1 絶対可憐☆ネギ刻み係
「まだ見つからないのか」
「ええ、方々を探しておりますが、まだ……」
「そうか……」
皇太子・王暻はやるせなくため息を吐いた。冬の空気に、吐息は白く濁って溶けていく。はかどらぬ捜索状況を報告した潘天師も、沈んだ顔で俯いている。
太子殿の渡り廊下には、二人だけ。すっかり冬色の天の下、青年と中年は肩を並べて立っている。
黄雲が姿をくらまして、幾日か経つ。後宮に潜ませた手勢を使い、皇太子らは彼の行方を追っていたが消息は知れず。
当初、異母弟を西戎の王にと目論んでいた皇太子の思惑も、ここに至って頓挫の危機を迎えていた。しかし、それ以上に状況を逼迫させていたのが。
「李賢妃のご容体は」
黄雲の生母にして、王暻の育ての親・李賢妃の病状である。
問われた潘天師は、いっそう顔色を曇らせながら告げた。
「……恐れながら、心身ともに衰弱甚だしく、その……」
潘天師、最後まで伝えきれずに言葉を途切れさせてしまう。「もういい」と皇太子は頭を振った。問うたことに対する答えとしては、十分だった。
元々病で身体が弱っていたところに、実の息子からのあの言葉だ。長年身を案じていた我が子から人殺しと誹られて、どうして生きる気力を保てよう。
親子の間の『誤解』は解けぬまま、かたや行方不明、かたや明日をも知れぬ命。
「……下手に秘したりなどせず、弟君に事情を説明していればよかったのでしょうか」
ぽつりと潘天師がこぼした。皇太子はその問いに、是も非も告げず。
「今は、言っても仕方のないことだ」
冬至──大礼の日が近い。
大礼とは、天子が天を祀る祝祭のことだ。三年に一度行われるもので、垙京あげての大規模な祭りとなる。
本来ならばこの祭典に乗じて弟の存在を皇帝へ奏し、昭国、ならびに北方の遶……夷狄に対する布石としておきたかった。
かの茅頭王の血を引く皇族が生きているとなれば、文武百官のみならず、民衆の耳目をも集められたはず。大礼はそのための良い機会であっただろうに。
「……引き続き、纏の捜索を続けてくれ。私は大礼の準備をする」
「殿下……」
続けてくれ、と言いながら諦めたような声音。
去っていく青年の背を、潘天師もやるせない面持ちで見つめていた。
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「まあ、気味の悪い!」
後宮・暴室。
上品な嘲りの声を発しつつ、皇后──蔡碧玉は檻の奥へ微笑を向ける。
そんな彼女の声や眼差しは、雪蓮には届いていなかった。少女は仰向けに床へ寝転がり、半開きの口から唾液を垂らしてただただ天井を見つめている。
顔や手足はすっかり銀の鱗に覆われ、真っ黒だった瞳の色も、この頃は段々と白く濁ってきていた。
「まるで魚か蜥蜴ね。ああいやだわ、目が穢れてしまう」
などと言いながら、皇后は目を逸らさない。銀鱗に覆われた少女の姿が、愉快で愉快でたまらないらしい。
「こんなに気味の悪いものが私の願いを叶えるだなんて、なにかの冗談のようね」
嗜虐から一転、皇后は婉然とした笑みで隣を振り返る。傍に控えるのは、金髪碧眼の美男。
鴻鈞道人はいつもと変わらぬ涼やかさで応じた。
「さあて、その冗談のために御尽力なされましたのは、何処のどなたでございましょう」
軽口をさらりと受け流し、優男は碧い眼差しを少女へ向けた。
数日前、雪蓮の目の前で、黄雲が刺し貫かれてから。
少女の自我はすっかり萎れてしまったようだった。あれ以来一言も言葉を発さぬばかりか、起き上がることも、瞬きすることさえなくなった。全身の筋肉が弛緩しているのが、鴻鈞道人には手に取るように分かる。
嫦娥符に覆われた部屋の中で、数えきれぬほどの生命の死と苦痛と嘆きの記憶を見続け、身中に巣くうものに蝕まれた彼女の、これが成れの果てだった。十三歳の少女の魂と魄はすでに風前の灯火。
(この身体の中に居るのは、もはや──)
微笑を浮かべかけた道人だったが、ふとその眼が眇められる。
目が留まったのは、少女の右手。手指はゆるく握られている。
「……やれやれ、意外としぶといものだ」
軽く肩をすくめると、道人は歩を進める。
「鴻鈞殿?」
首を傾げる皇后の目前で、優男は幽鬼のようにするりと檻をすり抜けて雪蓮のそばへしゃがみ込む。
そして少女の右手首を掴んで掲げ、見透かすように向ける碧眼。
「……帯飾りか」
手に握られているものを透視しながら、鴻鈞道人は同時にまた別のものをも視る。
少女の手。緩みきった指ではあるが、万力を以ってしてもその掌は開けないこと。指を切って落とそうとも、握られた帯飾りを奪うことはできないことが分かる。きっと如何な術も刃も通らないだろう。その不可思議な力の源は──。
「……欲深い娘だ。那由多の責め苦に遭おうとも、その執着を手放そうとしない、か」
「なにか、問題でも?」
冷ややかに問いかける皇后の声に、鴻鈞道人は存外素直に「ええ」と認めてみせる。
「誤算が生じました。ま、ですが陛下の計画には何ら差し障りの無いものです」
「それなら良いのだけれど」
「御心配召されませぬよう。さて、遂行の日ですが──」
鴻鈞道人は仁の無い声で囁いた。
「大礼の日、でいかかでしょう?」
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早朝。澄んで冷えた冬の空気の中、後宮の厨房には忙しなく女官が行き交っている。
竃には火が入れられ、煮炊きの煙が立ち上り、あちこちからは菜や肉、魚が刻まれる音。
その中に。
しゃらんらしゃらんら☆
可憐さを振りまきながら歩く、光り輝かんばかりの美少女が一人。
「おはよう!」
「那吒ちゃん、おはよう!」
顔見知りの娘達の挨拶を受け。那吒、と呼ばれた美少女は上品に微笑み、しとやかに手を振り応える。
「みなさま、御機嫌よう」
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。可憐に綻ぶ笑顔はまさしく蓮の花。
美少女女官、今日もいつものようにお嬢さま然とした立ち居振る舞いで厨房に現れると、見事な内股乙女歩きを披露しつつ、楚々と定位置につく。
目の前にはまな板と包丁、そして大量のネギ、ネギ、ネギ。
「今日もがんばろうね、那吒ちゃん!」
「ええ、みなさまがんばりましょうね!」
周囲へひとしきり深窓の令嬢の如き清楚さを振りまいた後、那吒は「えへっ☆」と慣れた手つきでネギと包丁を手に取り、サクサクトントンと刻み始める。軽快な包丁の音が奏でる、熟練のネギ刻みの調べ。
さてこの美少女女官──否、少年神。なぜこんな場所で乙女のフリをしつつ優雅にネギを刻んでいるかというと。
那吒、美少女っぷりを活かし女官として後宮へ潜入したはいいが、何もせずブラブラしていては周囲の人間に怪しまれるというもの。実際、眉目秀麗な美少女が後宮をブラつく姿は相当目立ったし怪しまれた。
というわけであれやこれやの手口を弄し、就職しましたるはネギ刻み係。普段のぶっきらぼうな言動を物の見事に封じ込め職務に励むうち、いつの間にやら厨房勤務の娘達に懐かれて、乙女のフリも引くに引けず、少年神、白百合の如き清楚なネギ刻み係という珍妙な役柄を演じる羽目となっていた。
那吒ちゃん、正体が男だなどという素振りはおくびにも出さず。にこにこと微笑みを絶やさず手元も見ず、けれども実に危なげなくネギを刻む。
「そういえば那吒ちゃん、知ってる?」
「なにかしら?」
雑談の最中も那吒ちゃん、手元のネギには目もくれない。均等な幅で細切れにされるネギそしてネギ。
そんな達人へ、同僚娘はひそひそ声で囁きかける。
「あのね……第二太子さまの話」
「第二太子さま?」
「ほら、ここ何日かお見かけしないじゃない?」
「そうですわね」
那吒がお上品に相槌を打てば、同僚娘、声をいっそう潜めていささか顔をしかめつつ。
「それがね……なんでも、暴室のおばけを見に行っちゃったらしいのよ!」
話題に出したのは、いま後宮で大流行中の怪談だ。暴室に棲み着き、夜な夜な恐ろしげな声で呻くおばけの話。
「暴室……」
「やだぁ、おばけってあれでしょ? 夜に凄い声で叫んでるあれ!」
「やだーこわーい」
「…………」
暴室。その言葉に、那吒の表情が少しだけ曇る。そんな変化に気づくことなく、娘達は続ける。
「それでおばけに呪われちゃったらしくて! 最近太子さまがお出ましにならないのは、お部屋で伏せってらっしゃるからだそうよ」
「まあ……。でも、いままでは気弱な方だと思っていたけれど、でもあのおばけを見に行くだなんて意外と度胸あるのね」
「それにしても、あのおばけって何なのかしら?」
「噂では皇后さまが化け物を飼ってらっしゃるって」
「まあ、あの御方なら」
「さもありなんね!」
きゃいきゃいきゃらきゃら。女子の雑談はまっことかしましい。
娘達の噂話を聴きながら、那吒は何やら物思い顔。しかしネギを刻む手は止まらない。
と、そこへ。
「こらそこ!」
和気藹々の彼女らへ、突然飛んでくる怒号。きゃっ! と娘達、口を押さえて声の方を見れば。
「無駄口叩いてるヒマがあるなら手を動かす! お妃さま方は待っちゃくれないよ!」
小太り気味、かつ迫力過多のおばちゃんが一人、目を光らせている。料理長だ。
お小言もそこそこに料理長、くわっと開眼しつつ視線を某美少女女官へ飛ばす。
「まったく! ほらほら見てみな那吒ちゃんを!」
「まあ!」
「いつの間にやらネギの山!」
料理長が太い指で示す先。那吒の隣には重さおよそ五斤の刻みネギがこんもりと。
「すごいわ那吒ちゃん! ここに来たばかりの頃はネギより自分の指を切ってたのに!」
「あたし涙ちょちょ切れちゃうわ!」
「成長したのね、那吒ちゃん!」
「おほほほほほほ、ごきげんよう!」
周囲から飛び交う賞賛に謎の謙遜「ごきげんよう」を披露しつつ、那吒はやはりネギを刻み続けている。もちろんにっこりにこにこ、おしとやかに。
かくて厨房は「おほほ」「うふふ」と華やいだ雰囲気。
──そんな女の園に、それは突如として現れた。
「ちう」
ひょっこり。
那吒のまな板の上に顔を出したのは、一匹の小さなネズミ。
瞬間、水を打ったように静かになる後宮厨房。
誰もが目を見開き、音もなく息を呑んだかと思うと。
「きゃあああああああ!!」
「ねずっ、ネズミよーーーーっ!!」
「不潔だわ不衛生だわ汚らわしいわーーーーっ!!」
などと口々に叫びつつ、蜘蛛の子を散らすようにして一斉に退散。女官衆の中では一際たくましそうな料理長ですら、顔を真っ青にしながら内股走りで逃げていった。
後に残されたのは、なおもネギを刻み続ける那吒ひとり。
「よう、兄い」
久しいな、と包丁を動かしながら那吒は言う。ネズミは「ちうちう」と鼻先を動かして答える。
『うむ、那吒よ。息災そうで何よりだ』
そうこのネズミ──二郎真君の仮の姿である。
真君は那吒の魂魄にだけ通じる氣の波動で語りかける。
『それにしても……いつ見ても似合っている、その格好』
「だーーーーっ! こんのクソネズミがっ!」
だんっ!
神経を逆なでする発言に、那吒、握っていた包丁をずどんと真君の真横へ突き刺した。どうやら怒り心頭のようで、持ち手の部分までもがまな板にめりこんでいる。ネズミ真君、危うく死ぬところである。
「このクソクソ兄いが! テメエのせいでオレは……オレは!!」
那吒、包丁を軽々引き抜くと、今度はぶんぶん振り回す。辺りを舞う刻みネギ。ネズミは難なく刃をちょこまか躱し、そして始まる不満と軽口の応酬。
「オレはしたくもねえ女装をして! アッチの元気な宦官に追い回され! 毎朝ネギを刻む不毛な日々!」
『その割にはノリノリだったように思う』
「んなわけあるか嫌々だ嫌々!」
『みなさま、ごきげんよう☆』
「声を真似んじゃねえ! っつーかどっから見てやがった! こら逃げんじゃねえクソネズミ、今日の朝餉はネズミの肉餅にしてくれるーーっ!」
などとお互い、久々の茶番に興じたところで。
「……で! 一体何の用だクソネズミ!」
やっと落ち着……いてはいないが、包丁を構えたまま、那吒はとりあえず話を聞く姿勢。
そんな彼へ、ネズミは冷静沈着に口を開いて曰く。
『黄雲少年が行方をくらました』
二郎真君の発した言葉に、那吒は目が点。
「黄雲の野郎は……確か太子殿に軟禁されてた、って話だよな?」
『左様』
「……んで、なんだって?」
『現在消息不明』
「一体何があった?」
那吒の疑問に、二郎真君答えて言うに。
『かくかくしかじか』
さて、真君が伝えた紆余曲折。
黄雲の身の上に、李賢妃の房での一件。ネズミの説明は、後宮内で黄雲が姿を消した所で終わった。
『……というわけで、彼を最後に目撃したのはここ、後宮だ。お前が何か彼の消息を掴んでいやしないかと、ここへ来てみたが……その様子だと、何も知らぬようだな』
「あいつ……」
思わぬ話に、那吒の顔色は暗くなる。時折交わす二郎真君との定時報告で、彼が皇太子の管理下に入った経緯と理由は知っていた。那吒個人としては少々気の毒にも思っていた。けれど、少年神には一つ疑問がある。
「……なあ、二郎兄い」
『なんだ那吒』
「あんたさぁ……なんで皇太子や黄雲を探ってやがる?」
霊薬とは何の関係もないだろう? と那吒。
彼は二郎神が太子殿に潜伏している理由を告げられておらず、日々ネギを刻みながら疑問に思っていた。
二郎真君と那吒──神将の二人に与えられた使命は、二つ。霊薬を監視すること。及び、霊薬騒動の黒幕である鴻鈞道人を捕らえること。
皇太子のことも黄雲のことも、那吒には霊薬とは直接関係ないことのように思えるが。
『……そのうち分かる』
ネズミはあくまでお茶を濁す。またはぐらかすつもりか、と那吒が心中嘆息しかけたときだった。
『……と言いたいが、状況が少々逼迫している。那吒、これから言うことをよく聞いてくれ』
ちう、とネズミは真っ直ぐに少年神を見据えた。その額に、第三の眼が開眼する。
ごくり、と那吒が固唾を飲んで見守る中、ネズミは重々しくその口を開いた──。
しばらくして、少年神とネズミ神の姿はとある部屋の扉の前にあった。
後ろでは守衛役の宦官二人が伸びている。急所を打たれたらしい。しばらくは起きてこないだろう。
さて、那吒の手には朝餉の膳。くったくたに煮崩れた粥に、こんもり盛られたネギの山。
「おっはよーございまーす!」
バン! と勢いよく扉を開けば、部屋の内では驚き顔の少年が一人、びっくりした挙動のまま立ち竦んでいた。
「えっ、えっと……?」
状況をよく分かっていない少年の前で。那吒はその辺の卓の上に膳を載せ、どっかと椅子に座り、いかにも不遜に足を組んだ。
少年神の肩には「ちう」とネズミの姿。
那吒は口を開く。
「さ、朝餉の膳を持って来たぜ、第二太子・王晠さんよ」
那吒の目前。粥の湯気越しに、ぽかんと呆け顔の少年。
そう、彼こそ第二太子・王晠。
少しやつれた様子の彼。
現在は、母・蔡皇后により自身の居室にて監禁中の身であった。




