1 鳥籠(※挿絵あり)
元始
先ず虚無ありて
後に太源の龍あり
かの龍が気息より
陰陽あらわれ
五行あらわれ
天地乾坤
森羅万象
かく宇内に満ち満ちる
人獣草木 万物死した後
魂魄は九天を昇り
太源へ還る
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そこまで読んで、彼女は書物にしおりを挟んだ。
母親にしっかり熟読するよう言いつけられた本の頁は、まったく進んでいない。進んでいないどころか、読んだのはたったの一頁のみだ。
無理。無理無理。むり!
少女は閉じた本の表紙へ突っ伏した。恋愛小説や冒険活劇は大好きだが、こういう堅っ苦しいのは大の苦手だ。
しかし大変残念ながら、少女はこの堅苦しい書物を読み通さなければならない。それが彼女に課せられた使命。
熟読、理解。そして闊達に軽やかに、かつ仰々しくもいとやんごとなき文体で、切々と丹念に感想文をしたためなければ、彼女の母親はきっと納得しないだろう。
顔を上げ、机上に鎮座している分厚い本の表紙を見つめる。窓枠の形の影の下、『霊秘太源金丹経』と物々しい楷書の題名がなんとも恨めしい。
「雪蓮、入るわよ」
彼女に苦行を強いている張本人が、娘の返事を待たずに部屋へ入ってきた。進んでいないしおりをさっと右手で隠し、彼女は母へ視線を向ける。
「あら、さっそく読んでいたのね。感心なこと」
「ええ、お母さま」
曖昧な笑顔をとっさに作り、少女――雪蓮は応えた。実母でありながらその当人に対し、このところちょっと苦手意識が強まっている彼女である。
「崔家の娘として、しっかりとした知識教養を身につけなくてはね」
「はい、お母さま」
「それでは、わたくしは街へお芝居を見に行ってくるわ。夕刻の鐘が鳴るまでには帰ります」
言うなり母は踵を返し、さっさと行ってしまった。それはもうウキウキと、楽しげな様子で。一階への階段を下りる足音すら、浮ついているようだ。
残された娘。部屋には午後の陽光がうららかに差し込んで、窓の外からは小鳥のさえずり。
のどかな春の昼下がり。しかし雪蓮の心中はのどかではない。
お母さまばかり、ずるい。
令嬢はご機嫌ななめだった。
不機嫌の原因はふたつ。もちろん先のやり取りの通り、難解書物の読破に感想文執筆という宿題を課せられていることがまずひとつ。
もうひとつは、彼女が十三年の生涯の中で一度たりとも、この屋敷を出たことがないという事実に起因していた。
崔雪蓮。十三歳。
肩までの豊かな黒髪に、同じく真っ黒な愛らしい瞳。花のかんばせ。年齢相応の華奢な肢体。
容姿はそこそこ整っているものの、だからといって飛び抜けて美しいわけでもなく、その辺の市井にいそうないたって普通の少女である。ただひとつ違っていたのは、彼女が亮州知府、すなわちこの街一番の権力者の娘だということ。
そんな彼女のことを、母親はたいそう案じていた。もし屋敷の外で暴漢にさらわれてしまったり、乱暴されてしまったらさあ大変。
じゃあ屋敷から出さなければいいわなんて、とてつもない短絡的ご配慮により、彼女の人生は十三年間まるまる亮州知府邸に閉じ込められていた。
何度か街へ行きたいと訴えたこともあった。一昨年までは六つ離れた姉もともに立ち向かってくれていた。しかし母という牙城は堅牢だった。
いつしか姉は嫁に行き、雪蓮は孤立無援となった。
友軍を募るも、成果は芳しくなく。
父は優しいが多忙。同じ屋敷に住んでいながら、あまり顔を合わせることがない。
四つ上の兄は自ら屋敷に引きこもり、勉学に励んでいる。閉じた日常を甘受している彼が、味方になろうはずもない。実際相談しても鼻で笑われたものだ。
侍女や下男はもちろん母の味方である。ああ四面楚歌。
知府の屋敷ともなれば、庶民の家屋に比べるまでもなく、とてつもなく広い。城下の民からすると羨望の的だ。しかし雪蓮に言わせてみれば、何の制約もなく自由に世間を歩き回れることは、四方千里の庭を持つが如しである。
ああ、街へ行ってみたい。きっとお店がいっぱいあるんだわ。なにを売っているのか皆目見当もつかないけれど。
そして人がたくさんいて、私と同じ年頃の子どももいて、見たことのないものがたくさんあって。そしてきっと、路地裏や雑踏の中に冒険や恋がわんさか転がっている。
(それから仙人さまがお空を飛んでいて、龍が火を吹いてて、見目麗しい殿方であふれていて……)
あまりにも世間を知らない雪蓮の頭の中で、外界はとんでもないことになっていた。恋愛物や冒険譚を好む読書生活の賜物である。
「はぁ~あ」
どんなに想像しても、行くことあたわず。思わずため息も出るというもの。娘には禁止しているにも関わらず、自らは平気で街へ出かけていく母が、うらやましくて恨めしい。
脳裏で繰り広げられる街のざわめきと、小鳥の鳴き声以外、音の無い現実の部屋。両者の隔絶が胸に迫る。
「行ってみたいなぁ……」
ぽつりとこぼしてみる。誰も応える者はなし。相変わらず小鳥のさえずりばかりが賑やかだ。
ふと、先ほど出て行った母の顔が思い浮かぶ。なんと楽しげなことだったろう。普段は冷厳な母を浮足立たせるほどに、外界はきっと魅力に満ちている。
そんな外の世界への憧れが、胸中にとめどなくほとばしる。十三年という長きに渡りためこんできた憧憬は小さな胸の内で蓄積され、発酵し、いまやいい塩梅に膨張していた。それはもう張り裂けんばかりに。
そして今日この日。憧れはついにパチンと弾けた。部屋を見張る者が誰もいないと気付いた瞬間に。
雪蓮は換気のために窓を開けるふりをして、彼女の部屋近くまで枝を伸ばしていた樹へ一躍し、屋敷の外周を巡る塀を足掛かりに敷地外の地面へ飛び下りると、猫のように去って行った。
小鳥のはばたき以外に、彼女の出奔を知らせるものはなし。
侍女たちが異変に気付くのは、しばらく経ってのことだった。