3 怪異は今も少女の腹の底
「なりません!」
清流の申し出に反対したのは、崔知府ではなかった。
応接間の戸口には、眉をキッと吊り上げた知府夫人が立っている。どうやら密かに話を聞いていたようだ。
「雪蓮は嫁入り前の大事な娘! そなたのような……その、ふしだらな方のところへ、お預けするわけには参りません!」
夫人は清流のだらしない出で立ちに顔をしかめながら、断固反対の態度だ。知府が「これ、お前」とたしなめるも、聞き入れない。
「あなたも! このような訳の分からぬ者たちをいつまでも屋敷に留め置いて、何事です!」
矛先は知府にも向く。険しい表情の夫人に問い詰められ、亮州を差配する崔伯世もしどろもどろ。知府形無しである。
「ご夫人、ご心配ごもっとも」
壁際まで追い詰められている知府に同情してか、清流は席を立ち、夫人へ歩み寄る。ちゃんと胸元を直しつつ。
「聞けば雪蓮殿、生まれてこの方お屋敷から出られたことがないと聞く。そのようなお嬢さんをいきなり我が洞府へ招くと申せば、母君であるご夫人がご憂慮召されるのも至極当然」
「分かっておいでなら、お引き取りくださいまし!」
「お前、少し落ち着いて……」
「あなたは黙っていて!」
三つ巴の状況に、雪蓮はハラハラと成り行きを見守り、黄雲は興味なさげに窓の外を眺めている。
「しかしご夫人」
歩みを夫人の前で止め、清流は彼女の顔を正面から見据える。吸い込まれそうな真っ黒い瞳に、夫人の顔が映り込む。
「ご心配ごもっともながら、このままでは娘御のお命に関わりますぞ。今はまだご健勝にございますが、彼女の内に入り込んだモノは、徐々に雪蓮殿を蝕んでしまうでしょう。昨晩娘御に取り憑いた怪異は、おそらくそういう類のもの」
「それはまことか、清流殿!」
夫人は顔を強張らせ、知府も思わず大声で問いかける。当の雪蓮も、電撃を打たれたような衝撃を受けていた。
黄雲は窓からこちらへ視線を戻し、頬杖をついたまま耳をそばだてている。
「まだ詳しいことは調べてみないと何とも、というところですが。氣を視るにそういう気配を感じます」
「で、でも……」
先ほどまで吊り上っていた眉を気弱に下げて、夫人は口ごもる。
命に関わる。雪蓮は不安な気持ちで、手のひらを閉じたり開いたりしてみる。普段と変わったような感覚は特にない。ちらりと横目で黄雲を見るが、彼は頬杖をついたまま、こちらを見ようともしない。
「失礼ながら申し上げますが、現状こちらのお屋敷は、この状態の雪蓮殿がお過ごしになるにはあまりにも無防備だ。昨晩の一件で北の塀は破られ屋敷は半壊、風水は乱れております。特に庭園周りの塀には魔除けが施してあったはず。その塀が壊れたとなると、またぞろ大猪のような妖魔が現れましょう」
薄い笑みを口の端に浮かべながら、つらつらと清流は並べ立てる。
「しかも昨晩の大猪は雪蓮殿を狙って現れたと聞いております。原因はひとつ、彼女の発する氣だ」
「氣?」
左様、と一言頷いて、麗人は続けた。
「我が弟子が申したように、昨晩昏倒した後、娘御の発する氣の質が変わっておられる。なぜ変わってしまったのかは今は分かりませんが、一つ言えるのは、この氣を妖怪魔性が好むということ。今もほら、そこに」
清流が指差した先。今しがたまで黄雲が見ていた窓際に、小さな生き物が数匹固まってこちらの様子をうかがっている。
「なんだあれは!」
「化け物!」
叫ぶ知府に、雪蓮の傍へ転がるように駆け寄る夫人。
当の雪蓮は思わず窓際に駆け寄った。なぜなら、その生き物がとっても可愛かったから。
「うまそう」
「うまそう」
「か、かわいい……!」
「あなたのこと美味そうとか言ってますよ?」
瞳を輝かせながらそれを見つめている雪蓮に、黄雲は呆れた様子。
手のひらに収まるほどのタヌキのようなその生き物は、不器用にちまちまとした仕草で、窓枠に掴まっている。
よくよく見ると、左右それぞれの前肢と後肢の間を、被膜が張っている。顔はタヌキ、身体はムササビといった不思議な生き物だ。
「この物の怪は類といいます」
言いながら清流は窓枠に歩み寄り、
「それっ」
指でピンっと類の頭を弾いた。
「うわー」
「むねーん」
「恨み骨髄に達したわー」
弾かれた類は窓枠の下へ真っ逆さま。清流は窓枠に取りついた全ての類を弾き落とす。類たちは空中で被膜を広げ、滑空しながらどこかへ消えて行った。さながら、ムササビの如く。
「……と、このように彼女を喰いに寄ってきます。……あまり近づきますと、無残に喰い散らかされますぞ。ご自重を」
後半は雪蓮にたしなめるように告げ、清流は知府夫妻の目前に立つ。
「このように、この屋敷は妖怪の侵入し放題。昨晩のようなことがまた起こらぬとも限りません。我が清流堂ならば守りは完璧、道士が二人もついておるとなればここよりは安心でしょう」
「むむぅ……」
「…………」
実際に現れた物の怪と清流の言葉に、夫妻は黙り込んでしまう。
「でも……」
憔悴した様子で、夫人が口を開いた。
「雪蓮はまだ十三歳で、嫁入り前なのですよ……」
だからあなたのようなふしだらな方の所へは……と夫人、威勢が無くなっただけで最初と同じことを繰り返し始める。
これには今までしたり顔だった清流も、調子を狂わされたようだ。
「あ、あの……ご夫人?」
「危ないわ、街のお堂に預けるなんて、心配だわ……」
さめざめと顔を覆う夫人に、清流と亭主の伯世は顔を見合わせる。
ダメだこりゃ。あちゃーと頭を抱える清流である。
「黄雲」
バカバカしくなったのか、再び胸元を開けっぴろげつつ、清流は弟子を呼ばわった。
「娘御を連れて、外で待っていてくれないか?」
「しょーがないですね」
「それから伯世殿」
続いて知府を指名。清流の顔は、部屋の戸口の方を向いている。
「お人払いを、よろしいか?」
道人の視線の先には、戸口からこちらを除く男衆。一様に鼻を伸ばしているところを見るに、清流見物に来たのだろう。
「ばっ、馬鹿者どもー!」
言われて気付いた知府、声を荒げて追っ払う。男衆は再び「ケチ」だの「ずるい」だのの文句を置き土産に、散り散りになっていった。
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「私、どうなっちゃうのかしら……」
締め出された後の廊下にて。雪蓮は不安げにつぶやいた。
「きっと大丈夫ですよ」
そんな彼女を、珍しく黄雲が励ました。まだ出会って二日しか経っていないながらも、雪蓮は何となく分かってきたつもりだった。この少年が金絡み以外のことで人間味を発揮することは、ほぼ無いのではないのかと。昨晩ははっきり「銭のため!」と己が本懐を口にしていたし。
そんな彼が、暖かな口調で初めて情味あふれる対応をしている。驚きとともに彼を見返す雪蓮だったが。
「ま、知府殿がしっかり礼金を払ってくれたらの話ですけど」
人を小馬鹿にしたように肩をすくめて見せる、やはりこの少年は強欲の化身のようなクソ野郎であった。
「むぅ~!」
雪蓮は先ほどまで感じていた不安を忘れ、冬を迎える栗鼠のように頬を膨らませた。
「あなたは本当にお金が好きなのね!」
ふくれっ面で不機嫌に言う雪蓮に、はははと黄雲、笑って応じる。
「当然でしょう。お金があれば何でもできる、何でも手に入る。貯えがあればあるだけ人から尊敬もされる。所詮この世は金ですよ金」
まるで世界の真実を語るかのような口調だ。どんな生い立ちをたどってきたかは分からないけれど、相当お金に毒されているのね、と雪蓮は思う。
少年と少女が廊下で平和に語らっているときだった。
「おい」
黄雲の背後から、声を掛けてくる者があった。振り返ると、少し高い位置から降ってくる視線。明らかに敵意が混ざった眼差しだ。
ゆったりとした書生風の衣装に身を包んだその青年は、知府夫人によく似た、目元のキリリと上がった顔立ちをしている。
「お兄さま!」
雪蓮が青年をそう呼んだ。崔家長男・崔子堅である。形の良い眉を神経質にヒクつかせながら、子堅は黄雲へ指を突き付けた。
「お前だな! 昨晩、我が屋敷をめちゃくちゃにしたのは! おかげで科挙に向けた勉学ができなかっただろう!」
「はぁ……」
声を荒げて黄雲を責め立てる。対する黄雲はというと、ただ迷惑そうに眉をひそめていた。
「まったく父上も父上だ! 雪蓮がたかが四半刻目を覚まさぬくらいで大騒ぎして、挙句市井の道士、しかも子どもを頼るなどとは崔家の名折れ! 私は国に仕える官僚への道を志し、開けても暮れても蛍雪蛍雪の日々だというに……嘆かわしい!」
「へぇ~」
一人で勝手に盛り上がっている子堅に、黄雲も適当な相槌を打っている。ただ雪蓮ばかりがハラハラとしている。
「お、お兄さま、あの……」
「雪蓮は黙っていなさい! こやつのせいで私の貴重な時間が無駄になったのだぞ!」
「うーん、文句なら昨日の大猪に言ってくれます?」
「こ、こいつ……!」
子堅が色白の顔に血を昇らせたときだった。
「おーい、待たせたな二人とも」
がらりと応接間の扉が開き、清流が顔をのぞかせる。同時に、その隠しきれない豊満な胸がゆるんと震えるのも、よく見えた。
「…………」
途端に無口になった子堅を、黄雲と雪蓮は見上げた。顔色が真っ赤なのは変わりないが、どうも先のように怒りで赤く染まったというよりは……
「し、失礼する!」
裏返った声で踵を返すと、子堅はさっさともと来た道を戻って行った。心なしか動きがカチコチと固い。
「……面白い兄上ですな」
「その、ごめんなさい……」
見送る黄雲に、身内の非礼を詫びる雪蓮。清流はというと、「なんだなんだ?」と成り行きを分かっていない様子。
「相すまぬ、息子は女性に慣れておらなんだ……」
清流の後から現れた知府は、ため息交じりに言うのであった。
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再び現れた知府夫人は、先ほどの様子が嘘のようにしおらしくなっていた。
「心配でたまりませんが……娘をよろしくお願いします」
そう言って頭を下げる彼女に、黄雲はこっそり師に耳打ちして問う。
「師匠、術かなにか使ったんですか?」
「なにも。ただ頑張って説得しただけだ。さあ師を労われ」
「いやです」
師弟が微笑ましいやり取りをしていると。
「清流殿、弟子殿。雪蓮のことは宜しく頼みましたぞ!」
知府が二人へ歩み寄り、しっかりと拱手して見せた。
もはや雪蓮は送り出される雰囲気である。当の本人は、荷運びの予定や些事の決定などを、傍からあわあわと見届けるほかない。
清流が言うには、屋敷の魔除けが手薄過ぎて一刻を争うため、今日はこのまま清流堂へ連れ帰るとのことだ。
黄雲に道中の魔除け札を渡され身に着けながら、雪蓮はあわただしく家族にしばしの暇を告げる。
「お父さま、お母さま! お体に気を付けて!」
「ええ、ええ。雪蓮、あなたもよ。それと、お弟子さん?」
「えっ、何です?」
急に夫人に呼ばれて、黄雲は心臓がひっくり返りそうになる。彼は正直、この激しやすい性格の夫人が苦手だった。
「ひとつ屋根の下に住むからといって、娘に手を出してごらんなさい――」
あなたに死を賜ります、と夫人。
これ、なんてことを言うのかと慌てて知府がたしなめる。
やっぱりこの人こええ、なんて思いながら、黄雲は恭順の意向を夫人へ示すのだった。
「さて、準備はできたかな?」
清流が雪蓮へ問う。少女は少し不安げな表情で頷いた。
街へ遊びに行くのは長年の夢だったが、まさか屋敷から離れることになろうとは。
「では参ろう、我が清流堂へ!」
先頭を歩く清流の後に従い、少年少女は知府邸を後にするのだった。