあっけなく地へ落ちた。
「えっ」
「うそっ」
男二人は瞠目した。警戒心のない兎が突如として、虎狼の如き迫力を発したような、そんな驚きに包まれる。
しかし覆面男。動揺を一瞬でおさめ、再び懐から暗器を繰り出した。
「ま、まぐれだまぐれっ!」
次こそはすっぽんぽん! と再び放たれる棒手裏剣。
果たして次の瞬間には、彼女が来ていた藤色の衣が宙を舞った。
「あーー!!」
黄雲の顔から血の気が無くなった。先ほど脳裏に描いた己が行く末が、現実のものとなりそうだ。
「やった!」
歓声を上げる覆面男。だが、彼の本懐はまだ遂げられていない。
見渡す限りの農地の中に、裸の少女の影は無く。
「……!? どこへ……」
視線を巡らす覆面の顎へ、唐突に突き上げるような一撃。
「んぐぅっ!」
黒ずくめの体が宙に浮く。
疾風の如き素早さで、男の懐に入った雪蓮だ。彼女が勢いつけて真上に放った掌底は、男の下顎をしたたかに打ちすえる。
ごきょり、といかにも痛そうな音が鳴った。
「成敗っ!」
雪蓮の一言とともに、覆面男は仰向けに崩れ落ちた。
黄雲はこの時初めて知った。
彼女が藤色の衣装の下に、白の武闘着を着込んでいたことを。
「……え?」
黄雲はやっとのことで一声発した。
「大丈夫っ、黄雲くん!」
武闘着姿の雪蓮が、パタパタとこちらへ駆けてくる。
心配そうな表情を浮かべてはいるが、普段の崔雪蓮と何ら変わりない。先ほどの達人のような動きの名残は、微塵もなかった。
「あ、あの……お嬢さん……」
「?」
パクパクと地上に打ち上げられた鯉のように、口を開け閉めしているだけの黄雲を、少女は不思議そうな顔で見つめている。
言いたいことは色々あった。留守番を頼んだのに、どうしてここへきたのか。あのクソ師匠は何しにきたのか。
それらを差し置いて問うのは、やはり先刻の武勇についてである。
「あ、あなた、武術が使えるんです?」
「あ、えーと……」
尋ねた瞬間、少女は顔を赤らめ、恥じらった表情を見せる。
「えっとその……たしなむ程度に……」
「たしなむていどに」
「武芸十八般を……」
「ぶげいじゅうはっぱん」
ぽつりぽつりと告白する雪蓮に、黄雲は噛みしめるように彼女の言葉を反芻するのだった。その目はどこか遠くを見ている。
少年はあまり武術を真面目にやっていなかったので詳しくないが、武芸十八般については少し聞きかじったことがある。
弓や槍、剣といった十七種の武器と、白打(格闘術)を合わせた、計十八種の戦法を網羅する武術のことだ。
深窓の令嬢の習い事としては、いささか物騒である。
「よくあのお母さまがお許しになられましたね、そんな習い事」
「あのね、お姉さまが『護身術になるから』と誘ってくれて……」
どうやら彼女に武芸の道を開いたのは、一昨年嫁に行ったという姉らしい。それを聞き「なるほど」と黄雲は納得した。
彼女の姉で崔家長女・崔秀蓮は、おてんばが度を越して、じゃじゃ馬ならぬ汗血馬娘として有名だったからだ。屋敷に武芸者を招いてはコテンパンに打ちのめしているという噂が、当時はしきりに立っていたものだ。
おそらく知府夫人としては、「護身術なら……」という心境で武術の稽古を許可したのだろう。その結果生まれたのが、おてんば汗血馬と兎の皮をかぶった虎である。
黄雲は兄の子堅については聞かなかった。聞くまでもない。見るからに運動音痴そうだったし。
たはー、と少年は息を吐く。感心しているのか呆れているのか、自分でもよく分からない。
「ぐはっ」
ふと、苦しそうな声が二人の会話をさえぎった。
黄雲と雪蓮がそちらへ視線を向ける。地に仰向けに倒れたままの覆面男だ。白目を剥いて気絶している。
「そうだ、こいつを忘れてた! 目を覚ます前に早く縄を……」
黄雲、歩み寄り男の側にしゃがみこむ。そして見てしまう。
「…………」
覆面の口元から垂れ流されている、大量の血。血反吐は赤黒く地面を濡らしていた。
「え……」
雪蓮もそれを目に留めて、思わず固まる。
顎下からの掌底は確かに強めだったが、こんな出血するような一撃では……
「なんだ、舌でも嚙み切ったか?」
「そ、そんな……!」
黄雲の憶測に、雪蓮は悲痛な声を上げる。
「あーあ、お嬢さんやっちゃいましたね」
「やってない! やってないもん!」
「まあいいんじゃないですか。きっとお父上が揉み消してくれますよ、金と権力の力で」
「いやな言い方しないで!」
まるで雪蓮が殺したかのような調子でからかう黄雲に、少女も躍起になってしまう。
そんな最中、男にさらなる異変が。
「あれ、ちょっとこれ。痙攣してません?」
「ほんとだ……」
男はビクンビクンと体を震わせている。さらに口元からは血反吐に続き、血で真っ赤に染まった泡がぶくぶく吹き出される。
「げっ、これ本格的に死ぬ前のやつ!」
「あわわわわ! だ、だめ! 死んじゃだめ!」
慌てふためく二人の前で、男は一際大きく痙攣した後、完全に沈黙した。
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「いやー、マジ死ぬかと思ったわー!」
男は明るい声で朗々と話している。足取りもしっかりしていて、とても先ほど死にかけたとは思えない。
縄で縛り上げた男を引っ立てつつ、少年少女は何とも言えない面持ちを浮かべている。
「女の子に死なないで! って言われたらさ! 死ねないよね!」
「言わなきゃよかったですね……」
「…………うーん」
あの後。雪蓮の「死んじゃダメ!」に反応し、完全復活を遂げた覆面男である。
現在彼らは、縛り上げた男を引き連れて亮州城内を役所へ向かい歩いている。
清流は農地に置いてきた。雪蓮は渋っていたが、寝ゲロしたまま起きない方が悪いと、弟子に見捨てられたのだ。そのうち目を覚まして帰ってくるだろう。
「いくつか聞いていいか」
黄雲は男に向かって問いかける。ところが。
「野郎の質問なんざ聞きたくもないねぇ。女の子からがいいなー」
「…………」
少年の眉根がヒクついている。立腹する少年に構わず、男の視線はにっこりと雪蓮へ向いていた。
「ねえねえ、なんかない?」
「んー……。じゃあ、はいっ!」
変質者に対し、雪蓮は屈託なく挙手。
「そのお箸みたいな武器は、どうやって懐にしまってたの? たくさん持っているようだったけれど……」
「ふっ、棒手裏剣だぜお嬢さん?」
気取ってみるが、縛られたままでは様にならない。
男が口を開く。
「これはな、どう……」
「大方道術で増やしてたってところだろ」
男の台詞を横取りして、黄雲は続ける。
「元々持っている木の棒に木氣を当てて、成長させたものを使い、その場その場で量産していた、ってとこか」
「取るなよ! 俺の見せ場を!」
餌を取られた犬のように騒ぐ男を「はいはい」とあしらって、黄雲は歩みを続ける。
「…………」
無言。
「いや、ちょっと待ちなさいよキミたち」
覆面が渋い表情で立ち止まる。
「他にもっとあるでしょうよ。素敵な殿方、お名前は? ご出身は? とか」
「いや興味ないし……」
「持てよ! 俺に興味を持ってくれよ!」
いちいちやかましい男である。無視して足取りを早めようとするも、「聞いて聞いて聞いてー!」と駄々っ子のようにうるさい。
「……えーと、素敵な殿方」
見かねた雪蓮は、お名前は、ご出身はと、先ほど男が希望した通りに尋ねた。
「さっすがお嬢さん! いやぁ、どっかのクソガキとは違ってお優しい!」
「へーへー」
「よーし、じゃあ心して聞いてくれ。この俺の波乱万丈に満ちた人生」
「待て、どこから話し始めるつもりだ」
『人生』という単語が、これから始まる彼の自分語りが長くなることを暗示している。
制止する黄雲を気に留めず、覆面男は語り出すのだった。