表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
118/147

4 忍ぶ者

 嗚咽は止まらなかった。

 熱くほてった(まなじり)から、涙はとめどなく流れてくる。

 二階、宛がわれた部屋の寝台に身を伏せて。

 雪蓮はずっと泣きじゃくっていた。涙の海で溺れてしまいそうだ。

 黄雲の言い分は、雪蓮にも本当はよく分かっていたことだった。身分の差を埋めることは、この太華では相当に困難で。でも。

 ふたりが想いあっているならば。胸に抱くものが同じならば。互いに手を取り合って、障害なんていつか越えられるものと思っていた。物語の世界では、紆余曲折の苦難を挟むとはいえ、恋路は成就するものだったから。

 黄雲の放った「大嫌い」は、そんな彼女の甘い考えを叩き潰すに足る一言だった。

 全て拒否されてしまった。互いの眼差しと言葉を交わし、想いを通じあうことも。この先ふたりが結ばれるための努力も。彼と彼女の関係に温度をもたらすだろうものを、全て。

 それが、ただただ悲しい。なら胸にわだかまったこの気持ちはどうすればいいのかと、黄雲を恨めしく思ってしまう。それでもひどい言葉を突き付けた彼を、憎むに憎めなくて。

 雪蓮はひたすら泣いた。ぐすぐすと鼻を鳴らし、嗚咽を漏らし。

 だから気付かなかった。

 天井裏で、がさりと動く気配に。


 (りん)(ぴょう)


「……(とう)(しゃ)(かい)(じん)……」

「!」


 頭上から降ってくる息遣いだけの声に気付いた時は、もう手遅れだったのかもしれない。


(れつ)(ざい)(ぜん)!」


 意を決したかのように声を張り、天井板を蹴破って現れる、黒風の如き人影。

 濡れ羽色の髪、顔を下半分だけ覆う黒い覆面、虚ろな瞳。

 小柄な少女だった。年の頃は、雪蓮より一つか二つ下くらいだろうか。部屋へ降り立った少女は、全身に黒装束を纏っている。


「だれっ……」


 寝台から慌てて跳び退りつつ、誰何(すいか)する雪蓮だったが。


「御免!」


 少女、わずかに身を屈めるような動作を見せたかと思うと、瞬時に雪蓮の懐へ。


「……!」


 身のこなしは電光石火。

 武芸の手練れである雪蓮が、応戦の構えを取る暇もなく……。




「!」


 階上からの物音に、黄雲はがばりと寝台から身を起こした。続いて聞こえてくるのは、床面が軋むような足音の連続。二階から感じられる氣は雪蓮の放つ金の氣だけだが、耳の内へ飛び込んでくる足音はどうも、二人分の気配を示している。

 黄雲は持っていた白玉の帯飾りを咄嗟に懐へ入れ、矢も楯もたまらず寝台から飛び降りた。

 しかし部屋を出る直前、扉を開こうとする手に一瞬の躊躇。黄雲の脳裏に、先ほどの雪蓮の泣き顔が蘇るが。


「……くそっ!」


 事は急を要する。黄雲は私情をかなぐり捨てて、廊下へ駆けだした。

 そうして駆け付けた二階の、彼女の部屋。

 叩き壊す勢いで開いた扉の先、開け放たれた窓の前。

 雪蓮を肩にかつぎ窓辺に足をかけ、こちらをちらりと振り返るは黒装束の少女。

 生気の無い目が、一瞬だけこちらを捉える。


「待て! その人を離せ!」


 黄雲は脛へ、脚絆の下へ仕込んでいた神行符へ氣を込めるが、瞬刻間に合わず。

 少女はぐったりとした雪蓮を担いだまま、窓から飛び出した。ふわりと雲を渡るような、悠々かつ剽軽(ひょうけい)な挙動。


「お嬢さん!」


 慌てて後を追う黄雲だが、すでに少女の姿は遠い。黒装束は曇天の下、家々の屋根を伝い、街並みの中を走り去っていく。

 その速度たるや、あまりにも人間離れしている。瞬き一つの間に何里も離れていくようだ。


(速すぎる……!)


 神行符から氣を発しつつ窓枠を越えた黄雲は、内心驚愕していた。少女の位置は、雪蓮の放つ金の氣から捕捉できるが。

 あれでは、術を使っても追いつけるかどうか。


「黄雲!」


 今にも屋根を蹴り跳躍しようとしていた黄雲の背へ、呼びかける声。那吒(なた)だ。

 足下の二輪の宝具で地上、本堂の方から中空へ駆け上がると、少年神は整った顔へ焦りを浮かべながら手を伸ばす。


「追うぞ! 掴まれ!」




 そして黄雲は那吒の手に掴まり、ぶら下がりつつ宙から黒い少女を追う。

 空を覆う雲はどんどん質量と暗さを増し、街へ重苦しい影を投げかけている。

 息も詰まりそうな曇り空の下、気絶した雪蓮から放たれる鋭い金の氣。

 そして彼女を担ぎ、凄まじい速度で街の西側を指して走る黒い影。


「クソッ、どういうこった! 風火輪(ふうかりん)でも追いつけねえ……!」


 那吒、飛行しながら苦い顔。彼の両足の下にある二つの輪・風火輪は、天界でも至宝とされる飛翔用の宝具だ。地上の道士が使う神行法など、及びもつかない速度で空を駆けることのできる宝具だったが。

 視界の遥か先を走る少女は、明らかにそれを上回る(はや)さで、身一つで走っている。それも雪蓮を抱えたまま。

 人間が天仙を上回るなど、あってはならない椿事(ちんじ)だ。そして奇妙なのはそればかりではない。


「那吒殿、あの者から氣は感じられますか!?」


 黄雲は上を見上げながら問う。

 走る少女からは、人間が本来自然に放つはずの固有の氣が、一切感じられない。

 氣に関する道士の感覚は敏く、天仙に至っては言わずもがな、のはずだが。


「面目ねえ……オレぁ先刻全然気付かなかったし、今もまったくあいつの氣が読めねえ……!」


 那吒は口調に悔しさを滲ませる。普段は腕白奔放な少年神の彼とて、本来は高位の神格。彼の氣に関する感知圏は、それこそ亮州城一帯に及ぶが。

 その那吒(かみ)の眼を、少女はかいくぐったということ。

 一体なぜ、どのようにしてか、詳しいことは今はまだ全く分からないが。


「とにかく今はあの娘を追おう! 捕まえてとっちめて、洗いざらい吐かせてやる!」


 那吒、より速度を上げようと、ただでさえ全力全開の出力へ底力を加えようと試みる。

 徐々に速度が上がり。黒い影との距離も、少しずつ縮まっていく。その中で。


(あれは……あの姿は……)


 向かい風の中、黒点と化した遠い少女を目で追いながら、黄雲の胸中には疑念が去来する。

 あの黒装束は、まるで。


 しかし思考は突如妨げられる。ちょうど西の城壁へ差し掛かったところで。


「! やべえ、避けるぞ黄雲!」

「なんです!?」


 突然那吒が横ざまに向きを変えた。すると目前。

 どぉ、と大音声を上げ。城壁が砕け散る。


「なっ……!」


 奥側から凄まじい勢いで破砕されたらしい。城壁を成していた煉瓦(れんが)は瓦礫となって、街並みへ降り注ぐ。ほどなくして辺りからわき始める、阿鼻叫喚の悲鳴、怒号、喚き声。

 破壊された城壁の周囲には、もうもうと土煙が立ち込めていた。が。

 牛とも虎ともつかぬ、なんとも形容できぬ声。太い咆哮が響き渡る。

 吠え声の音波は衝撃波と化し、周囲に舞う塵芥(じんかい)を一気にかき消した。

 晴れた土煙の奥に。

 捻じ曲がった角、牛のような躰、丸々とした眼球。

 そして不気味なほどに整列した白い歯を剥き出しにして、巨大なそれは佇んでいた。


饕餮(とうてつ)……!」


 体高が城壁ほどもあるそれを、那吒は驚愕の面持ちで見つめている。

 この巨躯の放つ氣も、今まで一切感じられなかった。忽然とこの場に湧いたような、それ。

 黄雲と那吒の心中を、驚愕の次に困惑が満たしていく。


「老いぼれの化物が、なぜここに……!」

「ご存知なんです!? 那吒殿!」


 面立ちを険しくする那吒へ、黄雲は問うが。

 事態は切迫している、問答をしている暇はない。混乱の最中にも、件の黒い少女は壊れた城壁を軽々と飛び越えて、城外へ逃げようとしている。


「いけねえ! 黄雲、ここはオレに任せてあの娘を追え!」

「那吒殿!」

「ほら、早く行ってこい!」


 那吒、空高くから容赦なく黄雲を放り投げた。このまま地面へ叩きつけられなら、確実に死ぬ高さだが。


「言われなくとも!」


 黄雲は自ら身を翻し、土中へ飛び込んだ。水中へ沈むが如く、少年の姿はとぷんと地面の下へ消える。そして地下を通り、黄雲は城外西の林へ。

 移動する彼の氣を見送りつつ、那吒は空中でぽつりとつぶやいた。


「ったく……無事に助け出して、あの子に一言謝れってんだ。あのクソ思春期」


 先刻、本堂裏から否応なしに聞こえてきた、少年少女のやりとり。

 あのけんか別れの後にこの成り行きは、いささか同情を禁じ得ないが。

 神将は哀切の情をすぐに切り払い、憤然とした眼差しを牛のような巨体──饕餮へ向けた。


「四凶がひと柱、饕餮。(いにしえ)の神か……!」


 眼前に対峙するは、おのれよりも古い神。

 那吒、今まで飛翔に使っていた仙氣を全身に回しつつ、腕を眼前へかざす。


「だが、古い神だろうが目上だろうが関係ねえ!」


 金光生じて、その掌中に現れるひと振りの神槍、そして身辺にはためく真紅の絹布。右腕に光るは金の腕輪・乾坤圏(けんこんけん)


「天仙が定めを守らず地を混乱に陥れる不届き者め! 我こそは、托塔李天王(たくとうりてんのう)が第三太子・那吒! 天地の秩序を守護する戦神(いくさがみ)なれば!」


 振りかざした槍の穂先から、火焔がほとばしる。炎が照らし出すは、少年神の不敵な笑み。


「──そのドでかい脳天かち割って! 脳漿脳髄! 四方八方へぶちまけてくれる!」


-------------------------------------------------


 暗い林の中を、少女は獲物を担いだまま走っていた。

 後方からは、遥かに遠くなった城市からの喧騒がまだ響いている。少女の虚ろな瞳は後ろを振り返ることもなく、ただ前を見据えている。

 林道に人影はない。少女の速度が、若干落ちる。

 そのとき。


「逃がすか!」


 少女の足を狙うように。彼女の前方の土が盛り上がり、柔軟に形を変えつつ剛力で、その細い足首を掴んだ。


「ぐっ!」


 少女、転びはしないが走りは止まる。停止にかかる衝撃が、少女の肩の雪蓮を少々ゆすぶった。

 突然足を絡めとる土。さらに気配を感じ、背後を振り返った黒い少女の視線の先に。


「そこまでだ! その人を返せ!」


 土から飛び出すようにして。茶色い髪を跳ねさせつつ、黒ずくめの少女へ追いすがるのは黄雲だ。


「ちっ……!」


 少女、逃げようにも足首を捕える土の戒めが、存外にきつい。雪蓮を抱えたまま、少女が懐へ手を入れたとき。

 わずかに少年の鼓膜を揺らす、空気を裂く音。


「!」


 黄雲は追う足を思わず止めて、反射的に身を逸らした。刹那、頬を掠めていく鋭い痛み。背後の木へ、ドッと何かが刺さる音。

 ビィン、と木の幹に刺さったまま微かに振動しているのは、四つの刃から成る鉄製の暗器。黄雲の頬から、つ、と赤いものが滴った。

 目前の少女は懐へ手を入れたままだ。彼女が放ったのでは、ない。


「ほんとさ、俺の言う通りにしときゃ良かったのにな。さっさと二人で本懐を遂げちまえばよかったのによ」


 突然場に響いた声は、聞き覚えのあるものだった。

 軽佻浮薄(けいちょうふはく)で、飄々としていて。しかし声音には、普段のような情味が無い。

 続いて再び空を裂く音。黄雲、瞬時に氣を練って音の方向──前方へ土の壁を作る。土壁、放たれた暗器複数をサクサクと受け止めると、黄雲の意図に従ってざらりと崩れた。

 土壁を崩壊させ、明瞭になった前方には。

 土に足を掴まれたままの少女、雪蓮。そして。


「……どうせ、死ぬんだしさ」


 少女をかばうように。すらりと細身の刀を鞘から抜き放ちつつ、立ちふさがる覆面黒装束。

 木ノ枝巽。

 いや、八洲(やしま)の忍び。


「巽……てめぇ……!」

「…………」


 巽、それ以上には何も語らず。

 曇天の下、三白眼にはただ、冷たい光が炯々(けいけい)と宿るのみ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ