8 桜花陣
轟音、土埃。次々と石畳をめくり上げ、桜の樹々が乱立する。
倒壊した朱雀堂の瓦礫を吹き飛ばし、枝がしなって花はちりぢり桜吹雪。四方八方から襲い来る黒い幹と枝と花々の中を、子堅は三人の子ども達を連れて逃げ惑っていた。
「いいかお前ら! 手を離すなよ、走れ!」
「でももやし……!」
「火眼にいちゃんと那吒ちゃんが!」
後ろ髪引かれている様子の子ども達だが、今は心配したってどうにもならない。子堅は「いいから!」と小さな手を引いて走る。背後からは、尽きることなく響く剣戟の音。
かいくぐり、飛び上がり。ようやく樹林の際が見えてきたところで。
「もやしにいちゃん!」
「うわっ!」
斜め前方から襲い来る、ひときわ太い枝。気付くのが遅すぎた。
咄嗟に子堅は子ども達をかばいつつ、目をつむる。枝の太さは屈強な士卒の太腿くらいあるだろうか、直撃すれば骨折は必至。貧弱書生なら一発で死ぬかもしれない、が。
「ウッキーーーー!」
この緊迫の場にそぐわない、いかにもな猿の鳴き声。
続いてバキリと木の折れる音。子堅と子ども達が目を開けて振り返ってみれば。
「無事か、おぬしら!」
「玄智殿!」
『師匠!』
「おさる!」
太い枝を飛び蹴りにて迎撃し、やれやれとこちらを向く白い猿。玄智真人である。
さすが猿の身、どうやらこの縦横無尽の桜の密林を、飛躍し跳騰し、ここまで駆けつけてきてくれたらしい。
しかし枝一本折っただけで樹林が止まるわけもなし、子堅らが息つく間もなく二撃目三撃目が襲い来る。
「なにをぼさっとしておる! 早く避難せい!」
「わわっ!」
玄智、左右から挟撃せんと迫る枝を両手ではっしと掴み、子堅達の退路を開けてやった。「かたじけない!」「がんばれおさる!」と一行が口早に礼やら応援やらを述べつつ脇を通り抜ける。
遊が樹々の間から走り抜けて、これで全員。
かと思えば玄智は、桜花の下へさらに呼びかけた。
「さあ貴殿も!」
「!」
玄智に促されて飛び出してきたのは、身なりの良い少年だ。確か先刻、朱雀堂にて那吒とともに待ち受けていた人物だが。
「え……誰?」
その場にいるほぼ全員から疑問の声が上がる。気弱そうだが品の良い顔立ちに、着ている物は高価そうな衣装。戸惑ったような表情。
一同彼の存在に首を傾げる中、子堅の懐の中の清流が高々と声を発した。
『失礼、第二太子殿下とお見受け致す!』
それを聞いて書生、ぎょっと顔を強張らせる。子ども達は呆け顔のまま。玄智は清流と同じ見立てだったらしく、ぎりぎりと枝を掴みながら首肯をひとつ。
『お気づきかとは思うが、我々は劉礼部侍郎の一行に非ず、亮州より罷り越した、崔亮州が子息とその連れにございます』
「崔……亮州……!」
少年が清流の言葉を繰り返す。
そして、書生の懐から響く女の声に返す。
「そのお声……お姿は見えませんが、もしや、もしや貴女は清流道人ではありませんか。亮州、清流堂に住まうという……!」
『ご存知か!』
そのとき、会話を裂くように地響きが鳴り渡る。
巽がこちらにも気を回しているらしい。地中を雷光の如く根が駆け巡り、新たな桜の樹々が芽吹く。
さすがに玄智でも抑えきれない。白猿は弟子へ向けて声を上げる。
「清流! もたもたするな、早く行け!」
玄智の声に応じるかのように、樹々の間から蹄の音が一頭分。
桜の枝や花を蹴破って、玄智の横から躍り出たのは紅箭だ。西方産の屈強なこの馬、誰の助けも借りず自力で脱出である。
これ幸いとばかりに清流、第二太子王晠に騎乗を促す。
『詳しい説明はまた後ほど! 殿下、お乗りを!』
「は、はい!」
「えっ」
太子が馬にまたがったあたりで、子堅はやっと我に返った。
「え、ちょっと待ってください清流殿! 我々は!?」
「そうだよ清流先生、あたしたちどうすんの!?」
『皆は全力疾走だっ!』
「鬼かよ!」
口々に文句を言いながらも、一同「しゃーねえな!」とばかりに駆けだした。言うまでもなく、この場で一番保護しなければならないのは第二太子である。
「あ、あの、私……!」
紅箭の上で申し訳なさそうな顔をしている王晠だけれども。
「いいからいいから! 太子さまはふんぞり返ってな!」
「近いうちに科挙を受けますので! 及第の暁にはうんと出世させていただきたくっ!」
「あの……!」
まだ物言いたげな王晠を、紅箭がヒヒンと嘶いて黙らせて。かくして馬も人も走り出す。
「それで清流殿! 一体どうするんですかこの状況!」
駆けつつ子堅は懐の瓢箪に問う。たぷんたぷんと揺れて、走りづらいことこの上ない。
『案ずるな子堅殿。私に一計がある』
清流、瓢箪の内に在るのでその顔色はまったく伺い知れないが、声色はなんとなく不敵な色。
酒仙は前方を騎行する王晠へ向けて、声を張る。
『殿下! この宮殿の中に酒倉はあるだろうか!』
一方、桜の迷宮では。
あまりにも茂り過ぎた葉と花のために、周囲は黄昏のように薄暗い。
その中を自在に奔騰する巽相手に、二対一ながら、那吒と火眼は苦戦を強いられていた。
正確には、二対一は正しくない。こちらの戦力は武芸者がただの二人。道術は封じられている。
対して彼の忍びは、忍術・軽功に優れ、かつ草木を自在に操ることができる。道術の有無だけで凄まじい戦力差だ。桜花陣、万敵をして難攻不落。
そう、二対一は正しくない。軍隊に対して二人で挑んでいるようなものである。
「いっ!」
今まさに、那吒が槍の一撃を弾かれたところ。那吒の攻撃をかわし、巽はその目前から飛び退り。
「…………」
無言の内に氣を編んで、周囲の樹々を神将へと殺到させる。
太い幹に潰されて、あわや圧殺! のその寸前。
「あぶない」
ひょい、と後ろにいた火眼に首根っこを掴まれて、那吒、危機一髪からの生還である。先ほどまで少年神がいたあたりで、樹々のぶつかり合う音がけたたましく鳴り響く。
「わ、わりい……つーかもう! 仙術が使えねえとやりにくいなマジで!」
「いってるばあいか」
生還も束の間、攻撃が止むことはない。周囲をうねる枝や根は間断なく打擲と束縛を試みるし、その間隙からは巽が放つ鋼の手裏剣が降り注ぐ。何より、最も警戒せねばならないのは。
前触れもなく、頭上から斬りかかる白刃。龍吟。
「ッ!」
火眼と那吒の二人は、息を合わせて槍と棍で白い刀身を受け止める。
「くっそ、容赦なしかよテメエ……!」
「…………」
那吒の言葉に、巽は無言。三白眼は微動だにせず。白刃からは寒々とした特異な氣が立ち昇る。
龍吟で斬られたならば、おそらくただでは済むまい。
膠着状態。神将と火眼は一瞬の内に目配せをかわし。
そしていの一番に膠着を破ったのは火眼だった。棍で白刃を押し返し、巽がやや体勢を変えた隙に那吒がその後背へ回り込み。
「ちっ!」
忍びは舌打ちをひとつ。瞬く間に挟撃体勢となった二人に、巽は致し方なく応じるほかない。
かくして前後から棍と槍が打ちかかる。火眼は的確に、那吒は豪快に。
たしかにこの大量の桜の樹々、脅威ではあるが。さりとて術者はただ一人。
ならば。
「確かにこの状況、お前はとんでもなく有利で強い、なあクソニンジャ!」
「…………!」
「それならおまえをさっさとたおしてしまえばいい」
火眼と那吒、なんとも短絡的な戦略である。とはいえ上策だ。
巽は道術に関して天性のものを持っているが、それでもこの広範囲に術を展開させるのは、神将の那吒から見ても後先顧みないやり方だ。いずれ氣が枯渇し、消耗するだろう。それまでここで足止めし、持ち堪えられれば。
前後から攻められて、巽、器用にかわしてはいるが退路はなく。道術を割り込ませる余裕もない。
「くっ……!」
さらに横合いから、三人目の突撃が加わる。
「ウッキーーーー!」
本日二回目のいかにもな猿の声。続いて巽の横腹を払う飛び蹴り。
黒装束、声もなく蹴り飛ばされ、桜の幹に身を打ち付ける。
「さる!」
「うむ、玄智じゃ!」
子堅らを逃がし、上手いこと桜の樹々のなかを渡ってきた玄智真人だ。
「安心せい、子堅殿と子ども達、そして太子殿下はここを脱した!」
「そうか……!」
玄智の笑みに、火眼はほっと息を吐く。その対面で、那吒は微妙な表情。なにせ神将、このおさるの仙人とは初対面である。
「なんだこのさる……もしかして、話に聞く清流道人のお師匠ってやつか」
「お初にお目にかかる那吒殿、貧道は天究山に住まう玄智真人と申し……」
「ながくなるからあとにしろ」
火眼、年寄りの話が長引きそうな予感。適当に制したところで。
「那吒殿、それに火眼よ。もう少し辛抱せよ。我が弟子が打開策を閃いておるはずだ」
「おいおいおい、ほんとだろーなそれ!」
希望を持たせるかのような玄智の台詞に、那吒、いまいちあのへべれけを信用できない。
とはいえ玄智の加勢は大いに心強い。さて、白猿に蹴飛ばされた巽はといえば。
「あいつ……」
桜の幹に背を預け、微動だにしない黒装束。その覆面の中に、三白眼は見当たらない。忍び装束に詰まっているのは藁の束である。
変わり身の術。
「ちっ、姿をくらましやがったか……」
三人は感覚を研ぎ澄ませ、氣を探る。
周辺は木行の氣に満ちていて分かりづらいが、どうやらこの桜の陣を越えて遠くには行っていないようだ。
「たぶんだが、あいつはまた襲ってくるだろな」
那吒が槍を構えつつ言う。
「まとめて霊薬の餌にしてやる──だったか。おそらくオレ達を生け捕るか何かするつもりだ」
「えさ、か」
神将の言葉に応じて、火眼が小さくつぶやいた。
餌。それは、つまり。
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「殿下! ほんとにこっちで道合ってますか!」
「た、たぶん! 合ってるはず!」
はてさて子堅達は、酒倉目指して禁城内を疾走していた。
王晠の頼りない道案内。行く道は大変雅な建物ばかり、この中に酒臭い蔵があるなぞ、子堅にはいささか信じられない。
紅箭はぱかぽこと、子どもらの足でも終える足取りで先を行く。けれども有事の際にはさっさと皆を置いてけぼりにする気満々だ。
子堅は背後から、紅箭の上にまたがる少年の背をまじまじと見る。
王晠。第二太子。この霊薬騒動の渦中にある人物。
黒幕に近しい存在か、黒幕そのものかと思っていたのだが、予想に反し、第二太子はずいぶんと人の好さそうな顔立ちと振る舞いのお人であった。もっといかにもな悪人かと思っていたのだが。
それはともかくとして子堅、今度は別の人物へと猜疑の目を向ける。
「ていうか清流殿! 本当に一計なんでしょうね! まさか酒が飲みたいだけじゃありませんよね!?」
『はっはっは、お任せあれ子堅殿』
懐から響く声は、あくまでのんきである。
『王宮の美酒、飲み尽くしてみせましょうぞ!』
「やっぱ飲みたいだけじゃないかっ!」
子堅、がっくりである。関節が外れそうなのをこらえて走ってこの言い様。
「な、もやしにいちゃん……」
「清流先生っておっぱいないと本当にクソだろ……?」
左右を並走する逍と遥から哀れみの視線。「んっとにな!」と全力同意のもやし。
と、そんな茶番の最中であった。
「わっ!」
一行の行く手、白い石畳の上に突き刺さる鋼の手裏剣。
『後ろ! 屋根の上だ!』
清流の声が告げる。子堅、王晠、子ども達が振り返り、見上げれば。
「…………いまのは警告」
豪華な飾りの屋根の上。ゆらりと立ち上がる黒い人影。
肩までの射干玉の髪。白い肌、生気の無い目。
八洲の忍び、しのぶ。
「こどもだろうと、容赦はしない」
──次は当てる。
しのぶ、目前に二撃目の手裏剣をかざす。




