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12 母・李賢妃

「ねえ、お師匠さま」

「なんだい、黄雲」


 寝台の脇で寝かしつけてくれている師匠に問いかければ、優しい声が返ってくる。

 うとうとしながら尋ねてみたのは、ずっと気になっていたこと。


「……僕のお母さんって、どんな人なの?」


 その質問に。師匠は困ったように微笑んで見せる。


「さあなあ……私は直接会ったことがないからなぁ」

「そうなんだ……」


 あからさまにがっかりした声で嘆息すれば、師匠は白い手でぽんぽんと、彼の頭を撫でながら続けてくれた。


「会ったことはないが……お前が清流堂(ここ)へ預けられたのは、お前の母上がその身を案じたがゆえのことだ。黄雲。お前の母は、間違いなくお前のことを大事に想っているよ」


 茶色い髪を、愛しそうに撫でる指。その感触が心地良くて、紡がれるその声が柔らかくて。幼い黄雲は段々と眠りに落ちていく。


「お母さん……」


 師匠のことは大好きだ。けれども、思わずにはいられない。

 もし母のもとを離れずにいたならば。母の指は、師匠と同じようにこの髪を撫でてくれただろうか。

 微睡みは深くなり、そして……。




「…………」


 夢から覚め、目を開けば。視界一面に広がるは、もはや見慣れた太子殿の天井である。


(夢か)


 身を起こしながら、黄雲は目尻をぬぐう。随分と懐かしい思い出を夢に見ていたようだ。


(母親……)


 幼い頃から、気にはなっていた。自分を生んだ母が、どんな人なのか。

 まだ見ぬ母へ向かう思いは複雑だった。師匠はこの身を案じて致し方なくと言うが、己を手放したことはなんとも許しがたい。けれども、心底恨んでいるわけではない。

 黄雲は師匠である清流道人のことを、内心では母同然に思っている。しかし、生みの母のことも正直──気にかかる。


 母。李賢妃(りけんひ)


 皇太子や潘天師が語る黄雲の身上は、やれ皇帝の第二子だの西の昭国・亡き茅頭王(ぼうとうおう)の孫だのと突拍子もない。が、母である李賢妃にまつわる事柄は、ほとんど伝えられていない。

 どんな人柄で、どんな暮らしをしているのか。皇太子も潘天師も、今のところ語る気配はない。

 賢妃……というからには、皇帝の妃として、後宮で生活しているのだろうけれど。

 黄雲は再び天井を仰いだ。華麗な装飾を施された梁が、少年を見下ろしている。夢で見た清流堂のおんぼろ天井を思い返すと、なんだかやりきれなくなってくる。

 耳元に、師の声がふと蘇った。


『黄雲。お前の母は、間違いなくお前のことを大事に想っているよ』

(大事に想っているなら、助けてくれよ母さん……)


 苛立ちとも思慕とも分からぬ感情を、見知らぬ母へ叩きつけながら。

 黄雲は乱暴に寝台を降りた。

 今日も、また一日が始まる。


-----------------------------------------------------------------


 そしてその日も、いつものように辛く、つまらない一日が明けて暮れるのだと思っていた。

 違った。教壇に立っていたのは、一人の老女だった。宮女の衣装を身につけている。

 珍しいことだった。これまで黄雲を教導してきたのはいずれも翰林(かんりん)の学士で、みな男性だったからだ。


(てん)、紹介しよう」


 後から入ってきた皇太子が彼女を指して言う。


「こちらは胡氏(こし)。今日はお前に、昭国の言葉と文字を教えてくださる」


 紹介を受けて。胡氏は黄雲と皇太子へそれぞれ、恭しい礼を送った。仕草の都度、耳につけた色鮮やかな飾り物がゆらゆら揺れる。

 顔立ちの雰囲気が、なんとなく太華の人間と違うような。肌も少し浅黒い。昭の言葉を教えてくれるというには、おそらく彼の地の出身なのだろう。

 皇太子は胡氏へ丁寧な礼を返したっきり、彼女について詳しく語らない。「はじめてくれ」と短い言葉で授業の開始を促した。


「……黄雲さま」


 一瞬ためらった様子を見せた後、老女はそう呼びかけた。太子殿の、皇太子と潘天師以外の下働き達と、同じように恭しく。そしてこちらへ向けられる、不器用な微笑。


「よいですか。昭国には独自の言葉と、そして文字があります。太華のものと似てはいますが──」


 そうして始まった授業は、他の科目と大差ない、退屈なものだった。




 昭。風と砂が吹きすさぶ国。沈砂(しんしゃ)族の国。

 その国の王になる前提の講義。退屈に思いながら、黄雲はまるで実感がなかった。胡氏の紡ぐ昭国の言葉を不器用な発音で繰り返し、つらつらと時間は流れていく。

 そんな中、その瞬間は唐突に訪れた。


「う……」


 急に胡氏は声を詰まらせて、両手で顔を覆った。続く嗚咽の音。

 もちろん黄雲は突然のことにぎょっと狼狽するが、皇太子は冷静な面持ちのまま胡氏へ歩み寄り。


「胡殿、少し休まれてはいかがか」


 至極優しげな声で老女を労った。気遣いの仕方は、まるで孫の祖母に対するそれである。

 胡氏は懐から手巾を出して目尻をぬぐいつつ、心底申し訳なさそうに皇太子へ謝罪の言葉を繰り返した。


「殿下、申し訳ございません……申し訳ございません……」


 そんなやりとりを見ながら、黄雲、わけが分からない。どうしていきなり泣き出したのか。

 呆気にとられていると、老女の謝罪は黄雲へも向けられる。


「突然のことで、驚かれましたでしょう。面目次第もございません……」

「いえ……」

「本当に、綺麗で……懐かしい御髪(おぐし)をお持ちでいらっしゃるから……」

「?」


 突然泣かれたかと思えば、今度は髪を褒められた。黄雲、ここに至って本当にまったくわけが分からない。

 そんな彼の心境を知ってか知らずか、胡氏は感極まった様子で続けようとする。


「賢妃さまも、かく成長なされたあなた様を御覧になれば、きっと……」

「胡殿」


 その先は皇太子によって制される。はっと気付いた様子の胡氏、「差し出がましいことを申しました」と、今度はそのことについて再三詫び始める。

 結局胡氏は、外で待っていたらしい侍女に伴われ、別室へと向かっていった。

 ことの顛末に何がなんだかさっぱりの黄雲は、傍らの兄へ問いかける。


「……いったい何だったんです?」

「…………」


 黄雲の問いかけに、兄はしばらく無言であったが。


「胡殿は……お前の母の乳母(めのと)だよ」


 しばしの逡巡の末、胡氏の身の上を明かしてくれた。


「胡殿は李賢妃(りけんひ)の輿入れのとき、彼女の守り役として昭国から同行し、来朝した。賢妃にとっては母親同然の人物だ」


 そして賢妃の乳母ということで、その父・茅頭王(ぼうとうおう)とも面識がある。


「先ほど泣き出してしまったのは、お前の髪が茅頭王と同じ色をしていたからだよ。胡殿はずいぶん、かの王を慕っていたようだから」


 幾分かくだけた言葉遣いになりつつ、皇太子は少しはにかんで見せた。

 それは黄雲にとって、意外な表情だった。いままでの皇太子と言えば、涼やかで冷ややかで横柄で……鼻持ちならない高貴さの持ち主であったから。

 そんな顔できるんだな、と黄雲が思っていると。


(てん)。お前の母は、私の恩人なんだ」


 皇太子は神妙な口調で語り出した。後ろの壁際で授業を眺めていた潘天師は、どこか遠くを見ている。


「……物心もつかぬうちに母を亡くした私を、後宮で唯一守ってくれたのが李賢妃だった。蔡碧玉(さいへきぎょく)の権謀渦巻く後宮において、手ずから食事を作り、内廷ではそつなく立ち回り、私に害が及ばぬよう庇護の限りを尽くしてくれた」

「…………」

「……いま思えば、生き別れたお前の代わりであったのかもしれないがな」


 少し自嘲気味に笑ったかと思えば、皇太子の横顔は哀愁を帯びる。


「実を言うと李賢妃は今、病の床にあられる。随分長い病で、病状は刻々と悪くなっている。典医が言うには、もう長くはないらしい」

「………………」


 皇太子の口調は淡々とした風を装ってはいるものの、どこか切羽詰まった色がにじんでいた。

 黄雲は何も言えなかった。恨めしく、慕わしく思っていた母が、いま目の前にいる異母兄(あに)の母代わりで……死の淵にある。


「纏、会ってみたいとは思わないか?」


 兄は問いかける。今までに見せたことのない、ひどく優しげな眼差しがこちらを見ていた。




 その日、午後の剣術鍛錬は免除となった。帰された自室で、黄雲はずっと物思いに耽っている。

 結局あのとき、黄雲が皇太子へ告げたのは「会いたい」の一言だった。それは、正しい判断だったのか否か。

 おそらくああ聞かれてそう答えたからには、早晩、李賢妃に──母に会うことになるだろう。

 今朝見た夢のことも手伝って、黄雲はあれこれと、物静かに思い煩っていた。窓の外には木枯らしが吹きすさび、気付けば黄昏が天を覆っている。


──会ってどうするのだ。


 生き別れていた分の愛情を注いでほしいのか。

 いまのこの境遇から救ってほしいのか。


 一方で、黄雲の中の冷静な部分はこうも思っている。

 病の床にあるというからには、母はきっと後宮から動くこともできまい。となれば母に会うとなれば後宮まで赴く必要があるわけで。

 ならば雪蓮──ひいては霊薬(エリキサ)の情報に、一歩近づける。霊薬(エリキサ)に一番近いと目されるのは、現状後宮および皇后だ。

 頭の片隅で冷静に考えつつも、黄雲は病床の賢妃を利用することに一抹の後ろめたさを感じていた。


「入るぞ」


 不意に扉の外から声が投げかけられる。黄雲の返事を待たず、部屋に踏み入ってきたのは潘天師。


「…………」


 最初はこんなとき、文句たらたらだったはずの黄雲だけれども。いまはもはや何とも思わないし何も言わない。慣れた、というより、感覚が鈍磨しただけだ。ゆっくりと視線を中年道士へと向ければ、潘天師は案じ顔でため息を吐いた。


「……お前さん、大丈夫か? なんだかこの頃は顔色も悪いわ、口数も減るわ……」

「心配するくらいなら、元の道士の身に戻してくれませんか」


 椅子の上で片膝立てたまま、黄雲は冷淡に言葉を飛ばす。本人は無意識だが、表情や言い草が兄そっくりになってしまっている。

 潘天師はそんな彼へ深いため息を吐き、やれやれと肩を竦めて見せた。


「まったく、それを言われちゃかなわんな。残念だが、そりゃ出来ぬ相談だ」

「…………」


 黄雲としてはわかりきっていた返答。冷たい視線を飛ばすが、潘天師、気付かぬふりでオホンと咳払いをひとつ。


「さて、それよりだな。明晩、李賢妃のもとへ目通りすることとなった」


 黄雲は無言。だったが、胸の内ではドクンと心臓がはねていた。


「今日、殿下がお話しされたように……賢妃は病の床にある。つまりは後宮のお住まいから動かれぬということだ。ゆえに、我々が後宮へ向かわねばならない」

「後宮へ……」


 思っていた通りの成り行き。

 しかし、後宮という場所は天子以外の男子の立ち入りを禁じている。無論、皇太子ですらも。

 だから賢妃のもとへ向かうならば、件の術を用いねばならない。


「後宮へは吾輩の隠身術を使って潜入する。いいか、もし万が一見つかれば大罪だ。殿下はまあ……ご自分でなんとか切り抜けられるかもしれんが、我々は発見され次第即殺されても文句は言えぬ。だから吾輩から離れぬよう、よろしく頼むぞ」

「…………」


 やはり無言の黄雲に、天師はため息をひとつ。

 そしてしばらく口をもごもごさせて、言葉を選びながら話し始めた。


「その……あのな。賢妃さまなんだが、実はさきほど殿下宛てに文を送られてだな。それで是非、お前さんに会いたいと……そういう事の運びだったわけなんだが……」

「…………」


 黄雲、視線だけを潘天師へ向ける。天師はそんな彼へ、しばらく言い淀み。


「……先日、殿下がお前さんに罪人を処断させようとしたことがあったろう。あの一件、実は胡殿を通じ、吾輩が賢妃さまにお伝えしておいた」

「それは……」


 潘天師の発言は、黄雲には予想外だった。そして様々な懸念が巡る。病床の賢妃へ、余計な衝撃と懊悩とを、あたえはしなかっただろうか。


「賢妃さまったら、吾輩が告げ口したことを文にしっかり書くもんだから、吾輩ってば殿下に大目玉食らっちゃってだな?」


 なお黄雲、このおっさんの心配は一切していない。

 さて、潘天師はちょっとだけおどけてみせた後、ぎこちなく微笑を作って黄雲へ語りかけた。


「少年。賢妃さまは、お前さんのことを大層案じていらっしゃる。市井で育ったお前さんが、慣れぬ宮廷生活で疲弊していないか、気にかけておられるのだ」

「…………」

「おそらくは明日、殿下を諭してくださるのではないかと思うぞ。もとの環境に戻ることは……まあ難しいだろうが、お前さんも少しは気楽になれるはずだ」


 潘天師が言ってることは、おそらくは気休め。

 そう頭では分かっているものの。


「……わかりました。明日はどうぞ、よろしくお願いします」


 素っ気なく言いながら、黄雲はそっぽを向いた。無作法は承知の上。けれども、どうしても顔を見られたくはなかったから。

 そんな黄雲へ、天師は軽く笑いかけたようだった。

 そして中年道士はいつもの口調に戻り。


「それじゃ、また明日だ」


 そっと片手を上げ、部屋を辞していった。

 気付けば窓外の陽は落ちる寸前。赤光が、黄雲の頬を照らしている。


(僕は……)


 静かに沈む夕陽を眺めながら、黄雲の時間は静かに過ぎていく。




 さて、黄雲の部屋を出た潘天師は、廊下にて呼び止められた。


「天師」


 柱の陰で待ち構えていたのは、皇太子・王暻(おうけい)。放った一言は咎めるような声だった。


(あいつ)に余計なことは言ってはいまいな?」


 先の黄雲とのやりとりを予見していたのか。その問いかけに潘天師、内心「うへぇ」。


「いやぁ、さ~て……」

「はぐらかすということは、何か言ったんだな」


 皇太子はため息交じりに言い、呆れた様子。


「まったくお前は……賢妃にもいらぬ告げ口をしてお心を煩わせる」

「いやはや、致し方なしというかなんというか……あのままではあの少年、気の毒ですし」

「……そうだな、お前はあいつを亮州へ連れて行った、張本人だからな」


 情が湧くのも仕方がない、と皇太子は潘天師の立場に理解を示してみせる。が、すぐに顔と声を引き締めて告げる。


「だが、私の考えは変わらない。お前があいつをどう思っていようが、賢妃になんと言われようが。この栄朝の皇統に生まれたからには、太華のために死ぬことこそ纏の必定。昭国の王となることこそが、あいつの運命だ」

「…………」

「勘違いするな。纏を賢妃に引き合わせるのは、決して纏のためじゃない。賢妃のためだ」


 薄暗い廊下の中で、皇太子がきつく拳を握る気配。

 彼が母と慕う賢妃は、余命幾ばくも無い。本当は黄雲が太子殿に来たときから、彼を賢妃に引き合わせたいと皇太子が思っていたことを、潘天師も知っている。後宮を訪う時期を見定めている内に、少々月日は経ってしまったが。今日、胡氏を後宮から呼び寄せたことでふんぎりがついたのだろう。

 きっと皇太子は、賢妃が──実の我が子に、纏に会う喜びで快方に向かうことを、期待している。

 期待しながら、少し寂しく思っているに違いない。国を動かすための才覚と素質に恵まれているとはいえ、まだ十八の青年だ。


「天師。明日はくれぐれも、よろしく頼む」

「御意に……」


 青い心に、威厳の鎧を着せて。皇太子は廊下を堂々歩き去って行く。


(賢妃さま……これで良かったのだろうか)


 潘天師はその背を見送りつつ、心中で問いかける。思い出すのは、一四年前のあの日。茶色い髪の赤子を胸に抱いた彼女の姿で。

 あのとき彼女が願っていたことは、こういうことだったのだろうか。育った赤子のこの顛末を見て、天師は分からなくなる。

 と、重い気持ちで沈思する潘天師であったが。


「……うむ?」


 不意に眉をしかめた。なんだか服がもぞもぞする。


「な、なんだなんだ?」


 黄色い道服の中で、なにか小さな物がうぞうぞ蠢く気配。しかしそれも一瞬のこと。

 違和感はすぐに消えた。潘天師、首を傾げながら思う。


(……肌着でもずれたか?)


 うーむ、としばし黒い蓬髪をわしわしかきむしり。

 天師も踵を返し、宛がわれた部屋へと戻っていく。

 さて、その背中……襟首のあたりにしがみついているのは。


「……ちう」


 気付かれぬほど小さな声で鳴く、三つ眼のねずみの姿。




 その夜から、次の日の夜にかけて。黄雲がこんなに時間が長いと思ったのは、初めてのことだ。

 普段より一層眠れぬ夜を明かし、普段通りの授業を受けて、いつものように剣術の稽古をつけられた。

 一日通して黄雲は無言だった。頭の中ではぐるぐるといろんなことが巡っていた。


 実の母に対する、純粋な興味。

 しかし母を思うほどに、育ての親である清流道人に対しては、どうしてか罪悪感が湧く。

 そして皇太子が母を育ての親と慕っていると知った今、彼へ向かう感情はより複雑だ。

 それから後宮のこと、霊薬(エリキサ)のこと。

 考えれば考えるほど、頭の中がこんがらがっていく。皇太子も潘天師も、今日は一見すると普段通りで、でもふと、物思いに耽りがちのようで。


 そして夜が来た。


「纏、行くぞ」


 自室で待機していた黄雲を兄が呼びに来た。後ろには潘天師が控えている。

 黄雲は手に持っていた物を、無造作に懐へ突っ込んで立ち上がった。太子殿に来て以降いつも身につけているものだ。白玉の、帯飾り。

 一日経っても処理しきれない感情の(おり)を抱えたまま、黄雲は二人の後に続いて部屋を……そして太子殿を出た。




「では、お二方とも。吾輩の近くに」


 宵闇の中で、潘天師が声を落としながら告げる。そして、その懐から取り出す術符。


「消声! 隠身!」


 潘天師が氣を籠めるのが、黄雲には分かる。道術や氣を意識するのは、久々の感覚だ。

 そして月下、三人の姿は消え、彼らが立てる物音も失せた。が、天師の術の内にいる三人にはお互いの姿が知覚できるし、会話もできる。


「いいですか。あんまり吾輩から離れすぎると、術の効果がなくなります。何卒ご注意を」


 そして三人は紫庭を行く。月に照らされた瑠璃瓦は荘厳に輝き、庭園の小川は静かに流れる。宮殿の影と影を縫い、警備の兵を横目に堂々歩き、たどり着いたのは後宮の区画。軒下に吊された灯籠が周囲に暖光を投げかけていて、建物のうちからは時折女性の笑い声が聞こえてくる。

 これまでは脱出の機会をうかがっていたにも関わらず、黄雲は大人しく二人につられて歩いていた。こうして歩きながら、心の中はまだごっちゃで、色んな迷いがせめぎ合っていた。

 いくつか殿閣がある中を、潘天師と皇太子は迷わずに進んでいく。そしてとある殿舎の前で、二人は足を止めた。黄雲も続けて立ち止まり、建物を振り仰いだ。夜目にも分かるほど、荘厳玲瓏たる宮殿だ。門戸の上に掲げられた扁額には「青鸞(せいらん)殿」の三文字。

 そこでようやく潘天師は術を解いた。三人の姿と声が明るみに出る。すると、彼らに向けて発せられる声。


「お待ちしておりました」


 宮殿の前で、誰かが待ち構えている。深々礼をして近付いてきたのは、年老いた男女が一人ずつ。

 一人は黄雲も知っている人物だ。昨日太子殿でまみえた胡氏。それと。


「こちらはこの青鸞殿を取り仕切っている者だ。私は裴爺(はいじい)と呼んでいる」


 皇太子が紹介したのは、かなり高齢の人物である。背が曲がり、腰は折れ、顔中にしわが刻まれている。

 体つきの輪郭が丸みを帯びているので、一見して黄雲は老婆かと思った。しかし着ている衣服は男性のもので、呼び名は裴「爺」。つまるところ、宦官(かんがん)なのだろう。

 裴爺は顔中のしわをさらにクシャクシャにして、破顔の様相で皇太子を迎える。


「殿下、よくお見えに」

「久しぶりだな裴爺、息災か?」

「はァ?」

「息災かと聞いている」

「はァ? 全然聞こえん」

「もういい、行こう」


 皇太子、諦めて青鸞殿へ。どうやらこの裴爺、相当耳が悪いらしい。

 なんなんだこのじいさん、と黄雲も兄に続こうとするが。


「おぉ……あなた様が、賢妃さまの……」


 裴爺、嬉しそうに黄雲の前方に回り込む。どうやら黄雲の事情は知っているようだけれど。


「ようやっと、この日が来ましたなぁ。賢妃さまも、さぞお喜びになるでしょう。ささ、私と胡氏がご案内しますで、こちらへどうぞ」

「え、ええ……よろしくお願い致します」

「はァ? いまなんつった?」

「あの、よろしくお願いしますと……」

「はァ?」

「纏、構うな。案内だけさせておけ」


 耳遠く、話の進まないじいさんである。皇太子が制止をかけなければいつまでも不毛なやりとりが続いたことだろう。

 さて、そんな裴爺の案内で、一行は青鸞殿の廊下を行く。青鸞殿は李賢妃以外にもたくさんの妃や宮女が住んでいるらしく、広大なうえ部屋数も多数。確かに案内がなければ迷ってしまいそうな場所だった。

 途中、ここに住む女性に会うことはなかった。今晩のため、部屋を出ないよう賢妃から達しが出ているのだろうか。しかし確かに、そこかしこに人の気配はある。

 裴爺は長年ここに住んでいるからか、一切迷うことなく李賢妃の房へ向かう。胡氏も道順は知っているらしかったが、裴爺の顔を立てているのか、ずっと彼の後ろに控えたままである。

 そしてやっと、奥まった一室へたどり着いた。

 

「こちらのお部屋です」


 裴爺は立ち止まり、ゆっくりと一行を振り返る。

 ひときわ静かな場所だ。部屋の扉は固く閉じられ、周辺の空気は凜と張り詰めている。


 この、扉の奥に。


 黄雲はごくりと喉を鳴らす。固唾が胸の奥へ流れていく。心臓はゆっくりと、しかし深く脈打っていた。我知らず、息づかいは緊張の様相。

 そんな彼へ、皇太子が振り返った。燭台の火に照らされて、兄の顔には柔らかい微笑。


「纏。心の準備もあるだろう。賢妃へは先に、私と潘天師が挨拶に行く。お前はしばしここで裴爺と待っていなさい」


 彼なりの気遣いなのだろう。皇太子は胡氏へ目線を飛ばし、扉へ近付いていく。心得た胡氏が扉を開き、迎え入れる。ちょうど黄雲が立っている位置からは、部屋の中がよく見えない。

 潘天師はといえば、黄雲を見下ろしながら何か言いたげにしていたが。


「天師。行くぞ」

「……はい、ただいま」


 皇太子に呼びつけられて、そっと踵を返した。結局、何も言わずに潘天師も扉の奥へ消える。


 胡氏が部屋の内に入り、扉を閉めた。すると扉の奥からは、くぐもった会話の声が漏れ聞こえてくる。

 廊下に裴爺と残された黄雲は、その声に耳を傾けていた。皇太子、潘天師以外に、か細い女性の声が聞こえてくる。

 何を喋っているのかは分からない。けれども、その声が驚くほどに柔らかで。

 

(この声が……母さん……)


 嬉しそうに語りかける声に、黄雲の中の不安や惑いが溶けていくようだった。

 裴爺は扉を背に、ただにこにことしながら佇んでいる。親子の再会を、本心から喜んでいる顔だ。

 やがて母の声が涙ぐみ始めた。それが伝わって、黄雲の鼻もツンとし始める。目頭が熱くなる。

 あの扉の奥のあたたかさに、はやく触れてみたいと思った──そのときだった。

 廊下にふと、人の気配が湧いた。


「ねえ、あの子でしょ?」

「きっとそうだわ」


 声を潜めて交わされる声が、二人分。通りすがりの女官だろうか。裴爺は耳が遠いので、気付かない様子。しかし黄雲の耳は嫌が応にもその声を拾ってしまう。

 世間話の口調で会話は続く。


「賢妃さまも、虫も殺せないような顔してよくやったわよね」

「ほんとよ……我が子生かすため、身代わりに下民の赤子を殺すなんて」


 さ、聞かれちゃたまらない。さっさと行きましょ。

……なんて台詞を残し、女官二人の気配は去って行った。

 けれども。


──身代わり。

──下民の赤子を。


(殺した……?)


 黄雲は、全身が一気に冷たくなっていくようだった。

 声の方を振り返ってみるが、もはや誰もいない。先刻までのあたたかい感情は完全に失せた。いまはただ、疑念と衝撃ばかりが頭の中を巡っている。

 裴爺は何も聞こえていなかったのか、まだにこにこしている。しかしもう、その顔もそらぞらしいだけだ。

 よくよく考えてみれば、十四年前、黄雲が後宮より避難させられた事の顛末。賢妃が妊娠していたことは、周知されていたはずだ。生まれた我が子を何処かへ隠すためには、例え死産のふりをしていたとしても、赤子の死体が必要なはずで。

 考えれば考えるほど、それがおぞましい真実に思えてくる。

 黄雲の脳裏には、ふと師と潘天師の声が去来した。


『黄雲。お前の母は、間違いなくお前のことを大事に想っているよ』

『少年。賢妃さまは、お前さんのことを大層案じていらっしゃる』


 想って、案じてくれていたとしても。

 己を生かすため、他を殺すことは、決して……。


「纏。入りなさい」


 そして扉が開き、皇太子が顔を出した。


「賢妃がお待ちだ。さあ」




 通された部屋の中は、和やかな雰囲気だった。

 妃の房の奥、李賢妃は──母は椅子から立ち上がり、我が子を出迎えた。

 黒い髪。ぱっちりした瞳。美しいけれど、やつれた顔。

 母は黄雲を一目見るなり、ぽろりと涙をこぼした。


「纏……」


 万感の思いを込めて、やっとのことで賢妃はその名を呼ぶ。

 そんな母を真正面から見つめながら。

 黄雲は蒼白な顔で口を開いた。そして震える声で問う。


「赤子を殺したというのは本当ですか」

「……え?」

「僕の身代わりに、別の赤子を殺したというのは……!」


 賢妃の顔がさっと青ざめる。そして。


「どうして、それを……」


 母のその一言を聞いたとき、黄雲は先の女官の噂話が真実であったことを確信した。

 ぐっと唇を噛みしめる。

 同時に我が身が恐ろしくなった。厭わしくなった。

 目前では、李賢妃がへなへなとへたり込むところ。胡氏や潘天師が慌てて支える中、皇太子は射貫くような視線を黄雲へ向けた。


「纏! お前、どこでそれを……!」


 乱暴に弟の胸ぐらを掴みながら、兄は「誰に聞いた、言え!」と眉を怒らせる。しかし。


「誰かに聞いたと言えば、またその誰かを殺すのでしょう!」


 少年は叫び返す。わなわなと震える唇で、周囲の人間すべてを見回しながら言う。


「僕は……僕はもう嫌だ! この人殺しども!」

「貴様!」


 皇太子の拳が、黄雲の横っ面を殴りつけた。鈍い音が部屋に響き、賢妃の顔色はいっそう悪くなり、潘天師らは唖然としている。

 後ろざまに倒れ込んだ黄雲は、口の端から血を流しながら起き上がる。殴られた拍子に口の中を切ったらしい。血の味がする。

 口元を袖で拭えば、当然赤いものが付く。それが心底穢らわしく感じられた。他人の命を奪って長らえた血だ。

 弾かれたように黄雲は駆け出した。この場に居たくなかった。一刻も早く消え去りたいと思った。


「ま、待て!」


 慌てて潘天師が追いすがる。周囲も色めき立って黄雲を追おうと躍起だ。


「頼む! 吾輩の話を聞いてくれ! 話を!」


 天師の悲痛な声が背中へ呼びかけてくるが、黄雲は止まらなかった。

 黄雲へ手を伸ばす潘天師の袖からさらに、黄雲を追うように転び出るねずみが一匹。

 しかし小さなねずみはころりと地面に落ち、「ぢぅ」と痛そうにひと鳴きするだけで精一杯。

 そんなことに構わず、黄雲は懐に忍ばせておいた術符を取り出し、氣を籠める。

 ふっ、と少年の姿と気配は、青鸞殿から消えた。


「消えた……?」

「まさか……術符を!?」


 忽然と消えた少年に、皇太子は瞠目し、潘天師はいまさら失態を自覚するも後の祭りである。

 その後、殿中総出で捜索が行われたものの、甲斐無く黄雲の姿は見つからなかった。


---------------------------------------------


 どこをどう走ったのか、黄雲はまったく覚えていない。

 気がつけば後宮のどこぞの庭園の、瀟洒な造りの橋の上にいた。

 術符の効力はとっくに切れている。肩で息をしながら下を見下ろせば、月明かりの中、水面に自分の姿が映る。

 それを見たくなくて、目をそらした。


 いままで気楽な道士として生きてきた。生殺与奪なんて無縁の人生だと思っていた。誰かを殺めることとは、無縁の人生だと。

 でも違った。人生の始まりにおいて、すでにこの身は他の誰かの骸を踏み台にしていたのだ。


──人殺しども。


 青鸞殿で叫んだあの言葉。皇太子のことでもあったし、李賢妃のことでもあった。

 そして。


(僕も……!)


 行き場のない感情に翻弄されるまま、欄干に顔をうずめる。

 本当にもう、どうすればいいのか分からなかった。

 銭も、信用も、信念も、なにもかも。自分を成していたものが、崩れていく。

 そんなときだった。ガチャガチャと、鎧の音が近付いてくる。

 夜回りの兵士だろうか。でもどうでもよかった。見つかるなら見つかってしまえ、いっそ殺されてしまえばいいと、黄雲がそのままの姿勢で沈黙していると。


「……禁城北、皇后宮の暴室」


 橋の上、黄雲の後ろを通りつつ、兵士はそうつぶやいた。


「崔雪蓮はそこにいる」

「!」


 はっと振り返れば。一瞬、兵士の顔が目に入る。口髭を生やした彼の左顎に、見覚えのある傷があった。

 いつぞやの老占術師と同じ位置、同じ傷。

 瞬きの間に、兵士の姿は忽然と消えた。しかし彼の正体を考えれば、それ自体は特段驚くようなことではない。

 何より先刻、黄雲に話しかけてきた彼の声は……。


「巽……」

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