1 桃色通り魔大事件
「通り魔?」
野菜を切る手を止めて、黄雲は振り返った。卓には逍、遥、遊、そして雪蓮が並び、食事が出されるのを待っている。
雪蓮が清流堂で生活するようになり、およそ十日ほど経ったある朝のことだ。
子ども達が話す街のうわさ話に、黄雲は太い眉をしかめている。
「またそりゃ物騒な。どの辺りの話だ?」
「西丁路! 女の人が襲われたんだって!」
椅子をガッタンガッタンさせながら話すのは、女の子の遊だ。遊の返答に黄雲は「あの辺は行かないなぁ」と、包丁で再び野菜を刻み始める。
清流堂の朝は、毎日黄雲の料理から始まる。最初は「殿方が料理なさるの!?」と驚いていた雪蓮も、彼の味付けにだいぶ慣れてきたところだ。ちなみに清流道人が料理の腕を振るう姿は、ついぞ見たことがない。
「もうこれで五人目らしいよ」
遊はまだ通り魔事件の話題を声高にしゃべっている。その内容に、雪蓮は「まあ」と上品に眉をひそめた。
「心配だわ。皆さんご無事だったのかしら……」
「えーとね、けがはなかったそうだよ!」
遊の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。しかし幼子の表情は明るいものではなく。
「んー、でもね。無事だけど無事じゃないっていうか……」
「どういうこと?」
「できたぞー」
なぜか赤くなって口ごもる遊の目の前、卓上にドンと運ばれる皿の数々。
閑話休題。話題は朝食に持って行かれた。
今日の朝餉は、青菜の入った粥に白菜をくたくたになるまで煮込んだ汁物、それから市場で買ってきた油条(揚げパンの一種)だ。
「えー、またお粥〜?」
「こら、ワガママ言うんじゃない!」
子ども達は不服そうだが、雪蓮はこの絶妙な塩味の効いた朝粥が、毎朝の楽しみである。
「ねえ、もう食べてもいいかしら?」
「お好きにどうぞ」
黄雲のそっけない返事を聞くや否や、雪蓮はうきうきと匙を取った。
その時。
「きゃああああ!」
絹を裂くような悲鳴。清流堂の前の路地からだ。
「なんだなんだ?」
突然聞こえた女性の悲鳴に、黄雲たちは慌てて席を立つ。
雪蓮も朝食に一抹の名残惜しさを感じながら、堂の外へ出て行く彼らに続いた。
清流堂の門前。そこで一同の目に飛び込んできたものは……
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「ふぅむ」
清流道人は現場を覗き込み、顎をさすりながら唸った。
目の前には一軒の四阿。崔家の庭園と燕山を区切る塀を、一部切り取るようにして建てられていた。
「これはいけませんな」
屋敷修理の人足達に背を向け、清流は崔知府を振り返った。
ここは崔家庭園。北側、以前大猪に破壊された塀の付近である。
「ここの塀の中には、魔除けの呪いをかけた石杭を使っていたはず。塀がひとつなぎになっていなければ効力を発揮しませぬ」
「なんと……」
彼女が言いたいのは、塀を切って余計なものを作ったがために、魔除けの効力が無くなったということだ。守りが厳重なままであれば、燕山の化け猪も山から降りてくることは無かった。
清流は四阿の柱をポンポン軽く叩きつつ問う。
「この四阿はいつ頃?」
「ええと、一年ほど前だったか……家内が庭園散策の休憩所が欲しいというものでな」
「ほう……」
何を考えているのか、清流は四阿の軒先をじっと見つめている。しばらく経って、なんでもないような口調で知府に注文をつける。
「伯世殿。この四阿はすぐに取り壊してください」
「な、なんだって!?」
「魔除けを繋げて塀を修理せねばなりません。四阿は別のところに作ればよろしい」
ごく簡単に言ってのける清流に、知府はがっくりうなだれる。どうも結構な額をこの四阿の建設に投じていたようだ。
「それはそうと清流殿」
話題を切り替えて。崔知府が切り出したのは、愛娘の雪蓮のことだ。
「雪蓮はその……元気でやっているでしょうか?」
彼ら親子は、あれ以来顔を合わせていない。上品に整えられた知府の髭も、心配そうな形に曲がっている。
「そうですな。今の所、身中の物の怪による異常はありませんが……父上と母上を思って、寂しがっておられますよ」
「そ、そうか……」
知府の口角が、ほんの少し嬉しそうに微笑む。
清流、嘘を言った。雪蓮は毎日毎日、朝昼晩と食事もしっかり食べれば夜はよく眠り、堂内を勝手にうろついては黄雲に叱られたりしている。好奇心の赴くままに元気に過ごし、両親を思って涙するような繊細さは微塵も感じさせなかった。
それをそのまま知府に伝えれば、どんな顔をするだろう。
嘘も方便。清流は微塵も顔色を変えずに、けろりとしているのだった。
しかし真実の部分もないではない。雪蓮に巣食った怪異は、今の所特段何をするでもなく、彼女の中にただ居座っているだけのようだ。
あの夜、雪蓮の中を探り込んだ際。怪異の片鱗に触れたものの、それを捕らえることは結局できなかった。
「崔知府! 崔知府!」
清流の思考は、遠くから知府を呼ぶ声により妨げられた。
屋敷の方から手を振り現れるのは、武装した男。簡易な鎧を身につけて長刀を腰に提げ、大柄な体を揺さぶるようにしてこちらへやって来る。
「王都頭!」
都頭というのは、街の治安を守る役職だ。職務上、武芸に長けた手練れが多い。
「やつが、やつがまた現れました!」
「やつ……例の通り魔か!」
「通り魔?」
やけに物騒な報告を持ってきた王都頭に、清流は問いたげな視線を向ける。
「ご存知ないか、清流殿」
問いに答えたのは崔知府だ。
「最近西丁路で多発している事件だ。被害者は女性ばかりでな……」
「西丁路」
西丁路は、女性ものの呉服屋が多いことで知られる街筋だ。自然、女性が多い場所でもある。
「それはそれは物騒なお話で。犠牲者はいかほど?」
「それがな、清流殿。犠牲者や怪我人は出ておらなんだ」
「ほう?」
犠牲者のいない通り魔。清流のしたり顔にも興味の色が湧く。
「被害者は皆、突然斬りつけられたと言うのだが、斬りつけられたのが、その……」
知府も王都頭も、そこで急に口ごもる。そして何故か顔を赤らめる。
黙っていては分からんではないかと、清流が言いかけたとき。
ヒュッと何かが風を切る。清流の目の前をかすめていったそれは、どうやら彼女の足下に落ちたようだ。
おや、と思ったのもつかの間、今度は腰に巻きつけた帯がはらりと落ちる。
「その、衣服のみを斬られて……素っ裸に……」
言葉の続きを言う知府たちの目の前で、清流の長衣がするりと脱げた。
「おっふ!」
男の性は悲しいもの。思わず見てしまう崔知府に王都頭。
さらには。
「おおお!」
まわりで作業をしていた人足まで集まってきて、周囲は大混乱。
「あいやぁ……これは一体」
自らに集まる好色の視線を気にする素振りもなく、清流は地面に落ちた衣の側にしゃがみこんだ。
目の前。鋭い角度で地面に刺さっているものは……
「木の、枝?」
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場面は再び清流堂の門前。
門から勢いよく飛び出した黄雲は、なぜかすぐに勢いよく門の内に取って返した。
「ちょっとちょっと哥哥!」
それを見とがめた逍が、母屋に駆け戻ろうとした黄雲を無理矢理引き留める。
「なんで帰っちゃうんだよ! 女の人が危ない目に遭ってるかもしれないのに!」
「ダメ! 僕無理!」
「ねえ、どうしたの? 無理ってどうして?」
雪蓮も尋ねてみるが、少年は顔を真っ赤にして無理を連呼するばかり。
仕方ない、と彼女が門から顔を出して見たものは。
その場にうずくまってさめざめと泣いている、妙齢の乙女と。
目撃者に気付いたのか、慌てて走り去っていく黒い人影。
門前で泣きじゃくっている彼女、着物を裂かれほとんど裸に近い状態だった。