1 一夜明けて
夜が明けた。
亮州の空に朝焼けが差し込むと人々は目を覚まし、各々一日を迎える支度を始めるのだ。
ある者は朝食を取り、ある者は朝の散歩。またある者は街の広場で拳法の修練だ。といっても、身体を激しく動かすようなものではなく、あくまで健康維持を目的とした、ゆったりした動作の体操である。
清流堂の周辺にも、ご老体が多数集まって、ゆらり、ゆらりと独特の型を取っている。いつも通りの静かな朝。
しかし今日は静かすぎた。
「哥哥、帰ってこなかったね」
「こなかったね」
清流堂の本堂の上り口、石段に腰掛けながら、三人の子どもたちは頷きあった。
普段はいるはずの年長者が、今日は不在だ。一人分静かな、清流堂の朝。
それぞれ、手にはほかほかの白い饅頭。一番年かさの逍が、先ほど屋台で買ってきたものだ。金は黄雲のヘソクリ置き場から拝借してきた。
「哥哥あんなんだから、きっと知府さまに無礼を働いちゃったんだよ」
「手討ちにいたす! 手討ちにいたす! ズバー! ぐはー!」
「えー、哥哥しんじゃったの?」
ぱくり。
一斉に饅頭にかぶりつく。中心部にはほっかほかの甘い餡。
「…………」
黄雲を案じているのか。それとも餡を味わっているのか。
子どもたちはしばし黙して、再びおしゃべりを始める。
「ねえ」
「なに?」
「葬儀屋に行った方がいいと思う?」
「いいんじゃない?」
「哥哥をとむらうのね」
帰ってこない黄雲を死んだことにして、子どもたちはさらにもう一口ぱくり。「強欲なクソ野郎だったね」と故人を偲ぶ語り口になったところで。
「おーい、ただいま~」
門前から、間延びしたいかにも能天気な声。三人は顔を見合わせる。
「清流先生だ!」
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黄雲は寝台に横たわり、窓から見える朝焼けをぼんやり眺めていた。
昨夜の大騒動の後。大猪を撃退したは良いものの、直後彼は昏倒してしまったのだ。
(活身丹はこの副作用さえ無ければなぁ……)
原因は、昨晩物の怪と戦う直前に服用した、三粒の丸薬。
活身丹といい、全身の経絡と氣脈を開放し、一時的に身体能力を倍以上に底上げするという代物だ。この丹薬があったおかげで、昨晩は大猪を突き飛ばすような膂力を発揮することができたのだ。
そしてその代償が、今の状態である。渾身の力を一気に使い果たすため、使用後に怒涛のような疲労に見舞われるのだ。
さらに昨晩は『神行符』も使用している。走る速度や跳躍力を高める札だ。これもこれで氣を消費する。
大猪とやり合っている間に効果が切れなかったのは、幸運だったのかもしれない。
今にして黄雲は思う。
(昨日ギリギリだったな!)
今更冷や汗をかいたところでもう遅い。事件は無事に終わったのだ。
そんな彼が現在身体を休めているのは、知府邸の屋敷の中で、破壊を免れた客間のひとつである。
本来なら彼のような市井の一般道士がごろ寝してて良い場所ではない。
昨晩、物の怪を退治した功績により特別に許可……されたわけでもない。
ちらり、と黄雲は部屋の入口を伺った。
扉の両脇には、ガッチリ兵装を着込んだ見張りが二人。明らかに客人対応ではない。どちらかというと、罪人の監視という雰囲気だ。
心当たりといえばアレしかない。知府夫妻の目の前でボロを出した雪蓮のせいだ。あの一件のせいで、昨日昼間に起きた知府令嬢・失踪事件の犯人にされてしまっているのだろう。
しかし、容疑者だとか被告だとかいう立場の割には、客間に閉じ込められている。誘拐の嫌疑があるなら、即刻牢獄送りのはずだ。
物の怪退治の功労者としてはキナ臭い監視、罪人と言うには過ぎた待遇。
いやもうどうでもいい。めっちゃだるい。おきたくない。おきたらしぬ。
一晩寝ても癒えない疲労に、身体はおろか思考も鈍る。黄雲は普段なら商売に向けて準備に勤しむはずの時間を、ただダラダラして過ごした。
不意に部屋の扉が開いた。外に控えていたらしい兵士が戸口から顔を出し、室内の兵士に何かを耳打ちする。
「そうか、うむ、分かった」
室内の見張りが頷くのを見届けて、伝言を伝えた兵士はそっと扉を閉め出て行った。
「おい少年。今から知府がいらっしゃる。少し身なりを整えろ」
「…………」
来なくていいのに。
黄雲はしぶしぶ、寝台から身を起こした。
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「入るぞ」
一声かけて、亮州知府・崔伯世が部屋へ足を踏み入れる。
その後ろには。
「失礼します……」
崔雪蓮、その人も。
黄雲はだるい身体を無理矢理折り曲げて礼。かしこまっている彼に「そこに座りたまえ」と部屋にあった椅子を指し、知府は自身も傍にあった椅子へ腰かけた。雪蓮も適当にその辺に座る。
「さて、昨日はご苦労だったな」
「いえ……」
「それで早速、そなたに話があるのだが」
きたな、と黄雲、ぎゅっと膝に置いた手を握りしめる。
おそらく、処分が言い渡されるのだ。道士黄雲、令嬢誘拐の濡れ衣により、首切り刀の露と消ゆ――。
「今回の報酬なんだがね」
「えっ」
ぱちくり。
予想外の言葉に、黄雲はきょとんと間抜け面で知府を見た。知府はそんな彼に、胡乱げな視線で応じる。
「なんだね、昨日は散々報酬報酬と言っておったくせに……」
「い、いえ。てっきり僕、何らかの処分を受けるものかと……」
少年の言葉に、知府は膝を打って笑った。いやいやすまぬすまぬ、などと後ろ頭を掻きかき、言葉を続ける。
「確かになあ、お前さんには監視をつけていたからなぁ。説明しようにも、昨晩は疲れて眠っておったし話せなんだ。お前さん、この状況をどう思っておった?」
やや砕けた言葉遣いになりながら、知府はにこにこと尋ねる。そんな彼に、黄雲も正直に答えるしかない。
「正直、疑われているかと思っていました。昨日、そこのお嬢さんが屋敷から失踪なさった件で」
「やはりそうか」
笑う知府の後ろで、雪蓮は気まずそうに髪を触っている。
「昨日あのどさくさで雪蓮がお前さんに礼を言ったとき、正直私も疑ったよ。まあ安心したまえ、娘から話は聞いている。きみは娘の恩人だったようだ」
機嫌よく話してくれるのは結構だが、雪蓮は白玉のくだりも説明しているのだろうか?
件の白玉は今も隠し持っているが、返せと言われないので、おそらく知府には伝わっていないのだろう。
それはそうと、知府が黄雲の潔白を信じているとなると、疑問が生じるのは今の待遇だ。なぜ客間に監視付きで軟禁されているのか。
「それでな。私としては恩人にそれなりの待遇をしたいと思っておったのだが、家内がどうにもお前さんのことを信じなくてな」
知府が言うに、知府夫人はどうにも黄雲を信用できず、夫の意向に不満を唱え続けたそうで。
「本当ならこの客間で静かに過ごさせたかったのだがね、こうやって見張りでもつけておかねば、家内が納得しなくてなぁ」
「なるほど……」
この状況はつまり、知府と夫人のせめぎ合いを反映していたのだ。得心する黄雲。
「それと報酬だが」
「はっ!!」
処断を免れたと分かるや心に余裕、さらに知府の口から転び出た「報酬」という単語に鼓膜は過剰反応。
黄雲は椅子を飛び下り跪く。
「この金額でいかがかな?」
兵士から渡された算盤をパチパチと弾き、知府は報酬の金額を示す。立ち上がり脇からそれを覗き込み、黄雲、思わずにんまり。
「ははー! 知府閣下ばんざーい!」
「お前さん急に元気になったなぁ」
ゲンキンな少年である。
商談がまとまったところで、知府は急に渋面を作った。そして切り出す。
「でだ。ここからが本題なのだがな……」
言いながら、知府は後ろの雪蓮をちらりと振り返り、目配せ。雪蓮は立ち上がり、何かを手に黄雲の前に進み出る。
「あの、これ……」
「なんです、本?」
彼女の手の中にある、一冊の古びた書物。
昨晩彼女が倒れた後、医師の出迎えのため部屋を片付けていた侍女が見つけたものらしい。
題名が書いてあるはずの表紙には、何の文字もない。雪蓮から受け取り開いてみると、中は全て白紙だ。
ただのまっさらな本。普通の人間ならそう受け取るだろう。
しかし黄雲には、とても奇妙な書物のように感じられる。何か、物の怪とも妖精とも分からぬものが、この本に潜んでいた気配を感じるのだ。
残留している氣の質は、昨日、そして今も感じている雪蓮の氣質と酷似している。ひんやりとした冷気のような氣。例えるなら、古代の墳墓に安置された霊剣。錆を知らず、ただただ石室へわずかに差し込む月光を浴びて、冷え冷えと霊気を蓄えているような。
「ねっ、変な本でしょ!」
その氣を放っている本人は、霊剣とか霊気とか、そんなご大層なものを全く感じさせないお人柄だ。それだけに違和感は一層強くなる。
「この本、本当は昨日までちゃんと、文章が書きこまれていたの」
少し表情を翳らせながら、少女が言う。黄雲は眉毛をぴくりと動かした。
「昨日までは?」
「そう、昨日まではきちんと文字が書き込まれていたのだ。私もそれは確認している」
知府が娘の話を引き継ぐ。
「どういうことです? まるで文字だけが抜け出たような仰りようですが……」
「雪蓮が言うには、どうもそうらしい」
父の視線の先で、雪蓮がこくりと頷いた。
「昨日、お屋敷に帰ってからのことなのだけど……」
雪蓮は一部始終を、身振り手振りを交えて語りはじめる。
「こうね、本を読んでるとね! いきなりこう! 文字が浮いてて、ぐるぐるってしてて! えーと……」
しかしご令嬢は壊滅的に説明が下手だった。
「つまり、雪蓮が本を読んでいると、突然紙面の文字が宙へ浮き上がり、娘の口目がけて飛び掛かってきたそうだ。で、本一冊分の文字列が彼女の体内へ入っていった、ということだ」
神妙な様子で、知府が説明を引き継いだ。眉間にしわ寄せる知府の表情が黄雲にも伝染する。
眉をしかめながら、黄雲は腕を組んだ。
「それは……なんとも面妖な……」
「うむ。その後だ。娘が倒れ、目を覚まさなくなったのは」
話の通りだとすると、何とも奇怪極まりない物の怪だ。雪蓮の発する氣と相まって、どうにもこうにも面倒事の匂いがする。
「弟子殿、どんな物の怪か……何か心当たりはないだろうか」
「いえ、残念ながら……」
記憶のどこをまさぐったって、そんな物の怪、見たことも聞いたこともない。この街でそんなものが分かりそうな人物なんて、たったの一人だけだ。
「失礼します、知府」
扉の外から、兵がこちらへ呼びかける。知府がそれに軽く応えると。
「客人が来ておりますが……」
「客人?」
「ええ。知府と……そちらの少年に」
「僕?」
訝しる二人へ、兵はさらに続けた。
「清流道人、と名乗っております」