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10 不可視の救援

 喉元の皮膚に触れる刃が冷たい。

 黄雲の生命は、目前の黒い少女の掌中にあると言っても過言ではなかった。彼女が手元を少し動かしただけで、少年はいとも簡単に事切れてしまうだろう。

 黄雲の脳裏に浮かぶのは昨日、皇太子を襲った男の末路。


「案ずるな」


 匕首(あいくち)を黄雲に突きつけたまま、人の命をその手の内に握りながら。少女──しのぶは淡々とした口調で告げる。

 

「大人しく従えば危害は加えない」


 人が来る前についてこい、としのぶは言う。

 しかし黄雲の喉元から刃は離れない。(だく)、以外の答えは聞いてくれないらしい。

 

「…………っ!」


 しかし己の命がかかっていても、黄雲には恭順の意思など湧かなかった。

 過日、巽と結託し雪蓮を拐かし。その際に黄雲を絶命寸前へ追い詰めた異国の忍び、その片われ。

 それが突然太子殿に現れ、今度は黄雲までもどこぞへ連れて行こうというのだ。

 いったい何の目的で。どこへ。雪蓮が捕らえられている場所だろうか、それとも──。

 黄雲は息を詰め、あれこれと考えを巡らせるけれども。

 忍びは逡巡の暇も与えてはくれないらしい。

 

「応じねば四肢の腱を切り、喉を潰してでも連れて行く」


 しのぶの声はあいも変わらず感情がなく、淡々としていて、そして有無を言わせない。

 黄雲の喉元に押し当てられた刃にぐっと、さらなる圧が込められた。彼女がわずかに手指を動かすだけで、黄雲の喉からはきっと赤いものがほとばしるだろう……けれども。

 

──脅しだ。


 黄雲は奥歯を噛み締めながら黒い少女を見下ろした。

 先ほどのしのぶの言葉。四肢の腱を切ってでも連れて行く、という言葉。

 殺しが目的ならば、いまこの瞬間殺せばいい。そうでなく、動きを封じるため、声を奪うための手間を取る。

 何が目的かは分からないが、おそらくは生きたままの黄雲の身柄が必要なのだろう。

 だからきっと、命まで取りはしない。喉元の鋭く冷たい感触は、そう脅し。だから。

 

「何が目的だ」


 押し殺した声で、思い切って黄雲は問うた。

 

「言う必要はない」


 少女は一切顔色と声色を変えずに答える。

 

「それを知ったところでお前の命運は変わらない。選べ。いまここで恭順するか。四肢の自由を失うか」


 忍びは返答を迫り、喉元からはやはり刃は外れず、そして廊下には沈黙がわだかまる。周囲には天井板の残骸が散らばり、その中で二人は微動だにせず押し黙っていた。

 

「……頃合いか」


 先に沈黙を破ったのはしのぶだった。ゆっくりと黄雲の首から匕首を離すと。

 

「っ!」


 黄雲が身構える隙を与えず。

 刹那の所作で身を翻し、幼い忍びは少年の腹部へ蹴りを放った。

 

「ッ!」


 (はらわた)がえぐられるような衝撃。酸いものが胃からこみあげる。

 食べたばかりの粥を嘔吐し瓦礫の上にうずくまる黄雲へ、しのぶは匕首を持ち替えて間断なく襲いかかった。少女が狙うは、四つ這いになった黄雲の足首。

 しかし。


「うぐッ……!」


 一瞬黄雲には、何が起こったか分からなかった。突然響いたしのぶの呻きと、彼女が床の上を転がる音。足首に痛みは襲ってこない。

 口元から胃液を垂らしながら黄雲が見たものは、腕から血を流しうずくまる、黒装束の少女。

 彼女のほかに誰も場におらず、また気配もしない。しかし。

 

「……!」


 何かを察知したらしいしのぶが、やにわにその場から飛び退った。途端、少女の肩口が斬り裂かれたように破れ、露わになった白い肌には刀傷が刻まれる。

 

「これは……」


 まるで見えない誰かに襲われているようだと、黄雲は思う。しのぶも同様の思考にたどり着いたらしく。


「くっ!」


 見えない相手の剣筋を、空気の揺らぎで読んだのか。しのぶが匕首を正面に構えると、キン、と高く澄んだ音が響いた。鋼の刃と刃が、打ち合う音だ。

 何者だ、などと野暮な誰何(すいか)をしのぶはしなかった。見えない敵がいると、少女は確信を持って立ち回り始める。

 静かな戦いだった。

 姿も見えない、音もない。そんな相手の発するわずかな気配を読み取りながらの攻防。しのぶは軽快な動きで匕首を振るい、不可視の剣先をかわす──けれども。

 

「くっ……」


 少女の覆面からわずかに露出していた頬へ傷が走る。生気と感情のなかった瞳には、少々の焦りの色。

 はたからみている黄雲にも分かる。しのぶが押され気味だ。戦いは段々と、嬲り殺しの様相を呈し始める。

 

「!」


 少女の腕に一際深い傷が刻まれた。散乱した瓦礫の上に血しぶきが飛び、忍びの覆面の内は少しだけ、苦痛に歪む。

 生じた隙を、不可視の存在は見逃さず。

 ヒュ、と風切り音が鳴った。勢いよく刀を振るうような。

 

「ま、待っ……!」


 黄雲は思わず叫んだ。たしかにあの少女は自身に危害を加えようとしたし、見えない誰かはどうやら己を助けてくれているらしいけれど。

 それでも、目の前で人が死ぬのは。

 

「しのぶ!」


 ふいに聞き覚えのある声がした。それは以前、軽佻浮薄でハレンチなことばかりまくしたてていたあの声で。

 切羽詰まったようなその声の直後、しのぶの足元へころりと何かが転がり落ちた。丸い小さな何かだ。導線のようなヒモがついていて、その先に火が灯されているのがちらりと見えた。それも束の間。

 瞬間、軽い破裂音と閃光。そして周囲にたちこめる、濃い煙。

 煙幕だ。もうもうと舞う煙の中で、黄雲は咳き込んだ。白煙の中を誰かが遠ざかっていく気配。

 しばらくして煙が晴れ、雑然とした廊下が再び姿を現した。天井の梁だった木材があちこちに飛び散って、その上に点々と血痕が残されている。黄雲のほかに、人の姿はない。


「…………」


 どうやらあの煙幕の中で、忍びの少女は遁走してしまったらしい。それにしても、先刻響いたあの聞き覚えのある声は──。


「巽……?」

「まったく、危ないところだったな」

「!」


 またしても、どこからともなく声が響き渡った。とはいえ、軽佻浮薄なあの声ではない。確かに聞き覚えはあるけれど。


「やれやれ、我々が来なければいったいどうなっていたことやら……」

「あのー、殿下。そろそろ術を解いてもよろしいでしょうか? 吾輩ちょっと疲れました……」


 無人の廊下に、二人分の声。黄雲、呆然としたまま声の源らしき場所へゆらりと視線を向けた。

 忽然。

 それは本当に「忽然」と表現するほかなく。その二人は突然その場に出現した。


(てん)、怪我はないな」

「殿下、床見てくだされ。めっちゃ吐いてる」


 皇太子・王暻(おうけい)と、天師・潘瑞峰(はんずいほう)。何も無い場所へ降ってわいたように現れた二人は、黄雲を見下ろして安堵だか呆れだか分からない顔をしている。


「……狼藉者は去ったか」


 皇太子は相変わらずの悠々とした挙措で辺りを見回し、つぶやいた。その手に握られているのは一振りの剣。切っ先には血が滴っている。

 潘天師に助け起こされながら、黄雲は事態についていけない上に状況を飲み込めず、ただぼんやりするしかない。


「あ、あの……」


 やっとのことで発した言葉は、先刻の不可視の助太刀についてだ。


「僕を助けてくださったのはお二人……です?」


 お姿が見えませんでしたが、と弱々しい声で問えば、ふふんとふんぞり返ってそれに答えるのは潘天師である。


「いかにも! 吾輩お得意の道術と殿下の剣技で、ちょちょいのちょいよ!」

「はぁ……」

「なんだなんだその気のない返事は! せっかく救ってやったというのにせいがない!」


 天師はひとしきりぷりぷり怒って肩を竦めてみせた。ご機嫌斜めになってしまった天師はともかくとして、黄雲が引っかかったのは「道術」の部分。


「……なるほど、あなたは姿を消す道術の使い手ですか」


 感心したように言えば、潘天師、斜めだったご機嫌も一転急上昇。


「ふっふっふ、その通り! 吾輩はとりわけ隠密系の術に長けていてな!」


 別に尋ねたわけでもないのに、得意げに語り出す中年である。


「先刻のように姿を消したり、物音や声を消したり氣を隠したり、隠すことに関してはなんでもござれというわけだ! さっきの娘も相当の手練れのようだが、吾輩達が攻撃をしかけるまでまったく気付かなかっただろうそうだろう!?」


 どうだ参ったか! とでも言わんばかりの勢いだが。


「そういうせこい術を駆使し、他の道士の弱みを握ったり陥れたり蹴落としたりしながら太廟の天師(おさ)の地位に就いたのがこの男だ。しかし隠密以外の術はさっぱりだ、覚えておけ纏」

「ちょっと殿下! やめてくださいよ真実を言うのは!」

「へぇ……」


 黄雲、皇太子の補足……というか暴露で完全に呆れ顔になる。元々太廟の天師だなんて似合わなさそうな人相と人柄だとは思っていたけれど、どうやらその地位も、正攻法で登りつめたものではないらしい。納得である。

 さて、皇太子と天師の漫才もここまで。皇太子は怜悧な目線を弟へ投げかける。


「さて、纏。無事でなによりだ」

「ええ、まあ……」


 黄雲、衣服と口元と床にべったり付いている吐瀉物は見ないことにする。皇太子にかかっては、腹を蹴られて嘔吐したことは負傷の範疇に入らないらしい。


「さっそくだが衣を替え、顔を洗ってくれ。準備ができたら講義を始めよう」

「こ……講義?」


 また突然である。黄雲の素っ頓狂な声に、皇太子はあくまで冷静な顔。


「当然だ。なんのためにお前を禁城(ここ)へ連れてきたと思っている。昭国の王とするためだ」

「だ、だからその話は……!」

「昨日も言ったはずだ。お前に選択権はない」


 酷薄に切り捨てるように言い、皇太子は続ける。


「律令礼法経済、昭の言葉に地理に帝王学、お前には学ばねばならないことは多い。一刻たりとも無駄にはできんぞ。翰林(かんりん)の学士を呼んである、今日からさっそく勉学に励んでもらうぞ」


 つらつらつら。淀みなく紡がれる言葉に、黄雲の顔色、蒼白から憤りの赤へ徐々に変じていく。無論、そんな勝手なことを言われても承知できぬわけで。


「いっ、いやだ! 僕は……!」

「じゃあまた逃げるのか?」


 せせら笑うように皇太子が問う。黄雲、ぐっと言葉に詰まり。


「…………」


 押し黙ってしまう。ここから逃げ出したところで。


「先刻のように、またあの黒ずくめの娘に襲われるのが関の山だろう」

「…………」


 少年は何も言うことができなかった。現在黄雲は道術の使えないただのクソガキで、しのぶには手も足も出なかった。皇太子と潘天師の二人が来なければ、殺されはしなくとも、今頃どうなっていたことやら。

 この場から逃げ出したところで、皇太子の言うとおりの末路を辿るは必定。


「纏、お前の道は一つしかないのだ」


 口調こそ爽やかだったけれども、その言葉は呪詛のように黄雲の耳へ響く。

 力なくうつむいた黄雲の瞳は光を失い、よどんだ色を湛えていた。昨日、潘天師と二人で話していたときには、まだ霊薬(エリキサ)を追って行動しようとする気力が幾分か残されてはいたものの。この朝のわずかなひとときで、そんな気もすっかり薄れてしまった。

 鳥籠の鳥は、こんな気分なのだろうか。四方八方を塞がれて、急に生き方を奪われて。黄雲は暗澹とした気持ちに浸るほかない。

 そんな彼を尻目に。皇太子は潘天師へ、声を潜めてそっと問いかけた。


「天師。先刻の黒い娘は……」

「ええ。以前後宮において我々の手勢が目撃した者に、間違いないでしょう」

「後宮……やはり」


 皇太子、少しだけ視線を傾けて後ろの黄雲を見る。

 茶色い髪のその少年の存在は──おそらく、皇后に……。


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「面目ありません……!」


 地面に伏して陳謝するしのぶに、巽は「いいって」とやるせない仕草で手を振った。

 後宮。先ほど太子殿で窮地に陥ったしのぶを、煙玉を使って救出したのは巽である。

 二人は宮殿の裏手の草むらで一息ついていた。といっても、気分はとても落ち着けたものではない。特にしのぶは顔一面に申し訳なさを貼り付けて、いまにも切腹しそうな勢いだ。


「兄上のお手を煩わせるなど……あってはならぬこと」

「だからいいって」


 ここ最近、普段はまったく感情を忘れてしまったかのようなそぶりだったのに。少女はわなわなと肩を震わせて、いつになく取り乱しているようだ。それが返って巽には面倒くさい。感情の発露なら、普段冗談を言ったときに軽く笑うなりあしらうなりしてくれたなら、それでいいのに。


「いいからしのぶ。傷の手当てをしとけ」

「ですが兄上……!」

「ほらよ、これ」


 断罪を乞うように見上げてくるしのぶへ、巽は懐からあるものを取り出して手渡した。貝殻に入った膏薬だ。

 それを受け取り、しのぶはしばし貝殻を見つめてから眼差しを伏せた。


「兄上……かたじけのうございます」

「ったく、お前はいちいちカタッ苦しいんだよ。鬱陶しいってもんじゃねぇ」


 巽は苦言を呈すが、しのぶの雰囲気が落ち着いて内心ほっとしている。

……しかし。


「? なんだ、お前……首元……」

「なんでしょう?」


 ふと、巽はしのぶの首の辺りに目を留めた。

 普段から巽を真似て巻いているらしい、首元の黒い布。先刻太子殿で斬り合いを演じたときに裂かれたのだろう、布はほとんど千切れかけていて、そこから少女の白い肌が垣間見えていた。


 その首元に這う、幾何学的な黒い文様。


「しのぶ、お前それ……」


 ただならぬものを感じて、巽が手を伸ばすが。

 しのぶは咄嗟に彼から距離を取ると、黒い布を手で押さえ、文様が巽に見えないようかばった。


「……お気になさらないでください」


 そして少女は無機質な表情と口調に戻る。「御免」と一声残し、しのぶは草むらから一躍して屋根へ飛び上がり、姿を消した。

 彼女が消えた方向を、巽はしばしじっと見つめた後、つぶやくように一言発した。


「鴻鈞……道人……」


──あいつは、いったい何を。


 その眼差しの中の迷いの色は、いっそう深くなる。

 忍びを見下ろす空は、重苦しい曇天。鈍色の雲は、どこまでもどこまでも続いていた。

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