俺たちはやってない
◆俺達はやってない
「たくさんお菓子買っちゃったね」
「帰ったらスマブラな。おれフォックス使うから」
「じゃあたしカービィ!」
小学4年生の夏。
その日の出来事を、わたしは生涯忘れないだろう。
「爺ちゃんにもらった小遣い、もう無くなっちゃいそお」
首にかけた財布から、ちゃりんちゃりんと小銭の跳ねる音がした。
「おまえ、使いすぎなんだよ」
「なんで兄ちゃんはそんなにいっぱいお金もってるの?」
「ん、内緒」
「……知ってるよ、お母さんのお金でしょ?」
「違うし!」
「兄ちゃんが財布からお金盗ってるの、みたもん」
「あーうるさいうるさい」
兄ちゃんは私から逃げるように小道を駆け出した。
ひまわり畑のみえる森のほうから、せみの声が聴こえてくる。
「待ってよ、兄ちゃん」
「追いついてこれないだろ!」
もすうぐ中学生を迎えるお兄ちゃんの駆け足はあまりにも速い。少しずつ大人の体に成長しているんだな、と感じた。
「おせーよ、急げ!」
カンカンと騒ぎ立てる線路の踏み切りの向こうで、兄ちゃんが手を招く。
「早く!」
「……待って、サンダルが」
ついに遮断機が降りてしまう。
「はあ、はあ」
肩で息をしながら、二つの棒の奥にいるお兄ちゃんの姿をみた。
大きなマンションのある方から、電車がゆっくりと近づいてきた。
地面の砂が跳ねて、それからあっという間に兄ちゃんとわたしの間に壁を作った。ぶんなぐるような風がわたしの前髪を持ち上げて、はっと呼吸を止めてしまう。
「……」
時間が止まったように感じられた。
息を取り戻すみたいに、警報音がやんで、遮断機が上がった。
「先にいかないでよ、もうー」
その場に立ち尽くす兄ちゃんの表情は、呆気に取られていた。
思えば、電車が目の前を通り過ぎる光景なんて、何度も見てきたはずだったのに。
「いこっ」
「なあ……」
鉄板の上みたいに熱いコンクリートの上を、蟻の列がちょこちょこと歩いていた。
「おもしろいこと思いついちゃった」
「えっ、どこいくの?」
踵を返したお兄ちゃん。蟻の列を踏んづけて、草むらの中から大きな石を拾い上げる。
「これをさ…」
「そんな石どうするの?」
父ちゃんの皮の剥けた足よりも、兄ちゃんの丸い顔よりも、一回り大きい石だ。
「あっ……」
気付いてしまう。
兄ちゃんがイタズラをするときの、いつもの笑みだ。目をキラキラさせながら、口元を少しつりあげて、そして線路の上に置いた。
「さあて、どうなるかなあ」
「……」
そんなことをしたらいけないって分かっているはずなのに、ほんの好奇心もあったせいかこのときわたしは何も注意できなかった。
「ねえ、早く行こうよお」
「ちょっと待ってって。少しだけ見てようよ」
手を引っ張っても、兄ちゃんはその場にしゃがみ込んだまま動こうとしなかった。
嫌な予感がした。
「もうっ、先帰るから。砂かけババアに怒られても知らないよ」
砂かけババアというのは、すぐそこの畑の民家に住んでる怖い顔をした叔母さんのことだ。兄ちゃんがいつも畑にイタズラをして怒鳴られているところを、保育園のときからよく憶えている。
「ほら、もうすぐ電車がくるよ」
警報音が鳴り出して、すぐに遮断機が降りた。
「ばいばい」
急に怖くなって、お菓子の袋をぎゅっと掴んで、兄ちゃんに背を向けて歩き出した。
兄ちゃんの白いシャツと一緒に、振り返り際にみた、入道雲が今も目に焼きついている。
夏の暑さに歓喜するようなせみの大合唱。
ゾウの鳴き声みたいな電車の警笛が、その中でたしかに鳴り響いた。
「あっ」
ボコン、という音がしたと思う。
わたしが振り向いたときには、一番前の車両がフェンスを突き破っていた。
捻じれるようにして半回転しながら、少しだけ上に浮いて、わたしのいる場所に大きな影を作った。
そのとき長四角の窓に見えた人たちが、箱の中のおもちゃを揺するみたいに、バラバラに宙を舞っていた。
「……」
工場が爆発したみたいな、大きな音。
ものすごい土煙。
そこで初めて、わたしは地面にお菓子の袋を落としていたことに気付く。
煙の奥でうっすらと見えたのは、丸まった蛇みたいな、巨大な鉄の塊だった。
車輪を空にして逆さまになった電車はぐちゃぐちゃにへこんでいる。
砕け散った窓ガラスに、血まみれの女の人が、ぶらさがっていた。
ただ、とんでもないことをしてしまったんだ、という恐怖が背筋から頭の裏まで伝わる。
そして、肩を震わせながら、お兄ちゃんが言い放った。
「おれ達は、やってない……」