4 忍ぶ者
嗚咽は止まらなかった。
熱くほてった眦から、涙はとめどなく流れてくる。
二階、宛がわれた部屋の寝台に身を伏せて。
雪蓮はずっと泣きじゃくっていた。涙の海で溺れてしまいそうだ。
黄雲の言い分は、雪蓮にも本当はよく分かっていたことだった。身分の差を埋めることは、この太華では相当に困難で。でも。
ふたりが想いあっているならば。胸に抱くものが同じならば。互いに手を取り合って、障害なんていつか越えられるものと思っていた。物語の世界では、紆余曲折の苦難を挟むとはいえ、恋路は成就するものだったから。
黄雲の放った「大嫌い」は、そんな彼女の甘い考えを叩き潰すに足る一言だった。
全て拒否されてしまった。互いの眼差しと言葉を交わし、想いを通じあうことも。この先ふたりが結ばれるための努力も。彼と彼女の関係に温度をもたらすだろうものを、全て。
それが、ただただ悲しい。なら胸にわだかまったこの気持ちはどうすればいいのかと、黄雲を恨めしく思ってしまう。それでもひどい言葉を突き付けた彼を、憎むに憎めなくて。
雪蓮はひたすら泣いた。ぐすぐすと鼻を鳴らし、嗚咽を漏らし。
だから気付かなかった。
天井裏で、がさりと動く気配に。
臨、兵。
「……闘、者、皆、陣……」
「!」
頭上から降ってくる息遣いだけの声に気付いた時は、もう手遅れだったのかもしれない。
「列、在、前!」
意を決したかのように声を張り、天井板を蹴破って現れる、黒風の如き人影。
濡れ羽色の髪、顔を下半分だけ覆う黒い覆面、虚ろな瞳。
小柄な少女だった。年の頃は、雪蓮より一つか二つ下くらいだろうか。部屋へ降り立った少女は、全身に黒装束を纏っている。
「だれっ……」
寝台から慌てて跳び退りつつ、誰何する雪蓮だったが。
「御免!」
少女、わずかに身を屈めるような動作を見せたかと思うと、瞬時に雪蓮の懐へ。
「……!」
身のこなしは電光石火。
武芸の手練れである雪蓮が、応戦の構えを取る暇もなく……。
「!」
階上からの物音に、黄雲はがばりと寝台から身を起こした。続いて聞こえてくるのは、床面が軋むような足音の連続。二階から感じられる氣は雪蓮の放つ金の氣だけだが、耳の内へ飛び込んでくる足音はどうも、二人分の気配を示している。
黄雲は持っていた白玉の帯飾りを咄嗟に懐へ入れ、矢も楯もたまらず寝台から飛び降りた。
しかし部屋を出る直前、扉を開こうとする手に一瞬の躊躇。黄雲の脳裏に、先ほどの雪蓮の泣き顔が蘇るが。
「……くそっ!」
事は急を要する。黄雲は私情をかなぐり捨てて、廊下へ駆けだした。
そうして駆け付けた二階の、彼女の部屋。
叩き壊す勢いで開いた扉の先、開け放たれた窓の前。
雪蓮を肩にかつぎ窓辺に足をかけ、こちらをちらりと振り返るは黒装束の少女。
生気の無い目が、一瞬だけこちらを捉える。
「待て! その人を離せ!」
黄雲は脛へ、脚絆の下へ仕込んでいた神行符へ氣を込めるが、瞬刻間に合わず。
少女はぐったりとした雪蓮を担いだまま、窓から飛び出した。ふわりと雲を渡るような、悠々かつ剽軽な挙動。
「お嬢さん!」
慌てて後を追う黄雲だが、すでに少女の姿は遠い。黒装束は曇天の下、家々の屋根を伝い、街並みの中を走り去っていく。
その速度たるや、あまりにも人間離れしている。瞬き一つの間に何里も離れていくようだ。
(速すぎる……!)
神行符から氣を発しつつ窓枠を越えた黄雲は、内心驚愕していた。少女の位置は、雪蓮の放つ金の氣から捕捉できるが。
あれでは、術を使っても追いつけるかどうか。
「黄雲!」
今にも屋根を蹴り跳躍しようとしていた黄雲の背へ、呼びかける声。那吒だ。
足下の二輪の宝具で地上、本堂の方から中空へ駆け上がると、少年神は整った顔へ焦りを浮かべながら手を伸ばす。
「追うぞ! 掴まれ!」
そして黄雲は那吒の手に掴まり、ぶら下がりつつ宙から黒い少女を追う。
空を覆う雲はどんどん質量と暗さを増し、街へ重苦しい影を投げかけている。
息も詰まりそうな曇り空の下、気絶した雪蓮から放たれる鋭い金の氣。
そして彼女を担ぎ、凄まじい速度で街の西側を指して走る黒い影。
「クソッ、どういうこった! 風火輪でも追いつけねえ……!」
那吒、飛行しながら苦い顔。彼の両足の下にある二つの輪・風火輪は、天界でも至宝とされる飛翔用の宝具だ。地上の道士が使う神行法など、及びもつかない速度で空を駆けることのできる宝具だったが。
視界の遥か先を走る少女は、明らかにそれを上回る疾さで、身一つで走っている。それも雪蓮を抱えたまま。
人間が天仙を上回るなど、あってはならない椿事だ。そして奇妙なのはそればかりではない。
「那吒殿、あの者から氣は感じられますか!?」
黄雲は上を見上げながら問う。
走る少女からは、人間が本来自然に放つはずの固有の氣が、一切感じられない。
氣に関する道士の感覚は敏く、天仙に至っては言わずもがな、のはずだが。
「面目ねえ……オレぁ先刻全然気付かなかったし、今もまったくあいつの氣が読めねえ……!」
那吒は口調に悔しさを滲ませる。普段は腕白奔放な少年神の彼とて、本来は高位の神格。彼の氣に関する感知圏は、それこそ亮州城一帯に及ぶが。
その那吒の眼を、少女はかいくぐったということ。
一体なぜ、どのようにしてか、詳しいことは今はまだ全く分からないが。
「とにかく今はあの娘を追おう! 捕まえてとっちめて、洗いざらい吐かせてやる!」
那吒、より速度を上げようと、ただでさえ全力全開の出力へ底力を加えようと試みる。
徐々に速度が上がり。黒い影との距離も、少しずつ縮まっていく。その中で。
(あれは……あの姿は……)
向かい風の中、黒点と化した遠い少女を目で追いながら、黄雲の胸中には疑念が去来する。
あの黒装束は、まるで。
しかし思考は突如妨げられる。ちょうど西の城壁へ差し掛かったところで。
「! やべえ、避けるぞ黄雲!」
「なんです!?」
突然那吒が横ざまに向きを変えた。すると目前。
どぉ、と大音声を上げ。城壁が砕け散る。
「なっ……!」
奥側から凄まじい勢いで破砕されたらしい。城壁を成していた煉瓦は瓦礫となって、街並みへ降り注ぐ。ほどなくして辺りからわき始める、阿鼻叫喚の悲鳴、怒号、喚き声。
破壊された城壁の周囲には、もうもうと土煙が立ち込めていた。が。
牛とも虎ともつかぬ、なんとも形容できぬ声。太い咆哮が響き渡る。
吠え声の音波は衝撃波と化し、周囲に舞う塵芥を一気にかき消した。
晴れた土煙の奥に。
捻じ曲がった角、牛のような躰、丸々とした眼球。
そして不気味なほどに整列した白い歯を剥き出しにして、巨大なそれは佇んでいた。
「饕餮……!」
体高が城壁ほどもあるそれを、那吒は驚愕の面持ちで見つめている。
この巨躯の放つ氣も、今まで一切感じられなかった。忽然とこの場に湧いたような、それ。
黄雲と那吒の心中を、驚愕の次に困惑が満たしていく。
「老いぼれの化物が、なぜここに……!」
「ご存知なんです!? 那吒殿!」
面立ちを険しくする那吒へ、黄雲は問うが。
事態は切迫している、問答をしている暇はない。混乱の最中にも、件の黒い少女は壊れた城壁を軽々と飛び越えて、城外へ逃げようとしている。
「いけねえ! 黄雲、ここはオレに任せてあの娘を追え!」
「那吒殿!」
「ほら、早く行ってこい!」
那吒、空高くから容赦なく黄雲を放り投げた。このまま地面へ叩きつけられなら、確実に死ぬ高さだが。
「言われなくとも!」
黄雲は自ら身を翻し、土中へ飛び込んだ。水中へ沈むが如く、少年の姿はとぷんと地面の下へ消える。そして地下を通り、黄雲は城外西の林へ。
移動する彼の氣を見送りつつ、那吒は空中でぽつりとつぶやいた。
「ったく……無事に助け出して、あの子に一言謝れってんだ。あのクソ思春期」
先刻、本堂裏から否応なしに聞こえてきた、少年少女のやりとり。
あのけんか別れの後にこの成り行きは、いささか同情を禁じ得ないが。
神将は哀切の情をすぐに切り払い、憤然とした眼差しを牛のような巨体──饕餮へ向けた。
「四凶がひと柱、饕餮。古の神か……!」
眼前に対峙するは、おのれよりも古い神。
那吒、今まで飛翔に使っていた仙氣を全身に回しつつ、腕を眼前へかざす。
「だが、古い神だろうが目上だろうが関係ねえ!」
金光生じて、その掌中に現れるひと振りの神槍、そして身辺にはためく真紅の絹布。右腕に光るは金の腕輪・乾坤圏。
「天仙が定めを守らず地を混乱に陥れる不届き者め! 我こそは、托塔李天王が第三太子・那吒! 天地の秩序を守護する戦神なれば!」
振りかざした槍の穂先から、火焔がほとばしる。炎が照らし出すは、少年神の不敵な笑み。
「──そのドでかい脳天かち割って! 脳漿脳髄! 四方八方へぶちまけてくれる!」
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暗い林の中を、少女は獲物を担いだまま走っていた。
後方からは、遥かに遠くなった城市からの喧騒がまだ響いている。少女の虚ろな瞳は後ろを振り返ることもなく、ただ前を見据えている。
林道に人影はない。少女の速度が、若干落ちる。
そのとき。
「逃がすか!」
少女の足を狙うように。彼女の前方の土が盛り上がり、柔軟に形を変えつつ剛力で、その細い足首を掴んだ。
「ぐっ!」
少女、転びはしないが走りは止まる。停止にかかる衝撃が、少女の肩の雪蓮を少々ゆすぶった。
突然足を絡めとる土。さらに気配を感じ、背後を振り返った黒い少女の視線の先に。
「そこまでだ! その人を返せ!」
土から飛び出すようにして。茶色い髪を跳ねさせつつ、黒ずくめの少女へ追いすがるのは黄雲だ。
「ちっ……!」
少女、逃げようにも足首を捕える土の戒めが、存外にきつい。雪蓮を抱えたまま、少女が懐へ手を入れたとき。
わずかに少年の鼓膜を揺らす、空気を裂く音。
「!」
黄雲は追う足を思わず止めて、反射的に身を逸らした。刹那、頬を掠めていく鋭い痛み。背後の木へ、ドッと何かが刺さる音。
ビィン、と木の幹に刺さったまま微かに振動しているのは、四つの刃から成る鉄製の暗器。黄雲の頬から、つ、と赤いものが滴った。
目前の少女は懐へ手を入れたままだ。彼女が放ったのでは、ない。
「ほんとさ、俺の言う通りにしときゃ良かったのにな。さっさと二人で本懐を遂げちまえばよかったのによ」
突然場に響いた声は、聞き覚えのあるものだった。
軽佻浮薄で、飄々としていて。しかし声音には、普段のような情味が無い。
続いて再び空を裂く音。黄雲、瞬時に氣を練って音の方向──前方へ土の壁を作る。土壁、放たれた暗器複数をサクサクと受け止めると、黄雲の意図に従ってざらりと崩れた。
土壁を崩壊させ、明瞭になった前方には。
土に足を掴まれたままの少女、雪蓮。そして。
「……どうせ、死ぬんだしさ」
少女をかばうように。すらりと細身の刀を鞘から抜き放ちつつ、立ちふさがる覆面黒装束。
木ノ枝巽。
いや、八洲の忍び。
「巽……てめぇ……!」
「…………」
巽、それ以上には何も語らず。
曇天の下、三白眼にはただ、冷たい光が炯々と宿るのみ。




