11 重圧
そして息の詰まるような毎日が始まった。
朝、日も昇らぬうちから起こされ、急いで朝餉をかっ込み、教場へ通う日々を黄雲は送っている。
今日も少年は心ここにあらず、生気の抜けた顔面で退屈な講義を聞き流していた。
「つまり十思九徳とは……」
教壇では翰林の学士直々によるありがたいご高説。徳の高い授業は黄雲の両の耳朶を、右から左へ通り抜けていく。もちろん頭には毛ほども残らない。ここにいるのが火眼なら、安眠極まりすぎてきっともう二度と目を覚まさないこと請け合いだ。
(つまんねぇ……)
頬杖でもついてしまいたいくらいの気だるさだけれども、そうもいかない。居眠りすること能わず、それどころか張り詰めた姿勢を僅かでも崩すわけにはいかなかった。
もし、気の緩みを一瞬でも見せたなら。
「ふぁ……」
「ふんっ」
こらえきれなかったあくびがほんの少し口元を緩めただけで、横から飛んでくるのは馬用の鞭。ぴしりと黄雲の手の甲がしたたかに打ち据えられる。
「あだっ!」
「こら纏、集中しろ」
「んのっ……!」
黄雲は手をさすりつつ、恨めしげに傍らの兄を見上げた。皇太子・王暻は涼しい表情のまま、掌の上で鞭をピシピシ弄んでいる。
悔しいことに、こんなやりとりがすでに兄弟のお決まりとなっていた。
──昭の王となるべく。
黄雲には毎日、学士や各種専門家による講義が課せられていた。皇太子の言ったとおり、講義の内容は帝王学から律令礼法、昭国周辺の地理に文化と、多岐にわたる。
当然、今まで市井の道士としてのんびり過ごしてきた黄雲が、そんな授業に馴染めるはずもない。
少年は王になるつもりなど微塵も無かったので当初居眠りする気満々であったが、残念ながら強力な見張り役の登場により、目論見は露と消える。ある朝教場に馬の鞭を携えた皇太子がいたときの絶望感を、黄雲はいまも鮮明に覚えている。
お陰で手の甲がひりひりする毎日だ。文句の一つでも言ってやりたいところだけれど、言ったところでまた鞭が飛んでくるのは明白である。黄雲、強引かつ横暴な兄の前に、為す術が無かった。
「ふぁ~……」
教場の後ろの方では、潘天師が気楽に大あくびを放っていた。うらやましいものである。
(……くそっ!)
黄雲は嫌々居住まいを正しながら、内心は焦燥でいっぱいだった。
(こんなことしてる場合じゃないのに……!)
表面上は真面目に聴講する風を装いつつ、考えることは霊薬──そして雪蓮のこと。
昭王になるのは嫌だ。皇太子の弟という身分もしっくりこない。黄雲はあくまでも、亮州南路街の清流堂で育ったケチな道士。銭を──すなわち信用を重んじる道士であって。
(なんとしてでもお嬢さんを救出して、霊薬を祓わなければ)
それが崔知府との『取引』。銭を得た以上は信用に応えなければならない。雪蓮の顔を思い浮かべると、ちくりと胸が痛むけれど。
(受けた依頼は果たす。貰った銭に報いる。じゃないと、僕は……)
使命感というよりも、やけくそだった。もちろん昭王、第二太子という重圧から逃げたい気持ちもあった。何より、自分が思う自分にしがみつきたかった。
退屈な授業を真摯に聞く振りをしながら、黄雲の胸中は荒れていた。
さて、授業が終わり。
皇太子も講師もさっさと部屋を退出し、残されたのは黄雲一人……かと思えば。
「ぐ~……」
教場に響く安らかないびき。黄雲が振り返ってみれば、中年道士の安穏たる寝顔が目に入る。皇太子が去ったのにも気付かぬほど、本格的に寝入っているようだ。
その懐から覗く、紙切れが数片。
(これは……)
黄雲は起こさぬよう、そっと天師へ近付いた。懐から垣間見える三枚の紙切れにはそれぞれ、『匿氣』、『消声』、そして『隠身』の文字が記されている。
──術符。
ごくりと喉が鳴る。
黄雲は物音を立てずにそそくさと教場を後にした。
懐に、がさごそと紙片を隠しつつ。
皇太子が課したのは勉学だけではない。昼餉を摂った後に黄雲が向かわされるのは、皇族向けの修練場だ。
「さあ剣を取れ、纏」
武術の訓練である。皇太子御自ら師範役となり、毎日欠かさず剣の指導を行っている。
「先日の黒装束の娘を忘れたとは言わさんぞ。己が身は己で守れ。もちろん、昭の王となってからもだ」
皇太子は崔姉妹を上回るほどの武芸の達人。そしてその指導は苛烈そのもの。
「脇が甘い!」
「いった!」
黄雲は前まで桃の木剣を得物にしていたが、特段剣が得意だったわけではない。単に破邪の力が宿っているからである。物の怪退治に都合が良かった、ただそれだけのことで。
師匠の清流道人には武術の心得があったが、彼女からはあくまで手ほどきを受けた程度。黄雲の武芸の腕なんて、素人に毛の生えたようなものである。
そんな彼に、兄は達人の技を強いる。
「踏み込みが甘い!」
「あだっ!」
「構えがなっとらん!」
「いてっ!」
「なにより、太刀筋に覚悟がない!」
「だってぇ……」
訓練用の木剣であちこち打ち据えられ、さらには覚悟だなんだのと心構えを問われて。黄雲、思わず不服の顔が出る。
──だって、やりたくないんだもん。
口が裂けても言えないが、やりたくないものはやりたくない。口には出さずとも、少年の顔に浮かぶ不満の色。兄は「はぁ」と深く呆れのため息をつき、構えていた剣をやるせなく下ろした。
「まったく、お前は勉学も真面目に励まぬし、剣術稽古もこの有様……」
「…………」
「もういい。今日の稽古はこれまで!」
皇太子は剣を収めつつ、一声。その瞬間、黄雲の胸に湧く開放感。
(やった!)
「……とでも言うと思ったか?」
「んなっ!」
皇太子、収めたはずの剣を再び構える。黄雲、一転意気消沈。
「お前はまだ昭王にはなりたくないだのと、我儘を思うておるのだろうがそうはいかん。その性根、この場でたたき直してくれる」
結局この日、日が沈むどころか夜更けまでしごかれたことは、言うまでも無い。
「つかれた……」
遅すぎる夕餉を終え、やっと部屋に帰ってきた黄雲はどさりと寝台へ突っ伏した。皇太子の猛特訓により、手も足も棒のようである。
(くそっ、ふざけんなよあの傲慢太子め……! こんな所、いつだって!)
などと思いつつ、懐から取り出してにらみつける紙片数枚。今日、熟睡中の潘天師からかすめ取った貴重な術符だ。匿氣符に、消声符。それから──隠身符。おそらく隠身とは、先般しのぶの奇襲から黄雲を救うため、潘天師が用いた姿を消す術のことだろう。
これがあれば、姿を隠し、物音と気配を消したまま容易に退散できるはず……だけれども。
いますぐにでもこの部屋から逃げ出したいと急く心に、深呼吸一つ。黄雲は苛立ちと焦りを腹の底へ押し込めて、なんとか冷静さを取り繕う。
(……使い時を見誤らないようにしないと、だ)
脱出するにしても、術符の枚数には限りがある。なるべくならば、霊薬の──雪蓮の行方をある程度掴んでから使いたいところ。
(後宮……)
先日潘天師から聞いた話によると、此度の霊薬騒動、皇后の関与が濃厚だ。金髪碧眼の仙女まで関わっているというし、雪蓮の身柄は皇后の近辺にある可能性が高い。
しかし、黄雲はまだ禁城の地理に疎い。後宮に向かうにしても、そのなかに潜入するにしても。もう少し情報を集めておいて損はないだろう。
(しばらくは大人しく、表面上だけでも皇太子達に従おう。殊勝な振りをして、少しずつ情報を集めていこう)
そして機を見計らい、こんなところからはとんずらして。
後宮に潜り込み、首尾良く彼女と会えたなら。
あの子はどんな顔をするだろう。あんな酷い言葉を吐いた、自分に。
(お嬢さん……)
どんな顔をされても、どんな言葉を吐かれても。あの子はとにかく亮州の知府のもとへ送り届けて。
その後はどうしよう。どうしようか。
その後は……。
(師匠……)
疲労が徐々に意識を溶かしていく。とろけるようなまどろみのなかで、少年はやっとのことで術符を懐へ大事にしまい込み、すがるように師を思う。
「……ちう」
枕元に何かいた気がするけれど、確かめる気力もなく眠りに落ちる。
明日からまた、辛い日々。
そして季節は移ろう。
晩秋から初冬へ。空に浮かぶ雲の陰影が、日々濃くなっていく。吐く息は白くなっていく。
黄雲は相も変わらず、何がどう役に立つのか分からない講義を受け続けていたし、不毛な剣術稽古を繰り返し修練させられていた。
努力も焦燥も虚しく、霊薬につながる手がかりは何も得られぬまま。
件の術符を握りしめて、少年は踏ん切りのつかぬ夜を何度も過ごした。
今となっては亮州で過ごした日々が遠く感じられる。清流堂も、師や弟妹分も、金儲けの楽しさも、全部遙かな昔のことのようだ。太子殿で過ごした時間は人生の中でもほんのわずかなはずなのに、かつての自分がどうだったか、忘れてしまいそうである。
「君たるの道は、必ず須く先ず百姓を存すべし」
遂に覚えたくも無い章句を諳んじるようになってしまった。
皇太子の剣を、ある程度さばけるようになってきた。
学士や皇太子に褒められても、嬉しくなかった。虚しい気持ちでいっぱいだった。
あるとき、太子殿の入り口に商人がいるのを見かけた。やたらに恰幅の良い彼は、太子殿の勘定役と話し込んでいる。筆や硯を商っているらしく、その売り文句が懐かしくて黄雲はつい目を留めてしまった。
「この硯は良いものですよ。ご覧ください、端渓でございます。銀三両で商っております」
「ほう、それはそれは……」
木箱の中から取り出される硯。しかし。
「じゃあこちらの硯を頂こうか」
「へい毎度……」
「ちょ……ちょい待ち!」
勘定役の見る目がなさ過ぎて。黄雲は思わず二人の会話に割って入ってしまった。たまたま一緒にいた潘天師が「おいおい」と制止するけれども。
「いやいやいや、端渓といってもピンキリでしょーに! あなたちゃんと物見て買い物してます? よく見てくださいよこれ、石眼が入ってないでしょ? なのに銀三両はぼったくりです、よーくお考え直しください!」
「な、なんだこの小僧は!」
もちろん突然割り込まれた上、商品にいちゃもん付けられて、商人が黙っているはずもなく。
つるりとした硯を荒っぽく手に持ちつつ、でっぷりした腹を揺すりながら商人、必死の反論。
「確かに石眼は入っていないが質は良い物だ! 見よこの滑らかな表面を!」
「ええいそれにしたって銀三両はボリ過ぎよ! 気の利いた彫刻でもしてあるならともかく、なんですかこののっぺり具合は!」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「さあ非を認めてとっとと値下げだ値下げ!」
「ううむ、こんのクソガキャ……!」
「ちょ、ちょっと……!」
久々の値切りに熱くなる黄雲だけれども。横合いからおずおずと、制止する声。
「ちょっと黄雲さま!」
黄雲、太子殿に勤める者たちからは『黄雲』と呼ばれている。まだ皇太子の弟であると公表する時期ではなく、弟君だの殿下だのと呼ぶわけにもいかない。彼の存在は現在、表向きには皇太子の友人という扱いだ。
勘定役は慌てて黄雲の袖を引っ張り、潘天師もろとも奥の柱の陰へ追いやった。
そして声を潜めつつ、たしなめるように放つ言葉。
「おやめください、はしたない」
その一言に、黄雲の熱がすっと冷める。
「そのような下賎な真似、皇太子殿下がお許しになると思いますか」
「下賎……」
「私の見る目の無さをお諫めくださったことは深謝致します。ですが、これからはもっと高貴な振る舞いをお心がけください」
では、と貴人に対する礼をして。勘定役は商人のもとへ駆け戻っていく。
一部始終を見ていた潘天師、ボリボリと蓬髪を掻きながら「まったく言わんこっちゃない」と呆れながら踵を返す。
その後ろで黄雲は、ただただ立ち尽くしていた。
いまのやり取りは、些細といえば些細な出来事だったけれど。
──全否定された気分だった。
また別の日。
剣の稽古の時間。いつもの修練場にはどことなく、剣呑な空気が満ちていた。
いつもより兵の数が多い。物々しい雰囲気の中、いつも通り涼しい顔で佇む皇太子。その脇に、跪かされている男が一人。
枷を付けられ、顔には金印が刻まれている。一目見れば分かる。罪人、それも重罪人だ。
「纏」
兄の呼びかけに、嫌な予感しかしない。
皇太子は続ける。
「この男は見ての通りの重罪人。殺人・強盗・火付け……法に触れることはなんでもやった」
「…………なにを」
「女や子どもも見境なく殺した」
言いながら、皇太子は腰の佩剣を手に取り、柄を黄雲へ向ける。抜け、と言わんばかりに。
黄雲は微動だにしない。
「断罪しろ。お前の手で」
なおも柄を突きつけながら、冷たい口調で皇太子は言う。
「死を賜れ、纏。罪を裁くは王の務め、そしてお前はいずれ昭の王座に就く。お前の王道は人を殺めることと無縁では済まなくなるだろう。今のうちに慣れておけ」
淡々とした兄の言葉。黄雲は俯き、頭振った。皇太子も、罪人も、剣も。それを取り巻く兵達も、なにもかも視界に入れたくなかった。小刻みに手が震えている。
「安心しろ。万に一つも更生の可能性もない悪人だ。良心を痛める必要は無い」
だから遠慮なく斬れ、という兄に。
「できません!」
存外大きな声で、黄雲は叫んだ。しかし続く言葉は、か細く震えてしまう。
「……できません、僕には。僕はあなたとは違う」
──どんな悪人だろうと、殺すだなんてことは、とても。
そして沈黙。
重い空気の中、地面をじゃり、と踏みしめて皇太子が立ち去っていく気配。
すると。俯きっぱなしだった黄雲の視界へ、ごろりと。
「!」
先ほどの男の生首が転がり込んだ。一瞬前まで生きていたまんまの表情で、黄雲を見上げている。
「な、な……」
口をパクパクさせながら、黄雲はへたり込んだ。首から顔を背けると、今度は首なしの身体が目に入る。
言葉をなくす黄雲の背後で。
「……腰抜けめ」
皇太子は冷たく吐き捨てた。血の付いた佩剣を、手にしながら。
ここに来た頃は、毎晩疲れてすぐに寝入っていたけれど。
最近黄雲は眠れなくなった。
──昭王になんか、なりたくない。
──人を殺したくなんかない。
──追わなければ、霊薬を。
(僕は……)
ただ徒に日々は過ぎていく。少年の望まざる毎日が流れていく。
冬至が──大礼の日が、近付いていた。




