10 厭んなっちまったな
それはずっとずっと、待ち焦がれていた感触だった。
子どもの頃から。厳しい忍びの修行に明け暮れながら。それに触れることを、心の底から待ちわびていた。焦がれるあまり、己の体質が変貌するほどに。
昔日、衣服ごしに触ったときですら、胸がどきどきして血が沸き立つようだった。そのあとすぐに意識を失ったわけだけど。
柔らかくて、すべすべ。
禁城の酒蔵、緊迫した場面の中で。
覆面の中、唯一素肌を晒している目元付近に、女体の──それも豊満な二つのふくらみの玉膚が触れた途端。
八洲の忍び、木ノ枝巽の胸中には、複雑過ぎる思いが去来した。
なぜに。どうして。一体全体何故こんな時に。
今の自分は、あくまで鴻鈞道人の刃であって、普段のおちゃらけた欲望なんて、とっくに置き捨てたはずなのに。こんな馬鹿げた反撃にも、ふざけた体質にも煩わされている場合ではないのに。
しのぶを、守らなければならないのに。
「兄上!」
彼方から聴こえるきょうだい分の声が、朦朧とする意識を呼び覚ます。
気付けば、巽は清流道人から身を離し、ふらふらとよろめいているところだ。己の黒装束にはべったりと血が付いている。目前の清流道人の胸元にも大量の血が付着しているが、向こうは特に負傷しているような様子はない。自身の臓腑が焼け付くように熱いので、やはりこれは自分が吐き散らかしたものなのだと巽は納得した。
ぐらぐらする視界の中に、見知った背中が現れた。黒装束に肩までの黒い髪。自分をかばうように、清流達の前へ立ちはだかるのは……しのぶだ。
「よくも……よくも!」
兄弟分の声は怒りに震えている。が、しのぶ越しに見える敵対者の面々は、半ば呆れたような面持ちを浮かべていた。
「……その体質、鴻鈞道人にも治してもらえなんだな」
ぽつりと哀れみ半分の口調で清流道人が言う。まあ、例の体質が治ってたらこの作戦は成功しなかったのだけれども。
「治してもらえなかった、つーか……」
酒蔵へ悠然と現れながら、那吒が口を開く。
「鴻鈞のことだ、どうせ成功報酬にしてるんだろうぜ、体質改善の件はさ。だってコイツ、女人に触れるようになったら早々にとんずらするだろ?」
「ちがいない」
うんうん、と少年神の言に火眼も同意を示す。
ひっさびさに見る巽の巽っぷりに、ちょっと懐かしくなった三人であったが。
「兄上を愚弄するな!」
この場でただ一人、しのぶだけが真剣である。
「兄上は貴様らの言うような軽薄な人間では断じてない! 断じて!」
弁護しようとするしのぶの後ろで、誰にも気取られずに巽はぐっと奥歯を噛みしめた。こんな惨めなことが、あってたまるか。
「兄上は、私の──!」
言いかけたきょうだい分の言葉が終わる前に。巽は素早く、懐から取り出した何かをしのぶの目前へ投げつける。
瞬間、破裂音。そしてあたりに立ち込める白煙。
「うわっぷ!」
「煙幕か!」
そして酒蔵から煙が晴れるころには、忍び二人の姿は忽然と消えていた。
残された一同が気配を探ったり、姿を探したりするが形跡はぱたりと絶えている。結構な出血具合だったにも関わらず、逃走経路を示すような血痕は一滴たりとも残っていなかった。
「……行ったか?」
那吒が伺うように発した一言に、清流や玄智がそっと首肯した。どうやら亮州御一行、窮地は脱したらしい。
「巽……あいつ……」
誰かがため息を吐いた。
煙幕の残香が立ち込める中、しばらく沈黙がわだかまった。
それからしばらくして。
「くそっ、逃げやがったか!」
先に酒蔵へ飛び込んだ面々から経緯を聞いた子堅が、悔し気に舌打ちをひとつ。
憎きクソニンジャの頬桁に一発拳ぶちかまし、見事に脱臼した貧弱書生。玄智真人による骨接ぎによりなんとか関節も元通り、けれども件の忍び連中は逃してしまった。書生は憤懣やるかたない。
「面目ない、子堅殿。深手(?)は負わせたと思うのだが……」
「……まあ間違いなく、奴にとっては深手でしょうね」
元の豊満な姿に戻った清流から、気まずげに視線を逸らしつつ。子堅はやれやれと頭を掻いた。玄智に連れられてやっとここまで追いついてきた子どもたちが、「せんせー!」「おっぱい!」「おっぱい!!」とはしゃぐ声が酒蔵の中に反響する。さらにそこに混じる、不機嫌そうな馬の鼻息。幸い、紅箭の怪我は浅かったらしい。
そんな中で、子堅はやっと大事なことを思い出した。
「それよりも、第二太子殿下は御無事で!?」
薄暗い酒蔵をきょろきょろと見渡してみれば、おずおずと酒甕の合間から這い出る人影が。清流道人復活の余波を喰らったのか、哀れにも高貴な衣を酒浸しにされた第二太子・王晠その人であった。
「殿下! お怪我は!?」
「問題ありません。貴殿らも御無事ですか?」
お互いの無事を確かめ合ったところで。
「……こうしている場合ではありません。騒ぎを聞きつけて警吏が駆け付けてくるでしょう、どこか別の場所へ」
切羽詰まった声で第二太子が告げる。もちろん子堅や清流はそのつもりだ。太子の提案に揃って頷いて見せる。
「んじゃ、道案内はオレに任せな」
そこで会話に割って入るのは那吒だ。この少年神、朱雀堂で待ち構えていたときからずっと、女官姿である。
「お前ら、朝早くから巽の野郎と交戦して疲れてるだろ? 身を休めるのにちょうどいい場所を知ってんだ」
「ちょうどいい場所……?」
自信満々の超絶可憐☆美少女女官に、子堅は嫌な……というか、やましい予感を禁じ得ない。あの女の子扱いされることを死ぬほど嫌がる那吒が、女官服を着てまで潜入している場所。それは即ち……。
「どこでもいい。寝たい」
貧弱もやしの悶々とした胸の内などいざ知らず。
もう眠気限界の火眼が、弱々しく棍で身体を支えながら訴えるように言った。
そんなら早く行こうぜ、ってことで。一行は那吒に先導されるがまま、そそくさと酒蔵を後にした。
ひらひらと、愛らしく衣の裾を翻しながら。那吒ちゃんが導くのはもちろん──後宮。
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「……クソッ」
朱雀堂からかなり離れた地点で、巽は唐突に力尽きた。石畳に無様に倒れ込み、血痕一滴残さず保ってきた逃走経路に、口元からぼとりと血が垂れる。
「兄上!」
背後から、しのぶの悲痛な叫び声が響く。慌てて駆け寄ろうとするきょうだい分へ、「構うな」と一声、巽は拒絶の声を上げた。
「……兄上」
「…………頼む。少し一人にしてくれ」
振り返らずに願えば。聞き分けよく、少女の気配が背後から消える。しのぶはどんな顔をしていただろう。見たくない、知りたくないと巽は思った。
しばし咳き込む。覆面の口元を手で抑えるけれど、溢れる血は手指の間から遠慮なくこぼれていく。
傍らの、真っ白い漆喰の壁を支えにして、よたよたと立ち上がる。歩こうとして、そのまま再び前のめりに倒れそうになる。支えにしていた純白の壁に、死にかけの忍びの紅い痕が刻まれている。自らの所業とは到底思いたくもない、みっともなく曲がりくねった不格好な痕が。
惨めだ。惨めで、情けなくて、無様で、滑稽だ。
巽は決していままで、自分自身やその体質が、決して嫌いではなかった。女に触れない女好きとしては、己の体質は厄介だと感じてはいたけれど。憎んでいたりなどはしなかった。しかし、今は。
(……厭んなっちまったな)
自分が自分であることが。
木ノ枝巽であることも。八洲の忍び・四郎であることも。
こんな体質。こんな自分。過去の選択。こんな成り行き。
なにもかもが厭になりそうだ。
けれどもまだ、命を繋がなくてはならない。
鴻鈞道人。皇后。そして。
(しのぶ……)
たった一人に家族のために、まだ己は忍びでなくてはならない。まだ。
巽はもう一度苦しげに吐血してから、忽然と姿を消した。
今度こそ、血一滴残さずに。




