表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/147

9 月下の物の怪退治

 すさまじい跳躍だった。黄雲は壊された屋敷を遥かに眼下に収めつつ、夜空を舞う。雪蓮を背負ったままで。

 斜め下手前には、こちらを見つめる三眼の獣。その奥には崔家の庭園が薄暗がりに広がり、向かいにある北側の塀を越えた先には、巨大な岩壁が月光を浴びていた。

 崔家の北にあるこの大きな岩山は、燕山(えんざん)と呼ばれている。おそらく大猪は、この燕山から降りて来たのだろう。庭園を囲う塀の一部が、大きく破壊されていた。

 

「すごいすごいすごーい!」


 一方のお嬢さん、雪蓮は初めての空中にはしゃいでいる。お願いだから舌噛まないでくださいよ、と黄雲がたしなめたところで。

 

「あ、あれ? もしかして……」


 落ちてる? と雪蓮が問う。前方へ彼らを運んでいた推進力は既に衰え、今度は真下へ向かう力が強くなる。

 黄雲が応じるより早く、重力が彼女の問いに答えた。二人は地面に向かって落下を始める。「下へ参りまーす」と、緊張感の無い黄雲の声。

 

「うわっ! うわぁ!」

「マジで舌噛むから黙っといてください」


 騒ぐ雪蓮を再度たしなめつつ、黄雲は落ちながら木剣を構えた。

 目の前に迫る、大猪の毛並み。

 直後黄雲、木剣を大猪の脳天へ叩きつけた。

 

「…………!!」


 甲高い、けたたましい悲鳴が上がる。脳天を打ち付けられた猪は、もんどりうって苦しんでいる。


「よっと」


 大猪の目の前へ、黄雲見事に着地。すかさず懐から箝口(かんこう)の札を取り出すと、苦悶している猪の大きな口へ、パシンと貼り付けた。

 

「効いただろう、桃の木から切り出した木剣は!」


 黄雲は雪蓮に地面へ下りるよう促しながら、大猪へ声を張り上げる。

 

「桃には破邪の力が宿っているからなぁ! 相当痛かっただろう、はっはっは」

「……!」


 猪は三つの目を血走らせてこちらを見ている。

 

「そして今お前に貼った箝口符(かんこうふ)! そいつは唇の動きを奪う札なわけだ! すなわちお前は、しゃべることはおろか、口を開けてこのお嬢さんを喰らうこともできない! ちなみに僕が剥がれろと念じなければ剥がれないぞ!」


 勝ち誇ったような黄雲だったが、大猪はそれでも戦意を失わないようで。よろよろと起き上がり、その巨体に似つかわしい大きな鼻から荒い息を吐いている。

 

「いいか、一応言っといてやる。ここで身を引けば見逃してやる。山に帰る頃には札も外れるようにしてやろう。だが従わないなら仕方がない、明日お前の肉を肉屋に並べてやる」


 やだ物騒、と雪蓮が眉間にしわ寄せ、口元を袖で覆った。強い口調での警告だったが。

 

「…………!」


 大猪に、聞く耳は無いらしい。二、三歩後ろへ下がり、前肢の蹄で土を掻く仕草。先ほど屋敷に突進する前に見せた、あの行動。

 

「お嬢さん、下がって」

「うん!」


 雪蓮が後方へ駆け出した。少年も続いて七歩後ずさり、木剣の切っ先を大猪へ向けてかざす。

 大猪がこちらへ駆け出すと同時に、結界が張られた。先ほどと同じく、見えない壁に阻まれる物の怪。

……だったが。


「……ぃたい」


 結界の奥から、低い声。黄雲の太い眉が、ピクリと跳ねる。

 

「……喰いたい、喰いたい」


 結界の奥に蠢く、獣の毛並み。その口元をに貼った筈の札が、剥がれかけていた。

 

「喰いたい、喰いたい、喰いたい! 喰いたくてたまらねえんだよぉぉぉ!!」

「うっわ、マジかよ……」


 遂に大猪の口から、口封じの札が剥がれ落ちる。

 物の怪は勢いに任せて、結界を額で叩きつける。何度も、何度も。

 

「助けてくれよお、喰わせてくれよお……。その娘の匂いがすると、美味そうなのに喰えなくて辛くてたまんねえんだよお!」


 獣は口角から涎と唾、そして三つの目からは涙を流しながら、額を打ち続けている。その様は、もはや懇願と言ってもいい。

 さすがにこれは異常だ。物の怪がここまで執念を燃やすなんて、聞いたことがない。大抵桃の木剣一発で、すごすご棲家(すみか)に帰って行くものを。

 

「お嬢さん! あなた猪の恨みを買うようなことしました!?」

「し、してませんそんなこと! 第一、猪を見たのは今日が初めてだし……」


 後ろに振り返り雪蓮へ問うが、執念の源を知ることは出来ない。そうこうしている、その時。

 ビキッ。

 結界に、蜘蛛の巣状のヒビが入る。音に驚いて振り返る間も無く、砕け散るように結界は破られ、黄雲の眼前に物の怪が迫った。

 

「えっ、ちょっ、待ってタンマ……」


 待ってもタンマも通じる筈なく。

 黄雲はあっけなく、大猪の鼻に払われ、横ざまに吹っ飛んでいった。

 

「ああ! えーと……道案内くん!」


 一瞬なんて呼んでいいか迷って、適当なあだ名で雪蓮が叫ぶ。そんな彼女へ、大猪は猛進する。

 大きな口が開く。鋭い歯列と赤い舌が迫った。

 恐ろしさに、雪蓮が目をつむる。

 

「だから待てと言うに!」


 牙が雪蓮へ届く直前。横合いから一撃が入った。

 あちこちに擦り傷をこしらえながら、黄雲は木剣で大猪を渾身の力で払う。桃に宿る破邪の力も手伝って、大猪を転ばせることに成功だ。

 しかし猪もさる者。少女の元へ向かおうとする少年に蹄を引っ掛け、仕返しとばかりに跳ね飛ばした。

 

「いっつ……この野郎……」

「小僧が、邪魔ばかりするな!」


 言いながら立ち上がり、大猪、勢いつけて前足を跳ね上げ、後足を使い直立する。

 

「もういい! 生きたまま喰らうは諦めよう!」

「げっ、まさか!」


 てっきり自分への反撃かと思っていた黄雲、ぎょっとした視線を背後へ向ける。ぼんやりと大猪を見上げている雪蓮。彼女へ向けて、前足が振り下ろされた。


 潰して喰う気か!


 彼の体は勝手に動いた。脛に貼り付けた『神行(しんこう)』の札がぼんやり光り、目にも留まらぬ速さで滑り込む。


「きゃっ!」


 雪蓮を突き飛ばし、そのまま地面へ倒れこむ黄雲の上に、巨大な蹄。容赦なく、少年の背は踏みつけられた。

 

「ぐっ……!」

「道案内くん!」


 蹄はグリグリと、黄雲ごと土を抉る。少年の口からは赤いものが滴った。

 

「こにくらしい小僧め……娘の前にお前を喰らってやる!」

「や、やめて! お願い!」


 震える足で必死に歩み寄りながら、雪蓮は大声で叫んだ。

 

「わ、私を食べてもいいから……お願い、放してあげて!」

「ほう」


 三眼の目尻が、にやりと笑った気がした。

 

「ほう、殊勝なことだ。その意気やよし」

「良くないね!」


 蹄の下から、吠えるような反論。

 大猪の三つ目が不意に下を向いた。

 踏みつけていた筈の蹄が、徐々に浮いてきている。


「な、なんだ貴様! まだ動けるのか!」

「動けるとも……お前にこの人を喰われると、困るんでね!」


 両手足を踏ん張って、黄雲は少しずつ身を起こす。やがて蹄を両手で持ち上げ、遂にそこから抜け出した。

 

「お嬢さん!」


 すぐさま彼は雪蓮へ駆け寄った。ボロボロになった道服の腰帯に木剣を差し込みつつ、真剣な表情で言う。

 

「いいですか、僕のそばを絶対に離れないでください」

「!」


 どっきん。

 場違いな桃色の音が、少女の胸の中で鳴る。

 これだ。今まで十三年間、屋敷の内に閉じ込められ、書物の中でしか知ることのなかった、あの憧れの。

 

「なぜだ……」


 急に浮つく雪蓮の心中に気付くことなく、大猪は猛り狂う。

 

「一体なぜだ! なぜその娘を喰わせない! なぜそこまでしてその娘を守る!」


 物の怪と対峙しているはずの、緊迫したこの状況。

 雪蓮はもはや上の空。ずっと憧れていた、あの恋愛小説や冒険活劇のようなことが、目の前で起こっているのねそうなのね!

 思えば、書物の文章が宙舞い口から入り込むという奇妙な体験の後、幾ばくかの眠りから覚めたかと思えば謎の少年との再会。そして強大な物の怪の襲撃。

 そしてどういうわけか、雪蓮を守るため、必死な少年。

 小説のような美丈夫ではないしちんちくりんだし、思った通りの恋の相手ではないけれど。

 ちょっと好みかもしれない。茶色い髪の隙間から覗く耳の形とか。

 

「何故だ! 何故そこまでして娘を守るのだ!」


 そう、何故! 何故なの!

 期待に満ちた雪蓮の視線の先で少年は。

 

(ぜに)のため!」


 夜天の下声高らかに、はっきりきっぱりそう言った。

 

「…………」


 一気に醒めた雪蓮である。

 寂しげに一陣のつむじ風が過ぎ去って行った。

 

「そう銭のため!」


 夢破れた雪蓮など知る由もなく、黄雲はまだ続けている。

 

「ご令嬢を守り通し、知府より莫大な報酬を得ることこそ我が本懐! 獣のお前にゃ分かるまい!」

「強欲め……!」


 物の怪に強欲呼ばわりされながらも、黄雲はどこか自信ありげに、パンパンと手を打った。

 

「さて、そろそろ終わりにしようか。穏便に済ませようかと思ったけど、もうやめだ」


 言いながら、足元からひとすくい、土を掴み上げる。

 

「なあ三つ目。僕の一番得意な道術は、なんだと思う?」


 答えは実演だ、と黄雲、掴んだ土を握った手で、地面を強かに殴りつけた。

 

「! なんだ!?」


 辺りにはグラグラと時揺れが起こる。

 三眼は周辺を見渡した。その視界の端で。

 地面が大きく盛り上がり、大猪を中心にボコリボコリと、五本の土の柱が立つ。隆起するそれは、まるで人の手のような形を取り、五本の指で大猪を包み込んだ。

 

「こ、これは……!」

「正解は、土遁術(どとんじゅつ)!」


 少年が拳を振り上げる。土でできた手のひらの下から、さらに腕がせりあがる。

 

「じゃ、今から千里ぐらい飛ばすんで! せいぜい奥歯でも噛みしめときな!」

「こんの……こぞぅ……!」


 物を投げるかのような動作で、黄雲は手の中の土を投げ飛ばす。同時に土で出来た巨大な腕も、同様の動作であっけなく、大猪を燕山の岩壁より遥か遠くに投げ飛ばしてしまった。

 

「やれやれ」


 終わりましたね、と黄雲、後ろを振り返る。

 やけに光の無い目で一部始終を見ていた雪蓮と、目が合った。

 

「あ……、あの!」


 取り繕うようにいつもの調子に戻り、雪蓮はこほんと咳払い。

 

「えーと、その……ありがとう」

「さっき一瞬目が死んでませんでしたか?」

「き、気のせいだと思うよ?」


 すっかり荒れ果てた庭園に、月は傾いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ