13 Eli, eli, lema sabachthani
さて、時は少し遡る。秋が深まる前のこと。
「あなたをこんな汚らわしい場所へ、連れて来たくはなかったのだけれど」
彼を伴いながら、母はそうつぶやいた。彼女に連れられ歩きつつ、少年は驚いていた。きらびやかな後宮に、こんな薄暗い場所があったのかと。
歩いているのは、地下道のような場所だ。長く後宮に住んでいる彼が、初めて歩く場所。
そしてたどり着いたのは、牢獄のような空間。母はそこを「暴室」と説明した。後宮の貴妃たちの病室のことであるが、どうにもそんな場所のようには思えない。病室というならば、何故檻のような格子が設けられているのか。
格子の奥。牢の内壁を、びっしりと埋め尽くす無数の呪符。一つだけの窓。およそ生活に必要な調度は一切無い。牢の内に渦巻いているのは、静寂と狂気。
「ほら、御覧なさい。この者が……私たち親子の大願を果たすための、贄となる娘です」
そのなかにうずくまっていたのは……一人の少女だった。
肩までの黒い髪。こちらを振り向く、怯えを宿した瞳。真っ白い衣に身を包んで、膝を抱えて縮こまっている。
「贄……」
母の言っていることがよく分からなくて、少年はただ、残酷そうな響きのその言葉を繰り返した。
それが少年──第二太子・王晠と崔雪蓮の初めての出会いだった。
最初は事情も分からず、王晠はただ目の前の少女を哀れだと思うばかりであった。
それでもその娘が、なんとなく気になって。
ある日王晠は手洗いを装って、一人でその牢へ赴いた。母といえば、客人の道士──鴻鈞道人と歓談中。思っていたよりもあっけなく場を抜け出せたことに、なんとなく少年は心を逸らせていた。
目的の場所へは、迷うことなくたどり着けたけれど。
「……なにか、御用ですか」
あの牢へ続く通路には、もちろん見張りが置かれていた。いつか見た、黒装束の少女だ。口元を覆う覆面に、首元に巻いた黒い布。まるで死人のような白い肌と、人形のように生気のない瞳。
おそらく自分とそう年は変わらないはずなのに、王晠は一瞬で気圧される。この人間離れした気配を放つ黒ずくめの娘は確か、鴻鈞道人の配下だったはず。
王晠はおずおずと、気弱に口を開いた。
「あの……ここにいらっしゃる方と、お話がしたいだけなのです」
そんな王晠に、少女は。
「……お好きにどうぞ」
ふい、とそっぽを向き、あっけなく道を空ける。「主には禁じられていませんから」とぶっきらぼうに言い、壁に背をもたれさせる。王晠はなんだかほっとしたような、どこか敗北感を覚えるような。
そんな関門を通り抜け。王晠は再びあの牢へやってきた。
やはりあの白い衣の娘は閉じ込められていて、今日はこちらに背を向けて、なんだかぼんやりしている様子。
「あ、あのっ」
王晠はうわずった声で話しかけてみた。娘はその声にビクリと肩を跳ねさせた後、やはり先日と同じ目で振り向いた。怯えを宿した目で。
「え、ええと……」
話しかけたものの、何をしゃべっていいやら分からない。疑問はたくさんあるはずなのに。
結局口から出てきたのは、一番聞きたかったこと。
「どうして、こんなところに閉じ込められているのです……?」
その問いに、少女の瞳は、怯えの色から憂いの色へ変わる。
「……私が、『霊薬』を宿しているから……」
「霊薬……」
少女のつぶやくような返答。霊薬──その言葉を、王晠は母の口から聞いたことがある。
母曰く。「不死の妙薬。我らの悲願を果たすもの」
「あの……」
考えていると、おずおずと少女が口を開いた。そして紡がれるのは、至極当然の疑問で。
「どちらさまでしょうか……?」
「あっ」
少年、王晠。自己紹介を忘れていた。改めて王晠は後ろ頭をこりこり掻きつつ、名を述べる。
「失礼を致しました……私は王晠。えぇと、その……」
とはいえ、太子の身分で自己紹介の機会は稀である。大体いままで人生で出会った人々は、事前に彼の身分を知っていることがほとんどだ。
王晠はしばし言い淀み、最後には観念するような、白状するような口調で言った。
「この国の、第二太子です……」
「まあっ」
少女は目を丸くした。純粋に驚いているようだ。
「先日は皇后陛下と一緒にいらっしゃっていたから、高貴なご身分の御方だとは思っていたけれど……」
「お、覚えていらっしゃったんですか?」
「ええ、もちろん」
そして彼女は以前、少しだけ会ったときのことを覚えていてくれていた。なんとなくこそばゆくなる王晠である。
「あの、あなたは……」
そして当然の流れで、王晠は少女の名を問う。娘は居住まいを正して、
「崔雪蓮と申します。亮州知府・崔伯世の娘です」
と名乗った。
(どうして母上は、亮州知府の御息女を……)
娘の身分を聞けば、王晠はさらに母の真意が分からなくなる。なぜ亮州知府の娘が、こんなところに囚われているのだろう。
霊薬とはなんなのか。母はこの娘をどうしようとしているのか。
「雪蓮殿、霊薬とはいったいなんなのです?」
なんとなく薄ら寒いものを覚えつつ、王晠は問いかける。そんな彼に、雪蓮は困ったように眉を歪めて。
「詳しいことは、よく分かりません……。不老不死の霊薬、らしいのですけれど」
と、申し訳なさそうに言った。左腕を、右の手でさすりつつ。
ふとその仕草に目を留めた王晠は、少し不審に思った。少女は、左手を不自然に白い袖の中に引っ込めている。
「えっと……左手はどうなされました? お怪我を?」
「い、いえっ。怪我ではないのですが……なんでもありません」
そして雪蓮はかばうように、左半身を牢の奥側へ引いた。見られたくないし、追及されたくないとでも言うように。
そのことは深追いせず……というかできずに、王晠はさらに問う。
「雪蓮殿……もしご存知なら教えて頂きたいのですが……母上は貴女をこんな場所に閉じ込めて、一体なにを……?」
その質問に。雪蓮の困惑の表情は、深くなる。
「わかりません……全然、なにも……」
「そう、ですか……」
彼女はなにも分からないまま、この場所に閉じ込められている。憐憫の情はいっそう増した。
そして王晠はしばし黙り込んだ。どうして己はこの場所にやってきたのかを、改めて自分に問う。最初は好奇心だった。自分と同い年くらいの少女が、どうしてこんな境遇にあるのか。哀れに思う気持ちは最初からあったが、会話を経てさらにそれは強くなる。
「あの、雪蓮殿」
後ろにいるだろう、見張りの少女に聞こえないよう声を潜めて。
王晠はたどたどしく、雪蓮へ語り掛けた。
「……私が、あなたをここから連れ出せないか……考えてみます」
連れ出します、と確約はできなかった。どうにかしてやりたかったけれど、王晠には自信がない。皇太子ならばこんな時も躊躇が無いんだろうな、と心の中には自嘲の声が響く。
「それは……殿下にご迷惑をおかけしてしまうわ」
少女も、喜色よりも困惑を全面に押し出している。彼女の言葉に対し、王晠は気まずく「それは……ええと」と曖昧な返答しかできない。
連れ出すとはいうものの、彼女をここに閉じ込めているのは、王晠の母・蔡皇后だ。少年は第二太子という身分ではあったけれど、母親にいままで反抗するどころか、意見を言ったこともない。唯々諾々と母の言葉に従ってこれまで生きてきた。
彼女をこれから救い出すということは、きっと母の意に反するであろうことは明白だ。
母に逆らうことを思うと、ただでさえ気弱な性格が、さらに弱腰になる。
そんな彼の表情の変化を察してくれたのか。雪蓮は苦い笑いで、こちらを慮ってくれた。
「……いいんです、殿下。お気に掛けて頂けただけで」
「でも……」
母に逆らうのは怖い。けれどもこの娘をなんとかしてやりたい。
せめぎあう二つの心でしばらく逡巡した結果。
「わ、私に……なにかできることはありませんか……?」
結局この第二太子は、己の選択を少女自身に委ねた。自分でも、まったく情けの無いことだと思う。
その提案に雪蓮は、少し目を丸くした後に。
「……あの、殿下さえよろしければ、不躾な願いかもしれませんが」
雪蓮も、おずおずと遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「お話相手になってくれませんか……?」
「話し相手?」
「ええ。ここにはほとんど誰も来ませんし、あそこにいるしのぶさんも、話しかけても付き合って下さらないし……」
「…………」
なんだ、そんなこと。
……と王晠は思った。もっと無理難題を言われたらどうしようと思っていたのだけれど、なんとも和やかな肩透かしである。
拍子抜けしている王晠へ、雪蓮は。
「あ、あの。お嫌でしたでしょうか……?」
「め、滅相もない」
面目なさそうに眉を八の字にする少女へ、王晠は頭をぶんぶん横に振る。そんな彼へ、雪蓮はほっとしたように頬を緩めた。
「よかった……ありがとうございます、殿下」
少女がこの牢に閉じ込められて、初めての笑顔だった。高貴さのかけらもない、その辺の市井にいくらでもありふれていそうなその微笑みに。
王晠の胸が、どきんと高鳴った。
それから数日。
王晠は母親不在の隙を見ては、宮女の目をかいくぐり、件の牢へ足しげく通った。
見張りの少女──しのぶは、あれ以来黙認してくれている。彼女が母や鴻鈞道人へこの件を告げ口する様子はなく、王晠はいまだに誰からも咎めを受けていない。
雪蓮とはあれから、いろんな会話を交わした。
特に母親からの抑圧という境遇が似ていたからか、それに対する不平不満は妙に馬が合った。
そして雪蓮はよく、亮州のことを話してくれた。彼女自身と、霊薬を巡る物語を。
けれども内容は支離滅裂。出てくる人物はみな、奇妙奇天烈な欲深ばかり。
拝金主義者に飲みすぎ酒仙、街を跳梁跋扈する変態ニンジャに眠ってばかりの美少年、その他諸々すぎる諸々。そんな外道たちの織り成す物語は猥雑で俗っぽく、ときに馬鹿馬鹿しく、ときに痛快、ときにやっぱり馬鹿馬鹿しいものであった。
少年少女の出会いから始まる、清流堂での日々。
大猪にクソニンジャ、はたまた五百年の眠りから覚めた炎の物の怪や天界の神将と、あるときは滑稽に、あるときは生死を賭しての大立ち回り。さらにはさらには。
白虎娘娘大活躍。
ブタ野郎事件。
そしてはた迷惑すぎる姉の里帰り。
拉麺屋騒動にはじめてのおつかい。
スケベ忍軍大擾乱。
月亮島の大冒険。
うれしはずかし埋蔵金。
阿呆で狂乱に満ちた日々に起きる珍騒動は、枚挙にいとまが無い。
「それでね、二郎さまが拉麺屋さんを始めてね……!」
彼女の口調はしばしば、礼節を欠いたあけすけなものになった。けれども王晠はそのざっくばらんな感じが好きだった。
「で、巽さんったらお友達同士で徒党を組んで、街中の女性をすっぱだかに」
「す、すっぱだか……!?」
彼女が語る思い出話に、王晠はときに手に汗握り、ときに失笑し、ときに赤面し、ときに脱力した。
この少女は説明下手で、話の内容が前後し、要領を得ないことも多々ある。しかし語っている本人が至極楽しそうなのを見ていると、王晠もまた、楽しい気持ちになるのだった。
けれども。
「でね、そのとき黄雲くんったらね……」
「…………」
彼女の話に頻繁に現れる、「黄雲」なる人物。茶色い髪が特徴の、金儲けが趣味という罰当たり道士。彼の名を聞く度に、王晠の胸はちくりと痛んだ。
彼が話に登場する度、雪蓮は文句たらたらながらも、頬を紅潮させて仔細にその守銭奴ぶりを語った。その様を見ながら王晠は、
──好きなんだな。
と思った。
でも、楽しい話を終える度。いつも少女は切なげな、寂しげな表情を見せる。いかに愉快な日常だったとはいえ、いまはもう過去のこと。
王晠は彼女がこの牢に囚われるに至った顛末を聞いた。
スケベかつただの能天気だと思っていた八洲の忍び・木ノ枝巽の裏切り。彼女の目前で、かの忍びに斬り伏せられた黄雲少年。失意の中、この後宮の暴室へ連れ去られ、監禁された雪蓮。
「実はね、私、黄雲くんに振られちゃったの」
あるとき雪蓮は、苦しそうに笑いながら明かしてくれた。
「黄雲くん、私のこと大嫌いなんだって。夢見がちで、うわっついてて、甘ったれてるからだって」
膝を抱えてそう吐露する彼女を見ながら、王晠は内心で幼い対抗心を燃やしていた。「私なら、そんな酷いことは決して言わないのに」と。彼女の想いを受け止めてやるのに、と。
そんな王晠の心を、知ってか知らずか。雪蓮は寂しそうに続けた。
「……でも、黄雲くんの言ってたことは、その通りだと今は思うの。私は本当、夢見がちで甘ったれで……」
その黄雲は、現在生死不明。彼を想う雪蓮の横顔が、王晠には苦しかった。
さて、雪蓮の話してくれたことで、一つ気になることがある。
八洲の忍び・木ノ枝巽。
スケベなクソニンジャとして登場し、亮州を我が物顔でハレンチに荒らしまくった変態の中の変態である。
雪蓮が語ってくれた「覆面黒ずくめの三白眼」という容姿に、王晠は見覚えがあった。
その日王晠は宮殿の外に出て、屋根を見上げて歩いていた。果たして、目当ての人物は瑠璃瓦の上で大胆不敵に午睡を決め込んでいる。まさしく、覆面黒ずくめの装い。
「あ、あの!」
王晠は勇気を出して呼びかけてみた。黒ずくめの青年が面倒くさそうに起き上がり、こちらを見下ろす。そのまなざし、まごうことなき三白眼。
「なんでえ、皇子サマが何の用だい?」
黒ずくめは不遜にも、屋根から降りずに王晠へ応じる。
王晠は一度彼に会ったことがある。以前、母に連れられて中庭を歩いているときだった。確か、雪蓮の牢の番をしているしのぶと一緒だったはず。あのときはただ珍し気に見ているだけだった、けれど。
「あの……崔雪蓮、という方をご存知でしょうか」
「!」
その名を口に出せば、三白眼は少しだけ翳る気配を見せる。
「……会ったのか、あの娘に」
王晠は深くうなずく。そして少年は、ごく真剣な表情と声で続けた。
「やはりあなたでしたか……尻をぶたれて喜んでいたというのは」
どしゃり。
けだるげに格好付けていたクソニンジャが屋根から落ちた。
「……殿下相手になに話してんの、せっちゃん……」
それから。王晠は巽とも関わりを持ち始めた。
宮殿の外を散歩するとき、屋根を見上げれば大抵彼が仰向けにごろ寝をしている。手を上げて挨拶すれば、あちらも手を上げ返してくれる。
雪蓮をだまし討ちのような形で連れ去った彼に、最初こそ少なからず反感を持ってはいたけれど。
話してみればこの異国の忍びは実に気さくで、確かに猥談は多かったが、心底の性根の悪さというのは感じなかった。
「ねえねえ、皇子サマさぁ」
ある日、このクソニンジャが三白眼をニヤニヤさせながら訊いてきた。
「あんたさぁ、せっちゃんのこと好きなの?」
「なッ!」
あまりに唐突な指摘だったので、王晠はいささかむせ込んでしまった。なぜそう思うのかを問えば、「だってバレバレじゃん」と簡潔極まりないご説明。王晠、くっと奥歯を噛みしめて。
「で、でも……あの方には、他に好きな人が……!」
「あー、あいつな~。あいつね~」
まごまごと言い淀む王晠に、巽はほのぼのと昔を懐かしむ面持ち。
しかし。王晠の赤面をひとしきり楽しんだ後、巽は不意に眼差しを逸らした。そして告げる言葉。
「……悪いことは言わねえ。あの娘に関わるのはもうやめな」
「え……?」
さきほどまでの脳天気な口調とは打って変わって、暗い忠告。
王晠が疑問の声を上げる間もなく。
「じゃあな」
と忍びは瞬きの間に姿を消した。
このとき、王晠は巽に対して少しばかり腹を立てていた。彼の捨て台詞が、少年にはまるで恋路を邪魔するかのように響いたのだ。
けれど違った。
それからの雪蓮との日々は、苦しみに満ちたものに変じた。
異変は、少年の目には突然始まったように見えた。
いつものように彼女の牢へ向かったけれども、雪蓮はぼんやりしていてこちらに耳を貸してくれない。
何度呼びかけても、壁にもたれかかって明後日の方を向き、なにやら歌らしきものを口ずさんでいる。
ふと王晠はその手元を見る。普段は袖に引っ込めて決して露わにしないはずの左手が、無防備にむき出しにされていて。
「ひっ……!」
皮膚をびっしりと、銀色の鱗が覆っていた。
恐れおののき、王晠は後じさる。けれど、雪蓮はそれを意に介した様子もなく歌い続ける。
結局、その日は意思の疎通もできぬまま、王晠は牢を後にした。
牢の内で恐ろしいことが起こっていると分かっているのに、王晠はそこへ通うことをやめられなかった。
行けば雪蓮は、左手を隠しながらいつものように嬉しそうに微笑んで出迎えてくれる。しかし三回に一回は、先のようにぼんやりと忘我の状態であった。
その頻度も、段々と忘我の割合が高くなる。雪蓮の中から雪蓮が消えていくようだ、と王晠は感じた。
あるとき。彼女の牢から、獣の断末魔のごとき絶叫が一帯に響き渡っていた。聞きつけた王晠が彼女のもとへ向かおうとするも。
「なりません殿下。いまはお引き取りを」
普段は王晠のことなぞ意にも介さないはずのしのぶが、今回ばかりは立ちはだかる。
「でも! 雪蓮殿が……!」
「殿下に危害が及びかねませんし、それに……」
しのぶは顔色を変えぬまま、一呼吸置き。
「彼女もいまのお姿を、誰にも見られたくないはず」
その一声に、王晠の脳裏では先日の記憶が蘇る。
銀色の鱗に覆われた、彼女の左手。
「…………っ!」
王晠は諦めて、振り切るように踵を返した。走り去る中、吠え声が果てもなく響き渡る。
毒餌に苦しむ狼のようにも、屠殺される豚のようにも聞こえる咆吼。苦悶と狂気、それから幾ばくかの哀しみを感じさせるそれは、紛れもない、雪蓮の声だ。
痛い。苦しい。
檻の中で雪蓮は、ずっと苦しんでいた。
気付けば左の手に現れ始めた銀の鱗は、左腕から胸へと浸食の度合いを強めている。今朝、なんとなく頬に手を当ててみれば、鱗の感触がした。
己に起きている変化が心底恐ろしかった。段々と、彼女は人間でなくなっていく。
外見の変化ばかりが恐ろしいのではない。
もっとも凄まじいことが、彼女の華奢な身の内で起きていた。
獣の声で吠えた次の日。
雪蓮は唸っていた。太華の言葉ではない、どこともしれない国の言葉で。その言の葉に籠められているのは、やはり苦痛と哀しみ。
あるときは下卑た台詞を狂ったような哄笑に乗せて吐き散らかしていた。あるときは号泣に咽び、あるときは噛みつかんばかりの勢いで怒号を発した。石のように全く動かないこともあった。
彼女の内には、様々な時代の生命、物の記憶が渦巻いていた。苦痛や哀しみばかりの、記憶。
虎に狩られる兎の最期の酷痛。
夫を殺された妻。妻を殺された夫。また殺された本人。
胸を刃が刺し貫く感覚。また、即死を免れたまま血が身体から流れ出て、段々と死んでいく感覚。
大事な人を奪われる悲しさ。つらさ。恨み。
長城を割く寡婦の慟哭。
狼に喉を裂かれて息絶える獐。
偉大なる将軍は部下の裏切りによって事切れ、美姫は蛇毒により不帰の客となる。
千載一遇の機に仕損じた刺客は斬り刻まれ、数多の学者が生き埋めにされ、後宮では帝の寵妃が厠所で無残な最期を遂げた。
戦場の記憶はとりわけ凄惨だった。剣戟が幾千幾百の血を吸い、火薬を籠めた兵器により何万という肉が弾け飛んだ。
その一つ一つの死を、苦痛を、無念を、失意を。雪蓮の精神は追う。
朝も昼も夜もなかった。一日の内に少女は何千何万回と死んだ。
いつしか、『雪蓮』にかえる瞬間は少なくなっていった。
ふとあるとき、低い声で誰にともなく彼女は答えた。「いかにも自分は隴西の李徴である」と。
もはや己が何者か分からなくなっていった。雪蓮なのか隴西の李徴とやらなのか、はたまた虎なのか。それとも別の何者か。
王晠はぱたりと来なくなった。きっと怖くなったのだろう。
それでも雪蓮は、啜り泣きながら見張りのしのぶへ所望した。
「しのぶさん……お願いです。なにか……身体をすっぽり覆い隠せるものを……」
銀の浸食は止まらず、そして。
月が明るい晩のこと。
雪蓮は床に身を投げ出すようにして、仰向けに寝転がっていた。しのぶに貰った布も、すっかり放り出して。
白い衣から伸びた手足はすっかり銀の色。
夜天、月下の雲はするすると空を滑っていく。雲間から漏れる月明かりが牢に一つだけある窓から入り込んで、さながら小川の流れのよう。銀鱗に月光が輝いて、雪蓮はまるで水の中を流れているようだ。
月光のせせらぎの中で、少女は歌っていた。
〽亮水滔々、湖水漫々
通月の水に 明月落ちて
晩風蕭々 月色煌々
嫦娥哭して 月輪円し
いつか、あの湖畔の道を彼と行きながら歌った歌。無垢な歌声が、かすれかすれ詞を紡ぐ。
歌いながら、彼女の身のうちにはやはり重苦が渦巻いていた。死だけではない、人の心の耐えきれない、ありとあらゆる悲痛。
夷狄の王へ嫁した美女。
敵国の捕虜となり、失意のまま老いた男。
忠を尽くし国に報いるも、冤罪により謀殺された将。
異民族の総攻撃に晒された都、捨てざるを得なかった人々。
銃火器により奪われる命の数々。
陰湿な嫌がらせにより、心を病むものもいた。
宇宙空間にあるはずの居住区が落ちてきて大勢死んだ。
とある信仰者は銃殺され、とある王子は国を追われ。
砂漠で飢えて死にゆく者。宮刑の屈辱。
手首の傷が増える。墓前で祈る手は震えている。
飢饉のたび、どれだけの人が苦しんだだろう。
人の歴史、生命の営みの分、雪蓮を圧し潰す愛別離苦の数々。
汨羅へ身を投げた詩人の絶望よ。
磔にされ、炎に身を焼かれる救国の聖女。
八月、何十万という人々を熱光が灼いた。
神経は痛みを再生し続ける。心は嘆きと叫喚とを反復する。
彼女の脳は繰り返した。あらゆる悲劇を。あらゆる惨憺を。
エリ、エリ、レマ、サバクタニ。
ああ、かみさま、かみさま。
どうして、どうして。
延々と続く彼女の歌を、しのぶは無表情で聞いている。その覆面の内で、何を思っているのかはうかがい知れない。
巽もまた、暴室の屋根の上でそれを聞いていた。月下、忍びはただ黙り込んでいる。
「鴻鈞道人! 鴻鈞道人はいるか!」
泣きはらした目で後宮の回廊を荒っぽく歩き、怒りのまま王晠は目的の人物を見つけ出した。たった一人きりで、宛がわれた部屋にいた。
雪蓮の話からして、この霊薬にまつわる企みの元凶は間違いなくかの仙女だ。
金髪碧眼、異彩を放つ風采の美女──鴻鈞道人は、いつもの通り優雅にこちらを振り向く。
「おや、どういたしました殿下。御目が腫れていらっしゃいますが」
「貴様! あの娘を……あの娘を……!」
王晠は怒りにまかせて、その胸ぐらを掴んだ。
先刻、雪蓮の牢の前で聞いた歌。あんなに悲しい響きを、王晠は聞いたことがない。いてもたってもいられなかった。
「霊薬とはなんだ! あの娘をどうする気だ!」
「おやおや」
太子の剣幕にも、鴻鈞道人は動じない。優しく胸ぐらを掴む手をほどき、少し肩を竦める仕草をして、
「どうするもこうするも……あの娘はあなたたち親子のお役に立つためにここにいます。栄国の民としては光栄でしょう」
「ふっ、ふざっ……!」
ふざけるなと言いたかったが、怒りのあまりその先は声にならない。そんな少年に、鴻鈞道人は美しい顔をほころばせた。
「ご安心ください殿下。我々があの娘に為したことは、もうじき日の目を見るでしょう。お優しいあなたですから、最初は心も痛みましょうが」
屈み込み、王晠へ視線を合わせ。碧の瞳が、なんのゆらぎもなくささやく。
「もうあの娘を元に戻す方法など無いのです。お受け入れください」
柔らかく、酷薄な言葉。
「…………ッ!」
王晠は血が出るほどに唇を噛みしめると、道人に背を向けて走り出した。
──何もできないのか。
──私には、なにも。
がむしゃらに後宮の庭を駆けながら、王晠は無力感にさいなまれていた。
立ち止まれば、あの暴室の前だ。歌声はまだかすかに響いている。
救いたい。けれど、どうすれば。
そのとき。月夜でなければ、きっと気付かなかっただろう。
暴室の屋根に、顔見知りの姿。
黒装束に三白眼。八洲の忍び、木ノ枝巽。
「巽殿! お願いだ、巽殿!」
王晠が叫ぶと、巽は音をたてずに屋根から地へ降り立つ。
月がちょうど逆光になっていて、表情はよく分からない。そんな彼へ、王晠は跪いた。
第二太子という身分もなにもかも、かなぐり捨てて縋り付く。
「助けてくれ……! あの娘を……!」
土に額をつけて懇願する太子を見下ろして。
三白眼はしばし、迷いの気配を見せていたけれど。
やがてその目は意を決した。




