5 清流堂へようこそ
彼らは市場を歩き、大通りを歩き、路地裏を歩き。
過ぎていく街並みは華やかだったり賑やかだったり、はたまた物寂しかったり。
周囲の風景を、雪蓮は興味津々の色に染まった瞳で、きょろきょろ見渡しつつ歩いた。
先ほど、自らの内にいずれ命を脅かす物の怪が潜んでいると告げられた時は、少なからず衝撃を受けたものの。今の所身体に変わったところはなく、正直実感の無い彼女である。不安は無いでもなかったが、待望の街歩きを果たした今、雪蓮の心中はわくわくと浮き立つ好奇心で満たされているのだった。
広い広い亮州の街を歩き続け、正午近くなった頃。
とある路地に入ってすぐ足を止め、清流道人が振り返る。
「着いたぞ」
雪蓮は足を止め、目の前にそびえる建物を見上げてみた。
古びた門には『清流堂』の額が掛かり、奥に見える建物もまた古びている。
装飾の簡素な柱に支えられた正面の建物は、おそらくこの廟の本堂なのだろう。開きっぱなしの扉の奥に、優しげな眼差しの老爺の像を見ることができる。
本堂の手前、広めの庭を挟んで左右には、それぞれ住居と思しき建物が向かい合っている。どの建物もこじんまりとした、質素な造りだった。
ぼんやりと、これから住むことになる建物を眺める少女を差し置いて、清流は門より内へ大声を張った。
「おーい! 帰ったぞー!」
しばらくして、門からぴょこぴょこと顔を出したのは、
「おかえりなさい、清流先生」
三人の幼い子どもたちだ。
「やあやあ清流先生のお帰りだぞ。はっはっは」
清流は上機嫌に大股歩きを披露しながら、子どもたちの脇をすり抜け門をくぐる。
「遠慮はいらないよ。さあ上がりなさい」
道人はにっこり顔を振り向かせ、雪蓮を手招きした。
「お邪魔します……」
自分の屋敷以外の場所を訪問するのは、初めてだ。雪蓮はおっかなびっくり、門の下を通る。そんな彼女を目で追いながら、子どもたちは「だれ?」「だれー?」の連呼。
「…………」
雪蓮の後に、黄雲がだんまりを決め込んだまま続く。子どもたちのうち一番年長の少年が、最後に通る黄雲に目を留めて曰く、
「あれっ、哥哥。頭のかたち変わった?」
「……ちょっとね」
師匠の鉄拳制裁が効きすぎたのだ。加減を知れクソ濁流、などとぼやきながら、少年は雪蓮の後に続いて母屋に入って行った。
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「さて、そういえばちゃんと自己紹介をしていなかったね」
母屋の中でも広めの一室。雪蓮へ椅子を勧めて、清流は彼女前方へ立つ。脇にはぶすっと不機嫌な黄雲が腕組みして控えていた。
「私の名は清流。この堂の主で、この黄雲の師をしている」
言いながら、清流はポンポンと隣の黄雲の頭をたたく。まだ脳天の痛みが残っているらしい黄雲は、本気で嫌そうに師を睨んだ。
「で、こやつが我が弟子・黄雲だ。既にお気づきかと思うが、がめつく強欲なクソ餓鬼よ」
「人のこと言えた口ですか、飲んだくれのクソ外道」
「おお、そうだそうだ!」
言い返す弟子の頭をグリグリと抑えつけ、清流はさわやかな笑顔を部屋の戸口へ向けた。
「お前達も入ってきなさい。こちらのお嬢さんにご挨拶を」
その言葉が終わるや否や、戸口からぞろぞろ、先ほどの三人の子どもたちが現れる。男の子が二人、女の子が一人。
「えっと、逍です……」
「遥……」
「遊!」
一番年かさの男の子が逍。七歳くらいの男の子が遥。そして、お団子頭の一番幼い女の子が、遊。
「皆、我が清流堂の家族だ。宜しく頼むよ」
笑って締めくくる清流。どうやらここにいる五人が、このお堂に住む全員のようだ。
紹介を受けて、雪蓮も慌てて居住まいを正して言う。
「あ、あの! 初めまして、崔雪蓮です! これからこちらのお堂でお世話になります、よろしくお願い致します!」
子ども相手とはいえ、これからお世話になるお宅の家人。しっかり礼を尽くさねばと丁寧な挨拶を頑張ってみたものの。
「ねーねー、今日からここに住むのー?」
「なんでー?」
「え、ええと……」
子どもたちにとっては、礼儀正しくなんてどうでもいいことだ。無邪気に無遠慮に、雪蓮へ質問がぶつけられる。
「ねえねえ、なんでー?」
「あー、遊わかったー!」
遊が幼い顔におしゃまな笑みを浮かべる。
「哥哥のコレでしょ」
そして右手の小指を突き立てる仕草。
雪蓮は知っていた。その仕草が何を意味するか。屋敷にいた噂好きの侍女の井戸端会議で、何度か目にしたことがある。
「ち、ちがいます!」
少女は声を荒げるが、子どもたちは動じない。むしろ彼女の反応に、さらに好奇心を煽り立てられたようで。
「ひゅーひゅー! 隠さないで言っちゃいなよおねーさん!」
「クソ野郎にも春はくるのね!」
「祝言じゃ! あソレ祝言じゃ!」
「だ、だからちがっ……!」
ちがうんです、恋人なんかじゃないんです。
その一言を言いたいのに、子ども達の白熱っぷりがそれを許さない。
当の黄雲に助けを求める目線を送ってやっと、彼は「仕方ありませんね」とでも言いたげに肩をすくめ、救いの手を差し伸べてくれた。
「こらお前たち。お客人を困らせるものじゃないぞ」
「またまた客人なんて~」
「哥哥正直に言っちまえって!」
子どもたちの前でしゃがみこみ、しばらく言いたい放題にさせて落ち着いたところで。
「いいかお前たち。この人は哥哥のいい人じゃあない」
「じゃあなにー!?」
「金づるだよ」
金づる。その一言で、子どもたちは静まり返る。そして一様に浮かぶ、納得したような顔色。
「だよね~」
「哥哥に限って色恋沙汰はないよねぇ」
「花より銭だもんね~」
「だろ?」
なぜそこでしたり顔ができるのか。雪蓮は黄雲の心中が全く理解できないし、金づる呼ばわりは傷つくし。
「悪いな、こういう連中だ。ま、さっさと慣れてくれ」
はっはっは。
呵呵大笑の清流に肩を叩かれ、雪蓮はぼんやり眼で今後の生活に不安を感じるのであった。
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夜。
初めての味付けの夕食を振る舞われ、初めてのボロ屋で過ごす初めての夜。
雪蓮は清流道人の部屋へ呼び出しを受けていた。
といっても家の構造が分からないので、当然案内役が必要なわけで。
「また道案内ですか」
眠い目を擦りながら先導してくれているのは、黄雲である。彼のかざす燭台の灯は、古びた廊下をゆらゆら橙色に照らしていた。
「ごめんなさい、夜分遅くに」
「まったく……案内料を請求するところですが、今回は師匠からせしめることにします」
あなた今も無一文でしょう、と黄雲。まさにその言葉通りである。
「ねえ、聞いてもいいかしら?」
無言で廊下を歩くのも気まずい。雪蓮は気になっていたことを、この機会に聞いてみることにした。
「あなたや逍くんたちって、その……」
「?」
「清流さまのお子さんなのかしら?」
「ぶふっ」
その問いに、黄雲は思わず噴き出した。そして燭台の灯が消えそうな程に、腹を抱えて笑い出す。
思ってもいなかった反応に、雪蓮が目を点にしていると。
「はーはー……面白いこと言いますね。お嬢さんには、あのクソアマと僕らが血縁に見えるんです?」
「えーと……」
さりげなく師をクソアマ呼ばわりする彼の問い返しに、雪蓮は言葉を詰まらせる。
確かに言われてみれば、清流と彼らの顔立ちの共通点と言えば、目・鼻・口があることくらいだ。つまり全く似ていない。
「みなしごですよ」
黄雲は、笑い過ぎて溜まった目じりの水分を拭き取りながら、こともなげに言う。
「僕らみんな、師匠が拾ってきたみなしごです」
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「では、僕はこれにて」
「ご苦労」
無事雪蓮を部屋まで送り届けた黄雲は、大あくびをかましながら去って行った。
清流と顔を合わすなり軽口の応酬があったのだが、それは割愛。
少年の持った燭台の明かりが、遠くなっていく。
「さて、お嬢さん」
清流は燭台に油を足しながら、杯を仰ぐ。言うまでもなく酒だ。
よくお飲みになるのね、なんて感慨を心の中で漏らしながら、雪蓮は麗人に向き合う。
用事が終わったら、先ほどの黄雲の言葉を確かめてみようかと思いつつ。
清流は口を開いた。
「日中申し上げたように、あなたには正体不明の物の怪が取り憑いている」
「あっ、そういえば……」
「ははは、忘れていたのかい? 鷹揚なお嬢さんだ」
一笑に付して、清流は続ける。
「まあとにかく、君の肺腑の底には得体の知れない何かが潜んでるわけで、私はそれを祓わなければならない」
それが私の仕事、と清流は二口目をすする。唇から杯を離すと、雪蓮へ白い指を突き付ける。
「胸をはだけなさい」
「えっ」
「いいから」
突然の指示。うら若い乙女には酷な命令である。
たとえ女同士といえども、今日初めて会った人物に、そんな……
「…………」
異を唱えようとしたものの、こちらを見つめる漆黒の双眸はあまりにもまっすぐで。否応言わせない気迫は、周囲の静寂を圧しつけるように雪蓮を圧迫している。
仕方なしに、少女は胸の袷を緩め、白い肌を遠慮がちに晒した。
「よし。いいか、今から少し苦しいぞ。力を抜いておきなさい」
そう言って目の前の道人は少女の胸元に手を伸ばし、その肌に触れた。
恥ずかしい、と雪蓮は思った。これから何をされるのか、全く分からないし急に不安でたまらない。
しかし羞恥の後に襲ってきたのは、驚愕だった。
「ッ!」
清流が息だけで気合を入れると、その白い腕は雪蓮の肌を突き抜け、ずぶりと少女の体内に沈む。
血は出ていない。道人の腕に触れている部分の肌だけ、泥水になったように道人の腕を受け入れている。
「ああ!」
「よしよし、我慢だ。悪いが少し探らせておくれ」
思わず声を上げた雪蓮の頭を、反対側の腕であやすように撫で、清流は尚も彼女の中をまさぐり続けた。
「ただ外から視るだけでは分からないからな。氣は直接触ってなんぼだよ」
おどけた口調だが、感情がこもっていない。
そんな言葉を聞きながら、雪蓮は己が心中を蠢く存在に、気が遠くなりそうだった。
「うっ……」
清流の腕が、何かに触れた。
その瞬間、冷たく鋭い感覚が雪蓮を貫いた。
途端に意識が沈んでいく。
「これは……」
最後に見えたのは、燭台に照らされ、汗の玉を額に浮かべる清流の顔。
そして聞こえたのは。
「霊薬……」
聞きなれない、異国の言葉。
少女は眠るように、目を閉じた。




