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3 けんか別れ

「ここでさぁ、道士さま」

「ほう……」


 亮州城外。耕作地帯が広がるのどかな景色の中に、その廃寺はあった。

 あちこちに雑草がはびこり、鐘楼に鐘はなく、伽藍(がらん)はほとんど崩れかけている。

 ここまで案内をしてくれた近所の農家の五男坊へ、清流は振り返り礼を述べた。


「ここまで案内、かたじけない。なにか礼をしたいのだが……」


 そんな彼女の申し出に、五男坊。


「それならおいらの頬をぶってくれ! 思いっきり!」


 期待の眼差しで懇願し、対する清流も。


「そうか。歯ぁ食いしばれよ」


 したり顔のまま、躊躇なく手のひらを振り上げる。

 かくしてバッチーン!


「ンギモッヂイイ!」

「ははは、変わり者だな」


 さてさて、夏の過日、街を騒がせたスケベ忍軍。

 その残党を辿る道程も、どうやらここが終点らしい。

 悶絶する五男坊を尻目に、清流は廃寺へと歩を進める。

 この廃寺こそ、スケベ忍軍騒動の間、かの八洲(やしま)の忍びが第二の根城としていた場所。

 清流は境内のあらゆる場所へ目を凝らし、つぶさに観察し。

 やがて伽藍へ足を踏み入れると、ふと天井を見遣った。


「……あれは」


 薄暗い天井に、何か白い札のようなものが数枚、貼り付けてある。よくよく目を凝らせば、天井だけでなく、柱にも幾枚か同様に白いものが貼りついていた。

 書きつけてある文字は、神眼忌避(しんがんきひ)の呪文。土地神や天仙といった、神々の目から逃れるための呪符だ。

 清流はやにわにヒラリと飛び上がった。人間離れした跳躍力で梁の上へ、すると彼女の目に飛び込んできたものは……。


「……やはり……!」


---------------------------------------------


「縁談……!?」


 黄雲も雪蓮も、驚愕の面持ちで目前の子堅を見つめている。

 そんな彼らへ、子堅はゆっくり、そしてしっかりとうなずいて口を開いた。


「ああそうだ、縁談だ。先ほど役所へ、垙京(こうけい)から使いの方がお見えになってな」

「それってもしかして……豪華な馬車に乗ってたり……」

「はぁ、街でも噂になっていたか……。まさしくその通りだ」


 つまり、先刻この通りを走って行ったという絢爛たる馬車は垙京からの使者で。

 用件は、雪蓮の縁談というわけだ。

 煌びやかな馬車を立て、さらには警護の騎馬まで用意できるとなると、縁談を申し入れてきた相手はおそらく相当身分の高い人物。

 しかし、子堅の顔色は冴えない。妹の縁談が舞い込んできたというのに、笑顔の一つもない。

 青年は難しい表情で、こう切り出した。


「詳しく説明したいが、往来でするには少々(はばか)る話だ。どこか、茶店へ入ろう」




 さて、子堅はなるべく壁の厚い、高級志向の茶店を選び。


「勘定は案ずるな。私が支払う」


 珍しく太っ腹なことを言い、子堅は店員へ個室を一部屋所望した。

 そうして通された一室で、子堅、そして黄雲と雪蓮とが向かい合って座り。

 三人揃って茶を一口。

 そしてオホンと咳ばらいを一つして、書生、さっそく切り出した。


「よく聞け、雪蓮。お前に縁談を申し入れてきたのは、皇太子殿下だ」

「はっ……」


 皇太子殿下。

 皇太子。

 黄雲と雪蓮、思わず魂が抜けかける。


「こっ……皇たい……んぶっ」

「こらっ、声が高い!」


 思わず同時に叫びかけた二人の口を、向かいの席から両手を伸ばし、子堅がふさぐ。


「まったく、なんだってこんな高い店の、それも個室を選んだと思っている! 他の者に聞かれたくないからだ!」


 ぷんすかと怒りながら、子堅は続けた。


「この件はまだ公にするなと、父上からの命でな。当然だ、相手は皇太子だぞ……!」


 子堅の怒りはどうやら、迂闊に大声を上げてしまった雪蓮達へ向かっているわけではないようだ。書生は怒ったような、困ったような顔色で、せわしなく指でトントン机を叩いている。

 皇太子、といえば。黄雲も雪蓮も、思い出すのは数ヶ月前のこと。

 秀蓮が語った、楼安関での顛末についてだ。

 若年でありながら郭親子へ厳しい査問を行い、かつ宮中における対抗勢力の動静をつぶさに把握している様を見せつけ。なんのかんのと傑物ぶりをいかんなく発揮したという、若き俊英。

 そのような英姿颯爽(えいしさっそう)たる人物が、なぜ、どうして、雪蓮を嫁に所望したのか。


「残念ながら、我が妹は容貌華麗で四方へ名が轟いているわけでも、はたまた取り立てて気立てがよいわけでも、詩文に秀でた才媛(さいえん)というわけでもなく! しいて言うならただのイモ!」

「…………」


 兄からの失礼なこき下ろしに、雪蓮、今回ばかりは無言だ。普段ならば頬を膨らませて反論するところ、しかし少女は口を半開きにしたままじっと話に聞き入るのみ。

 皇太子が縁談を申し入れてきたというとんでもない事態に、考えが追い付かないのだ。

 子堅は続ける。


「それにだ。我が母の出身は垙京、そして母の兄は、宮中では第二太子派に属している劉仲孝(りゅうちゅうこう)。言うなれば我々は、皇太子殿下にとっては政敵の血筋に当たる」


 宮中の事情は、以前秀蓮が語った通りだ。彼の弟である第二太子が昨今頭角を現し始め、一大派閥を築きつつある。雪蓮たちの伯父・劉仲孝はその第二太子派に所属しており、以前にも第二太子を喧伝するような文を崔知府へ送ってきたことがあった。


「聞くところによると、やはり両派閥の溝は深く、(まつりごと)を巡ってとかく互いに反対反対と、敵対の度合いは日ごと強まっているらしい。だから皇太子にとっては、第二太子派は目の上のたんこぶのようなものだ。そのような一派の者と血を連ねる我が妹を、どうして……」

「…………」


 トントン。子堅はなおも机を叩いている。茶は減らない。


「血縁を通じ、劉殿を自身の味方へ引き入れるためか、はたまた牽制するためか? おそらくその線が濃厚だが、うーむ……」

「し、しかし……」


 ひとりで考えにふける子堅へ、口を挟んだのは黄雲だ。眉をしかめさせて真剣な面持ちで、少年は書生へ問う。


「妹御の中の霊薬(エリキサ)はいかがなされます。まだ異変は彼女に取り憑いたまま、この状態では、お輿入れなどとても……」

「そう、そこよ!」


 黄雲の弁に、子堅は嘆息しながら頭を抱える。


「お前の言う通り、妹に霊薬(エリキサ)が取り憑いたままだということも大問題ではあるのだが……。此度の使者、妙なことを申しおった」

「妙なこと?」


 問い返す少年へ、子堅は眉間のしわをさらに深くする。書生が語り始めたのは、彼の父・崔伯世と、都からの使者との会話だ。


「父上もさすがに霊薬(エリキサ)の存在を危惧されていてな。とはいえ、霊薬(エリキサ)などという前代未聞の物の怪に宿られたなど、垙京からの使者が信じようはずもない。父上は雪蓮が病に罹っていることにして、縁談自体を一度考え直すよう使者へ打診したのだが……」


 ちょうど父と使者との会談の場にいた子堅は、そのやりとりをしかと目にしていた。

 娘は病で、と言いかけた父に対し、使者は。

『存じています』、と。


「存じています……ですか」

「そう。病を得ていても構わぬと……例え、物の怪に宿られていようとも……」

「…………」


 子堅を通して語られる、使者の受け答え。それはともすると、雪蓮に霊薬(エリキサ)が宿っていることを承知しているように取れなくもない。

 そうでなくとも、病持ちの娘を皇太子が娶るなど、尋常ではないことだ。天下に名が轟く程の美女ならばともかく、身分以外平々凡々少女の雪蓮を。

 もちろん子堅も崔知府も、どうしてそんなことを知っているのか、使者を問い質したかった。しかし使者はすぐに話題を別のことへ移し、ついに理由を答えなかった。


「まったく……霊薬(エリキサ)だの宮中のいざこざだのが無ければ、私も手放しで喜べたものを……! 皇太子殿下は現在未婚、つまるところ雪蓮は正妃の扱いで、ゆくゆくは皇后というわけだ。そして我ら崔家は外戚一直線、私だって科挙を経ずして官職にありつけるというもの」


 本来ならば、子堅もその成り行きを楽観的に許容し、かつ享受していたはずだ。

 しかし青年の顔に、喜色は一切なく。


「よもや妹の縁談を、それも皇太子との婚姻を。こんなに歓迎できぬとは、思いもしなかったな……」


 子堅は苦虫を噛み潰したような顔で俯いている。


「…………」


 黄雲も無言だ。皇太子、宮中の派閥、そして霊薬(エリキサ)

 皇太子は霊薬(エリキサ)のことを知っているのだろうか。

 知った上で、この縁談なのだろうか。使者の言動は、どうしようもなく引っかかる。

 茶店の個室を満たす、張り詰めた沈黙。


「あ、あの……」


 そんな中、おずおずと声を上げたのは雪蓮だ。

 少女、難しいことは、よくわからないけれど。

 けれどもどうしても聞いておかなければならないことがある。

 雪蓮は少し逡巡した後、意を決して兄へ尋ねた。


「私は……嫁がなくては、ならないのですか」


 途切れ途切れに放った問い。

 雪蓮の中には、一抹の期待があった。どうやら今回の婚姻を喜んでいない様子の兄が、己の望みに添うているような気がしていた。少女の胸には当然、婚姻に対して拒否の気持ちが渦巻いている。

 嫁ぎたくなんかない。こんな突然に、見知りもしない、好きでもない相手のもとへ。

 隣の黄雲は前を見つめたまま、こちらへ一瞥もくれなくて、そして。


「当たり前だ」


 きっぱりとした兄の返答に、雪蓮のわずかな期待は粉々に打ち砕かれる。


「雪蓮。お前が王城へ輿入れするのは、もはや決定事項と言ってもいい。先方は病でも、物の怪憑きでも構わぬと言っているのだ。真意はどうあれ、皇族の意に従わないわけにはいかない」

「そんな……」

「お前も霊薬(エリキサ)などと妙なものに憑かれ、心中の戸惑いは察するに余りある。だが、婚姻自体は世のならいだ。せめて皇太子がお前を大事にしてくれればいいがな……」

「…………」


 兄は妹の打ちひしがれた表情を、彼女自身の身の上、そして突然の縁談への戸惑いと解した。しかし、子堅の慰めの言葉は妹には届かない。雪蓮は膝に置いた手を、ぎゅっと握りしめる。黄雲は、何も言ってくれない。


「……正直なところ、あまりにも突然のことで、父上も内心至極困惑されている。が、いまは使者を接待せねばならず、差し当たり私を遣わしてこのことをお前たちへ知らせたわけだ」


 子堅は語りつつ、ふと、視線をじとりと黄雲へ向ける。


「本当は清流殿が一緒にいてくれれば良かったのだが……まったく、クソ道士だけ同伴とは、私もついていない」

「…………」

「おい、反応無しかクソ道士!」

「ああ、すみません。少し考え事を」


 黄雲は少し俯かせていた顔を、前へ向けた。いつもの通りの生意気な顔が、淡々とした態度で口を開く。


「で、我々はどうすればいいんです? 妹御が王城へ嫁がれるというなら、霊薬(エリキサ)はどうすればいい?」


 霊薬(エリキサ)退治を請け負った者として、やはり今後の方針は確かめておかねばならない。そんな立場上至極当然の問いは、雪蓮の胸の内をずきりとえぐった。

 子堅は苛立った仕草の上に、困惑の様相を重ねて答える。


「それなんだがな……! さっきも言った通り、父上も突然のことで動揺されている最中だ。なに、輿入れ自体は今すぐというわけではなく何ヶ月も先のこと、使者が帰った後でまた清流殿とお話をされたいとの(よし)だ」


 今後のことは、知府と清流との会談次第。返答を聞き、黄雲は「そうですか」とややもすると冷淡に響くような声で頷いた。


「ともかく、こんな成り行きだ。使者殿は雪蓮に会いたがっている。お前の人品を見ておきたいそうだ」

「…………」

「雪蓮、聞いているのか? 雪蓮!」

「あ、はい……」

「なんなんだお前ら、さっきから!」


 先程から反応の鈍い二人へ、子堅、不機嫌な声をぶつける。


「本当なら今すぐにでもお前を屋敷へ引っ張っていきたいところなのだが……まさか男連れで帰らせるわけにもいくまい。さすがに心証が悪くなる」


 子堅の眼差しは、苛々と黄雲を捉える。お前は来るな、と視線だけで訴えかけてくる書生に、少年は素っ気なく応えてやる。


「そうは言いますけど、数日前、彼女は物の怪に襲われたばかりです。道士を連れずに街を歩くのは、危険かと」

「む、そうか……」

「いったん、お嬢さんを清流堂へ連れ帰ります。屋敷へ戻るためのお支度もありますでしょうし。それから我が師を伴って、改めて出立して頂く。それでどうでしょう?」


 黄雲の提案に、子堅は「そうだな」と首肯。

 ひとまず、話はまとまった。

 すっかりぬるくなった茶を三人分残し、一同は茶店を後にした。


 さて、店の外へ出たところで。


「おい、お前!」


 子堅は突如、黄雲の首根っこをつかまえる。そうして少年を店の壁際まで連れていき、後ろで立ち尽くしている雪蓮へ聞こえぬよう、小声で問うた。


「……まさかとは思うが、妹へ懸想はしていないだろうな?」

「は……?」


 突然の問いかけだったが、やはり黄雲の声と眼差しは冷たい。その様子に、子堅は気を悪くするどころか、安心の気配を見せた。


「そうだよな……その反応で安心した。お前に限って、それは無いよな」

「…………」

「お前はケチでクソでセコくてやっぱりクソなクソ道士だがな、払った銭に背かないところは、私は評価してやってるんだ」


 払った銭に背かない。それはつまり、雇い主の信用を違えぬこと。身の程を(わきま)えること。

 黄雲と雪蓮は、霊薬(エリキサ)を祓うため、物の怪魔性からの害を避けるためとはいえ、数ヶ月に及ぶ長い期間、一つ屋根の下で過ごしている。子堅は実は、二人の間に男女の情が芽生えるのを、内心危惧していたようだ。

 もとより黄雲にその気はない。どうせ相手は高嶺の花、届かぬ者へ手を伸ばしたって詮無いこと。思いが芽生えたとて、胸の内にだけ封じておけば、それは無いも同じことで。


「当然です。信用を覆すようなことは、致しませんよ」

「ああ、そうだな。さて、雪蓮が嫁ぐまで、どれほどの月日が残されているのかまだ分からないが……それまで頼むぞ」


 ばすん、と子堅は少年の背を叩く。

 いつの間にか、空には重く、暗い雲が立ち込めていた。




 そうして子堅とは別れ。

 清流堂へ帰るいつもの道を、二人は無言で歩いていた。

 黄雲はスタスタと前を行き。雪蓮はとぼとぼと、それに追いすがっている。

 雪蓮、いつもは楽しくて仕方がない街が、なんだかよそよそしく感じられる。すぐ横をケラケラ笑いながら走って行く子ども、腕を組んで歩く恋人たち。行商人の売り文句。


「…………」


 何より、目の前で揺れる茶色い髪。黄雲の足取りはいつも通りだが、普段は時折振り向いて歩幅を合わせてくれる彼が、今日は一切振り返らない。彼が何を思っているのか、さっぱりわからない。

 縁談、皇太子、霊薬(エリキサ)、黄雲。

 頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだ。わけが分からなくて、何故だか涙がこぼれそうになる。

 帰路、慣れたはずの道筋をどう辿ったか、少女は覚えていない。

 ただ見慣れた清流堂の門が見えてきたとき、雪蓮は衝動的に少年の腕を取り、本堂の裏手を指し示した。


「ねえ、黄雲くん。少し、話がしたいの」

「…………」


 少女を見下ろす茶色の瞳は、憮然とした色を浮かべていた。


------------------------------------------


 雪蓮が黄雲の腕を取って、ただならぬ様子で本堂裏へ引っ張っていくのを那吒(なた)は見た。

 声をかけようと本堂から身を出しかけた少年神を、後ろにいた老爺の土地神がそっと制す。

 土地神はゆっくりと首を横に振った。老爺の無言の忠告に従い、那吒もそっと本堂の内へと戻る。

 木陰では、遊び疲れた逍、遥、遊と火眼金睛が、木の幹に背を預けてぐっすりと眠っていた。


 穏やかな時間に、見守られるようにして。

 清流堂の本堂の裏、北側の水路の音がさらさらと聞こえるあたり。静けさの中、雪蓮と黄雲は向き合って立ち尽くしていた。


「…………」


 二人の間に立ち込める沈黙が、重苦しい。

 話がしたい、と彼へ告げたのに。雪蓮はどう切り出していいか分からなかった。

 黄雲のこと、自分のこと。確かめたいことがごまんとある。聞いてほしい望みだって、いくらでもある。

 それなのに、言葉が出てこない。


「……何も無いのなら、失礼します」


 しびれを切らし、黄雲はついと踵を返す。そのまま庭の方へ出ようとする彼を。


「待って!」


 雪蓮はとっさに手を取って引き留めた。こちらを振り返る少年の面持ちは、やはり憮然としたままで。


「私、お嫁になんか行きたくない!」


 そして勢いのまま、少女は声高に言い放った。黄雲の憮然とした面持ちに、少々の驚きが混じる。


「相手がどんなに立派で、地位のある人だとしても、私、私……!」

「ちょっと、お嬢さん……」


 黒い髪を揺らし、(かぶり)を振り。彼の手を、ぎゅっと握りしめたまま。

 宥めようとする黄雲を、雪蓮は真っ直ぐに見つめて。


「私、あなたのことが好き!」


 そして堰を切ったように言葉が溢れてくる。


「黄雲くんは、確かにものすっごくケチで、鼻持ちならなくて、いつも嫌味ばっかりの守銭奴だけど……!」


 少女の告白を、黄雲は呆然の面持ちで聞いている。


「でも! なんだかんだ言って、私のこと、いつも助けてくれて、そばにいてくれて……! お金だ銭だっていつも言ってるけれど、あなたは本当は、誰かのために一生懸命で、優しくて……!」


 いつかおごってくれた焼餅(シャオピン)

 火眼金睛襲来の折、一時は右腕を焼却されたにも関わらず、雪蓮をかばい、そして当の火眼を救うために奔走したこと。

 分かりづらい師への敬愛。弟妹たちへの、これまた分かりづらい優しさ。

 那吒から金と引き換えに雪蓮の身柄を要求されたとき、長広舌できっぱりそれを拒否したこと。

 おつかいに出た火眼や子ども達へ、見返り無く渡した鞠代。

 スケベ忍軍騒動の時には、己を犠牲に女装までして巽退治に挑み。

 謎の遺跡からは、必死になって雪蓮を連れ出し、負ぶって帰ってくれた。

 それからそれから。

 危機の度、手を取ってともに逃げてくれたこと。かばってくれたこと。戦ってくれたこと。

 時には命を賭して彼女を守ろうとして、生死を危ぶむ場面もあった。「銭のため」なんて(うそぶ)きつつ、少年は度々報酬以上の無茶をする。

 金、銭では説明のつかない、これまでの愚行、蛮行、そして善行の数々。

 彼の今までの一挙手、一投足が決して金のためばかりではないことを、雪蓮は知っていた。

 金だ銭だと言いつつも、その心根の底には、あたたかいものが確かにある。


 素直ではない「守銭奴」の仮面の奥に隠されているものを。

 もっとよく見てみたい。聞いてみたい。触れてみたい。

 だから。


「私は黄雲くんと一緒にいたい!」


 少女は包み隠さず打ち明けた。


「もっと黄雲くんと一緒に、色んなところに行ってみたい。美味しいものをたくさん食べたい。綺麗なものもおかしなものも、いっぱい見てみたい。あなたがこれまでそばにいてくれたから、私は毎日笑ったり怒ったり、すっごく楽しいの!」


 ねえ、と雪蓮は続ける。自然、少女の両手は黄雲の手を包むように。見上げる黄雲の瞳の中には、戸惑いの色が満ちている。


「あなたはどう思っているの……ねえ、黄雲くん」


 問いかける言葉は少し、震えている。勢いのまま吐露した言葉の数々だけれども、彼の心中を確かめる問いは、やはり怖い。でも。

 手をつないでも、少女を背に負っても、抱きかかえたり、果てには接吻をしても変わらなかったその顔色が。

 数日前の一件で遂に、道術によってうぶな反応を隠していただけと露見した。隠されていた、赤い顔の奥にあるもの。

 少女はうすうす気づいている。それが彼女の胸の内にあるものと、同じ気持ちであることを。


「私は、黄雲くんが好き。だから……!」

「だから、何なんですか」


 雪蓮の熱量を冷ますに足る、氷のような声だった。

 先程までは戸惑いの色に揺れていた彼の目が、今は憤然と彼女を見下ろしている。


「好きだから何なんですか、馬鹿馬鹿しい」


 黄雲は雪蓮の手を振り払う。邪険に乱暴に、それも、なるべく。


「ご自分のお立場を考えてもみてください。あなたは知府令嬢、今回の件が無くったって、いずれはどこかの貴公子のもとへ嫁ぐ身。それなのに僕のような市井の道士、それも身寄りのない孤児(みなしご)へ懸想するなどと、本当に馬鹿馬鹿しい」

「…………!」

「そもそもの話」


 少女の打ちひしがれた顔にかまわず、黄雲は無情に続ける。


「あなたに対して、僕にそういう気持ちはない。お嬢さん、あなたはあくまでも、僕にとっては商売の相手なんですよ。ただ、あなたの父上と銭のやりとりをしているだけ。それ以上でも以下でもない」

「じゃあ、どうして!」


 冷たい言葉へ、雪蓮は噛みついた。黒い瞳は(まなじり)を潤ませて、今にも涙がこぼれてしまいそうだ。

 泣きそうになりながら、震える声で雪蓮は問う。


「術を使って顔色を抑えたりなんかしていたの……!? 私は、私とおんなじように、黄雲くんが……!」

「うるさいな!」


 思わず黄雲は怒声を放った。眉尻を吊り上げ、目元には苛々と怒りを滾らせ。黄雲は彼女の気持ちを踏みにじるように、さらに言葉を叩きつける。


「だから言ってるでしょう! 僕に、あなたに対してそういう気持ちは無いって! 僕は、あなたのそういう夢見がちで、浮わっついてて、現実を一顧だにしない、甘ったれた気質が……!」


 気持ちの昂ぶりが、声を震わせる。しかし次なる一言を、黄雲ははっきりと口にした。


「心底、大嫌いです!」


 そして二人は押し黙る。互いに相手を見据えたまま。街の喧騒は遠く、聞こえるのは水路の音ばかり。

 沈黙しばし。秋風がさらりと吹くと同時に、雪蓮の頬へ大粒の涙が伝った。

 少女は唇をかみしめ喉から嗚咽の声を漏らし、黒い瞳からは後から後から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。


「うぅ……!」


 雪蓮は袖で顔を覆いながら踵を返し、本堂裏から走り去る。痛ましい足音が、遠ざかっていく。

 残された黄雲は、苦虫を噛み潰したような顔で立ち尽くしている。

 大嫌い。その言葉自体は本心だった。彼女の夢見がちな態度に、つられてしまいそうな自分自身が。


「…………」


 本当に、こんな自分が大嫌いだ。銭のため、金のため、持ってはいけない思いを抱いてしまい、中途半端に夢を見て、彼女への思いを抑えきれず。

 養生の術だなんだと、自分なりに精一杯やってきたつもりだった。胸の奥に芽生えたものも、青い時期にありがちな一過性の熱病だと思い、やりすごすつもりだった。それが。

 己の気持ちも抑えられず、うまく立ち回ることもできない。その結果がこれだ。雪蓮を手酷く傷つけただけ。

 彼女のことは、本当は好きだった。もっと一緒にいたい、ともにありたい。胸の内はそう叫ぶけれど。

 ふと、茶店の前での子堅の言葉がよみがえる。お前、妹に懸想してはいないだろうな、と。

 彼女の家族は、彼女の将来が富貴とともにあることを望んでいる。それが彼女の幸せだと。

 だから、これで良かったのだ。己の気持ちに、蓋をして。この顛末こそが、彼女と自分との最適解。

 それなのに。

 苦い気持ちが胸の奥に渦巻いている。あんな風にして泣く雪蓮なんて、見たくはなかった。泣かせたくなかった。


「……くそっ!」


 (まなじり)にこみ上げてきたものを乱暴にぬぐい、黄雲もその場を立ち去った。


 その後。少年は那吒と土地神へ、何食わぬ顔で雪蓮の縁談に関する事の仔細を告げ。

 師匠の出先を尋ねた後、自室へ帰って行った。

 那吒も燕陽翁も、彼の目が真っ赤になっていることには、触れなかった。


 本当ならば、早々に清流を呼び戻し、雪蓮を屋敷へ送り届けねばならなかったが、そんな気力なんて湧かない。何も考えたくなくて、寝台へ寝転ぶ。

 そんな彼の手の内には、先日しまい忘れてそのままだった白玉の帯飾りが、ゆるく握られていた。

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