5 月と剣
突然通路が途切れ。
高く広い空間が現れたものだから、二人ともしばらくぼんやりを上を見上げていた。
橙色の灯りに灯される、円筒形の吹き抜け構造。壁面をうねるように、螺旋の階段が設えてある。
それも、二つ。
階段の始点は、それぞれ部屋の左右から。上方へ伸びる二重の螺旋。
黄雲は紙燭を掲げて見える範囲を窺うが、螺旋階段は上へ上へと続くのみ。今見える視界よりも遥かに高く、二つの階段は続いているようだ。
「……行きましょう」
力ない声で黄雲が振り返る。後ろの雪蓮も、疲労のにじんだ仕草で頷いて見せた。
黄雲と雪蓮は、とりあえず手近な左手側の階段を進むことにする。
紙燭の橙色が届かない吹き抜けの上層は、黒々と二人を待ち構えていた──。
カツカツと、靴音だけが闇に響く。
ひたすら無言で歩む螺旋の階段。おそらく月亮島の岩山の中をくり抜くようにして、この空間は造られているのだろう。
階段は周囲の岩壁から削り出されたような造りだ。二人の歩みを支えるには十分な頑丈さが、足底から伝わってくる。
先へ進みながら、二人は左手の壁をなぞっていた。手すりなんて気の利いたものはなく、なるべく壁に寄っていなければ、ふとした瞬間に落ちてしまいそうで。
もう結構な高さを上ってきたはずだ。ふと視線を右へずらせば、紙燭の灯りの中、もう片方の螺旋階段が壁に張り付いている様がよく見える。
二つの螺旋の間には、細い石材の棒が無数に渡されている。その意匠にどういう意図があるのか、二人には皆目見当もつかない。時折、壁にどこの言語とも知れぬ文字が書きつけてある。それが示す意味もさっぱり分からなかった。
「いったい、どこまで続いてるんだか……」
壁と階段と謎の意匠だけの空間に息苦しさを覚えつつ、黄雲はため息まじりにつぶやいた。上を見上げれば、まだうかがい知れない闇が口を開けている。
上へ上へと導くようなこの螺旋。この吹き抜けが岩山の中に造られていることはまず間違いないが、もしや山の頂上にまで続いているなんてことはないだろうか。
まったく不明瞭な先行きに、気分もげんなりしてくる。
「出口があればいいんですけど……ねえ、お嬢さん」
ぼやきながら、雪蓮へ同意を促す。
しかし、少女は返事をしない。黄雲が「お嬢さん?」と怪訝な顔で振り返ると。
「…………」
雪蓮はぼんやりとした表情で上の空。
「……お嬢さん?」
「は、はひっ!?」
もう一度声をかけて、やっと反応した。
いま目覚めたようなぼけっとした表情で、雪蓮は。
「ご、ごめんなさい……ぼーっとしてて」
バツが悪そうにそう告げる。黄雲は「ったく!」と不機嫌な声音を吐き出して注意を促した。
「まったく、ぼさっとして。足を踏み外して落っこちたらどうするんです。あなたの身に何かあったら、責任を問われるのは僕なんですからね!」
黄雲の言い分は、いつも通り利己的で小憎らしいものだ。普段ならばそれに対する雪蓮の反応は、「むぅ!」と頬を膨らませたり、抗弁したりと賑やかなのが通例だが。
「…………そうね」
少女の応答は、あっさりしたものだった。
そんな彼女の反応に少々違和感を覚える黄雲だが、きっと疲労のためだと結論付け、「行きますよ」と再び歩み始める。
螺旋の上を、橙色の光源がまた動き出す。
雪蓮のぼんやりの理由は、疲労のためなどではない。
(聴こえる……)
澄み切った高い音が、聴こえる。
吹き抜けの最上部から、降ってくるように響いている。
少女を、呼ぶように。
(行かなきゃ……)
螺旋を上るごとに。耳鳴りは、強く、近く。
やがて、階段は途切れた。二重螺旋はまったく同じ高さで終点を迎える。
階段の先に待っていたのは、大きな石の扉だった。
二人の背丈の何倍もの高さの、二枚扉。それも石で出来ている。
「これは……」
ためしに黄雲が近付いてさわってみるが。
いくら押してもびくともせず。こちらへ引っ張ろうにも、取っ手のようなものは無い。
「開かない……」
万事休す。徒労感に、少年が肩を落としていると。
「代わって、黄雲くん」
後ろから近づいてきた雪蓮が、扉へそっと手を伸ばした。
まるで最初から、己が触れれば開くことを知っていたかのように。
疑いのない仕草で軽く触れた指に呼応して、石の扉がギィと開く。
「開いた……!」
奥へ、導くように開く扉。
驚きに目を瞠りながら黄雲はふと思い出す。この遺跡の入り口での出来事を。
(そういえば、あの石扉もお嬢さんが触れたことで……!)
彼の驚愕の眼差しをものともせず、雪蓮はいましも、扉の閉ざしていた先へ向かわんとするところ。
「行きましょう、黄雲くん」
ちらりとこちらを振り返った表情は、恍惚の色に塗りつぶされていて。
少女は走り出す。ふわりと裾を翻し、花畑へ向かうような足取りで暗闇を往く。
「ま……待ってください! お嬢さん!」
雪蓮を追って、黄雲も駆けだした。
途方もなくいやな予感がする。彼女が彼女でなくなるような、『あの時』のような……。
果たして、雪蓮を追っていった先。通路は一つの部屋へ続いていた。
「ここは……」
紙燭を掲げて照らしてみる。部屋の中央で立ち尽くしている雪蓮がまず、見える。
部屋は縦にも横にも広い造りで、奥行もある。雪蓮が立っている辺りが部屋の中心部だが、彼女の前方には。
「あれは……!」
祭壇のようなものが築かれ、そこに安置されている何かが、紙燭の光をギラギラと照らし返している。
黄雲には見覚えがあった。美しい拵えの、一振りの『それ』に。
「龍吟……」
少女がその名を呼ぶ。
声音には、恍惚と陶酔とが籠められている。その呼びかけに、黄雲はぞくりと背筋が凍るような感覚を覚えた。
二人の目前にあるは、紛れもなく宝剣『龍吟』だった。
かつて、火眼金睛との戦いの折。
正気を失った雪蓮が地中より呼び出し、得物となした宝剣だ。地を裂き空を裂き、火眼金睛を圧倒する力を振るうだけでなく。失ったはずの黄雲の腕をも蘇らせた、謎に満ちた剣。
『それ』のお陰で右腕が蘇ったとはいえ、黄雲にはどうしてもその剣が善いもののようには思えなかった。いまも目の前の宝剣は、雪蓮の放つ金氣へ呼応するかのように、刃を細かく振動させて澄み切った高音を発している。
「ほら、呼んでるわ。私のこと……」
雪蓮はうっとりと歩を進める。彼女が一歩踏み出すと、ガクリと地震のように部屋が揺らぎ。
「!? 壁が……!」
唸りを上げて、目の前、祭壇奥の壁が動き始める。壁はぞりぞりと音を立て、下方へずり下がり。厚い壁で隔たれていた外界が現れる。
外は既に夜の帳に覆われている。
明るい月光が、部屋の中を照らし出した。
窓から見える通月湖の湖面。ちょうど正面にある満月。
前方へ手を伸ばす雪蓮に、月光をすすり、青白く光る宝剣。
龍吟が燐光を纏う。
「だめだ、お嬢さん!」
黄雲は慌てて彼女の腕を掴んだ。次の一歩を踏め出せないように、強く。
「どうして?」
振り返った雪蓮の瞳は、驚くほどに生気が無い。精巧な人形のようにこちらを見返している。
「あんなに私のことを呼んでいるのよ……お願い、離して」
穏やかに話す口調に、感情はない。
黄雲ははっきりと『あの時』の感覚を思い出した。
彼女が彼女でなくなるような。雪蓮が雪蓮から離れていくような。
「いいえ、離せませんね!」
無理に歩みを進めようとする彼女の腕を引いたまま、黄雲は祭壇から遠ざかる。しかし。
「いや! 行かせて! 行かなきゃ……!」
なかば半狂乱になって宝剣の方へ向かおうとする雪蓮が、黄雲の手に爪を立てる。
「離せ!」
口調からは既に彼女らしさが失せていた。同時に高まる金行の氣。
少女の内から迸るような氣が、宝剣の嘶きと同調したのだろうか。宝剣の刃が、とろりと形を崩した。
「!?」
黄雲は驚いたが、その形状には見覚えがある。水銀のような液状。刃の部分から徐々に溶け出しつつ、地を這い、彼女のもとへ集まろうとする様は。
同じだ。かつて雪蓮が、この宝剣を呼び出した時と。
──触れさせてはならない!
強く思うと同時に、黄雲は無理矢理雪蓮を抱きかかえた。すっと息を吸い、氣を練り上げると足へ送り。神行符から術を発して、祭壇を迂回して目前の月へと走る。
少年は窓から飛び出した。腕に少女を抱えたまま。
案の定、足を踏み出した先は月亮島の岩山の、頂上で。切り立った断崖を、神行符の力で遮二無二駆け下る。
雪蓮が何事か叫んでいたが、よく聞こえなかった。あっという間に高い山から下り終えると、黄雲は彼女を地面におろし、息せき切って問う。
「お嬢さん! お嬢さん……! 僕の言うことが、分かりますか!」
「…………」
顔を上げた雪蓮は、うつろな目をしている。はたと黄雲は山頂を振り仰いだ。禍々しい氣が、頂上から立ち上っている。
ぼやぼやしている暇はない。黄雲はしゃがんでいる雪蓮の手を無理矢理引いた。
「早く行きましょう! ここから早く離れなければ……!」
言いつつ走り出すが。焦るあまり、黄雲は雪蓮がまだ立ち上がっている最中だということに、気付かなかった。
「痛いっ!」
背後から苦痛の声。掴んでいた手が離れる。黄雲が振り返ると、雪蓮は右足を抑えてうずくまっていた。彼が無理に引っ張るから、足を捻ってしまったのだろう。
「も、申し訳ない!」
慌てて詫びながら、黄雲は彼女へ駆け寄った。覗き込んだ雪蓮の顔は、確かに辛そうではあったが。
「いたぁ……捻っちゃったかも……」
痛みにうめきつつも、生気はあるし目の表情も活きている。その様子に。
「お嬢さん……お嬢さんですよね!?」
黄雲は思わず確かめてしまった。彼女の肩を両手でしっかと掴み、本当に崔雪蓮そのものであるかを。
少年のそんな問いに、雪蓮は痛みを忘れてきょとん顔。
「え、あの……! わ、私ですが!」
「良かった。僕の知っている、あなたです」
ほっと、月下に黄雲の表情が和らいだ。それはいままで彼女に見せたことが無いほど、柔らかいもので。
「…………」
雪蓮のきょとん顔に、ほんのり赤みが差していく。
そして黄雲も自覚した。己のやっていることを。
少年、いつものように素っ気ない仕草で彼女の肩から手を放し。
コホンとごまかすような咳ばらいを一つ。
「あー……その! 立てます? お嬢さん」
「あ、あの! えーと!」
途端に普段通りに変わった空気にどこかほっとしつつ、雪蓮は立ち上がろうと試みるが。
「い、いたたたたっ!」
捻った右足は容赦なく痛む。立ち上がりかけて再びしゃがみ込む雪蓮だが。
そんな彼女に、黄雲はそっと背を差し出した。
「仕方がありません。いまは一刻を争いますし」
「黄雲くん……」
かくして少年少女は舟まで戻り。
この謎に満ちた島から、恙なく脱出を果たすのであった。
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二人が去った後。
岩山頂上のあの部屋に、カランと金属音が響き渡った。
雪蓮の氣が遠ざかり。彼女の氣を追って液状金属と化していた龍吟は、すでにもとの剣の形へ戻っていた。祭壇から離れた位置に宝剣は落下する。
窓から差し込む月光。
その光を浴びて、その刀身は青白く輝きつつ、なおも甲高い嘶きを上げている。
彼女を、呼ぶように。
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島から逃げおおせ。
舟を元の場所に返し、静かな村を後にする。
月の高さから見て、かなり遅い時間だろう。
亮州城へ続く堤防を、黄雲は雪蓮を背負って歩いていた。なるべく早くあの島から遠ざかりたくて、自然早足になってしまう。少年の息遣いが疲労の色を帯びていく。
「黄雲くん、私、頑張って歩くから……!」
そんな彼を気遣って、雪蓮はその背から身を放し、地面へ下りようとするが。
「いいえ。僕の不始末のせいですから」
黄雲は背中の雪蓮をゆすり上げ、頑なに負ぶう姿勢を崩さない。
どう足掻いても、黄雲は亮州城まで雪蓮を背負って帰るつもりだ。
ツンと不機嫌に「不始末」だなどという言い方に。
「黄雲くんのせいじゃないのに……」
自力で歩くことを諦めさせられた雪蓮は、ぽつりとつぶやく。
「私がぼんやりしてたから……」
「ねえ、お嬢さん」
黄雲は不意に、真剣な表情で口を開いた。
「あなた、さっきのことを覚えていますか。岩山の山頂の部屋であったことを」
その問いに、雪蓮は。
「山頂の部屋……?」
「覚えてないんです? 例の宝剣があって……」
「ほーけん?」
まったくなにも覚えていない。
もはや声音がそう語っている。
「記憶が、ない……と」
それも、『あの時』と同じだった。あの時も龍吟を呼び出す前後で、雪蓮の記憶は途切れている。
今回もそうとなると、彼女の内で、彼女の肉と皮を操っていたものは何なのだろう。
(霊薬……)
少女が宿したモノ。
それ自体が何なのかも分からなければ、彼女の身魂にどう作用しているのかもさっぱり分からない。
手掛かりはなく、謎は深まるばかり。今日の遺跡だって、いかにも霊薬に関連ありそうな要素に満ちていたが、まったくもって全てが全て、不可解だ。
それでも。
──祓わなければ。
祓わなければならない。
彼女のためにも、己のためにも。
甘いようで辛い、この背中の暖かさから逃れるためにも。
「ねえ黄雲くん」
だんまりで歩く黄雲の背から、雪蓮がそっと呼びかける。
続く声音は気遣わしげで。
「あんまり、無理しちゃだめだよ」
深く彼の背に身を預けながら言う。黄雲の右肩に頬を乗せ、その声音は自然、耳元で囁くように。
「黄雲くん、いつもお金のためだ何だって、無理してばっかり。今日もそうだったし、今だって……」
そんな彼女の言葉に、「銭のためなんだから仕方ないでしょう」と反論しかけた黄雲だが。
「銭のため、は今は禁止」
「うっ……」
先手を打たれてしまった。思わず閉口した黄雲の背で、雪蓮は続ける。
「ねえ、黄雲くん。無理も無茶も、もうしないでほしいな……」
「…………」
「銭のためでもなんでも、苦しそうなあなたを見るのは私、とても辛いから──」
そう言って雪蓮は黄雲の肩に手を回し、ぎゅっと抱きしめるように力をこめた。
その言葉と仕草に。
養生の術で戒めたはずの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
何故だろう。雨上がり、立ち上る土の匂いをかいだ時のように、切ない。
「だからね、黄雲くん。自分のせいだなんて思わないで、疲れたら私のこと、下ろしてくれていいから……ね!」
雪蓮はなおも彼を気遣っている。少し身体を放して、地面へ下ろしやすくしようとするが。
「できない相談です」
黄雲はいつもの小生意気なしゃべりを心がけながら、雪蓮を背負い直す。
「あなたが足を挫いたのは、やはり僕が無理矢理引っ張ったからです。責任は負いますよ。それが筋というものです」
「もう……」
月明かりの中、黄雲は雪蓮を下ろさない。しかしその歩みは、少しゆったりとしたものへ変わる。
もし、どうして歩調が緩やかになったのかを彼女に問われたら、「少し疲れたからです」と答えを用意していたのだが。
雪蓮は何も問わなかった。ゆっくりになった歩幅に、気付いているのかいないのか。
亮水滔々、湖水漫々
通月の水に 明月落ちて
晩風蕭々 月色煌々
嫦娥哭して 月輪円し
少女が背で口ずさむ『明月』。
黄雲はその歌声に、いまだけはいいかと思ってしまう。
雪蓮は歌いつつ、いまだけでもとその背に身を預けてみる。
ふと、雪蓮は頭上の満月を振り仰いだ。
あの月には、この歌謡にある嫦娥が住んでいる。恋人と離れ離れになってしまった、哀しい月の女神。
(いいのかしら……)
不意に少女は申し訳ない気持ちになる。月宮からこちらを見下ろす嫦娥は、どんな心持ちなのだろう。
申し訳ないと思いつつも、自分を負う背の暖かさが愛しい。
あの言い伝え──月亮島に意中の相手と一緒に訪れると、想いが成就するという言い伝え。それが叶ったかどうかは、まだ分からないけれど。
二人の影は明月に照らされて、湖畔をゆっくりと進んでいく。
心配して迎えに来た清流道人と鉢合わせるまで。
二人の時間は、ゆったりと。
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未明。
月亮島の岩山を、ざざ、と音を立てて降りてくる者があった。
白い道服、白い蓬髪。しわの刻まれた顔に、左頬の傷。白濁した瞳。
その背には剣が背負われていた。布の巻きつけられた、一振りの剣。
布には数多の呪符が貼り付けられている。布の内にある、宝剣の氣を漏らさぬための、封印の呪符。
老人は辺りに人影がないことを確認すると、そっと目元へ手を伸ばす。
月光の中。老人が両の瞳から取り出したのは、魚の鱗。
眼病の装いを外し、黒い双眸が露になる。
老人は振り返り、歩き始めた。昼間のように片足を引きずることなく、両の足で、しっかりとした足取りで。
やがて老人は島から姿を消す。
彼が背に負っていた布の包みから鳴る、澄み切った高音の残響だけが、しばし湖上に残った。
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翌朝。夜も明けきらぬうち。
きちんと処置された右足に痛みはなく、いつになく早起きした雪蓮は庭に出ていた。
夜明け前の空気は澄んでいて、冷たく、爽やかだ。
ふと、少女の目に愛らしいものが留まる。
清流堂の塀の上で、二、三匹で固まって寝ている──類だ。
手のひらに乗るほどの、タヌキのような物の怪。皮膜つきの手足をちまちま動かして、夢見心地で眠っている。
「まあ!」
思わず雪蓮は駆け寄った。顔には無邪気な笑みが浮かぶ。
眠る物の怪へ手を伸ばしつつ、雪蓮はうっとりつぶやいた。
「おいしそう……」




