1 新しい朝がきた
夢の中、彼女は再び胡蝶と化していた。
花畑。花々は色とりどりに咲き乱れ、蜜の香りを漂わせつつ彼女の訪れを待ちわびている。
一朶の花が風に揺れている。惹かれるようにその花弁へ。ゆるく羽ばたき舞い降りて、肢を花びらへかける。
しかし、瞬間。潜んでいた蟷螂にあっけなく捕らえられ、貪られ、胡蝶の意識はそこで途切れた。
続いて目を開けば大海。青くたゆたう視界の中、無数の魚が群れをなして泳いでいる。彼女もその中の一尾。
さらに気付けば荒野、獅子の身を借りた彼女は、死にかけた鹿の喉元に牙を立て、一つの命を終わらせた。
さらに瞬きの一瞬で、意識は異国の高楼街。高くそびえる建物の数々に圧倒されながら、彼女は走る。「デンシャに乗り遅れてしまう」、デンシャが何かは分からないが、彼女は自身が身を借りている人物の、焦りの感情だけは理解していた。
そして暗闇。蝙蝠と化した彼女は、音波を頼りに獲物を探る。
池に飛び込む蛙、冬ごもりの熊。あるいは物言わぬ砂漠の廃墟。教場の女生徒、田園の稲穂、草原の遊牧民。
胡蝶の意識は、花から花を移ろうように、様々な生き物、人、物の意識を渡り。
山岳に、大河に、草原に、海原に。
生きとし生けるもの。物言わぬ無機物。
胡蝶はふわふわと飛び続ける。命の花々を、次々に渡っていく。
すべて物質は発生し、消滅し、有機の生命は殖え、そして死に。
宇宙で繰り返される生滅、集積される記憶。那由他の花々はそれぞれが歓喜し、慟哭し、哀惜、悔恨、様々な感情を胡蝶へたたきつける。環の龍が生んだ天地の、記憶、感情は波濤となって胡蝶を飲み込んだ。
ふと目を開く。死に絶えた星々、恒星間の、暗く寂しい宇宙の闇が待ち受けている。
ふわりと何かが横切った。遠い星からの光に照らされて、銀の鱗がぬるりと光る。
(太源……)
龍は寒々しい闇を往く。気配が、遠ざかっていく。
彼女の──雪蓮の意識は、視界は。段々と白い色に染まり、そして……。
「んぅ…………」
少女は目を覚ました。
見覚えのある天井。寝具の中で感じる自身の身体は、崔雪蓮のもので間違いない。
「…………」
またあの夢だ。
以前、火眼金睛が現れる直前に見た夢。細部こそ違えど、大筋は古今の様々な生物の魂を転々と渡っていくというもので。
はあ、と息を吐く。
胡蝶の身体の、ふわふわとした浮遊感がまだ残っているようだ。なんとなく自分の身体を意識したくて、雪蓮はもぞもぞと身を起こした。
しかし。
布団から抜き出した自身の左手。ふと視線を落とせば。
手の甲を、びっしりと覆う鱗。
ざわっと総毛立つ。息が詰まる。
「ひっ……!」
続けて絹を裂くような悲鳴。
叫びは自然と喉から漏れた。少女は思わず目を閉じ、顔を背ける。朝日を浴びて、鱗は水銀のような、ぬるりとした光沢を放っていた。
しかし。
再び左手へ、おそるおそる視線を戻した彼女だが。
「え……?」
一瞬の間に、鱗は跡形もない。
ただただいつもの見慣れた白い手が、朝の光に照らされているだけだ。
「…………見間違い?」
左手を握ったり開いたり、ひっくり返したりしながらじっくり観察して。
どうやら銀鱗の気配はどこにもない様子。雪蓮はほっと息を吐くものの、胸の内はいまだドキドキと嫌な動悸を脈打っていた。
「……見間違い、だよね」
確認するようにひとりごちてみる。言葉に出して、少しでも安心したかった。もしかすると、あんな夢を見たからかもしれない。
少女が額の汗をぬぐっていると。
ドタドタと、慌てたような足音が階段を上がってくる。
そして断りもなしに開かれる扉。少女の部屋へ焦った様子で駆け込んできたのは、黄雲で。
「どうしましたお嬢さん! 悲鳴が聞こえましたが!」
息せき切って尋ねる彼に、雪蓮は目を丸くする。
「あ、あの……!」
まさか、見間違いで叫んでしまっただなんて。雪蓮、少々恥じらいながら。
「ごめん、なんでもないの……ちょっと見間違い……」
「見間違い?」
「うん、本当に、なんでもないのっ!」
心配させたくなくて、何でもないことのように言う。
黄雲はしばらく怪訝そうな表情を浮かべていたが、ふと寝台の上の彼女を見下ろして。
「あ、あああ! あのっ!」
突然焦り始める。そんな彼の様子に、雪蓮も気付いた。
よほど寝相が悪かったのか。箱入り娘、寝巻がかなり乱れている。
「きゃっ!」
雪蓮は慌てて布団を引き寄せて胸元までを隠し、黄雲はそそくさと後ろを向く。
幸い、大事な部分は見えていなかったようだけれども。
「み、見てませんから! 見てませんから全然!」
「い、いいから! あの、私もう着替えるから!」
「ハイハイ出て行きますよ、言われずとも出ますって! ったく、どうやったらそんなに寝巻が乱れるんだか!」
「見てるじゃないっ!!」
雪蓮、真っ赤な顔で眦をキッと上げ、「黄雲くんのばかーっ!」と一喝。
「やべっ!」と退散する彼の背へ、枕を投げつけて。
「……もうっ!」
雪蓮はぷっくりと頬を膨らませた。一見令嬢はご機嫌斜め。でも、なんだか落ち着いた心地がする。
彼の地下室を暴いたのは、三日前のこと。
見てしまった秘密。襲ってきた類。拒絶された手のひら。
あれからなんとなく黄雲とはぎくしゃくして、ここ二、三日ろくに会話もできていない。だから今朝のこんな言い争いも、なんだか久しぶりな気がする。
口げんかしたばかりなのに、どうしてだか安心感。
(今日はちゃんとお話しできるかしら……)
少女の動悸はすでにおさまり、心は恋模様を描き始め。
ぐぅ、と布団の下から空腹の音が鳴る。
「……お腹空いちゃった」
黄雲がいなくなった後で良かったと、少しほっとしながら、少女は身支度のために寝台から立ち上がる。
夢のことも、手の甲の鱗のことも。
朝の空気の中、段々と印象は薄れていく。
やがて何事もなかったかのように、雪蓮は身支度を終え、部屋を後にした。
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不思議な夢を見た。
那吒は本堂から庭へ出ながら、昨晩の夢を思い起こす。
奇妙な夢だった。古今のあらゆる生命の記憶を断片的に辿る、玄妙不可思議な夢。空を行く燕、太古の魚、鋼の車に乗る人々。
(なんだったんだ?)
疑問に思いながらも、所詮夢は夢。那吒は扉を開けて庭に出て、きょろきょろと辺りを見回した。
「……さすがにまだ帰ってねえか」
彼の相方・二郎真君が、清流道人へ伝言を残し、一人天界へ帰還したのが三日前のこと。
「ったく、なんでぇ! いっつもオレぁ留守番じゃねえか!」
ぶつくさ言いながら、どっかり石段へ腰かける。二郎神がいないと面倒事が減る反面、ヒマである。
さて庭には今しも、てん、てんと、鞠をつく音が響いていた。庭の中心で鞠を蹴っているのは、火眼と子どもたちだ。
円陣を組み、順々に鞠を蹴り。隣の相手や向かいの者へ、途切れることなく鞠を渡している。
そんな光景に目を留めて。
「お前らよく飽きねえよなあ、それ。毎日毎日」
「神将そのに……」
足下の宝具でふわりとこちらへやってきて、那吒は一同を見下ろした。そんな彼へ。
「那吒ちゃんもやるー?」
「でもその足下の輪っかはずるくない?」
「取っちゃえ取っちゃえ!」
きゃいきゃいと、子どもたちは今日も元気だ。あやうく足の下の大事な二輪へ触れられそうになり、「あーやめやめ!」と那吒はガキんちょ一同を邪険にあしらう。
そんな風に那吒と子どもたちがじゃれあっている中でも、火眼はのんびり一人、鞠をてんつく蹴り上げている。膝で天高く鞠を打ち上げたかと思えば、足裏で難なく受け止め、さらに軽く蹴り上げ内踝へ乗せ。
狂いなく繰り返される神業。ただ残念なことに。
「…………くー」
寝ている。五百歳児、よだれを垂らして寝ている。見事な蹴鞠もこうなれば、ただの寝相だ。
しかし。
「!」
五百歳児、唐突に目を覚ました。火眼の背筋へ、ぞわわと走る寒気。
炎の瞳は、居心地悪そうに母屋の方を向いた。
彼の視線の向かう先。母屋の壁に背を預け、ぽつねんと一人で佇んでいるのは、雪蓮。
「…………」
少女はぼんやりと火眼の方を見つめていた。
その黒い眼は、どことなくとろけたような恍惚の色を浮かべ、火眼へ向かう眼差しには、どこか飢餓感がまとわりついている。
その目線に、火眼はぞくりと背筋を震わせた。虎狼に睨まれた、兎のような心地。
「せっちゃんだ」
「何してるの、せっちゃん?」
「…………」
子ども達も気付いて呼びかけるけれど、少女はまだぼうっと呆けているようで。
「雪蓮」
そんな彼女へ呼びかけつつ、母屋から現れたのは清流道人だ。彼女の訪れには気付いたのか、雪蓮は背の高い道人を振り仰ぐ。
「清流先生……」
火眼へ向けるのと同じ眼差しが、清流を捉えた。
黒い瞳には、やはり飢えが滾っている。
「…………」
道人の眉は、一瞬いささか険しい形に歪む。しかし、すぐにいつものしたり顔をふわりと浮かべ。
「どうした。いつものように、皆と遊ばないのかい?」
「……なんだか、おなかが減っちゃって」
「ははは、朝餉を食べたばかりじゃないか」
「え、えへへ……」
普段通りに笑って見せれば、雪蓮も少しいつもの調子を取り戻した様子。
「仕方ない、私が駄賃をやろう。市場で何か買って食べなさい」
「いいんですか?」
「ああ」
清流、懐から銭を取り出して、雪蓮へ握らせる。チャリチャリと少女の手のひらへ渡される銭。
しかしその音を聞きつけて。
「銭だ! 銭の音がする!」
守銭奴一匹。朝食の片づけを放棄して、厨から窓枠を飛び越え、腕まくりの状態でしゅたたと庭へ現れた。
弟子のそんな反応も、道人は見越していたようで。
「ちょうど良かった、黄雲。いまから雪蓮についていてやってくれ。腹が減ったそうだから、街で買い食いをさせてほしいんだ」
「は? 朝食たべたばかりなのに?」
「せ、清流先生……!」
「四杯ぐらいおかわりしてたのに……どんだけ食い意地張ってるんですか……うわぁ……」
清流道人、年頃の乙女への配慮もへったくれもなく、彼女の食い意地張りっぷりを大胆不敵に御開帳。黄雲は若干引いている。
それはさておき、清流はいつも黄雲へ頼みごとをするときと同じく、懐から銭を幾ばくか取り出した。周知のとおり、この弟子、見返りが無いと動かない。
「ともかく頼むよ、黄雲。お前にも駄賃はやろう」
「え? ああ、はい……」
しかし。せっかく駄賃を差し出したのに、黄雲の反応は芳しくない。普段ならば三回まわってワンが見られるはずなのに。
「…………」
黄雲と雪蓮との間に、妙な沈黙。二人は一瞬視線をかち合わせると、すぐさまぷいとそっぽを向いた。なんとなく空気がきまずい。
そんな二人の様子をいぶかしく思い、清流はなんのきなしに問いかけた。
「どうした二人とも。なにかあったのか?」
「なんでもありませんっ!」
異口同音。息を合わせたつもりはないけれど、黄雲と雪蓮はぴったり同じ台詞。
「あいやぁ……」
清流、後頭部をかりこり。思春期はかくも難しい。
そんな師の手のひらから。
「ったく!」
銭をひったくるようにかすめ取り、黄雲はむくれ面のまま、雪蓮と目を合わせずに行こうとする。
清流はそんな弟子の肩をぐいと掴み、一瞬押しとどめて。
「おっと、よく聞け黄雲。つい先日、お前たちは物の怪に襲われたばかりだ。くれぐれも、よく用心しなさい」
「え? ああ、はい……」
「わかりました、清流先生……」
注意を促し、二人が頷いたところで、清流道人はさらに黄雲の耳元へそっと唇を寄せる。
「……忍びに気をつけろ」
「え……?」
黄雲の耳朶へ、清流道人は確かにそう呟いた。黄雲にしか聞こえないような小さな声で、鋭く。
本堂の方へ立ち去っていく師匠の背をきょとんと見送りつつ、黄雲は疑問に思う。
忍び、というのはもちろん、巽のことで間違いないだろうが。
(いまさら……?)
件のクソニンジャ、女人と見るや誰彼構わず服を脱がせにかかる、困った習性持ちのド変態犯罪者。まあ街で見かけるとしたら、まず間違いなく誰かに迷惑をかけている最中だろうけども。
もしそんな場面に出くわしたなら。黄雲は言われるまでもなく、助走をつけて殴りにかかる所存。道術使って地面へ埋めてもいい。
そんなことくらい、言われなくたって。
そういえば今朝は、件のニンジャの姿を見ていない。とはいっても巽が姿を消すのは日常茶飯事。神出鬼没の黒ずくめは、皆と朝食を取ったり取らなかったり、いたりいなかったり。
「……黄雲くん、行かないの?」
雪蓮の呼びかける声に、黄雲ははたと我に返る。どことなく遠慮がちに問いかける彼女、いつもの通りのぽんやり具合で、清流道人の最後の一言には気付いていない様子だ。
「はいはい、行きますって……」
しぶしぶ。そんな態度で、黄雲は先導して歩き始める。雪蓮もおずおずと彼に続く。
少年は憮然とした面持ちのまま、手のひらの中でチャリチャリと銭を転がした。いま、彼女とともにいる理由は、ただこの手の中の銭がため。
……それにしても。今朝の雪蓮の氣の、あらぶり具合。金氣は今日、特にほとばしっている。
まるで火眼金睛が現れたときのようだと、黄雲の胸には、少々の不安がよぎった。
(何事も無ければ、いいのだけど……)
さて、少年少女が門を出ていくのを尻目に。清流道人は本堂の方へ、火眼や那吒のいる方へ歩みを進める。
「那吒殿。それから、火眼も」
ふたりへ呼びかけて、道人は立ち止まり。
「ちょっといいだろうか」
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「天究山へ……?」
本堂。扉を閉め、いささか薄暗い空間にて。清流道人から切り出された突然の話に、火眼は炎の目を見開いている。
「そうだ。火眼の身柄は、天究山の玄智師匠へ預けたいと思う」
清流は肩に三尾の子狐を乗せたまま、神妙な面持ちで火眼へ告げた。
眠たげだった炎色の目は驚きの色を浮かべ、心外だ、とでも言いたそうに一同を見渡している。それはそうだ。彼にとって、唐突な話だった。相変わらず表情は薄いが、「なぜ」と問いたげな気配は、この場にいる者すべてへいかんなく伝わる。
本堂の中には、清流、那吒、燕陽翁、そして三尾……いや。
「お前の身を守るためだ、火眼金睛」
三尾を介し、語り掛けているのは玄智真人だ。子狐の小さな口から発せられるしわがれた声は、間違いなく天究山に住まう白猿のもの。三尾の両眼は金色に光っていた。
「あの娘の傍にいては、お前に害が及びかねないのだ。ここのところの彼女の氣の推移が、その可能性を高めている」
「お前さんは金氣への知覚を封じられておるから、実感は湧かんだろうが……あの娘の氣、相当凄まじいことになっとるぞ」
玄智の言葉を引き継ぎ、燕陽翁も白髯を撫でながら述べる。清流も那吒も、真剣な表情で火眼を見つめていた。
「おれは……」
張り詰めた雰囲気にのまれそうになりながらも、火眼ははっきり告げる。
「おれは、清流堂にいたい」
ぐっ、と拳を握りしめ。
「ここはねごこちがいい。あったかくて、やすらかで……うるさいけど、たのしい」
静かに、しかし少しだけ寂しそうな口調で。火眼は訥々と語る。
「おれはここにいては、いけないのか……?」
「火眼……」
とぎれとぎれに心境を吐露する彼へ、清流は困ったような、しかしどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「お前がそう思ってくれていることは、とても嬉しく思うよ」
「清流道人……」
くしゃり。清流は不器用な手つきで火眼の白髪をかき混ぜて。
「なに、永遠にここを離れるわけじゃないさ。ちょっとした避難のようなものだよ。事が済めば、また迎えに行く」
「ことがすめば、か」
火眼は少々俯き加減に考え込む。が、ふと炎の瞳は上目遣い。
「こと、とは霊薬のことだろう。あの女からあれを祓える算段はあるのか?」
「うーむ、それは……」
「ぜんぜんまったく、なにもわかっていないんだろう。てづまりなんだろう」
「う……」
火眼、冷静に痛いところを突く。その場にいる清流にジジイはずずいと後ずさり、那吒は肩を竦めて「やれやれ」とどこか他人事。
頼りない大人たちの態度に、五百歳児。
「ことがすめばとはいうが、いったいそれは何百年後のはなしだ。ここへかえるころにはみんなしぬ」
もっともなご意見。火眼は最近やっと子ども達と仲良くなったばかりだというのに、そんな長期間清流堂を離れていては、再会のみぎりには彼らの墓参りをする羽目になってしまう。
などと、ひとしきり彼は正論気味の我儘を述べて。
「……でも、おれの存在がじゃまだというならしかたない。おまえたちに、したがうことにする」
再び寂しそうな声音に戻り、火眼は項垂れた。そんな様子に、清流は。
「邪魔、ということじゃないさ。火眼、なるべくお前が早く戻って来れるよう、私は力を尽くそう」
と後輩を励ます。しかし火眼から返ってくるのは、今度は彼女を気遣う言葉。
「清流道人、おまえは……いいのか? おれに危害が及ぶということは……」
自身に危害が及ぶ、ということの意味を、火眼は火眼なりに分かっていた。何より先刻、己を見つめていた雪蓮の眼差しで、それとなく、しかし存分に。
同じ眼差しは、清流にも向けられていたはずで。
「私は……投げだすわけにはいかないのさ」
彼女は柔らかくそう言って、したり顔を微笑ませる。本堂の暗がりの中、黒い双眸には強い光が宿っていた。
「では、火眼金睛よ。……本当のところ、すぐにでもお前さんを天究山へ避難させたいところだが、それも酷な話」
清流の肩から、子狐がしゃがれ声で語り掛ける。
「明日、迎えに参ろう。今日はみなと過ごし、しばしの別れに備えなさい」
「…………わかった」
玄智の言葉に、重く首肯して。
火眼は少し、肩を落とした。五百年を孤独に、火山の中で過ごしてきたこの少年は、せっかく得た友と別れるのがつらいのだろう。元々あまり感情表現が豊かな方ではなかったが、この頃はなんとなく仕草や物腰に、情動のようなものを垣間見ることができるようになっていた。
清流はそんな彼の背中を、感慨深げにしばし眺めていたのだが。
「……!」
ふっ、と目を細め。何に気付いたのか、急に本堂の扉を開く。
さっと差し込むまばゆい陽光。その中を。
ひゅぱっ。
「おっと!」
清流めがけて鋭く射出される、木製の暗器。彼女の帯めがけて放たれた棒手裏剣だが、今日の清流はそれをはっしと頭上で掴み取る。
「巽か……」
「なんでぇ、今日の清流先生は素直に脱がされてくれねえんだなぁ」
ガッカリしながら、本堂の軒先に足を引っかけぶら下がり、こちらを見つめる覆面黒ずくめ三白眼。
木ノ枝巽はいつもの調子で、スケベの好機を狙っていた様子。
「ははは、そうそう丸裸にされるわけにはいかないさ」
清流も普段通りのしたり顔で笑って見せる。
裸が見られず、面白くない巽。ひょいこらと器用に地面へ着地して、落ち着きなくすぐさま塀の上へひらり。
「ちぇー。仕方がねえから、街の女の子脱がしてくるわ! んじゃなー!」
クソニンジャ、したたたたっと塀の上を駆け抜けて、どこへともなく去っていく。それを見送る清流の背後から。
「ったく……あのクソニンジャは相変わらずだな!」
呆れた調子の那吒の声。それを聞き流しつつ、清流道人の手の内で。
パキン。棒手裏剣は、真二つに折られる。
「……私も、出かけてきます。留守をよろしくお願いします」
「お、おう……?」
那吒、それから本堂から顔を出した燕陽翁と火眼へ留守居を頼み。
子どもたちが鞠遊びに興じる横を通り過ぎつつ二言三言声をかけ、清流は悠然とした歩みで門へ、街へ向かう。
(あの男……)
したり顔は鳴りを潜め、道人、いまはすでに険しい表情。
(……探らねば)




