5 後宮
夢。彼女が眺めているのは、湖畔の風景。見覚えのある景色。
彼女は知っている。
通月湖──そしてその中に浮かぶ月亮島は、彼女の生まれ故郷。
傍らには良人。腕の中には我が子。幸せな暮らし。
月日は流れ。災禍は突然訪れた。天には十個の太陽、地には未曾有の大干魃。
田畑は荒れ、緑は燃え尽き、水は涸れ。
彼女は知らない。
災厄の最中に訪れた、金髪碧眼の異相の男。そしてその掌中の書物を。
検体甲、乙。贋作、そして──霊薬。彼女には分からない。その語群が意味するところも、身魂を這い回る奇怪な感覚の正体も。
記憶の断片は巡る。射落とされる九つの太陽。一つが残り、天地は元通り。
しかし平穏は戻らなかった。
やがて彼女は忘れた。良人、我が子。
そして彼女は欲した。霊薬、霊薬、霊薬。
彼女は知る。滴る血、散らばる肉。その甘美な味を。
暗転。
彼女は追いやられた。暗く冷たい、月の牢に。
そしてすべてを思い出した。
痛み。苦しみ。悲しみ。怒り。
最初から、いままで。
ぜんぶ、ぜんぶを……。
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雪蓮は目を覚ました。暗く冷たい、呪符だらけの牢獄の中で。
一ヶ所だけ、天井近くに設けられた小窓から、朝の光が弱々しく差し込んでいる。
固い床から起き上がれば、ほろりと頬にぬるいものが伝った。
涙。
きっとさっきの夢のせいだ。時々見る夢と同じようでいて、違う夢。古今の人や生き物の体験を渡っていくあの夢とは違い、今朝見た夢は、ただひとりの人生を追う夢。断片を無理矢理つなぎ合わせたような、記憶の連続。
思い返してみればまざまざとこの胸に、彼女の無念、苦痛が蘇る。涙を拭いながら雪蓮は思いを馳せる。
けれども。
夢の記憶をたどろうとしてみても、あの湖畔の記憶はゆらゆらと水面の影のように、つかみどころなく移ろっていく。霞のように薄らいで、目覚めからたった寸刻の間に、もはや大筋をたぐり寄せることも叶わない。
(なんだっけ……)
忘れてしまうのは、悲しいはずなのに。雪蓮はもう思い出せない。
そっと左の袖に涙を染ませていた雪蓮は、ふと違和感を覚える。頬に当たる、固くて冷たい感触。顔を上げて少女は絶句した。
左手の甲、指の背をびっしりと覆う──銀の鱗。
「っ…………!」
わなわなと、呼吸もおぼつかない暫時。今度はまばたきを何回したって、銀の鱗は消えやしない。はらりと手首から下に落ちる袖。露わになる腕。肘のあたりまで、銀鱗は広がっている。
ままならない息づかいのまま、雪蓮は喚くように叫んだ。半狂乱だった。
そして誰も来なかった。
ひとしきり喚いて喚いて、後は涙に暮れるしかない。
(お父さま……お母さま……)
自身が人ではない何かに変わってしまう恐怖、心細さ。いますぐ大好きな父母の腕に泣きつきたいのに、それも叶わず。
(黄雲くん……)
あの日のように、彼が駆けつけてくれることもない。
「誰か……」
消え入るような声と入れ違いに、嗚咽が始まる。
ただひとり。黒装束の少女だけが、物陰、壁に背を預けて、気配もなく彼女の悲嘆を聞いていた。
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晴天の下、瑠璃瓦。……の上に、怪しい覆面黒装束。豪奢な屋根の上に寝そべって、ぼんやり空を眺めているのは巽である。
さて、このあたり一帯はいわゆる『後宮』と呼ばれる区画。
後宮美女三千人。
その謳い文句の真偽はどうあれ、この垙京の宮城内、後宮の区域には確かに美人が多い。
煌びやかな宮殿のうちで、雲のような髷を結った玉肌まぶしい美女が幾人も、香炉から立ち上る燻煙をくゆらせて嫋々と歩く様はまるで極楽浄土。
そんな極楽浄土のさなかにあって、巽はすけべを起こす気力を失っていた。
「空が青いな……」
陽光を受けてキラキラ輝く瑠璃瓦に身を預け。巽は精細を欠いた三白眼で、空を見上げていた。
黄色い屋根瓦に寝そべる黒ずくめは悪目立ちすることこのうえなかったが、幸い誰も通りかかる者がいない時間帯。
そしてこの瓦の下には、あんな美女こんな美女がわんさか溢れているはずなのに。
「なんもする気起きねえ……」
深刻である。八洲の忍び、無気力極まって性欲不振。
それほどまでに今回の一件は堪えたのだろう。忍び、敵中に取り入り、見事目当ての霊薬を雪蓮ごと奪い取った。黄雲や清流道人は取り逃がしてしまったが、十分な戦果であった。
あの日から数日経つが。
「こんなの、慣れてると思ってたんだけどな……」
つぶやいた独り言は、誰に聞かれることもなく垙京の空に消えていく。鴻鈞道人に与えられた自由時間は、無為に過ぎていくばかり。
「兄上」
ニンジャの独り言ばかりだった屋根の上に、鈴の鳴るような声が加わった。巽が顔を上げると。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「しのぶ」
忽然と現れる、覆面黒装束の少女が一人。あごのあたりで切りそろえた黒髪に、顔の下半分のみの覆面。じっとこちらを見つめる瞳はぱっちりと黒く澄み渡り、そして生気が無い。まるで精巧な人形が忍び装束を着せられているかのような、そんな少女だ。
怪しい二人組が屋根の上にいても、界隈は閑散としていて誰も気付く者はいない。
しのぶは兄の覆面のうちをちらりと見て、一言。
「……お顔色がすぐれませんが」
「そうか?」
へーきへーき、と手をぷらぷら。巽はぶっきらぼうにしのぶをあしらって、そのまま言葉を妹分へ返す。
「てかさ、お前もさぁ……だいじょうぶなわけ?」
「なにがです?」
「その……体調とか……」
「鴻鈞さまのお計らいにより、子細ありません」
「そ、そうか……」
きっぱりと言い切るしのぶだが、巽はどうも納得できない様子。しのぶの顔は、死人のように白い。
巽はどう言葉を続けていいか、分からなかった。彼が知るしのぶは、もっと……。
「……そういえば、あの子は?」
致し方なく、巽は話題を変えた。とはいえ、こちらの話題もあまり気乗りしない。
「検体丙のことですか」
「……そうだよ」
しのぶが指す言葉は、すなわち崔雪蓮のこと。検体だの丙だのという呼び名に、巽はいささか眉をしかめて見せた。そんな彼に。
「そんなに気になるのでしたら、ご自分で様子を見に行かれては?」
しのぶも眉をしかめ返す。生気のない顔に、少しだけ感情が湧いたような。
「見に行けねえから聞いてんだよ」
「別にあの牢へ行くことを禁じられているわけではないでしょう」
「そうじゃなくてだな……こう、気分的に……」
「兄上……」
いつになく歯切れの悪い巽に、しのぶの瞳が少しだけ揺らぐ。
そこへ。
「やあ、ここにいたのか」
朗らかな声が眼下から呼びかけた。二人が目線を下ろしてみると、瑠璃瓦の下に。
「四郎、しのぶ」
上を向き、優美に笑いかける金髪碧眼。しかし普段より髪は長く、輪郭は柔らかで胸部も柔らか豊満で。
「ッ! 金髪美女!!」
さっきまでの元気の無さはなんだったのか。反射的に棒手裏剣を構え、飛び上がり中空から美女を急襲する巽であったが。
「おっと」
金の髪を翻し、美しい女性はひらりと優雅に回避。ズドンと頭から地面へめり込むクソニンジャ。
「へぶっ!」
「まったく、お前のその性分は少々厄介だな。それっ」
女性、天へ向けてパチンと指を鳴らす。すると青天に、ガラゴロ雷鳴轟いて。
雷光一発。ピシャンと紫電に灼かれる黒ずくめ。「ぎゃあ!」と断末魔の叫びが上がる。
「あ、兄上!」
この顛末、さすがに多少慌てながらしのぶも地上へ降り、兄へ駆け寄った。プスプスと黒煙を上げてくすぶっている巽へ、手が触れるか触れないかまで近づいて、少女は案じ顔。そんな彼女へ。
「心配するなしのぶ。これしきで死ぬようなタマではない……それにしても、やれやれ」
そう声をかけると、女性はふっくらした唇を軽く開き、すぅっと一呼吸。
すると胸部が引っ込み、輪郭は男性らしさを取り戻して。
その場に佇むは普段通りの優男。鴻鈞道人その人だ。
「まったく……男のままでは後宮に居づらいから女性の姿を取っていたのに」
さすがの鴻鈞道人も、苦笑しながら肩を竦めてみせる。この天仙の弁によると、「身中の陰陽の氣を調節すれば、男女の性を換えるなど容易いこと」らしい。しかしながら。
「仕方がない。四郎、今度からお前に話をするときは男の姿になるとしよう」
「そんなぁ……」
女性の姿では、いたずらにニンジャの欲心を刺激してしまうだけ。
鴻鈞の宣言に、黒コゲからは情けない声。そんな彼へ宣告は続く。
「そうそう、亮州にいる間お前にかけられていた雷公の戒めだが、秀逸だな。後宮にいる際に面倒を起こされても厄介だ。四郎、お前が宮女に手を出した場合は、雷公通さず私の法力で即落雷とする」
「ふ、ふざけんな! 雷落とすにしてもせめて女の姿でやりやがれ!」
「やれやれ、本当に救いようのない万年発情期」
指ぱっちん、からのピシャン。
聞き分けのない巽へ二発目の落雷。「ぎゃあ」も二回目。
「兄上……」
「案ずるなしのぶ。彼のしぶとさを信じておあげ」
さて、茶番もそこそこに。
「四郎、しのぶ。お前たちに次の仕事をしてもらいたい」
柔らかく微笑しながら、鴻鈞道人は告げる。
「やはり黄雲少年はこの垙京へ向かって来ているようだ」
「…………」
「お前達には、彼の身柄の確保を頼みたい」
──生け捕りにせよ。
底知れない、碧い瞳が命じる。忍び二人も、沈黙をもって応える。ピリ、と周囲に張り詰める空気。
と、そこへ。
「鴻鈞殿」
優男の背後から女の声。春琴のように軽やかで、かつ艶のある声。
歩を刻むたびにしゃんしゃんと、簪や佩玉の音が華やかに響く。錦の衣はそよそよ微風にそよぎ、鳳凰が刺繍された広やかな袖が揺れている。さらにその後ろに続く、数人分の足音。
華美な衣装をまとい、侍女にかしずかれながら現れたのはひとりの佳人。金の髪を揺らして振り返った鴻鈞道人は、柔らかに微笑んだ。
「これはこれは……皇后陛下」
「ごきげんよう。あら、今朝は男の姿でいらっしゃるのね」
「ええ、諸事情ありまして」
諸事情の根源・木ノ枝巽、二人の会話をぽけっと聞いている。
「なんだって結構。わたくしはそちらの姿の方が……あら」
言いかけて皇后は、いたずらっぽい笑みで口をつぐむ。
「ほほ。聞かなかったことにしてくださいまし」
などと言いながら、皇后は確実に熱っぽい眼差しで秋波を送っている。誤魔化すように笑いさざめく侍女たち。無言の微笑で聞き流している鴻鈞道人。置いてけぼりでやっぱりぽけっとしている巽。
巽はこの皇后がなんとなく苦手だった。確かに世を惑わすほどに美しく、均整の取れた肢体を持つ天女のような女性だが。
(なんか全然すけべする気になれねえんだよなぁ、このおばちゃん)
あの巽が珍しく悪癖を潜ませるほど、どこか妙に近づきがたい雰囲気の持ち主だった。
さてそんな危なげな会話のなか、皇后の後ろからおそるおそる、小さな人影が頭を出した。
色白で、整った顔立ちの少年だ。年の頃は十二、三か。背丈はしのぶと同じくらい。すこし気弱そうな表情である。少年は物珍しそうに、鴻鈞道人の後ろの黒ずくめ達を見つめている。
「おや、太子殿下」
気付いた鴻鈞道人が声をかけた。少年、慌てたように姿勢を正し、「おはようございます、鴻鈞さま」と一礼。鴻鈞も人の好い顔でゆったり挨拶を返すが、少年はまだ緊張した面持ちだ。
「まあ、この子ったら……まだ人見知りが直らなくて」
少年を抱き寄せながら皇后が困ったように笑う。そんな彼女の手にすがりながら、少年はチラチラと忍び二人へ視線を投げかけていた。普段後宮にこんな怪しげな連中はいないから、きっと物珍しいのだろう。
顔を合わせるのは初めてだが、巽もしのぶも彼のことは知っている。
第二太子・王晠。皇后の子だ。
「それにしても、はやく表立って『皇太子殿下』と呼ばれたいものね」
ギリギリの発言を屈託のない笑顔で放ちながら、皇后は愛おしそうに太子の髪を撫でている。撫でられながら太子、顔色が真っ青だ。無理もない、彼が『皇太子』の座に就くということは、兄である現皇太子・王暻が夭逝するか、はたまた廃嫡されるということなのだから。
「は、母上……それは……!」
「大丈夫よ。心配には及びません。あなたが真っ当に皇位を継ぐため、尽力してくださるのがこちらの鴻鈞道人殿なのだから」
皇后は安堵させるように太子の背をさする。しかし太子の顔色は晴れない。恐る恐る、鴻鈞道人を見上げてみれば。
「ご安心を、殿下。すべてこの鴻鈞めが、一切の不義なくとりはからってご覧にいれます」
──必ずや、殿下を帝位に。
にっこり。青空の下で、金髪碧眼の美男は極上の笑みを浮かべて見せた。しかし。
「母上、鴻鈞殿……私は……」
少年の表情は暗いままで、気弱になにかを言いかけるが。
「さあ、行きますよ。殿下はわたくしの言う通りにしていればよいのです」
「……はい」
有無を言わさず、皇后は太子を連れてしゃなりしゃなりと歩きはじめる。そのまま目前の宮殿へ。
……と。
「鴻鈞殿、少しよろしい?」
「なんでしょう」
「通行の邪魔ですから、そちらの下賤の者を下がらせて頂けます?」
皇后の冷たい目線の先には、巽としのぶ。別に邪魔になる位置にいるわけではない、けれど。
「これは失礼。お前たち、下がっていなさい」
「…………」
忍び二人はさっと跪き、転瞬跳躍。屋根の上に隠れ、皇后の視界から姿を消した。
巽たちはよくよく承知している。皇后の言う「邪魔」という言葉はつまり、「目障りだから消えろ」ということだ。
突然消えた黒ずくめ達に、太子は少々驚いた様子。しばしきょろきょろした後に、名残惜しそうなため息を吐いた。
さて、何事もなかったかのように、鴻鈞道人と皇后は会話を続ける。
「では鴻鈞殿、わたしくはこれで」
「ええ、皇后陛下」
朗らかに応える鴻鈞だったが、そんな彼に皇后はそっと顔を寄せる。眼差しはまるで──毒蛇。
「……例の『第二子』の件、しくじることのなきよう」
潜めた声と怜悧な目線を浴びながら、道人は無言。しかし余裕の笑みで応えてみせる。毒蛇の視線は、婉然とした笑みに変わる。
「いずれこの子にも『霊薬』を見せてやってちょうだいね」
佳人、妖しく微笑んで美男から顔を離す。
「えりきさ?」とわけも分からぬ顔の太子を連れて、皇后は宮殿の階を上り、行ってしまった。
「さて、四郎、しのぶ」
残された鴻鈞道人が瑠璃瓦を振り仰ぐ。碧い碧い瞳で二人を捉えながら、言葉をつむぐ。
「黄雲少年は数日中にも、この垙京の皇城に現れるだろう。いいか、なるべく生きて捕えよ」
「…………」
「もし死なせれば、計画は数百年先送りだ」
まあ、私はそれでも構わないのだがね。
ふんわり笑って、鴻鈞道人は踵を返し、そのまま忽然と姿を消した。
屋根の上に残された忍び二人、なんとも言えない面持ちで互いに顔を見合わせる。
「……だってさ」
「ええ」
言葉少なに交わすやりとり。無気力な巽に、なんの感慨も起こさないしのぶ。
先程皇后が口にした『第二子』。そして黄雲捕縛の命。
屋根の上で風がしのぶの黒髪を揺らすのを見ながら、巽はひとりごちる。
「……やるしかねえよな……」
任務は生け捕り。しかし、捕えた後で旧知の守銭奴がどうなるか。巽は考えたくはなかった。
「……兄上、さっきの話ですが」
不意にしのぶが口を開いた。しかし、目線はこちらへ向けぬまま。前方をじっと見つめたまま、彼女が口にしたのは検体丙──雪蓮のこと。
「計画は、順調です」
感情のない言葉。正直、聞きたくなかった答えだった。
「……そうか」
黄雲や雪蓮をこの状況へ陥れたのは、おのれ自身。しかしなんともやりきれない。親しいふりをして敵を出し抜くなんてことは、八洲で何度も経験したはずなのに。
私情を忍ぶことが、忍びの本分だというのならば。
(俺……向いてねえのかなぁ。忍者)
巽は再び無気力に屋根へ寝そべった。見上げた空は、どこまでも青い。




