狼の妖術師トルム
一頭立ての箱型馬車は石畳の街道を進んでいた。御者を除く乗客は二人。茶褐色の髪と瞳をしたまだ幼い少年と、フードを深く被っている緑のローブ姿の青年が向かい合って座っている。少年は物珍しそうに窓から外を見ていた。住んでいた城壁都市を出て帝都へ向かう途中である。街道を行き交う馬車や人が多くなってきた。
「もう少しで帝都に到着しますよ」
青年の声に、少年は視線を外から青年へ向けた。
「もう少し?」
「ええ。あと半計ほどです」
計とはこの帝国内で使われている時刻の単位である。少年は青年から教わった事を思い出した。
『この帝国は、帝都の他に、十四の城壁都市があります。それぞれの都市の中心には時計塔があり、中には大きな砂時計が一つ、小さい砂時計が十四あります。大きな砂時計は一日、小さい砂時計は一日の十四分の一を計ります。十四の小さい砂時計が一つ落ちるたびに、連動して時計塔の鐘が鳴ります。それが一計です』
少年は急に不安になった。あと一計の半分、半計でこの青年と別れるのである。
「あの、トルム」
「どうしました? ユクド」
「僕の、新しいお父様とお母様は、どんな人?」
「お優しいご夫婦です。以前からたびたび寄付をしてくださっていました。思いつきや成り行きであなたを迎えようとしている訳ではなく、よく考えて、あなたを息子にしたい、と申し出てくださったのです」
「そっか………」
少年は青年の顔を覗き込み、
「トルム、トルムの横に座っていい?」
「狭いですよ」
「いいから」
少年が立ち上がって青年の右横に座ると、青年は少年の手を握った。
「何も不安はありません」
「うん、わかってる」
「いつでも会えますよ」
「絶対? また会える?」
「ええ。ユクドの前にも、こうやって私たちのところから送り出した子たちがいますが、機会があれば私から会いに行っています」
「本当?」
「本当です。皆、可愛い私の兄弟ですから」
「兄弟と言うより」
少年は青年の膝に頭を乗せ、
「トルムは僕たちのお母様だから」
トルムは首を傾げ、
「お母様? 私が?」
「うん。皆言ってるよ」
「私は男ですよ」
「知ってる」
「男でお母様ですか………」
「優しいし、でも怒ると怖いし。ご飯はおいしいし、寝る時は側に居てくれるし」
少年が青年の顔を見上げると、フードの中のその顔が『右半分』見えた。帝国での成人の年齢である十七歳のまだ若いその顔はかなり美しい。白い肌に、鼻筋はすっと通って、濃い青色の瞳が印象的である。しかし『左半分』は、唇のすぐ上まで革製の仮面に隠されており見る事は出来ない。唯一わかるのは、右目と同じ濃い青色の左目だけだ。
「トルム、ありがとうね」
「何が?」
「僕を助けてくれて」
「私に出来る事をしただけです」
「僕、ずっとトルムと一緒に居たかった」
「あなたには、お父様とお母様が必要です」
「うん」
「お父様とお母様を大事に」
「うん」
「勉強もするのですよ」
「うん」
「ほら、もうすぐ着きます」
青年の手が少年を膝から起こそうとするが、
「もう少しだけ」
青年は小さくため息を吐き、口元をほころばせながら、
「もう少しだけですよ」
少年の頭を撫でた。
やがて馬車は帝都の大門をくぐり、帝都の中心へ進んだ。馬車が止まったそこは、帝都の中でも有数の豪商の邸宅だった。
馬車の御者が訪問者の名を門番へ告げると、門は開き、邸宅の中から男女が迎え出てきた。少年と同様に、帝国人特有の茶褐色の髪と目をしている、
「トルム様、ユクド、ようこそいらっしゃいました」
「アリカスロご夫妻、お出迎えがありがとうございます」
「こちらからお迎えに行くべきところを、申し訳ございません」
頭を下げる夫妻に、
「いえ、私が連れて行きたいと我儘を言いました。見届けたかったのです。さあユクド、お父様とお母様へご挨拶を」
「はい。お父様、お母様、ユクドです。よろしくお願いいたします」
しっかりと挨拶をした少年の姿に、青年は優しく微笑み、夫妻へ向けて深々と頭を下げた。
「ご夫妻、どうぞユクドをよろしくお願いいたします」
そんな青年に夫妻は慌てて、
「トルム様、頭をお上げください。わかっております、ユクドは私どもの息子です。大事に育てます」
「ええ、夫が申します通り、ユクドは私たちの大切な一人息子。私たちにユクドを託してくださってありがとうございます」
「ご夫妻の事は信頼しております」
青年が頭を上げると、自分を見つめる少年に気づいた。目が潤んでいる。青年は自分の頭を覆うフードを取った。肩に届くほどのサラサラとした黒髪が現れる。しかしそれは右半分だけ。左半分は髪が生えていない。それどころか、火傷痕と思われる、ひどくただれた肌が露出していた。頭から、皮の仮面で隠された顔へ、その傷痕は続いている。仮面で傷跡を隠しているのは明白だった。
「ユクド、あなたの幸せを願っています」
「うん…じゃなくて、はい、トルム」
少年は泣くのを堪え、トルムを見送る為に自身の新しい両親の横に立った。
「それでは、私はここで失礼いたします」
「馬車でお帰りでは?」
「久しぶりの帝都ですので、少し買い物でもして帰ります」
「道中、お気を付けくださいませ」
「ありがとうございます」
再びフードを深く被って、歩いて門へ向かい、一度だけ振り返った青年へ少年は大きく手を振った。青年はちょっとだけ手を振り返し去って行った。少年が寂しさに俯くと、大きな手が頭に触れた。
「トルム様は優しい方だ。あれだけ優しい方でありながら、恐ろしい方でもある。あの若さで、帝国一の妖術師の一番弟子であり、戦場では敵兵を数多く倒した英雄だ」
少年は頷く。
「トルム、様は、僕を助けてくれました。僕の村が敵に襲われて、トルム様が助けてくれました」
「そうだ。ユクド、その事を決して忘れてはいけないよ」
「はい」
堪えていた涙が、少年の頬を伝った。
緑色のローブは、皇帝に認められた妖術師のみが着る事を許された物である。その為に、歩いているだけで人目を引いた。その上フードで隠れた顔左半分が皮の仮面に覆われているとなれば、その男が誰なのか、知らない者は帝国内にはいなかった。
「もしや、狼の妖術師様ではないでしょか?」
見知らぬ若い男に声をかけられた。腰を見ると帯刀している。身に着けている軍服の色は黒。それは騎士である事を意味している。
小さく頷くと、
「やはりそうでしたか。お会いできて光栄です」
騎士の言葉を聞きつけ、人が集まりだす。
「狼の妖術師だって?」
「あの妖術師!?」
「去年あった隣国パドアとの戦いで、一人で一個大隊を全滅させた、あの妖術師か?」
「四大精霊を操って、自分自身は狼の姿になるんだろう?」
「そもそも、狼に育てられたんだよな?」
「それはさ、赤子の時に戦争に巻き込まれて大けがを負ったトルム様を、それを助けた大妖術師エレク様が怪我が治るまで狼の姿に変えて、狼の群れの中で育てたのさ」
「どうしてそんな事を?」
「体を変身させると、元の体に負った痛みを感じないらしいよ。怪我が酷すぎて、赤子には耐えられないだろうっていうエレク様の優しさだよ」
「エレク様ってさ、いくつもの戦場でたくさんの人を助けて、孤児を育てている偉い方だよね」
「そうだよ。この帝国一の妖術師でありながら、おごらず、人びとを助けてくださっているんだ」
「トルム様は、そのエレク様の一番弟子!」
大勢の人に囲まれて、トルムは、
(さて、どうしたものか)
と悩んだ。
ユクドを里親に託す為、妖術師としての正装である緑色のローブ姿だったのだが、こうも騒ぎになるとは思わなかった。昨年参加した敵国パドアとの戦い以降、帝都を訪れたのは一回だけであり、その一回も、戦勝記念の祝いの席に出席する為だったので、自分の名前や経歴がここまで帝都に知れ渡っているとは想像していなかった。
「………皆様、私は買い物の途中ですので、失礼いたします」
小さい路地に逃げ込み物陰に隠れた。指先で四大精霊のうち風の『紋』空中に描く。その紋へ息を吹きかけると、地面から風の渦が巻き上がり体を包むと、一瞬でトルムの姿は茶褐色の髪と目の老人に変わった。服装も違う。
最初に声をかけてきた騎士が、自分を追って路地に入ってきた。
「こちらへ妖術師様が来ませんでしたか?」
騎士の問いかけに、
「向こうへ走って行かれました」
と路地の先を指差した。
騎士は丁寧に老人となったトルムへ礼を言い走って行った。嘘をついた事が多少後ろめたく、トルムは騎士の背に頭を下げた。
こうなると、老人の姿で買い物をした方がよさそうだった。路地を抜け、大通りに出ると、石畳の上を馬車や馬がたくさん行き交っている。
大通り沿いに東へ向かうと、高い塔が見えてきた。帝都の中心に設置されている時計塔である。そしてその先の向こうに、皇帝が住む宮殿がある。
昨年、師匠と共に招かれた事を思い出す。さすがは帝国の宮殿、目を奪われる素晴らしい建造物だった。七階建ての本宮を中心に、東西南北に離宮が八つ、すべて白大理石で作られている。帝国内のほとんどはレンガ作りが多いゆえ、宮殿の美しさは際立っていた。
外観だけでも見ようと近づくと、夕日に照らされ、白亜の宮殿は赤く染まっていた。美しい。見とれていると、老人姿のトルムに気づいた宮殿警護兵が近づいてきた。
「何かご用件でもおありですか?」
「いえ、久しぶりに帝都へ来たので、宮殿を見に来ました」
「どちらから帝都へ? 観光ですか?」
「商人のアリカスロ様に会いに参りました。住まいは十一都です」
「十一都だと、馬車で三計ぐらいですね。今日は帝都に宿泊のご予定ですか?」
「今日中に十一都に戻るつもりです」
「それなら急いだ方がいい。街道で盗賊団と警備隊の一戦があり、今日は各都の門をあと二計後に閉門するよう指示がありました。帝都の大門も同様です」
平時は行き交う商人たちの多さに、帝国中の城壁都市は常に門が開かれている。
「本当ですか? 知らなかった」
「もし帝都に宿泊するのであれば、急いで宿を探した方がいいですよ。最近は敵国との戦いで勝利した事もあり、外国から訪れる方が多く、宿も取りにくいですから」
買い物もまだ終わっていないので泊まる事にし、親切な兵士に礼を述べて宿街へ向かったものの、宿はのきなみ満室だった。
「困ったな」
帝都に居る知り合いは限られている。ユクドの居るアリカスロ邸を訪問するのは気が引けるし、そうなると頼れそうな人物は一人しかいなかった。
日が暮れた宮殿に老人姿のトルムが再び訪れると、先ほどの警護兵が、
「どうしました?」
「あなたが教えてくれたように、宿も一杯でした。それで知人を頼ろうと思いまして」
「知人? 宮殿に?」
「ええ。お手数ですが、侍従長のモウトーリ様に」
トルムは言いながら指で風紋を空中に描き、風の渦を起こした。老人が消えて兵士の目の前に現れたのは、緑色のローブ姿の青年。
「妖術師トルムが来たと、お伝えいただけますでしょうか?」
警護兵は目を見開き、「わ、わかりました」と言いながら宮殿の中へ駈け込んでいった。
そう待たずに、宮殿内へ通されたトルムは、本宮より北の方向に位置する離宮へ案内された。
「おお、トルム。久しぶりだな」
侍従長モウトーリは、自室でトルムを迎えてくれた。齢五十を超えているモウトーリは、代々侍従を務める家の出であり、現皇帝が即位した時から侍従長の任についている。そして、
「エレクも一緒か? なんだ、一緒ではないのか」トルムの師匠と旧知の仲であり、その流れでトルムとも知り合いであった。
トルムはフードを取り、頭を下げた。
「モウトーリ様、突然お伺いいたしまして、申し訳ございません」
「訪ねてきてくれて嬉しい。エレクから話を聞いて、わざわざ来てくれたのであろう?」
「いえ、別に、師匠からは何も聞いておりませんが」
用事があって帝都を訪れ、今日中に帰途につけなくなった事と、宿が取れなくなったのでモウトーリを頼ってきた事を告げると、モウトーリはトルムに席を勧めた。遠慮なく腰を下ろす。
「そうか、エレクからは何も聞いていないか。しかし、こうしてそなたが訪れたのは、何かの縁があっての事だと思う。エレクは反対したが、トルムに頼みがあるのだ」
「頼みですか? 私に?」
「ああ。トルムは昨年ここで行われた戦勝記念祝賀会で拝顔された、皇太子殿下を覚えているか?」
「もちろんです」
と言いながらも、実際は遠目に見ただけではっきりと顔を覚えている訳ではなかった。
「皇太子殿下は、御年十三になられる」
「成人まであと四年ですね」
「ああそうだ」
そこでモウトーリは話をを区切り、
「殿下も年頃であり、それなりに異性に興味を持たれるようになった」
「それはそうでしょう。健康な男子なら当然の事です」
「そなたは、相手はおるのか?」
「このような姿の男に近づく女性はいませんよ」
皮の仮面を自分で指差すと、モウトーリは、
「すまぬ、余計な事を聞いた」
「いいのです。それで、殿下がどうされました?」
「うむ………殿下のお立場上、下手に異性に手を出されては困る事態になるのは、そなたも想像がつくであろう?」
「そうですね。殿下は現皇帝陛下の一人息子であり、次の皇帝陛下になられる方です。いずれ皇帝になられ、しかるべき姫君を皇妃として迎えられるでしょう。その前に、異性とのいざこざがあっては国の一大事となりましょう」
皇太子は皇帝位に就くまで皇妃を迎える事ができない決まりだ。
「トルムはよく理解している。それでだ。私は、今まではどのように対処してきたのか、先代の侍従長に尋ねた」
モウトーリは一つ咳払いをし、声を潜め、
「これまでの歴代の皇帝陛下方は、皇太子時代から即位され皇妃を迎えられるまでの期間、側室を持っていたのだ」
トルムは驚いた。帝国の皇帝、また皇太子は、側室を持ってはいけない定めとなっている。
つまりは、皇太子は皇帝になるまで異性との関わりを持ってはいけないのだ。
「あくまでも極秘、そして期間は皇妃をお迎えするまでであり、また側室となる者には何も権限が与えられない事となっている」
「それはそうでしょう。しかし、側室が子を宿した場合はどうなるのですか?」
「先代の侍従長の話では、産ませなかったようだ」
「………」
トルムは眉をひそめた。師匠と共に、戦災孤児を育てている者として、子を殺めるような話は聞きたくなかった。
「それは、いい話ではありませんね」
「私もそう思う。しかし健康な女であれば、子は宿す確率は高い。かと言って、健康でない女を側室とするわけにもいかない」
トルムもそれには同意できる。
「思案している中で、私はある手段を思いついた。それをエレクに相談した」
「モウトーリ様、私はそのお話を聞かない方がよろしいかと思います」
無礼とわかっていつつ、モウトーリの言葉を遮った。ここまでの話から推測する、モウトーリがトルムに頼みたい事が想像できたからだ。
「いや、聞いてほしい」
「嫌です」
「トルム」
「嫌です。絶対嫌です」
「話だけでも聞いてくれ」
「お話を聞いて、私はそれを断れるのでしょうか?」
「………いや」
モウトーリは首を横に振り、
「聞いたからには、受けてもらう事になる」
「では絶対聞きません」
「もうわかっておるのだろう?」
「いいえ。まったく見当つきません」
「そなたは勘が鋭い。頭もいい。さすがエレクの一番弟子」
「おだてても受けません。聞きません。師匠が反対したのであれば、私が受ける事は出来ません」
「エレクとそなたは違うだろう。そなたもこの案がいいと理解できるであろう?」
トルムは黙って俯いた。確かに、自分がモウトーリの立場であれば考え付く案ではある。だからと言って受託できるものではない。
「そんな面倒な策を練るぐらいなら、いっそ側室を認めてしまえばいいではないですか」
「帝国千年の歴史の中で、側室、外戚、庶子が起こしたもめごとがどれほどあったか知っているだろう。禁忌たるはゆえんがある」
「それは知っておりますが、モウトーリ様、お願いです。私にそんな事を頼まないでください。いえ、あなたから言われてしまえば、それは命令です。私は受けるしかない。それは嫌です。無理です。出来ません」
「狼の妖術師よ。出来ないなどと、情けない事を言うではないぞ。そなたはこの帝国で師匠であるエレクの次に優れた妖術師。そなた以外で誰が出来る? エレクにさせるのか?」
「師匠に皇太子の相手をしろと言うのですか?」
「だから、そなたに頼むのだ。トルムよ。女の姿となって、皇太子のお相手をしてほしい。側室となれ。何も殿下が即位されるまでとは言わん。成人されるまでの四年間だけでいい」
トルムは頭を抱えた。言われてしまった。聞いてしまった。もう断れない。
「酷い方だ、あなたは」
「わかっている。出来るだけ、そなたの負担を減らすよう協力をしよう」
「協力とは?」
「十一都では殿下の元へ通うのに時間がかかりすぎる。帝都に邸宅を用意しよう」
「私は子供たちの世話をしなければなりません」
「子供たちも帝都へ呼び寄せよ。それぐらいの家は用意できる。子供たちも帝都で教育を受けた方が後々いいだろう」
「私は来月からまた戦場へ向かうよう、召集がかかっています」
「それはこちらで調整する。当面は戦に行く必要はない。表向きには、宮殿付き術者の師範としてそなたを宮殿に迎える事とする」
「私は妖術師として敵国と戦う任務があります」
「殿下のお相手を務める事も、充分お国の為だ」
トルムは大きくため息を吐いた。
「せめて、心の準備をさせてください」
「わかった。今日はこの北の宮に部屋を用意してある。ゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます」
トルムの声は疲れていた。
北の宮は、宮殿に努める者たちが多く住んでいる。トルムを部屋に案内した侍従も、すぐ側の部屋に住んでいると言っていた。
ランプに照らされた部屋は狭くも広くもなかったが、小さいながらも風呂や手洗い所が付いていた。
(風呂に入って、休もう)
考えるのはそれからだ。
宮殿内の風呂は、配管を通していつでもお湯が出る様になっている。昨年訪れた時その事を知り、風呂好きとしては嬉しかった。
ローブと肌着を脱ぎ、最後に仮面を取った。風呂場の鏡に映る己の顔は、我ながら気味が悪い。赤子の時、戦火に巻き込まれ負った傷跡だ。助けてくれたのは師匠であるエレクである。
トルムが生まれたのは、城壁の外にある国境近くの小さい村らしい。両親は居ただろう。兄弟も居たかもしれない。けれど、赤子だった自分は全く記憶がなかった。
トルムに残る一番古い記憶は、狼の群れの中での生活である。父狼と母狼は、群れの族長だった。兄狼は、動きが遅いトルムの面倒をよく見てくれた。ウサギの取り方、鹿の襲い方を教えてくれた。
トルムはずっと、自分が狼だと思っていたのだ。
ある日、時折森へ来ていたエレクが、トルムを人間に変えた。正しくは元の姿に戻しただけなのだが、突然姿が変わり、激しく動揺したのを覚えている。
母狼に毛繕いされていた灰色の毛皮が無くなり、白い肌が露出していた。
父狼のように早く走れるよう、森の中を駆け回った四本足は、二本足で歩かなければならなくなった。
兄狼をまねて獲物に食らいついた牙も無くなった。
そして、初めて見る鏡に映った人間の自分は、それはそれは醜い傷跡が残っていた。
顔の左半分、ただれて崩れていた。頭には髪も生えておらず、あちこち肌が黒ずんでいた。あまりな姿に、悲鳴を上げた。泣き叫んだ。訳がわからず、森の中を裸で彷徨った。
そんなトルムを、命の恩人でもあるエレクは、時間をかけゆっくりゆっくり育ててくれた。
妖術師として見込みがあるとわかると、惜しみなく指導してくれた。
そんな師匠の気持ちに応えるべく、トルムは一生懸命学び、師匠の一番弟子となると、
十七で成人した直後、戦場に立ったのである。
目的は、自分の故郷を、家族を奪った敵国を倒す事だった。
トルムは戦場に飛び出るなり、姿を狼に変え、敵兵の喉元に食らいついた。続けざまに、火の精霊を使って炎を上げ、風の精霊を操り敵兵を焼き払った。その後、立てつづけに三度戦場に出て戦った。
トルムの戦場での活躍は、吟遊詩人がこぞって歌にしたらしく、帝国中に知れ渡った。
今では、トルムの事を皆『狼の妖術師』と呼ぶ。
「そんな男が、皇太子の側室か」
鏡に映る己の姿に、トルムは皇太子に対して憐れみを覚えた。いくら女に姿を変えようとも、元はこんな醜い傷跡のある男である。知らずに抱く事になる皇太子が哀れだった。
もっとも、女の柔肌を知らずに、皇太子に抱かれるはめになった自分の方が可哀そうだと思う。
柔肌どころか、恋愛経験すらない、色欲とは縁のない人生だったのだ。
(そんな私に、側室など務まるのだろうか)
一応、男と女の交わり方は知っているが、知っていて出来るものだろうかと不安になる。まして、皇太子も経験がないのだ。
とんでもない事になってしまったと、トルムは大きな大きな溜息を吐いた。