1 それから
雨の音が、鳴りやまない。
ざあざあと、暗く、肌寒く。黄雲の夢の中ではまだ、雨が降り続いていた。
誰かに、抱きかかえられている気がする。ぬくもりからぬくもりへ、手渡された気がする。
声が聞こえる。低く、押し殺したような声。それに応える、聞き覚えのある声。視界は暗く、何も見えない。
それは十数年前の記憶。彼の思い出の中で最も古いもの。音と温度だけの心象は、なぜだか物悲しい。
そんな夢の情景が、ふと薄らぎ始める。闇一色の視界へ白い光が差し、意識は急浮上を始め……。
目覚めてみれば馬車の中。
黄雲はガタゴトと、荷台の上で揺られている。
載せられているのは、どうやら屋根つきの馬車のようだ。荷台の上には手摺の枠が設けられているだけで、造りは非常に簡素である。屋根は棕櫚が葺かれている。
屋根と手摺との間がまばゆい。視界の明るさから見て、どうやらすでに日が昇っているらしい。馬蹄と車輪の音以外に、聞こえてくるものは何もない。
雨はもう、降っていないようだ。
「いっ……!」
馬車の振動が響いたか、背中に痛みが走った。ずきりと刺すような痛覚。同時に思い起こす、気絶する前に起こった出来事の数々。
黒装束の少女、白刃、巽、そして雪蓮。
黄雲は火眼へ助けを求めるため、あの雨の林道を駆けていたはずだった。その途次、急に意識が途切れた。
「ここは……」
ゆっくり息を吐きながら痛みをやりすごしつつ、黄雲は周囲を窺ってみる。着物はいつもの道服ではなく、いつの間にか平民の服へと挿げ替えられている。
そして荷台の中、黄雲の右前方に人影。片膝を立て、手摺にもたれ掛かって座っている者が、ひとり。
「目覚めたか」
声の調子から見て十代後半の、おそらくは青年か。
青年の背後、手摺と屋根の狭間から逆光。お陰で黄雲の側からは、青年の顔かたちがよく分からない。
ふと、馬車が茂みに差し掛かる。日の光が遮られ、落ち着いた日陰の色彩の中、前方の彼の容貌がやっと判然とした。
「……どなたです?」
黄雲は戸惑いの口調で問いかけた。おそらくは初対面の人物のはずだ。しかし黄雲はその目元と鼻梁にどうしてか、既視感を覚えている。
どこかで、見たような。
その見覚えのあるような顔立ちには、余裕の色が満ちている。座り姿に漂う悠然とした雰囲気。
青年は少しだけ、口元に笑みを浮かべた後。
「いざ問われるとなると、どう答えていいやら分からないものだな」
そう口を開くが、困惑したような言葉とは裏腹に、態度は先刻同様の泰然自若。
そして少しだけ思考の間をおいて、青年は黄雲の方を真っ直ぐ見つめながら軽く名乗った。
「皇太子」
「えっ」
黄雲が面食らうのも、致し方ない自己紹介だった。
しかし青年──皇太子は、黄雲の戸惑いなど意にも介さず名乗りを続ける。
「滅多に呼ばれることはないが、名は王暻という。そして……」
皇太子、眼差しを鋭くする。
立てた片膝に置いた腕、袖のめくれから垣間見える、青黒い痣。
「お前の異母兄だ」
----------------------------------------------
「ねえねえ。哥哥たち、帰ってこないね」
「こないね……」
「ふきゅう……」
一夜明けた清流堂。
開きっぱなしの門扉の前に、三人の子ども達が腰かけている。逍、遥、遊の三人組と、そのそばにちょこんと座る、三本の尾を持つ子狐の姿。一様にぼんやりと朝の空を仰いでいる。
昨日の大騒動の後。雪蓮は攫われ、那吒と黄雲はそれを追い。さらには火眼までがそれを追っていった。清流道人と巽は、結局出かけたまま帰ってこない。
残されたのは、逍、遥、遊の三人組と、土地神だけ。土地神は本堂に籠り、この街を邪悪な神から守るために一晩中必死で氣を練り続けていた。いまは疲労困憊のあまり、神像の姿に戻って眠っている。
だから堂はしんと静まり返っている。普段ならば守銭奴やら箱入り娘やらクソニンジャやらでかしましいこの道廟が、いやに寂しかった。お陰であまりよく眠れていない。
「せっちゃん、どうなっちゃったんだろう……」
「哥哥は返り討ちにされちゃったのかなぁ……」
「葬式代、どうしよ……」
「安い葬儀業者見つけなきゃ……」
消息不明の長男格へ憎まれ口を叩いてはみるが、どうにもこうにも活気づかない。雪蓮が攫われた上、誰も帰還しないという緊急事態。それなのに幼い彼らは蚊帳の外。不安。
子どもたちは朝食も買いに行かず、ぼんやりと朝の空気に浸り続けている。
昨日大降りだった雨のせいで、地面はまだぬかるんでいて、水たまりには朝焼けが映り込んでいて。
と、そこへ響く高らかな馬蹄の音。ヒヒンと馬のいななきが続き、さらに蹄の音は近くなり。
「なんだろう?」と顔を上げた三人の目前へ。
「たのもう! たのもーー!」
「あ、姉上! はっ、はなしてっ、首が! 首がしまる!」
やって来ましたるは駿馬に跨る崔秀蓮。そしてその手に首根っこを掴まれて、窒息寸前で引きずられている崔子堅の姉弟二人組である。
馬、門前でズザザと停止。
「あ……あばれうまねーちゃん!」
「あばれうまねーちゃんだ!」
「名誉の二つ名をありがとう子どもたちっ! それよりっ!」
キッ!
秀蓮は馬上から子ども達へ、鋭い視線を落とした。
しかしながら。普段の勝気を通り越して狂気じみたじゃじゃ馬気質は影を潜め、その満面を、切迫した、張り詰めた気色が覆っている。顔色は真っ青だ。ついでに彼女に首元を掴まれたままの子堅も、別の意味で真っ青。
「ここの責任者……おっぱい道士を出してもらえないかしらっ!」
「清流先生のこと?」
秀蓮の問いかけに、子どもたちは顔を見合わせる。そしてふっと、一斉に困ったような顔になり。
「……昨日から帰ってきてないんだ」
「そうそう。哥哥も火眼にーちゃんも、クソニンジャも」
「あ、土地神のじーちゃんならいるよ!」
「なんか今は疲れて寝てるけど!」
「まあっ! のんきな神様ねっ!」
一同の返答に秀蓮は一瞬柳眉を逆立てたが、それも束の間。顔色は困惑一色に染まる。
「ああ、どうしましょう……雪蓮が攫われたというのに、姉たる私がなんにもできないなんて……うっ!」
嘆きもそこそこに、秀蓮、いきなり顔面まっさお蒼白。口をおさえて慌てて馬から降りると、清流堂の塀に手をつき側溝めがけ。
「おぇえ……」
「ちょ、ちょっと姉上! こんなところではしたない!」
嗚呼やんぬるかな崔秀蓮。ひどい悪阻のおかげで、覇気はいつもの半分以下いや一割以下。そんな彼女の醜態を眺めながら、清流堂の子ども達といえば寛大である。
「気にすんなよ、あばれうまねーちゃん!」
「いっつも清流先生で慣れてるからさ、ゲロなんて!」
「どうせお掃除するのは哥哥だし!」
はっはっはの呵々大笑。
多数行方不明の状況に似つかわしくない明るい笑いがしばし続くが、しかし。
「哥哥……」
「清流先生……」
しゅん。火が消えたように消沈。子ども達、吐瀉物を眺めながら親兄弟同然の二人を恋しく思うのであった。
「さあ、姉上。清流殿がいらっしゃらないなら、ここに留まる意味はありません。帰りましょう、ねえ」
暗澹とした空気の中で、子堅は背中をさすってやりつつ、姉に帰宅を促した。しかし姉。
「でも……この子たちを、このままにしておくの?」
いつもの汗血馬ぶりが嘘のように弱体化しつつも、慮るのは目の前の子ども達のことだ。
「その……おっぱい道士もあのちびっこ道士も、帰ってこないみたいだし……。雪蓮をみすみす攫われてしまったことは赦し難いけれど、子ども達に罪はないわ。連れて帰りましょう」
「姉上……」
口の端からゲロを滴らせながら、姉は慈母のような眼差しで訴えかける。
阿修羅のような人格だったこの姉が、母になるとこうも変わるものか。しみじみ思わずにはいられない子堅である。
「……仕方ありませんね」
やれやれと、子堅は肩を竦めながら微笑んだ。同時に手巾を懐から取り出して、姉へ手渡す。
子ども達を屋敷へ連れて帰ることについては、彼も異存はない。土地神がいるとはいえ、静まり返ったボロ道廟はあまりにも物悲しい。
この三人組の普段の悪童ぶりはさておき、こうも寂し気な様子を見せられるとさすがに哀れである。
そんなわけで、姉弟間で話はまとまった。手巾で口元を拭っている姉に代わり、子堅は子ども達へ振り返りつつ口を開く。
「さあ、お前たち。一緒にうちへ来なさ……」
言いかけて、子堅はふと口をつぐんだ。先の姉弟の話し合いの間に、子ども達の興味は別の方へ向いていたようで。三人と一匹の視線は、明後日の方向を見つめている。
その先に。赤い衣をまとった人影。
「火眼にーちゃん!」
「火眼にーちゃんだ!」
わっ!
一斉に走り出した逍、遥、遊。そして三尾。人影はよろよろと、今にも倒れそうな足取りでこちらへ向かっている。
遠目から段々と近づいてくるその姿は、やはり火眼金睛。朱塗りの棍を杖代わりに、弱々しく歩む彼へ子ども達が殺到。
「火眼にーちゃん!」
「おわっ」
四方八方から突撃されて、火眼、さすがに均衡を崩す。
かくして往来ですってんころりん。ほうほうの体で帰ってきた火眼、住処の目前で、子どもや狐ともつれつつ派手に転倒である。
「……おい、大丈夫か……?」
うつ伏せに伏せたまま子どもたちに群がられている白髪の少年へ、子堅は恐る恐る近づいた。どうやらかなり弱っている状態のようだが、子堅は知っている。この少年がかつて、雪蓮を取って食おうと南方からやってきた大妖怪だということを。だからちょっと……いやかなり怖い。
近くで見ると。火眼の衣服はじっとり濡れていて、左腕には生々しい創傷が刻まれていた。出血は落ち着いているようだが、傷口はかなり深そうだ。
火眼のそばにうずくまっていた遊もそれに目を留めて、勢いよく子堅を振り仰ぐ。
「ちょっと! ちょっと白もやし!」
「白もやし言うな!」
「じゃあちゃんと外出て鍛えて日焼けしな白もやし!」
遊、生意気口調で一気呵成にもやしを黙らせ、「そーじゃなくて!」とぷりぷり怒りながら火眼の左腕を指し示す。
「はやく! はやく手当てしないと! 化膿しちゃう!」
「て、手当てったって……!」
ひえっ、と子堅、突然の無茶ぶりに後ずさる。箱入り書生、傷の手当てなんてしたこともない。しかし遊はそんなこと知る由もない。遊の周りの大人は大抵傷の応急処置を心得ていて、知らない者がいるなんて思いもしなかったから。
「だから手当て!」
「て、手当て!」
「はやく!」
「まって! それは四書五経のどこに載ってる!?」
「なにそれ遊しらない!」
さて遊が焦り子堅が慌てる最中。
がばり。
突如機敏な動作で起き上がる火眼金睛。
「うっわぁ!」
「びっくりした!」
周りの驚愕どこ吹く風。火眼は炎の瞳に若干の緊迫感を浮かべながら、焦った様子で懐をまさぐった。
そうして彼が取り出したのは、瓢箪。
「ん!」
「ん……?」
火眼はこれ見よがしに一同へ瓢箪を差し出して見せるが、子堅にはなんのこっちゃか分からない。「なにかしら?」と秀蓮が青い顔のまま歩み寄って覗き込んでみるが、どこからどう見てもただの瓢箪だ。
が、三人の子ども達にとってはただの瓢箪ではなかった。
「これ……!」
「清流先生の……!」
使い込まれてテカテカの光沢を放つそれ。結わえてある朱房も細かな傷の位置も、よくよく見知った清流道人の瓢箪に違いない。
満身創痍で戻ってきた火眼。形見とばかりに差し出された瓢箪。
「そんな……!」
一同に、激震走る。
あの殺しても死なないような巨乳の飲んだくれが。
そんな、まさか。
「清流先生……!」
「うそでしょおっぱい道士……!」
「嘘だ嘘だーっ! まだ清流殿のお胸に触ったこともないのにーっ!」
一斉に上がる嘆きの声。くずおれる子ども達。思わず叫ぶ遥。
「そんな! 冗談はやめてくれよ火眼にーちゃん!」
「遥……」
「あのクソアマが葬式代なんか残してるはずないじゃん!」
遥、心配するところは葬式代である。背後では子堅がカックンとつんのめっているが、そのそばで逍と遊といえば、「そうだそうだ」と頷くことしきり。
ところが。
「だ、だから……だから悪い冗談かなんかだろ……!」
怒った口調のまま、遥の声が震えていく。子ども達の瞳が潤んで、こらえきれずに滴がしたたり始めた。
「清流先生が死んだなんてさあ……!」
「うぅ……!」
逍も遥も遊も、声を押し殺して泣き始めてしまった。幼子の悲痛な姿に、子堅も秀蓮も同情を禁じ得ないが、しかし。
「……は?」
この愁嘆場に、火眼の反応は冷ややかである。赤と金の瞳は呆然の色を湛えている。
「なにをかんちがいしてる……」
どこか呆れたような声音で、火眼は口を開く。
「べつに清流道人は死んでなどいない」
「で、でも……清流先生帰ってこないし……その瓢箪は……」
ぐすぐすとべそをかく子ども達に、火眼はため息ひとつ。
「ん」
そして再び一同へ示して見せる清流の瓢箪。
すると。
『あー、いまの流れで大変言いにくいんだが……』
瓢箪から声。
皆が驚きの眼差しで瓢箪へ注目する中。声はさらに続ける。
『すまない。瓢箪の中に封じられてしまったが、私だ』
声の主は紛れもない。清流道人、その人だ。
---------------------------------------------------
「うぅ……」
冷たい感覚に、雪蓮は目を開いた。頭がひどく痛い。
どうやら床に突っ伏して眠っていたようだ。少し身を起こして、周囲を見渡してみる。調度の一切ない部屋だ。壁の高い場所にあかりとりの小さな窓がある。部屋の四方のうち、三面は壁。そして前方の壁面には一面に格子がはめ込まれていた。一見して牢獄のような場所だ。なにより異彩を放っていたのが。
「なに……これ……」
背後の三面の壁に、びっしり貼り付けられている呪符。幾千枚か見当もつかないが、一様に同じ文様が記されている。白地に鮮やかな赤で描きつけられた呪文の中には、『嫦娥』の二文字。
「目が覚めましたか」
柔らかな声が、室内に寒々と響く。格子の奥からだ。
「あなたは……!」
「少々手荒にお連れすることになりました。ご気分害されましたら申し訳ない」
いけしゃあしゃあと優雅な笑みで。雪蓮のいる牢の前に立っていたのは、鴻鈞道人だ。その背後には二人の人影。一人はあの黒装束の少女、そしてもう一人は。
「巽さん!」
知己の姿を見つけて、雪蓮は思わず声を上げた。鴻鈞道人の背後に控えているのは、覆面黒ずくめのあの忍びに間違いない。
しかし巽は彼女の方を振り返らない。壁に背を預けてもたれかかったまま、少女の方を直視できずにいる。
「ねえ……これはどういうこと? 黄雲くんは! 黄雲くんはどうなったの!?」
雪蓮は格子戸に縋りつきながら、矢継ぎ早に問いを放つ。しかし、巽も鴻鈞道人も答えてはくれない。優男は柔らかく微笑み、巽は俯いたまま、ただただ視線を地面へ落としている。
「さあて、あの道士の少年はどうなったのか……いや、どうなってしまうのか。興味深いことですが」
はぐらかしながら美男、碧い瞳を細め、雪蓮を見下ろして。
「その話はあとにしましょう。紹介させて頂きたい方がいる。しのぶ」
「はっ」
道人がしのぶへ指示を下すと、少女は応じてさっと後ろへ下がる。
そして、ほどなくして。
「まあけがらわしい……斯様な用向きが無ければ、このようなところへ赴きたくはないのだけれど」
しのぶに案内されて現れたのは、豪奢な衣装に身を包んだ、一人の麗人だ。
彼女が歩むたび、鳳凰を象った冠の飾り玉がシャンシャンと音を立てる。贅を凝らした錦の衣。それを纏う彼女の顔立ちは、いささか険があるものの、まごうことなき佳人である。
牢の前に着くと、佳人は無遠慮な、冷ややかな眼差しを雪蓮へと向けた。
「……その娘か。霊薬を宿したというのは」
ぽかんと口を開けて、佳人の姿を見つめる雪蓮だが。
そんな彼女にかまわず、鴻鈞道人は恭しく礼をして、にこやかに佳人の問いへ応じた。
「ええ。皇后陛下」
──皇后!
鴻鈞道人の紡いだ言葉に、雪蓮は困惑するほかない。
目前の佳人が、皇后。それではここは。
「雪蓮殿。疑問に思われているであろうことを、一つだけ答えて差し上げましょう」
鴻鈞道人は優し気な笑みのまま、春のような駘蕩とした口調で告げる。
「ここは都・垙京が皇城。その後宮の暴室……つまりはご覧の通りの獄です」
あなたの内にある霊薬のお気に召すよう、少々内装を凝ってみましたが、と道人。碧の瞳は、壁一面の呪符をなぞる。
「あなたにはここで過ごしてもらいます、崔雪蓮」
「……!」
「おそらくここが、あなたが『崔雪蓮』として過ごす、最後の場所になるでしょう」
どうぞ、ごゆるりと。
冷笑を浮かべる皇后の隣で、鴻鈞道人の微笑みはやはり柔らかい。
碧い瞳の底は、底知れない。




