10 暗雲
「痛みはどうだ?」
師に問われ。黄雲は替えの服へ袖を通しながら「だいぶ引きました」と、幾分良くなった顔色で応じた。
清流道人の居室。いまここは戸口も窓もしめ切られ、まだ日も高いのに帳をおろしている。室内を、見られぬように。
幸い、黄雲の傷は浅かった。しばらくは毎晩薬湯を使って傷を洗えば、おそらく痕は残るまい。
弟子が服を着たのを見計らい、清流は彼の対面へ座す。
手当てを終えて少し落ち着いた様子の黄雲へ、道人は一瞬、母のような眼差し。しかし漆黒の双眸は、すぐさま厳しい色を湛える。
「気をつけろよ黄雲。物の怪もだが、お前が秘しているものをゆめ忘れるな。己が身は、お前自身で守りなさい」
「はい……」
師匠の言葉に、黄雲は座ったまま俯いた。室内は薄暗く、帳の端から漏れ入る陽光が、かろうじて部屋の調度を浮かび上がらせている。
人目を避けるようにして傷の手当を受けたのは、他でもない、彼の身体を他者の目に晒さないためだ。
黄雲は纏と呼ばれることも好きではなかったが、己の背中にあるものも呪わしく思っていた。そのせいで湯浴みや着替えを地下室で済まさねばならなかったり、日夜不便を強いられている。
なによりも、隠し事を抱えて生きていくことは、あまり気持ちのいいものではない。
なぜ、自分の背や、生まれ年に月日、真実の名を隠して生きねばならないのか。実は、明確な理由を少年は知らされていない。自分自身の、素性も。
父や母が誰なのか、どういった身分だったのか。これまで黄雲は清流へ尋ねたことはない。訊いても答えてくれないだろうことは、明白だったから。
もし、彼がただの『黄雲』であったなら。
彼女の手を、振り払わずに済んだはずだ。
さっき雪蓮の手を叩いた手のひらが、少しじんとする。あの時ちらりと見えた彼女の、傷ついたような顔。思い出すと、ずきりと胸が痛んだ。
「纏」
そんな彼を戒めるように、師は少年を諱で呼ぶ。
彼女は何も術を用いず、氣も籠めず、ただ単に声を発したのみだが。
言霊が、黄雲の魂を縛る。
「地下室はどうだった」
短く一言、清流道人は弟子へ問う。黄雲はハッと息を詰めた。咄嗟に答えることが、できない。
地下室を、そして文箱の中身を見られてしまった。隠しておきたかったことは、あの二人に……。
「纏」
師の声音から温度が失せる。冬の亮水のように寒々しい声が、彼へ返答を促している。
「……見られて、しまいました」
──文箱の中身を、全て。
詰問にたどたどしく答えて、黄雲は項垂れた。師からの叱責を恐れる反面、自身の失態が不甲斐ない。今朝、きちんと確かめていたならば、こんなことには。
視線を下に落としているため、黄雲から師の顔はよく見えない。しかし、静かな怒りの気配は伝わってくる。
「誰に見られた」
清流道人の詰問は、なおも氷のように冷たい語調。
黄雲はごくりと固唾をのみ、しばし黙した後。
やっとのことで、小さな、呟くような声を発した。
「お嬢さんと……巽のやつに」
巽。
その名を耳にして。清流道人は眼を細め、双眸へ鋭い光を宿らせる。
「…………」
「……師匠?」
しばらく押し黙る師に、黄雲は顔を上げて呼びかけた。形の良いあごに指を当て、道人はなおもしばし思考して。
「……下がりなさい、黄雲」
命じつつ立ち上がり、戸口へ向かう。黄雲、という道号に、少年はほっと息を吐いた。普段の呼び名に戻ったということは、尋問はもう終わりということで。
「どちらへ?」
出かける気配を察し、行き先を尋ねる弟子に。
「少し散歩さ……ああ、そうそう黄雲」
清流は少し振り返り、どこか力無い微笑で問うた。
「いま一度、教えてくれるか。例の、占術師の老人の人相を──」
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夕暮れが街を包む。
繁華街の高楼の屋根に寝そべって、巽はぼんやり黄昏の空を眺めていた。
ふと、思い出したように懐へ手を入れる。
取り出したのは、一枚の紙きれ。
そこに綴られている文字は。
『戊戌、九月十九日 纏』
典雅だが、仰々しい字体で記されたそれを目の前にかざし、巽はため息まじりにつぶやいた。
「……いやになっちまうな」
それは、彼がこの亮州に来て、初めて吐いた弱音だったのかもしれない。
八洲の忍びは紙切れを懐へしまい直すと、身を起こし、今度は別のものを取り出した。
正方形の白い紙と、筆と墨の入った矢立。
三枚ほどの紙に何事か書きつけると、巽は器用にそれを折り始める。
ほどなくして出来上がったのは、三羽の白い折り鶴。
それらを手のひらに載せると、彼は覆面越しにふっと息を吹きかけた。
八洲の紙で折られた鶴は、木氣の籠った息吹を受けて。
ふわりと亮州の空へ舞い上がる。白い羽をわずかに上下させつつ、秋空へ溶け込んでいく。
「…………」
三白眼でそれを見送ると、忍びは不意に跳躍し、屋根から路地裏へ、姿を消した。
ふわりと空へ舞い上がる折り鶴。三羽の鶴は、街へバラバラに散っていく。
時を告げるための鐘楼。屋根の付近を飛翔していたそのうちの一羽を、白い指がかっさらうようにして掴み取った。
鐘楼の屋根で待ち構えていたのは、清流道人だ。秋風に黒衣を翻しつつ、道人は手の中の折り鶴を見つめている。
鶴に籠められた木氣は己が氣で打ち消し、手の中のそれは、すでにただの紙。
「…………」
折り鶴がやってきた方向をしばし見つめ、清流は手の中の鶴を慎重に開き始めた。
鶴の内側には、墨痕鮮やかな数行の文章。
しかし。
「これは……」
紙を見下ろして、清流はあっけに取られた顔。
というのも、鶴の内側に記されていた文章はすなわち。
「八洲の文字か……」
ごく少ない線の組み合わせで綴られるは、巽の故郷、八洲の文字に相違ない。
遺跡にあった文字とは趣が異なり、どうやら縦書きで筆記されるらしい八洲の言の葉。記された文字はうねうねとしていて。
「読めぬ……」
鐘楼の上で立ち竦み。
道人はしばし、途方に暮れるのであった。
南路街、人通りの多い街筋。
空からふわりと舞い降りる小さな折り鶴には、誰も気付いていない様子。人混みの中に鶴は身を沈めていく。
すると、横合いから。
ゆるゆる落ちる鶴をはっしと掴み、その人影はすぐさま踵を返す。
やがてその背は、雑踏の中へ消え去った。
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「これは……」
日没後、通月湖。
月亮島の遺跡、最上階。祭壇を探っていた二郎真君は、さすがに戸惑ってしまった。
祭壇に、いや、この遺跡に。秘匿されていた、さらなる術式。
「量子転送装置……」
窓の外、湖上にかかる月。




