8 天師・潘瑞峰
「さて」
皇太子が退室し、まず口を開いたのは潘天師だった。黒い蓬髪に八字ヒゲ、八卦の紋が刺繍された黄色い道服に身を包んだ胡散臭い風体のこの男、おもむろに黄雲の前へ歩み出て告げる。
「弟君……いや、諸事情あるゆえ今はその呼称は差し控えよう。言葉遣いも今しばらくはあけすけにさせてもらうぞ、悪く思うな」
「はぁ……」
「殿下から許可が出次第、皇子に対する礼法に改めさせてもらう。だから後々昭王の身分となってもこの件を蒸し返してくれるなよ、ハハハ!」
「…………」
黄雲、先刻の展開が展開ゆえ、潘天師の冗談にも反応が鈍い。深刻かつ蒼白な面持ちで立ち尽くすばかりだ。
そんな反応の薄さを気にする様子もなく、潘天師は八字ヒゲをいじりながら続けた。
「さてさて少年。殿下はああいう御方だ。強引で自分勝手で傍若無人、味方より敵を作る方が得意な性分よ」
常日頃からそんな彼に苦労しているのか、語りつつ潘天師、肩を竦めて辟易の顔。見下ろした先には血だまりに浸りっぱなしの屍が沈黙している。はぁ~と大仰にため息を吐いたかと思うと、中年道士は少々真剣な表情で黄雲を見た。
「でだ。殿下は先ほどあのように仰られたが、吾輩にはどうしてもお前さんに聞いておかねばならんことがある。霊薬のことだ」
「!」
──霊薬。
その言葉に我を取り戻したかのように、黄雲は素早く眼差しを潘天師へ向けた。その視線に、天師はニヤリと笑みを返す。
「申し遅れた、吾輩の名は潘瑞峰。代々の天子をお祀りする太廟の天師をしている」
太廟。
黄雲だって道士のはしくれだ、それがどんな場所かくらいは知っている。いま潘天師が告げたように、この王朝の歴代の皇帝、及び皇族の祖先を祀る廟所のことだ。
この胡散臭い男はその太廟の最高位・天師なのだという。
「本来は吾輩も太廟にて、日々先代陛下に至るまでのお歴々の位牌をお祀りせねばいかん立場なのだがなぁ……ゆえあっていまは殿下の御身をお守りしておる。ああ、やはりあの部屋はいかんな、血の匂いでむせ返りそうだ」
廊下を足早に歩きながら、潘天師は「なあ?」とすぐ後ろの黄雲を振り返る。軽薄そうなその表情からは、とてもじゃないがそんな責任ある立場に就いているようには思えない。その辺の街角で怪しげな占いでもやってた方が似合いそうな人相である。
広々とした廊下には何人か下働きの者が行き来していて、黄雲たちの姿を目に留めるなり、衣を換えようだの足洗い用の湯を用意しようだの世話を焼こうとするのだが。
「あーあー、着替えも湯も用意してくれるだけでいい。それと部屋を一部屋お借りしたい」
潘天師が慣れた様子でぜんぶあしらってしまった。
そして小間使いに用意してもらった太子殿の一部屋で、黄雲と潘天師は二人きり。
「適当に着替えたり湯を使ったりしながら聞いてくれ」
部屋に用意されていた着替えや湯を指さしつつ、潘天師は扉に近付いていく。そして懐に手を突っ込み、取り出したのは二枚の術符。
潘天師、それを二枚とも扉に貼る。術符に書かれた文字は、それぞれ『匿氣符』と『消声符』。
「それは?」
「うむ、気にせんでよろしい!」
黄雲が尋ねるけれども、潘天師、あからさまにはぐらかす。とはいえ術符の効果はそれぞれ記された字を見れば明白だ。氣を隠す術と、声を消す術。つまりは密談の用意。
「さて、と。本題だ」
椅子に腰かけ雑に沓を脱ぎ散らかし、桶に用意された湯に両足つっこみながら潘天師は口火を切る。
「お前さん、霊薬についてどこまで知っている」
単刀直入。こちらを見つめる眼差しは、鋭い。
黄雲はすぐには答えない。じっと潘天師の目を見据えながら、やや間を置いて言葉を返す。
「それは僕からもお伺いしたい。なぜあなた方は霊薬を知っている。そしてどこまで知っている」
同じことを問いあう二人。潘天師がニヤリと口角を上げた。
「聞き返した……ということはお前さん、まだ霊薬を追う気だな? 殿下から関わるなと言われたことを忘れたか」
「関わるなもなにも、そもそも僕はあの方のお話を承知していない。僕はあくまで亮州の道士、目的はただひとつ、霊薬を崔知府令嬢の身魂より退散させること」
口調こそはっきりとしてはいたが、内心は迷いに満ちていた。そんな黄雲へ潘天師は「こだわるねぇ」とおどけた一言。中年道士は湯桶からざばりと足を引き抜くと、その辺にあった布ですね毛だらけの脛を拭き始めた。
「霊薬──すなわち不老不死の妙薬……そこのところの見解は一致しておるかな?」
潘天師の問いかけに、黄雲は頷きをひとつ。天師、足を拭きながら続ける。
「どういう理屈かは分からんが、亮州知府の娘・崔雪蓮を依り代にしていると聞くな。そこも合っているか?」
黄雲、二回目の首肯。ふむ、と潘天師は思案の顔になる。
「人間を材料にして拵える、とはなぁ……なんともおぞましい話よ」
応答を繰り返すごとに、黄雲の疑念の面持ちは深まっていく。一体、この男はどこから霊薬に関する情報を得たのだろうかと。
そんな彼の表情にふと気付いた様子で、潘天師は再びニヤリと笑う。
「案ずるな少年。別にお前さんに隠し立てする気もなし、吾輩が知っていることは全部教えてやろう。だからお前さんが知っていることも、包み隠さず教えてくれ。あ、そうそう、念のため殿下には内緒にな。お前さんがこの件に関わることを、やっぱり快く思っておられぬようだからな」
最後の方は茶化したような言いぶり。そこでいったん言葉を切り、潘天師はごく真剣な様子で再び口を開いた。
「さて、何から話そうか……。うぅむ、こういう時は順を追ってだな。吾輩が霊薬なる存在を知ったのは、今から数ヶ月前。きっかけは後宮から仕入れた情報だった」
──皇后が仙女を招き、不死の霊薬を精錬しようとしている。
そんなにわかには信じがたい噂話。大半の者が一笑に付して受け流すような、そんな風聞だ。しかしそんな与太話に胡乱な気配を感じた潘天師は、独自に調査を始めたのだという。
しかし黄雲の中で引っかかるのは。
「仙女……?」
いままでの霊薬を巡る騒動のなかでは、ついぞ出現しなかった存在だ。首をかしげる少年へ、潘天師。
「うむ、なんでも金髪碧眼の、この世の者とは思えぬ美貌の仙女だとか……」
「金髪碧眼!?」
その特徴で思い浮かぶのは、ただ一人。
──鴻鈞道人。
「金髪碧眼の天仙ならば、僕も存じています! しかし、かの人物は……!」
いま潘天師は「仙女」と言った。しかし黄雲の知っている鴻鈞道人は、男。
「ふむ、似たような特徴の人物だが、男と女……ふむ」
潘天師はつぶやきつつ、考えを巡らせている様子。
鴻鈞道人は男。後宮で噂されている神仙は女。しかし双方金髪碧眼。
「まあ同様の特徴を持つんだ、両者には何かしら関係があるんだろうさ。共通点といえば、霊薬に関わっていること。ちなみに鴻鈞道人とは、どういう人物だ?」
尋ねられて黄雲、しばしの逡巡。自身の持っている情報を、伝えるべきか否か。しかしここで口をつぐんでいては、話が進まないしあちらが持っている情報も得られない。少年は口を開く。
「あの男はまごうことなき天仙です。それも、天界では最も古い部類の天仙だとか……。この世の開闢より存在していると、かの男を追ってきた別の神将よりお聞きしました」
「ほう、お前さん天界の神将とも関わっておるのか! なんとも心強いことだな!」
「ほとんどただ飯食らいで何もしてはくれませんでしたが」
三つ眼の神将と少年神を思い起こしつつ、黄雲は軽く肩を竦めて見せる。と、その後ろでとっとこ小動物の足音のような物音が。「ちう」と一声鳴いたので、おそらくネズミだろう。
(太子殿にもネズミって出るんだな……)
なんとなく気に留めてしまう黄雲である。それはともかく。
「で、肝心なのはその鴻鈞道人という天仙。霊薬に対してはどう関わっていたのかね?」
「関わるどころか、ありゃほとんど黒幕中の黒幕ですよ。お嬢さ……じゃなくて知府令嬢に霊薬を取り憑かせたのは、ほとんど鴻鈞道人の仕業と言ってもいい」
黄雲は自身が知る限りの霊薬にまつわる顛末を語って聞かせた。
垙京の劉仲孝から送られてきた『霊秘太源金丹経』。
書面から躍り出て、少女に取り憑く文字の禍。
雪蓮が生まれる以前より、知府邸に仕掛けられていた呪符。
五百年の古より霊薬を巡り暗躍する、謎の天仙・鴻鈞道人。
「ふむふむふむ……!」
いかにも面白い話を聞いたとでもいうように、潘天師は活き活きした面持ちだ。
「なるほど……霊薬が崔伯世の娘御に宿り、お前さんが関わることになったのはそういう経緯であったか。そして鴻鈞道人……ふむふむふむ」
はだしのまま椅子に胡坐をかき、潘天師、しばらく舌なめずりするような顔で思案していたかと思うと。
「ともかくお前さんが関わった鴻鈞道人とやらも後宮の仙女とやらも、目的が霊薬の精錬で共通していることには間違いなさそうだ。金髪碧眼の男と女……血縁があるのか、いや、天仙というからには同一人物という線もありうるな」
思考の内訳を吐露しつつ、天師はふと、視線を扉の方へ遣った。張り付けられた二枚の術符を、しばらくじっと見つめていたかと思うと。
「……でだ、少年。そういう存在を後宮に招き入れ、霊薬を得ようと企んでいるのが……」
「皇后……」
重々しく告げられる言葉。黄雲も固唾を飲む。
そう、件の後宮が出どころの噂話。潘天師がなにより引っかかったのが『皇后』の部分らしく。
「皇后・蔡碧玉。実は皇后と殿下は犬猿の仲でな。政敵と言ってもいい」
嘆息まじりに声を落として潘天師が語り始めたのは、皇后と皇太子との張り詰めた関係についてだった。
「皇后と殿下は血が繋がっていない。殿下は今上陛下が即位する前に、今は亡き正妃がお産みなった御子だ」
今から十八年前。現皇太子・王暻は生まれてすぐに母を亡くす。
その後、五年ほど遅れて生まれたのが、第二太子・王晠だった。母は蔡碧玉──現在の皇后。
男児を産んだ功により、蔡碧玉は現皇帝の即位に伴って皇后の地位を得る。しかし、皇太子となったのは第一子である王暻。
蔡皇后はそれが気に入らない。
「まあここまで聞けばわかると思うが、皇后は実子である第二殿下を推している。当然だわな。だが陛下へ推薦するにしても、度を越しておる。我が子可愛さのあまり、我らが皇太子殿下に対し、あることないこと讒言するわするわ」
さらには朝政にも口出しし、一部の官僚に甘言を囁いては己が勢力に取り込んで、一大派閥を成す有様。
「特に近年はひどい。先刻のように暗殺者は度々現れるし、毒殺計画なんかも時折露見するのだ。しかしながら首謀が皇后だと、絶対的な証拠は残さない周到ぶりよ。実行犯どもも一体どう調教したものか、絶対に口を割らんしいつの間にか獄死しておるし……。ただまあ政情的に皆、皇后の仕業だとは思うておるがな」
ただ証拠が挙がらぬ以上、疑わしきは罰せない。皇后は疑惑こそあれ、現在のところなんの咎めも受けていないのだった。
そこまで話して潘天師、ひときわ深いため息。
「……とまあこんな環境のお陰で、皇太子殿下もあの通りやたらめったら高慢狷介な性格にお育ち遊ばされた。吾輩の苦労分かる?」
「はぁ、ご愁傷さまです」
なぜ僕はこの胡散臭い中年を慰めているんだろうと思う黄雲である。
「そんな皇后陛下だ。後宮の奥で不老不死の妙薬を練ってるなどと噂が立てば、何かしらの陰謀を疑うのもまあ、吾輩にとっては道理。そういうわけで色々と探っておったわけなのだ」
そうして調査していくうちに行き当たったのが『霊薬』。そしてその宿主たる『崔雪蓮』。
「つまり、霊薬の陰謀は後宮から発していると。あなたはそう仰りたいのですね?」
確かめるように黄雲が問えば、潘天師は八字ヒゲを引っ張りつつ「うむ」。
「吾輩が件の計画を捕捉したのはつい最近のことだが、お前さんの話を聞くに、もしかすると十何年も前から企みは動いていたのかもしれないな。ひとまず皇后が霊薬を得ようとしていることは確かだ」
「皇后が……」
鴻鈞道人と手を組み、裏で糸を引いているのはこの国の皇后なのだろうか。
腕を組み、考えに耽りかける黄雲だったが、不意にこちらを見る潘天師の視線に気づく。瞳の中には、どうしてか憐憫の色が揺れていた。
「お前さんにここまで話したのは、当然霊薬の件もあるのだが……。実は、お前さん自身にも皇后の毒牙が及びかねんからだ。お前さんは実は、現第二太子殿下より三月ほど早く生まれておる。ゆえに、真の第二太子殿下よ」
殿下、という尊称。黄雲の顔色がやにわに曇る。
しかしここまで話を聞いていて、薄々感じていたことだった。皇帝の血に連なる自分を、苛烈な性格の皇后が看過するはずもない。
「皇后陛下が僕を亡き者にすると……?」
「そうだ。実際お前さんが生まれた時、その危険があった。だから李賢妃は密かにお前さんを亮州へと避難させたのだ。陛下には死産、ということにしてな」
「なっ……!」
くもっていた黄雲の顔色が、驚愕へと一変する。なぜ自分が亮州で庶民として育つことになったのか、垙京へ来てからずっと疑問に思っていたけれど。それがこんなにも突然明かされるとは。
「当時、今上陛下はまだ太子の身分でな。しかし皇位に就くことは確実視されていた。そんな陛下の妃たちは寵を競い合い、未来の皇后位を得ることに躍起になっていた」
そんな中に、黄雲の母・李賢妃の姿もあった。昭国との戦争の和睦の証として栄朝に嫁いだ彼女は、先帝の後宮には入らず、当時の皇太子の室とされたのだ。
とはいえ李賢妃が男児を身ごもったのはたまたまだった。和睦の証とはいえ、ほとんど人質状態。寵を争う女たちからは一歩身を引き、李賢妃は自らと昭国の立場を守ることに懸命だった。
そんな彼女に気まぐれで、一夜の寵が賜られた。
「だが、めでたく賢妃がご懐妊となった矢先、連続して怪事が起きる」
当時は太子の子を身ごもる妃が数人おり、中には無事に出産を終えた者もいた。
しかし。そうして生まれた御子や懐妊中の妃が、謎の病を得て次々に死んでいく。もちろん毒殺も疑われたが、証拠は不全。面倒事嫌いな太子の意向もあり、ろくな調査もされないまま犠牲は増えていく。
「そんな最中、李賢妃は当然我が子の命をご案じめされてな。それに賢妃は身の上ゆえ、皇后位を望まれておらなんだ。んまあ、そんなわけで紆余曲折の末、お前さんは生まれてすぐ遠く安全な街に匿われ、信頼できる者に預けられることになったわけだ」
信頼できる者。それが師匠である、清流道人なのだろうか。
「いやあ、懐かしいな。あれから十四年か」
潘天師は再び扉の方を見つめている。とりわけ、『消声符』の方を。
「あの術符を使い、産声を消しながら夜道を歩いたものだよ。あのとき、お前さんはこんなにちっちゃかったんだぞ」
「え!?」
懐かしみつつ、手で赤子くらいの大きさを示して見せる潘天師に、黄雲は開いた口が塞がらない。それはつまり、当時の禁城から生まれたばかりの黄雲を連れ出したのは……
「亮州に着いた晩は雨だった。腕利きで信頼できると噂に聞いていた、黒い衣のめちゃくちゃ色っぽい女道士にお前さんを託して、それっきりだ。それがこんな小生意気に育ってるとはなぁ……」
「あ、あなたは……!」
驚いている黄雲にハハハと快活に笑って見せて、中年道士はふと表情を引き締める。
「吾輩のことはまあどうでもいい。それよりお前さん、当時の妃や嬰児を殺したのは誰だと思う?」
「……っ!」
なんとも形容出来ない感情の中、その問いかけ。黄雲は言葉に詰まる。
「結局惨禍の後、生き残った男児は皇太子殿下と、第二太子殿下だけだった。結果、騒動で一番利を得たのは皇后位に就いた蔡碧玉だけだ」
そこで一呼吸置き、天師はいっそう真剣な眼差しで黄雲を見た。
「実のところ、皇后側がお前さんの生存を知っているのか、我々には分からん。だが用心はしていてほしいのだ。せっかく命永らえていた御子をみすみす死なせたとあっては、吾輩も賢妃に申し訳が立たん」
「…………」
黄雲、ここに至って正直頭も心もごちゃごちゃだ。己が血、昭王、出自、出生に関わる顛末。皇后の毒牙。
そして霊薬。雪蓮。
「さて、お前さんや殿下、そして霊薬を取り巻く諸々はこんなところだ。まあ大体の元凶は皇后陛下と思ってもらえればよろしい!」
手っ取り早く雑にまとめながら、潘天師は再び沓を履き、立ち上がる。
「色々あったことだ、疲れておろう。ひとまず今日はゆっくり休みなさい。いずれ、母君にお会いできる機会があればいいな」
天師は気遣いの籠った口調でそう言うと、ふと黄雲の足元を見た。黄雲、話の間、着替えに一切手を触れず、湯も使わなかった。湯桶の中は、すっかり冷めている。
「……それも換えてもらわねばな。ま、これからよろしく頼むよ、殿下」
そうして潘天師はそっと部屋を出て行った。呆然としたままの黄雲だけが残される。扉にはまだ、術符二枚が貼られたまま。
しばらくして、黄雲は崩れ落ちるようにして椅子に腰かけた。同時に俯き、肩を落とす。
この短期間にあまりにも命運は変容し、少年は翻弄された。いままでのんびり道士として生きてきた彼には、受け止めきれないくらいに。
傍らの机に置かれた着替えは貴人の衣装だ。金糸の縫い取りがいかにも煌びやかで、売ればそこそこの実入りになりそうな。
黄雲にはいままで、こんな豪奢な衣装を着るという発想はなかった。華やかな物はあくまで売り物だった。
それに袖を通すという身分。
銭を稼ぐこと、大金を得ることは好きだった、けれど。
(これは違う……)
なんの労力もなく与えられるそれには、違和感しかなかった。結局黄雲は着替えなかった。
「師匠……」
呼んでも応えてくれるはずはない。師の氣は、はるか遠く。
(お嬢さん……)
どうしてこんなことになってしまったのか。行方の分からなくなった雪蓮を思い、黄雲の胸中には淡い思慕と深い後悔が巡る。
そうして太子殿での生活が始まった。
黄雲、自分が何者か分からなくなったまま、夜が更ける。




