4 劉おじさんは悪いやつ!
劉仲孝。
従三品、礼部侍郎。
亮州知府・崔伯世の妻、劉夫人の兄。すなわち子堅や雪蓮にとっては伯父に当たる人物だ。
侍郎とは次官のこと。国家の祭礼や教育を司る礼部の、第二位の地位にあるのが彼・劉仲孝である。
その劉伯父の邸宅にて、今日も苦い顔で酒を啜らされているのが崔子堅である。
「はっはっは、子堅くん! 罰杯だ罰杯、さあさあ飲め飲め!」
「は、はい伯父上……」
子堅、口元を袖で隠してぐいっと杯を煽る。
いつまで経ってもこの味には慣れない。決して美味しいわけでもなく、喉は灼けるわ頬は熱くなるわ頭はくらくらするわ。なのに懐に入れた瓢箪からは、羨ましげな視線を感じる。瓢箪の内にいる清流道人は、一体何をどうやってこの有様を眺めているのやら。
酒宴は今日も盛大である。ありとあらゆる山海の珍味に美酒、酒席の間を嫋やかに行き来する美姫たち。
この光景にも、まだ慣れない。
亮州を発った子堅と清流堂の一行は、子ども連れの聞くも涙、語るも涙の七転八倒艱難辛苦の旅を乗り越えて、ほうほうの体で垙京へたどり着いた。子堅、思い出したくもない。起き抜けに股間を踏みつけられたこととか、特に。
清流が言うには、垙京周辺には何らかの結界が張られているらしい。その影響か、黄雲の氣が感知できなくなり、また道術もほとんど使えなくなってしまった。
さて、都に着くなり劉仲孝の屋敷を訪ね、迎え入れられたのが十日ほど前のことになる。
子堅は霊薬が雪蓮に宿るまで、伯父のことを大層尊敬していた。
なにせ、都の高官だ。子堅の理想の将来像そのもの、それが劉仲孝伯父であった。
若い頃はきっと清廉な書生として勉学に励み、蛍雪の功の果てに科挙に及第したのだろう。そして今現在においても国家のため、粉骨砕身職務を全うしているものと思っていた。
そうだとばかりに思っていたものだから、劉邸の門をくぐるまで、子堅は伯父が霊薬騒動に関わっているだなんて、本当は実感がなかった。霊薬が妹の身魂に巣食ったのは事実だけれども、もしかするとそれは聡明な伯父なりに、智謀を巡らしてのことかもしれないと。親戚筋である崔家の害となることは為さないだろうと。子堅の中には少しだけ、いまだに信頼したい気持ちがあった。
そんな気持ちを打ち砕いたのは、伯父自身である。
「やあ子堅くん。はるばるようこそ。霊薬のことだろう?」
「えっ……」
劉邸へ到着するなり早々に、二人きりの密室に通された上でこの開口一番である。
ぎくりと心臓を震わせる子堅を前に、美々しい髯を蓄えた伯父は矢継ぎ早に告げるのであった。
「いやいやいや、姪には大変な思いをさせてしまったな!」
「え、あの……」
「そんなことよりだな子堅くん。きみは科挙に向けて勤学中の身と聞いている」
「はあ、まあ……」
「いやいや科挙に向けた勉学というのも大変だろう。そこでだ! 単刀直入に提案するのだがね子堅くん!」
単刀直入。その四字に、子堅、嫌な予感。
「儂は礼部侍郎……すなわち科挙を統括する立場にある、というのはきみでも分かるね?」
「は、はい」
「どうだ。この職権を活かして、次の科挙できみを及第させてやろう」
伯父、恥じらいなく言ってのける。
「だから雪蓮のことは、もう何も追及しないでくれ」
酒宴の席で、そのやりとりを思い出し。
子堅は人知れず拳を握りしめた。
連日行われているこの酒宴だって、子堅を懐柔するつもりなのだろう。宴席でふわふわ異国の舞を披露する美姫も、おそらくは都中の妓楼を選りすぐって集めた者たちに違いない。
「子堅くん! いまこの娘の胸元を見ておったろう! さあ罰杯だ罰杯!」
伯父は先ほどから、子堅の細かな挙動に何かといちゃもんをつけ、罰杯を要求していた。そのたびに杯を干さざるを得ないので、子堅は段々と体の具合が悪くなる。
「おや、もう酔ったのか子堅くん! 情けなや情けなや! はっはっは!」
子堅の顔色が段々と酒に飲まれていくのが、よほど面白いのか。劉仲孝は機嫌よく笑声を放っている。
つやつやとした美髯の上でニヤニヤしている眼差しがどことなく自分と似ていて、それもまた子堅に複雑な心境をもたらした。
「実はな! 儂が科挙を受験したとき、殿試しか受けておらなんだ! 親が当時の礼部侍郎と吏部尚書に金をたんまり積んでくれてな!」
武勇伝のつもりだろうか。伯父の宴席での話題は賄賂自慢ばかり。
「いいか、国を動かすのは賄賂よ! 勢いの良い派閥に属し、互いに賄賂を贈り贈られ、うまい汁を吸うて生きていくのよ!」
胸を張っての汚職自慢。さらには。
「おい! おい猿! 芸をしてみよ猿!」
「う、うぐ……」
子堅の脇に控えていた猿……否、玄智真人を無礼千万のエテ公扱い。
こめかみに青筋を立てた玄智真人に、子堅は小声で詫びを入れる。
「す、すまない玄智殿……私が妙な誤魔化しをしたばかりに……」
そんな謝罪は、酔いに酔った劉仲孝の野次にかき消される。
「おい! はようせい! 張三!」
「ぐぬぬ……!」
張三。この屋敷での、玄智真人の名である。
玄智真人は垙京の手前で清流堂の一行と落ち合ったが、劉邸へ訪問する際に問題となったのが「どう猿をこの屋敷に連れ込むか」であった。
玄智真人は中身こそ通算五百歳を超える大仙人であるが、見た目はただのでかい猿である。道中は子ども達三人に猿回しのふりをさせることで乗り切ったが、劉伯父の屋敷ではそうはいかない。
子堅、考えに考え、苦心惨憺の末に考え出した言い訳は。
──当家の下男の張三です。
そう紹介したときの劉家の家人の顔はやはり幾分か胡乱げだった。
けれども玄智に厚着させ体毛を隠し、『限りなく猿に似た人間です』という苦肉の説明でゴリ押しして今に至る。お陰で人語を話していても、誰にも何も見咎められない。
そして劉礼部侍郎はこの猿顔の下男が大層お気に召したらしい。
連夜の酒宴に子堅ともども呼びつけては、芸を要求する始末。
その芸というのも。
「う、うっきぃ。うっきぃ」
猿顔の男に猿の真似をさせるというもの。
「ははは、愉快愉快!」
下劣極まりない笑声が夜天に響き渡り、宴もたけなわ、夜は更けていく。
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「あー、頭ガンガンする……」
「おかえり、もやしの兄ちゃん」
玄智に肩を貸してもらいながら。
用意してもらった離れへ、真っ青な顔で戻ってきた子堅である。ふらふらと、倒れ込むように寝台へ。
夜更けにも関わらず起きて待っていた子ども達。逍、遥、遊の三人は、てきぱきと甕から水を汲み、泥酔した書生の介抱に勤しみ始める。
「ほら、水飲んで」
「う、すまないな……」
「気にすんなよ!」
「おれたち清流先生の世話で慣れてっから!」
「ゲロ吐かない分、先生よかだいぶマシね!」
『あいやぁ……』
ぞんざいな扱いに、瓢箪から嘆声。そんな清流は放っておいて。
「ねえ、もやしの兄ちゃん。今日もお酒いっぱい飲まされたの?」
「今日は御馳走持って帰ってきてないの?」
「きれいな女の人いっぱいいたんでしょ?」
子どもたちから子堅へ、畳みかけるような質問。彼らは下人の弟妹ということで、振る舞われる料理もそう大したものではない。子堅、普段は宴席の料理を油紙に包んで持って帰ってやるのだが、今日は前後不覚寸前まで飲まされてしまい、失念してしまった。
「すまない、今日は忘れてしまった……」
「えー! もう、これだからもやしはさ~!」
「だからモテないんだよ!」
「う、うるさいなー!」
と、そんなところへ。
「……戻った」
「あ、火眼にーちゃんだ!」
これまたぐったりした様子で部屋へ入ってきたのは、火眼金睛だ。顔をすっぽりと覆える外套を、目深にかぶっている。
白髪に炎のような色の瞳を備える彼は、あまりにも目立ちすぎる。ゆえに子堅は外套を買い与えてやったのだが。
「なぜ女というのは、あんなによくしゃべるんだ……」
うんざりした様子で、火眼は外套をはぎ取った。露わになった炎の瞳は、げんなりの色。下瞼にはクマ。
顔の上半分を隠したところで、端正な口元と鼻先は丸見えである。火眼は顔面の下半分だけで劉家の女という女を虜にしてしまったのだった。お陰で歩いたり立ったまま寝たりするだけでキャーキャー言われる始末。つまり亮州にいた頃と大差ない。
ちなみに火眼は、紅箭の手綱を引く馬子ということになっている。子ども達は彼の弟妹のふりをしていた。
火眼に関しては、両親は既に亡く、馬子の使命を仰せつかったはいいが幼子を亮州に置いていくわけにも行かず、やむなく垙京まで連れてきた、というお涙頂戴の嘘っぱちの身の上まで拵えた。
その境遇も女性の庇護欲を刺激したのだろうか。火眼はこの屋敷に来てから、何かと話し相手にされたり世話を焼かれたりしているようだ。
今日も今日とて、この時間まで長話に付き合わされたのだろう。今宵のクマは一段と濃い。
「お前……また侍女に絡まれてたのか……」
「ああ。まいにちまいにち、あきないものだ」
くたびれた様子で言う火眼に、子堅は密かに「くっ!」と奥歯を噛みしめた。羨ましい。羨ましくてたまらない。
それよりももっと、羨ましいのが。
「…………伯父上」
にっくき伯父、劉仲孝。
汚職に手を染め悪びれぬ、まさに佞臣の鑑。
そればかりか、霊薬に冒された雪蓮についても「諦めろ」ときた。己が発端であるにも関わらず。
そんな伯父。そんな伯父が。
「うっ……!」
「う?」
声を揃えて問い返す子ども達へ。子堅、絞り出すような声で。
「羨ましい……!」
「は?」
「私は! 伯父上が! 羨ましい!」
子堅、悲痛に叫ぶ。ひ弱な拳でばふんと殴りつける寝具。子ども達と火眼と猿の、冷ややかな視線。
「もうさー! 親にお金積んでもらってさー! 科挙も賄賂で乗り切っちゃってさー!」
「もやしの兄ちゃん……」
「登用されてからも楽して汚職三昧だろー? んで連日連夜宴してさー、酒飲んでさー、美人侍らせてさー……」
「…………」
「あー! 私もああなりたーい!」
枕を抱えてバタバタするクソ童貞に、他の連中の目は一層冷ややかさを増す。
「私もさー、ほんとは思ってたよ……なんてったって劉伯父上は礼部侍郎。科挙の学術試験を取り仕切ってるわけだ」
子堅の言う通り。礼部侍郎は、礼部の次官にして、科挙における学科試験を統括する役職だ。
「だから私も、ほーんの少し、親戚の誼で虎榜に記名してもらえないかなと期待してたわけだ」
酔っぱらいの書生は素直に吐露する。「状元とは言わないからさぁ」と、子堅は情けない声を上げる。
そんな様子に、むっと不機嫌をあらわにするのは清流堂の子ども達である。
「……じゃあ、もやしの兄ちゃんはせっちゃんのことどうでもいいわけ? せっちゃんのことほったらかしにして、あの悪いお髯のおじちゃんの言うこと聞くの?」
声を揃えての苦言に、子堅、醒めた顔ですっと座り直す。
そして一声。
「バカを言うな!」
直前まで散々バカな羨望を見せておいて、何を言い出すやらこの青びょうたん。けれども子堅は真剣な面持ちで続ける。
「確かに伯父上の暮らしぶりは羨ましいことこの上ない……が、雪蓮の命とは到底釣り合わぬ!」
子堅は言う。確かに、贅沢三昧の劉仲孝の生活は果てしなく羨ましいものだ。けれども。
「贅沢のために妹を切り捨てるなどと、甘く見られたものだな私も! いいか、私は雪蓮を無事連れ帰った上で、正々堂々科挙に及第し! 自力で贅沢三昧を手に入れてやる!」
子堅は酩酊の中で思い返していた。この屋敷に来てすぐ、劉伯父と密談した時のことを。
──だから雪蓮のことは、もう何も追及しないでくれ。
そう告げられて、子堅はすぐに「それはできません」と伯父へ懇願した。
雪蓮が連れ去られたこともきちんと話した。垙京へ来たのは、彼女の行方を捜すためであると。
けれども伯父は、のらりくらりと青年をかわし、知らぬ存ぜぬを貫き通す。
屋敷から追い出されることは、なかったけれど。
伯父の目に侮りがあることを、子堅はしっかりと見抜いていた。世間知らずの青二才なんぞ、酒と女漬けにして懐柔してしまえばいいと、酒宴の最中の伯父の瞳はよく語る。さすがにこうあからさまに舐められると腹が立つ。
子堅は科挙の不正を持ち掛けられて、答えを濁してはいたけれど。腹の内では答えは決まっている。勿論「否」の一字である。
「いいか、私は、私は……!」
「ところで火眼にーちゃん何持ってんの?」
「おい聞けよ私の決心を!」
ガキんちょに長話は無理というもの。早々にもやしから興味を失った逍、遥、遊の三人は、棒立ちの火眼が手に持ってるものをしげしげと眺めている。
立ったまま寝かけていた火眼が手にしているもの。一個の壺である。
「これか……。さっきおせっかいな女がくれたんだが、これは……」
『酒だな!!』
話に割って入るは瓢箪だ。清流入りの瓢箪、興奮のあまりか、微かにぶるぶる震えている。
『酒だな……! 酒だろう……! 絶対に酒だ……!』
「出たな妖怪酒飲み濁流」
「禁断症状出てるね」
「はぁ、こんのバカ弟子……」
遥と遊の反応はいつも通り。彼女の師匠である玄智は呆れている。
濁流の勢いに、火眼は呑まれずあくまで冷静に。
「そうだ」
とあっけなく一言。
なんでも世話焼きのおばちゃん侍女から「そんなに若くして小さい弟さんや妹さんの面倒見てるなんて大変だわぁ。顔色も悪いし。これ飲んで元気出して」とばかりに貰ったらしい。顔色が悪いのは、このおばちゃん侍女に朝から晩まで話し相手にされて眠れなかったからである。
そんな経緯はどうでもよく。清流、努めて冷静を装いながら、けれども垂涎の声音を隠し切れずに告げる。
『す、少し試したいことがあるのだ……。その酒を、私にかけてみてほしい』
「………………」
誰もが酒毒中毒の妄言だと思った。瓢箪にぶっかけたって、その内にいる清流が酒を摂取できるわけがないのに。
と、皆思ったが。
「いや、やってみよう」
濁流の世迷言を受け、腰を上げたのは崔子堅。まずは瓢箪を卓の上に置き。
ほとんど寝かけている火眼の手から酒壺をひったくると、蓋を取り、そっと壺を傾けて酒液を瓢箪の表面へ注ぐ。
すると不思議なことに。
「うわっ、お酒が……!」
「吸い込まれてく!」
瓢箪に注がれた酒は、乾いた土が水を吸い込むが如くその表面にしみこんでいく。
そして瓢箪からはぐびりぐびりと、喉を鳴らし酒を飲み下す音。
『あいやぁ……! 五臓六腑に染みわたる!』
ひと壺あける頃には、清流の痛快な声が響いた。そもそも瓢箪の内側で、彼女の五臓六腑は一体どうなっているのだろう。
ともかくとして。卓の上に置かれた瓢箪は現在、ほぼ全員からの軽蔑の眼差しを獲得している。
『いやぁ、実はだな! 酒を飲めるように封印を解呪してみたのだ! 目論見がうまくいったようだ、はっはっは!』
「うわぁ……」
深まる軽蔑の眼差し。
こんな一大事だというのに、何を遊びくさっとるのだこのクソアマは、という心の声があちこちから聞こえるようだ。
「はぁ……わしが思っていた以上にクソバカ弟子……」
お猿師匠は呆れまくっている。その足元で、三尾も「ふきゅう……」と気の抜けた声。
「ちょっと清流先生!」
「こんなときまでお酒なのー!?」
子ども達からも抗議の声。しかし、清流は欠片も気にした様子なく。
『さて、どうだ子堅殿。これでやっと、貴殿の策が実行できるな』
「策……?」
瓢箪から声を向けられて。全員の視線も、呼ばわれた子堅の方を向く。
「……その通りです、清流殿。よくぞ器用に酒を飲む術を得てくださいました」
ふっふっふ、と含み笑いをして。
子堅は悪い顔をした。悪だくみをする前の、クソガキの顔だ。
「これで準備が整った……」
「準備?」
「劉仲孝を…………潰す!」




