9 月下の物の怪退治
すさまじい跳躍だった。黄雲は壊された屋敷を遥かに眼下に収めつつ、夜空を舞う。雪蓮を背負ったままで。
斜め下手前には、こちらを見つめる三眼の獣。その奥には崔家の庭園が薄暗がりに広がり、向かいにある北側の塀を越えた先には、巨大な岩壁が月光を浴びていた。
崔家の北にあるこの大きな岩山は、燕山と呼ばれている。おそらく大猪は、この燕山から降りて来たのだろう。庭園を囲う塀の一部が、大きく破壊されていた。
「すごいすごいすごーい!」
一方のお嬢さん、雪蓮は初めての空中にはしゃいでいる。お願いだから舌噛まないでくださいよ、と黄雲がたしなめたところで。
「あ、あれ? もしかして……」
落ちてる? と雪蓮が問う。前方へ彼らを運んでいた推進力は既に衰え、今度は真下へ向かう力が強くなる。
黄雲が応じるより早く、重力が彼女の問いに答えた。二人は地面に向かって落下を始める。「下へ参りまーす」と、緊張感の無い黄雲の声。
「うわっ! うわぁ!」
「マジで舌噛むから黙っといてください」
騒ぐ雪蓮を再度たしなめつつ、黄雲は落ちながら木剣を構えた。
目の前に迫る、大猪の毛並み。
直後黄雲、木剣を大猪の脳天へ叩きつけた。
「…………!!」
甲高い、けたたましい悲鳴が上がる。脳天を打ち付けられた猪は、もんどりうって苦しんでいる。
「よっと」
大猪の目の前へ、黄雲見事に着地。すかさず懐から箝口の札を取り出すと、苦悶している猪の大きな口へ、パシンと貼り付けた。
「効いただろう、桃の木から切り出した木剣は!」
黄雲は雪蓮に地面へ下りるよう促しながら、大猪へ声を張り上げる。
「桃には破邪の力が宿っているからなぁ! 相当痛かっただろう、はっはっは」
「……!」
猪は三つの目を血走らせてこちらを見ている。
「そして今お前に貼った箝口符! そいつは唇の動きを奪う札なわけだ! すなわちお前は、しゃべることはおろか、口を開けてこのお嬢さんを喰らうこともできない! ちなみに僕が剥がれろと念じなければ剥がれないぞ!」
勝ち誇ったような黄雲だったが、大猪はそれでも戦意を失わないようで。よろよろと起き上がり、その巨体に似つかわしい大きな鼻から荒い息を吐いている。
「いいか、一応言っといてやる。ここで身を引けば見逃してやる。山に帰る頃には札も外れるようにしてやろう。だが従わないなら仕方がない、明日お前の肉を肉屋に並べてやる」
やだ物騒、と雪蓮が眉間にしわ寄せ、口元を袖で覆った。強い口調での警告だったが。
「…………!」
大猪に、聞く耳は無いらしい。二、三歩後ろへ下がり、前肢の蹄で土を掻く仕草。先ほど屋敷に突進する前に見せた、あの行動。
「お嬢さん、下がって」
「うん!」
雪蓮が後方へ駆け出した。少年も続いて七歩後ずさり、木剣の切っ先を大猪へ向けてかざす。
大猪がこちらへ駆け出すと同時に、結界が張られた。先ほどと同じく、見えない壁に阻まれる物の怪。
……だったが。
「……ぃたい」
結界の奥から、低い声。黄雲の太い眉が、ピクリと跳ねる。
「……喰いたい、喰いたい」
結界の奥に蠢く、獣の毛並み。その口元をに貼った筈の札が、剥がれかけていた。
「喰いたい、喰いたい、喰いたい! 喰いたくてたまらねえんだよぉぉぉ!!」
「うっわ、マジかよ……」
遂に大猪の口から、口封じの札が剥がれ落ちる。
物の怪は勢いに任せて、結界を額で叩きつける。何度も、何度も。
「助けてくれよお、喰わせてくれよお……。その娘の匂いがすると、美味そうなのに喰えなくて辛くてたまんねえんだよお!」
獣は口角から涎と唾、そして三つの目からは涙を流しながら、額を打ち続けている。その様は、もはや懇願と言ってもいい。
さすがにこれは異常だ。物の怪がここまで執念を燃やすなんて、聞いたことがない。大抵桃の木剣一発で、すごすご棲家に帰って行くものを。
「お嬢さん! あなた猪の恨みを買うようなことしました!?」
「し、してませんそんなこと! 第一、猪を見たのは今日が初めてだし……」
後ろに振り返り雪蓮へ問うが、執念の源を知ることは出来ない。そうこうしている、その時。
ビキッ。
結界に、蜘蛛の巣状のヒビが入る。音に驚いて振り返る間も無く、砕け散るように結界は破られ、黄雲の眼前に物の怪が迫った。
「えっ、ちょっ、待ってタンマ……」
待ってもタンマも通じる筈なく。
黄雲はあっけなく、大猪の鼻に払われ、横ざまに吹っ飛んでいった。
「ああ! えーと……道案内くん!」
一瞬なんて呼んでいいか迷って、適当なあだ名で雪蓮が叫ぶ。そんな彼女へ、大猪は猛進する。
大きな口が開く。鋭い歯列と赤い舌が迫った。
恐ろしさに、雪蓮が目をつむる。
「だから待てと言うに!」
牙が雪蓮へ届く直前。横合いから一撃が入った。
あちこちに擦り傷をこしらえながら、黄雲は木剣で大猪を渾身の力で払う。桃に宿る破邪の力も手伝って、大猪を転ばせることに成功だ。
しかし猪もさる者。少女の元へ向かおうとする少年に蹄を引っ掛け、仕返しとばかりに跳ね飛ばした。
「いっつ……この野郎……」
「小僧が、邪魔ばかりするな!」
言いながら立ち上がり、大猪、勢いつけて前足を跳ね上げ、後足を使い直立する。
「もういい! 生きたまま喰らうは諦めよう!」
「げっ、まさか!」
てっきり自分への反撃かと思っていた黄雲、ぎょっとした視線を背後へ向ける。ぼんやりと大猪を見上げている雪蓮。彼女へ向けて、前足が振り下ろされた。
潰して喰う気か!
彼の体は勝手に動いた。脛に貼り付けた『神行』の札がぼんやり光り、目にも留まらぬ速さで滑り込む。
「きゃっ!」
雪蓮を突き飛ばし、そのまま地面へ倒れこむ黄雲の上に、巨大な蹄。容赦なく、少年の背は踏みつけられた。
「ぐっ……!」
「道案内くん!」
蹄はグリグリと、黄雲ごと土を抉る。少年の口からは赤いものが滴った。
「こにくらしい小僧め……娘の前にお前を喰らってやる!」
「や、やめて! お願い!」
震える足で必死に歩み寄りながら、雪蓮は大声で叫んだ。
「わ、私を食べてもいいから……お願い、放してあげて!」
「ほう」
三眼の目尻が、にやりと笑った気がした。
「ほう、殊勝なことだ。その意気やよし」
「良くないね!」
蹄の下から、吠えるような反論。
大猪の三つ目が不意に下を向いた。
踏みつけていた筈の蹄が、徐々に浮いてきている。
「な、なんだ貴様! まだ動けるのか!」
「動けるとも……お前にこの人を喰われると、困るんでね!」
両手足を踏ん張って、黄雲は少しずつ身を起こす。やがて蹄を両手で持ち上げ、遂にそこから抜け出した。
「お嬢さん!」
すぐさま彼は雪蓮へ駆け寄った。ボロボロになった道服の腰帯に木剣を差し込みつつ、真剣な表情で言う。
「いいですか、僕のそばを絶対に離れないでください」
「!」
どっきん。
場違いな桃色の音が、少女の胸の中で鳴る。
これだ。今まで十三年間、屋敷の内に閉じ込められ、書物の中でしか知ることのなかった、あの憧れの。
「なぜだ……」
急に浮つく雪蓮の心中に気付くことなく、大猪は猛り狂う。
「一体なぜだ! なぜその娘を喰わせない! なぜそこまでしてその娘を守る!」
物の怪と対峙しているはずの、緊迫したこの状況。
雪蓮はもはや上の空。ずっと憧れていた、あの恋愛小説や冒険活劇のようなことが、目の前で起こっているのねそうなのね!
思えば、書物の文章が宙舞い口から入り込むという奇妙な体験の後、幾ばくかの眠りから覚めたかと思えば謎の少年との再会。そして強大な物の怪の襲撃。
そしてどういうわけか、雪蓮を守るため、必死な少年。
小説のような美丈夫ではないしちんちくりんだし、思った通りの恋の相手ではないけれど。
ちょっと好みかもしれない。茶色い髪の隙間から覗く耳の形とか。
「何故だ! 何故そこまでして娘を守るのだ!」
そう、何故! 何故なの!
期待に満ちた雪蓮の視線の先で少年は。
「銭のため!」
夜天の下声高らかに、はっきりきっぱりそう言った。
「…………」
一気に醒めた雪蓮である。
寂しげに一陣のつむじ風が過ぎ去って行った。
「そう銭のため!」
夢破れた雪蓮など知る由もなく、黄雲はまだ続けている。
「ご令嬢を守り通し、知府より莫大な報酬を得ることこそ我が本懐! 獣のお前にゃ分かるまい!」
「強欲め……!」
物の怪に強欲呼ばわりされながらも、黄雲はどこか自信ありげに、パンパンと手を打った。
「さて、そろそろ終わりにしようか。穏便に済ませようかと思ったけど、もうやめだ」
言いながら、足元からひとすくい、土を掴み上げる。
「なあ三つ目。僕の一番得意な道術は、なんだと思う?」
答えは実演だ、と黄雲、掴んだ土を握った手で、地面を強かに殴りつけた。
「! なんだ!?」
辺りにはグラグラと時揺れが起こる。
三眼は周辺を見渡した。その視界の端で。
地面が大きく盛り上がり、大猪を中心にボコリボコリと、五本の土の柱が立つ。隆起するそれは、まるで人の手のような形を取り、五本の指で大猪を包み込んだ。
「こ、これは……!」
「正解は、土遁術!」
少年が拳を振り上げる。土でできた手のひらの下から、さらに腕がせりあがる。
「じゃ、今から千里ぐらい飛ばすんで! せいぜい奥歯でも噛みしめときな!」
「こんの……こぞぅ……!」
物を投げるかのような動作で、黄雲は手の中の土を投げ飛ばす。同時に土で出来た巨大な腕も、同様の動作であっけなく、大猪を燕山の岩壁より遥か遠くに投げ飛ばしてしまった。
「やれやれ」
終わりましたね、と黄雲、後ろを振り返る。
やけに光の無い目で一部始終を見ていた雪蓮と、目が合った。
「あ……、あの!」
取り繕うようにいつもの調子に戻り、雪蓮はこほんと咳払い。
「えーと、その……ありがとう」
「さっき一瞬目が死んでませんでしたか?」
「き、気のせいだと思うよ?」
すっかり荒れ果てた庭園に、月は傾いていた。