5 術比べ
「なにこれ……」
清流堂へ帰ってきた三人の子どもたちを出迎えたのは、裏庭でひしめき合うように狂い咲いている桜の木々だった。
かくれんぼに夢中になって、くたくたになって帰ってきたらこれである。
「先生?」
「哥哥?」
容疑者探しをするも、その当人たちの姿は見えない。
いや、一人は裏庭のさらに裏、塀の向こう側の水路の手前通路にいた。
「清流先生、しっかり……」
雪蓮はいまだにぐーすか寝ている道人を、必死に揺すっていた。吐き散らかしていた吐瀉物は、あらかた拭き取られている。
少女は泣きそうな心境だった。なにしろ他人の吐瀉物を始末したのは、人生で初めてだ。懐紙が尽きるまで、髪や顔、衣服から嘔吐したものを取り去った。取り去ったのだが、清流は目を覚まさない。手がベタベタして非常に不快だ。しかしそんなことよりも。
「早くしないと、黄雲くんが……」
雪蓮は心配だった。黄雲が使う土の道術が、先ほど覆面男の不思議な力によって破られてしまったからだ。それにも関わらず相手を追っていった黄雲を、向こう見ずだとも思った。
確かに去り際、覆面の彼は「疲れた」などとは言っていたが。それでも少年に何かあったらと、居ても立っても居られなかった。
ともかく清流に目を覚ましてもらって、加勢してもらわないと。少女は未だ吐瀉物の痕跡生々しい黒い衣を、揺さぶり続けるのだった。
「清流先生〜〜!」
「すかー……ぴー……」
---------------------------------
「ちょっと惜しいことしたかな」
亮州城外の田園地帯。畑のあぜ道を疾走しながら、覆面男はぽつりとこぼした。
「あの巨乳のお師匠さま、確かにあれだよな。何日か前にでかい庭園でひんむいた人だっけ。いやぁ、何度見てもいいもんだね! でっかいおっぱいってさ」
他に誰もいないのに語りかける口調。
「はーあ、せっかくだからあの野郎にバレる前にもうひと脱がせしといても良かったかな〜。あ、そういやあいつと一緒にいた女の子も脱がせてないや。またほとぼり冷めてからあそこに行ってみるか」
独り言の多い男である。見るからに怪しい彼だが、この辺りの畑は現在休閑中だ。耕作する人のいない無人の畑を、不審者はひとり爆走している。
「よーし、次は農家の小姐と行きますか!」
そう言って上機嫌に、一際大きく跳ねたときだった。
ぼこり。
足元の地面が盛り上がり、巨大な土の腕が現れた。下から覆面男を掴むように迫る手指。しかし。
「ぅわっとぉう!」
間一髪、後ろに跳びすさり難を逃れた……と思ったのが運の尽き。
「隙あり!」
男の背後の地面から飛び出したのは、黄雲だ。木剣を頭上高く構え、落下の勢いに任せて男の脳天に叩きつける。
「なんのっ!」
しかし切っ先は覆面に届かず。男は迫る刃を白刃取り、ギリギリと二人はそのまま睨み合った。
「くっそぉ……女の子ならともかく、何で男が追ってくるんだよ! なにお前そういう趣味!?」
「馬鹿野郎! 金のためだ、金のため!」
減らず口を叩き合いながら、黄雲は思考を巡らす。
木剣の刀身を受け止めている覆面男の両手。彼から木氣は漏れ出しているが、桃の木剣は先刻の桜のように、急成長する気配はまったくない。
黄雲がこの男をここまで追いかけることができたのは、彼から漏れ出る木氣を地中から探知してきたからだ。黄雲は土の氣と相性が良く、ゆえに地中を移動する地行術は得意な術のひとつだった。
氣とは簡単に言えば、道術を使うための体力のようなもの。各個人によって質も違えば容量も違う。目の前の男はどうだ。
清流堂で爆発的な木氣を披露した後、逃げながらさらに氣を撒き散らし、にも関わらずいま目の前でピンピンしている。
とんでもない量の氣を秘めているのは間違いない。
ただし重大な弱点がある。それは……
「お前、道術は素人だな!?」
「そうだけど?」
黄雲の指摘に、覆面はけろりと答える。
「さっき言ったじゃん。最近覚えたばかりってさ。でもさ……」
男は目を細めて黄雲を睨む。
黄雲の視界の隅に何かが見えた。地面にいつの間にか刺さっている、あれは……
「いつの間に……!?」
地面に刺さっていた棒手裏剣が、再び樹木へと急成長を遂げる。今度はただ成長するだけではない、伸びていく枝はメキメキと音を上げ、黄雲へ迫った。
「ちっ、まだこんな氣力があるか!」
「素人だからってなめんなよ?」
覆面男は、紺色の手甲に覆われた指をくいっと上に持ち上げた。それを合図に。
「うわっ!」
さらに速度を上げ、標的に迫る桜の枝。
四方八方から迫る枝に雁字搦めにされ、黄雲は逃走抵抗むなしく、あっけなく身動きを奪われた。
捕らえられた少年の視界はくるりと回り、天地がひっくり返る。
「なあなあ、素人とはいえここまでやれんの凄くねぇ?」
「こんにゃろ……」
黒みがかった枝に巻きつかれ、空中で逆さ吊りになっている黄雲。それを眼下から男が嗤う。三白眼はにやにやと、心底愉しそうに歪んでいた。
「さーてと、邪魔者も片付けたところで、俺様は純朴な村娘を……」
くるり。覆面男は後ろを振り返り、再び走りだそうとする。
「むふふ、じゃあな! 今度こそあばよ!」
「おい待てよ!」
ヒャッホウと走り出した男の足元、地面が盛り上がり大きめの石を押し出す。見事にそれに引っかかって転ぶ覆面男。
すってんころりんと一回転。男は盛大に前方にこけると、足を上に、胴体を下にしたくの字の姿勢で動きを止めた。
「いっつぅ……」
「いやいや、助かったわ。盛大に油断してくれてさぁ!」
清流堂での覆面男の台詞を横取りしつつ、黄雲はふんぬと丹田(ヘソの下あたり)に氣を込めた。
と、周囲の桜の木々がビシビシと音を上げ、急速に枯れていく。樹皮の下の水分と養分を一気に引き抜かれたように、木々は枯葉を散らし朽ちていった。
一瞬の出来事。
幹は倒れ枝は折れ、解放された黄雲はひらりと無事に地へ降り立つ。
今度は覆面男が驚く番だ。
「なっ、木氣は土氣に強いはずじゃ……!」
男の言うことは間違ってはいない。
木・火・土・金・水の五行の力は、それぞれがそれぞれに、様々な影響を与えることでこの世界を形作っている。
各要素間には相性があり、大地に根を張り養分を吸いとる木は、土に強い。しかし硬く鋭い刃には切り倒されてしまうため、金に弱い。
木が土に剋つことは、道術を学ぶ者なら当たり前に知っていることだ。男はこの相剋関係を念頭に置いていたのだろうが。
「そこが素人だっつってんだ。逆転することもあるっての、トーシロめ!」
黄雲の言う逆転とは。
本来ならば木が土に強いという関係性。しかし土の勢いが木氣を凌駕するほどに大きい場合、本来の関係を覆してしまうことがあるのだ。
つまり、覆面の発する氣を上回る力を発し、桜の樹木群に過剰すぎる氣の供給をして枯らせしめたというわけだ。
「うっそマジか! そんなことあんの!?」
「いやお前の目の前で起きただろーが!」
術を破られたにしては緊張感の無い覆面男だが、さすがに驚いたらしい。ギョロ目をぱっちり見開いている。
「えー、ちょっと待って。見逃してくれたり……?」
「するかボケ!」
ちょっと上目遣いのムカつく視線を送る男へ、黄雲は容赦なく木剣を振りかぶった。
「うらっ!」
「おっと」
氣力は無くとも体力は未だ充溢しているようだ。男は難なく得意の曲芸じみた動きで躱す。
黄雲は男の背後に土塊を盛り上がらせた。そのまま男の方へ倒して動きを止めようとするが、覆面男の素早さは伊達では無い。
「ほいっと」
軽く身をしならせて土砂を避ける。
道術では遅すぎる。そう悟った黄雲は、道術を避けたばかりの背中へ木剣で殴りかかった。
「ぬるいわっ!」
覆面は再びの白刃どり。しかし木剣の持ち手の姿は既に無く。
「そっちがだろっ!」
土中から現れ、男の足首を掴む少年の手。「おひゃっ」と間抜けな声を上げながら、覆面男はひっくり返った。
黄雲この機を逃すまいと、必死で標的を掴んで土に引きずり込む。
男も男で、必死の抵抗だ。紺色の服を下方へ引っ張る手を引き剥がそうと悪戦苦闘。
傍から見れば、男二人が休閑地の畑でくんずほぐれつの異様な光景。目撃者がいなかったのは、二人にとって幸いだったかもしれない。
「よしっ、捕まえたぞ金一封!」
見苦しい戦いの末、相手の背後にまたがり両手を締め上げたのは、黄雲だ。
懐から捕縛用の縄を取り出そうと、片手で男の両手を封じるように持ち替える。
「く、くっそぉ……!」
覆面の中、三白眼は悔しそうな色をたたえる。
ふと、その紺色の懐からぽろりと小さな何かが落ちた。黄雲は縄に夢中で気付かない。その小さな何かが芽吹いたのにも気付かない。
「……なんだ?」
少年が膝をもぞもぞとまさぐる感覚に気付いたのは、後の祭りだったのかもしれない。
気づけば膝下にまとわりつく、植物の根。
「おまっ、しぶといぞ!」
「るっせえ! 男に捕まるなんざ死んでもごめんだ!」
黄雲の足を締め上げる根は瞬く間に成長を遂げ、最初は糸のようだったそれが長芋のような太さに育つ。さらに葉はわさわさと繁り、黄雲の姿はすぐに緑の茂みで隠れてしまった。
「それは葛」
黄雲の手から逃れ、茂みから這い出した男が言う。
さすがに氣を消費したのか、覆面の下に疲労が伺える。顔を覆う紺色の布は、汗で肌に張り付いていた。よっこらせと、立ち上がるのにも苦労するほど消耗している様子である。
「俺の国でも特別繁殖力の強い植物だ」
それが聞こえているのかいないのか、黄雲は氣を強めた。
「…………!」
少年の氣脈は既に乱れ、底を尽きかけている。先ほどは一帯の桜を枯らした術だが、今度は効いた気配が無い。緑の茂みはただただ大きさを増すばかり。
「バカめ、いくら氣を練っても無駄だぜ。言っただろう、繁殖力が強いって」
どうやらこの植物相手には、いくら氣を放出したところで、全て繁殖力に還元されてしまうのがオチらしい。
桜のように枯れてくれない。ならば。
黄雲は懐から小刀を取り出した。道術使わずとも、刃物でさくさく切ればよろしい。
「おいクソ覆面!」
黄雲は茂みから這い出した。一番太い茎を切ったものの、まだ足には太い根が絡みつき、氣を吸い取り続けている。
やっとこさ立っているような、そんな少年に、覆面はもはや呆れのため息しか出ない。
「なに、まだやんの? ってか俺、そんなに懸賞金かかってんの?」
「賞金の過多じゃない!」
ひと呼吸おき、黄雲は冷や汗まみれの顔に不敵な笑み。
「銭がもらえる、それだけよ!」
「呆れたやつ! もういいや、いい加減疲れたし。さっさと息の根止めてくれようクソガキめ!」
お互いに疲労困憊。
次の一撃でおそらく勝負が決まるだろう。
じり、と少しずつ距離が縮まる。
「覚悟っ!」
同時に踏み出したときだった。
「黄雲くーん!」
「えっ」
黄雲は思わず立ち止まってしまった。聞き覚えのある、ここに響いてはいけない声が聞こえたからだ。
「黄雲くーん! 清流先生を連れてきたよー!」
あぜ道をほわほわとした足運びで走ってくるのは、清流堂で留守番しているはずの雪蓮だ。運の悪いことに、黄雲の前方、覆面男の背後方面の道から走ってきている。
清流を連れてきたと言うが、周辺にそれらしき姿は見えない。
いや、いた。
雪蓮の背後のあぜ道に突っ伏して、また寝ゲロしている。
「あんのお嬢さんにクソアマは!」
「おお! おんなのこ!」
条件反射なのか。女子を確認するや否や、覆面は黄雲のことなど忘れたように駆け出した。
駆け出しつつ、懐に手を忍ばせて。
「よっしゃあ! 裸祭り再開じゃあ!」
「まだ持ってたのかよ!」
繰り出される棒手裏剣。投げ出された二本の暗器が、雪蓮を狙う。
「お嬢さん!」
黄雲の脳裏には己の末路が浮かぶ。
城外の農地で素っ裸にされるご令嬢。ブチ切れる知府夫妻。そして亮州城の広場にて、揃って首切り刀にうなじを差し出す清流師弟。
「やめろーー!!」
真っ青になって叫ぶ黄雲の目の前で、雪蓮は……。




