2 囮
「とんでもないことになったもんだな」
街を歩きながら、黄雲は傍らの遥へ語りかけた。
清流堂の門前に半裸の女性がいたのが、三日前のこと。
雪蓮が着る物を渡し、しばらくして彼女が語った事件のあらましは、不可解なものだった。
「さっき、たまたまそこを通りかかったんです。そしたら急に服が破れちゃって……びっくりしてうずくまってたら、目の前に……」
彼女の目の前に忽然と現れたのは、いかにも怪しげな黒ずくめの人物。
足の先からつむじに至るまでが全て黒。覆面に覆われた顔は、目の部分だけが露出していたそうだ。
その不審者はぎょろっとした目を彼女に向け、手を伸ばせば触れられる距離に近づいて……
「ただ見てるだけなんてな。何がしたかったんだ?」
「さあ」
うら若い女性があられもない姿を目の前で晒しているにも関わらず、その黒い人物はただ見つめるのみ。狼藉を働くどころか指一本触れなかったらしい。その後、門から現れた黄雲と雪蓮に気付き、姿をくらましたとのことだ。
女性には衣服を貸し与え、無事自宅まで送り届けたのだが。まさかこれがほんの序の口だなんて、この時は誰も思わなかった。
その日の晩からだった。衣服切り裂き事件は、いっそう多発し始めた。
被害者は全員女性。一番下は十一歳、上は八十五歳が狙われた。今日にいたるまでに四十八人が被害に遭っている。
「仮にスケベ心でやってるんだとしたら、とんでもない守備範囲だよな」
「ババアにもよくじょうするってことだしな」
八十五はないわー、と遥。買い出しついでの世間話は淡々と進む。
「なんかさ、おんなのひといなくなったよな」
「そうだな、むさ苦しいな」
市場に視線を巡らしながら二人は言う。事件の影響か、女性は外出を控え、外を歩くのは男だけになってしまった。心なしか街の空気が臭い。
おばさんたちの社交場、井戸端にも女性の人影はない。街から女っ気がなくなると、何となく寂しいものだ。
雰囲気に華が無くなるだけではない。黄雲にとっては由々しき事態である。何と言っても、客が減るのだ。
女性、とくにおばさん連中はいいカモだった。口八丁手八丁で調子よくお肌のハリなんか褒めれば、男の客より大目に護符を買ってくれる。
だからこの三日、黄雲の商売はめっきり実入りが少なくなっていた。だから内心面白くない。
「哥哥、そろそろ帰らなきゃ」
「分かってるよ」
鬱々とした気分のまま、黄雲は帰り道の方向へ足を向けようとする。
けれど。
「待ってくれ遥、ちょっとあっち見てきていいか?」
「なに? 銭でもころがってた?」
「ああ、転がってそうな気配だな」
舌なめずりするように彼が見た方向には、黒山の人だかり。人多いところに銭はあり。具体的には落とし銭。
まあ落とし銭も気になるが、一番関心があるのはこの人だかりの理由だ。人々は市場の少し開けたところにどよどよと集っていて、何かを見ようとつま先で立ったり跳ねたりしている。
「ちょっと失礼」
遥に荷物の番をさせ、黄雲は群衆に首を突っ込んだ。周囲は背の高い大人ばかり、黄雲は人と人との間隙を縫うようにして、人だかりの中心部に辿り着いた。
「これは……」
人々の中心にあったのは、立札だった。この国は字の読めない者も多いので、字が分かる者はその内容を音読して周囲に聞かせていた。ただ、こうも人、それも男が集まってあちこちで野太い声を出していると、重なり合って結局何を言っているのかさっぱり分からない。
黄雲は問題なく字が読めるので、黙読で内容をさっと読み取った。
『近頃世間を騒がせし、女人目当ての覆面切り裂き魔 捕縛せし者に金一封 亮州知府 崔伯世』
金一封! 寂しい懐にさわやかな風が吹いたようだ。
黄雲はにやりと不敵に笑うと、人だかりを抜け出し、遥を連れて家路を急いだ。
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「通り魔退治?」
「ええ。あなたのお父上が褒賞をくださるそうなので」
夕餉が終わった後のひと時。部屋には黄雲と、食後も暇そうに椅子に陣取っている雪蓮のふたり。
卓の上で道術の道具をそろえながら、黄雲は張り切っている。対面に座る雪蓮はその様子を見つめて、「ふぅん」と不服げな声を出した。
「ねえ、黄雲くん」
「なんです?」
「どうして私は街に行っちゃいけないの?」
彼女の問いに、途端に黄雲は仏頂面。じとっと責めるような目が雪蓮を捉える。
「あのね、お嬢さん。師匠から最初に説明があったでしょう、あなたは物の怪に狙われやすいんです!」
「むー」
謎の物の怪に取り憑かれて以降、雪蓮には外出禁止令が下されていた。十三年間一所に閉じ込められていた彼女が、その決定をすんなり承服するわけもなく。
彼女は事あるごとに、清流や黄雲へ街へ出たいとせがむのであった。
下手すると喰われますよ、と脅かす黄雲に、彼女はまだ納得できない様子。そんな少女に若干のいらつきを見せながら、少年は続ける。
「大体ね、今だって通り魔事件で女性の外歩きは危険なんです!」
「でも襲われても怪我しないって」
「例え怪我しなくても、その……は、裸にされるんですよ?」
黄雲の諫言に、少々照れが混じる。三日前の門前で見た光景は、年ごろの彼には少し刺激が強かったのかもしれない。
「そんなことになったら僕、あなたの御母堂に殺されます」
「お、お母さまは……そんなこと……」
するのかなぁ。
雪蓮の言葉尻は、気弱に消えていく。
「ともかく! この話はもうおしまいです!」
「むむぅ……黄雲くんのケチ」
「ケチで結構!」
言い切る少年。雪蓮はつまらなさげに、卓の上に顔を伏せた。
「……ねえねえ、聞いてもいいかしら?」
「ちょっとは黙ってられないんです?」
暇を持て余した少女は止まらない。げんなりする黄雲などに構うことなく、好奇心の赴くまま、興味のままに問い続ける。
「例の通り魔だけど……どうやって退治するの!?」
「どうやってって……」
問われてやっと、黄雲は気付いた。自分が特に作戦を立てていなかったことに。
(そういえば考えてなかったな、まずはどうやって奴に接近するか)
「あ、そうだ」
思案してポンと手を打ち、不敵な笑みが雪蓮へ向く。
「囮を使えばいいんですよ。ちょうどうちには上玉がいますし」
「上玉……?」
己を見つめて発せられる「上玉」なる単語。
えっ、そんな! と雪蓮は内心戸惑う。
さっきは通り魔に狙われるからと外出を拒否したにも関わらず、まさかそんな――。
目の前の少女の懊悩いざ知らず。
「じゃ、明日にでも作戦決行ということで」
黄雲は丹薬や札をそろえると、さっさと席を立って部屋を出るのだった。
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翌日。
目の前の光景を、雪蓮は複雑な心境で見ていた。
「ぐぅ……ぐぅ……んぐぁっ」
清流堂の裏手。堂を囲む塀と水路との間に、狭い通路がある。
その通路に大の字になって寝ているのは、清流道人その人だった。とても女人が発するとは思えぬいびきが、あたりに響き渡っている。
「いやぁ、クソ師匠が仕事もせずに日がな一日寝てるのが、まさか役に立つとはなぁ」
「…………」
黄雲と雪蓮は、塀の内側からこっそりと、路面に寝ている道人を眺めている。
数日前に知府邸の様子を見に行ったきり、仕事らしい仕事をしていなかった清流。毎日酒を飲んでは寝、飲んでは寝という自堕落に身を浸していたところを弟子に利用されたのだ。ちなみに黄雲、師が数日前、既に切り裂き魔の被害に遭っていることを知らない。
昨晩眠れなかった雪蓮は拍子抜けである。
「上玉って、こっちのこと……」
「えっ、何が?」
雪蓮のつぶやきは、残念ながら隣の彼には伝わらなかった。
あられもない姿の清流を路上に放置してから三刻ほど。
「……こないね」
「きませんね」
ホシはなかなか現れない。ただただ清流が気持ちよさそうに寝ているだけである。
と、そんなとき。
「うゲボっ」
「あっ」
「あちゃー……」
見目麗しい清流道人、路上で寝ゲロ。
「あーあー、濁流の口から濁流が」
あんのへべれけがと黄雲、揶揄はするが介抱する気は全くない。隣では雪蓮が「大変大変!」と慌てていて、当の濁流はまだ濁流を流し続けている。いくらなんでも飲み過ぎだ。
「黄雲くん! 介抱して差し上げないと!」
「えー? 面倒くさい……いいですよほっといて」
「お師匠さまでしょ!?」
「えっ、そうなの?」
突然ふたりの会話に、第三者の声が加わった。
はたと声のした方を向く二人は、目にする。
「あんな美人がお師匠さんかー、マジ羨ましいんですけどー」
「お、お前……!」
「ゲロまみれでもいけるなぁ、俺」
うんうん、と歪んだ性癖の片鱗を見せるその人物。
黒、というよりは紺色一色の装束に身を包み。顔には同じく紺色の覆面、そこから覗く瞳はぎょろっとした三白眼。
すぐ近くの塀の上にしゃがみこみ、目じりをいやらしく歪めながら清流を眺めるその男こそ、間違いない。
「いたーーーー!!」
「変態切り裂き魔だーーーー!!」
思わず叫ぶ二人にハッと視線を向け、「やっべバレた!」と覆面男はつぶやいて一躍、宙返りして塀から堂の屋根へ飛び移る。
軽々とした身のこなし。圧倒される少年少女。
「ばれてしまっては仕方がない……」
覆面男は何やら格好つけている様子でこちらを見下ろしている。
「いい加減ぬるい捕り物には飽きてきたところ! いざ美人でゲロまみれのお師匠をかけて、尋常に勝負!」
「いらないしやるよ……」
何だかやる気満々の覆面男に、さっそくノリについていけずげんなりの黄雲。そしてただひとり、真面目にハラハラ成り行き見守る崔雪蓮。
え、なにこれ戦うの? と展開についていけない黄雲に、勝ち目はあるのか、明日はどっちだ。




