蒼身の勇者――2章 思考と記憶 黒い眼――
嘗てロキの長子、白い巨大な狼によって失われた神の腕。
長い時を越え、小さな村の片腕を失った戦士、ガルム。
村に訪れた旅の男によってもたらされた神の腕の話。
彼は、考え、行動する。
自らに腕を取り戻すために……惨殺を経て凍海の主、ヨルムガンドを倒す。
そうして彼は、ニブルヘイムの女王に誘われ死者の国を訪れた。
そして更に時は流れる。
フヨルス :岩山の頂に城を構える。タテガミのように見事な赤い髪と、大きな体躯を誇っている城の主。
ガルム :その右腕は藍宝石の蒼に染まり、金の粒子が煌めいている。
何処から現れ、何処を目指すのか、謎に包まれた男である。
ガルム(戦士)と云う名は真の名ではなく、真の名は誰も知らない。
長身細身ではあるが、鍛えぬかれ、引き締まった体躯である。
黒髪に金とも見まごう琥珀の瞳をしている。
目的のためには手段を選ばない。
重く凍える極寒の空。
翼を広げ滑空する一羽の鴉。
風に乗り右へ左へと揺れながら、岩山を飛ぶ。
頂に聳え立つ巨大な石城。
漆黒の鴉は、一度二度小さく旋回すると、城へ向かい真っ直ぐに飛んだ。
古びた城壁には、陰鬱とした影が染み込み、その塔は天を突き刺す矛を思わせる。
容易く開く筈のない堅固な門は開け放たれ、城内へとまるで目印のように点々と赤黒い何かが転がっている。
それは……
最早以前何であったかと予想すらできぬ…肉塊、肉片……臓物であった……。
振る舞われたかのような肉と血の臭いに見向きもせず、鴉は奥へと入ってゆく。
そして大広間に人影を見つけると、ひっそりと大天井の太い梁に止まり、黒真珠のようなその目を凝らした。
暫くじっと見つめていると、入り口の扉の影より、一人の男が姿を現す。
靭やかに引き締まった身体は鉄の鎧に包まれ、暗い影の闇と見紛う漆黒のマントに身を包んでいる。
広間の奥、玉座に座する燃え立つような赤毛の大男が、ゆっくりと立ち上がり、まず先に声を響かせた。
「それで……?」
深く静かでありながら、重くのしかかるような其の問いかけに、尋ねられた男は押し黙ったままフードの闇に其の顔を現そうともしない。
玉座の男は、応えぬ男に苛立つ様子も見せず再び静かに問いかける。
「何のようだ」
すると
――呟くようにようやっと声を出す。
だがそれは、問われて答えた風でもなく……。
「命は……」くぐもって聞こえぬ声。
来訪者のフードの男は繰り返す。少しだけ上げた頭が、隠れていた下顎をチラと見せる。
「命は…惜しいか」其の物言いに、玉座の男の太い片眉が少しだけ上がった。
だが其れも一瞬のこと、直ぐに口端を歪ませると、両の眉尻を下げ、屈託の無い笑顔を、無礼な小さき来訪者へと向ける。
「っくっくっく……。新手の道化か……随分と愉快な売り込みをする奴だ」
突然訪れたフードの男。
此の城の主、赤毛の大男の座る玉座は決して孤独なものなどでは無かった。
此の大男の、度量、技量に集まるもの百数名。
いずれも名を轟かせた荒くれ者であった。
彼らが此の突然の無礼な来訪を許すはずもなく、直ぐ様上がる怒号。
そして驚愕の声と叫び。玉座の有る大広間に、こうして来訪者がたどり着いているのであれば、今、城中に漂う血の臭い、そして、至る所に散らばる肉片や臓物は、夜毎酒を酌み交わし、共に戦場を駆けた同胞のものに違いなかった。
浮かぶのは、血飛沫を浴びながら背を合わせ、襲い来る鉄斧をかい潜った、顔。
敵刃に倒れながらも、同胞の勝利を喜び死んでいった顔。
戦を生き抜き、宴に綻ぶ戦士たちの顔。
彼等に囲まれ、天を仰ぎ笑う己の顔。玉座は、彼等の勇姿の上に有った。
かけがえの無い仲間。
大男のクヌギの実の様な瞳の奥に、ユラリと何かが動いてみえた。
だが其れもホンの少し、数秒の事。
丸太程も有る太い肘をつき、其のがっしりとした顎を預け頬杖をつく大男。
今こそたった一人の王となってしまった大男は、変わらずに静かに語りかける。
「歓迎は…受けたようだな」
其の言葉に、フードの来訪者が微かに嗤う。
「愉しかったか……それは何より」
「惜しいと見える……」
見えずとも解る其の嘲笑に、流石の大男も苛立ちを覚える。
「……どうした、俺が恐ろしいか…そんな所で闇に紛れ、隠れておらず出てくるがいい」
「命乞いをしてミロヨ」
「ナンダト」
静かなクヌギの瞳に力が籠もる。
「キサマの手下の使えなさは、何かの冗談か」
「卑小な塵屑が、キサマ、何を持っている」
チリリとした刺を含む其の言葉に、フードの奥よりクククと嘲笑い声が漏れてくる。
「最早城に誰の気配もない……血肉の臭いが城中に立ち込めている。だがキサマ…キサマはなぜか、返り血一つ浴びてはおらん」
「フィヨルス……預けたモノを取りに来た」
変わらずに玉座に腰掛けながら、大男は名を呼ばれたことに驚くこともない。
何故なら、彼の名を知らぬ者が城を訪れ、殺戮を犯す筈もない。
だが、「返せ」と言われてフヨルスは戸惑う。
「預けたモノ……?」
「そうだ。アレは俺のモノだ。返してもらおう」
「何の事だ」
「アレだ……俺の妻がキサマに預けたアノ……」
「お前の……妻だと」
「そうだ。……返せ」
「……ああ、いかん。久方ぶりの来訪者に、楽しい会話を期待するのは過ぎた望みだと云うのか……」
大男の身体から、威圧をもった気が膨らむ。
「キサマの物言いは、苛つくだけだ。つまらん」
「……そうか」
「遠回しで鬱陶しい。一体何だ。妻がどうの、貸した返せと……。解るように言ってみろ……ただし……次の言葉に気をつけろよ。俺の城を血まみれに塗り替えた。その理由を、心して口にするんだな」
城の主がそう言うと、城全体がピシリと鞭を打ったように気を引き締めた。
鴉は、辺りの冷気が薄っすらと和らぎ始めた事に気づく。
そして、黒く艶やかな首を伸ばし、入り口の男の表情を窺い見る。
入り口に立つ無れいな来訪者。謎解きのように語り、山ほどの死骸を築き上げ此処に立つ。
今は其の顔をまっすぐに玉座に向けているが、惜しくも其の顔も表情も、鴉は窺い見ることが出来なかった。
男は冷ややかに語る。
「俺のたった一人の女は……冥界を総ている」
「……冥界……? ニブルヘイムか……?」
「そうだ」
ニブルヘイム。戦場以外で死んだ者が辿り着く黄泉の国。
其処を統べる女をフィヨルスは知っている。
知らぬ者など居ない。
「さあ、返せ。それは俺のものだ」
「っふ、ふっはっはっは……これはまた……大きくでたな。俺の記憶が間違っていなければ、古より冥界を統べる女はただ一人…」と彼が其の名を呼ぶ前に
「ヘル」と男が答えた。今までに無くはっきりと大きな声で。
「ふっはははははっ、わはははは、いやいや、これは愉快! ヘルを、あの女を妻としたと!? それはなんとも、いやはや失礼した。キサマは実に愉快な男だ! 百年振りに片腹が痛くなる程、愉快でならん」
ヘルは悪神ロキの末娘。世に生まれ落ちた其の時に余りの醜さに我が子に思わず醜いと口走ったと伝えられる。
流れる毛並みの美しさを誇る長子である巨大な狼、海原を我が庭とする巨大な蛇である次子。兄弟である彼等にさえ、蔑まれ其の身を隠すように冥界を総ているという醜女と。
城中に響き渡るフヨルスの嘲笑。
だが、梁に潜む鴉は、一層その黒羽根がチリチリと焼けつくように感じた。
そうして玉座の男フィヨルスの豊かな赤い髪が、毛先の方から更に赤黒く変わってゆく。
それはまるで、火口より流れ落ちる溶岩。
朱色の流れに、時折煌めく白光が弾けている。
「そうか……愉しそうだな。キサマは、死んで何処へゆくのか。それを考えれば、俺の片腹もくすぐられるようだ……! フヨルスビーズルよ」
「むぅ……」
名を呼ばれる。真の名を。
神々の息吹及ぶこの時代。其れが如何程の力を及ぼすか……。
今、正にフィヨルスは名を呼ばれた。フィヨルスビーズルと。
名は声となって、力を得、フィヨルスの仮初の姿を爆散させ、真の姿を呼び覚ます。
地の底より響く、唸り声とともに……。
「ぬおおおおおおおおおおぉっ」
逞しく厳つい大男は、玉座から立ち上がり天へと咆哮する。
豊かな赤毛は最早紅蓮と化し、その先から燃え上がる爆炎で彼の身体を包む。
その中心で黒々と炭となった巨体が次の瞬間崩れ落ち、血風霧散すると瞬く間に再び形を成してゆく。
もはや人とは思えぬ、その姿こそ……伝説の巨人フィヨルスビーズル。
樫で作られた堅固な梁に頭を抑えられ、背を丸めて己の真実の名を呼んだ男を……
…爛々と光るその大きな目で睨んでいる。
「窮屈そうだな」
「キサマ……何者だあああああっ」
「ふん、頭の悪いやつだ。何度も言っているだろう……? 俺の名はガルム、冥界の女王ヘルのただ一人の男だ!」
豪雷一声
巨人の声に負けず劣らぬ雄々しい雄叫び。
同時に振り上げたガルムと名乗る男の右腕は――
――藍宝石の蒼に染まり、宇宙に輝く星の如く、金色の煌めきを散りばめていた。
「キサマに授けた魔剣、返してもらうぞ!」ガルムが叫ぶ。
「なんだとおっ、キサマの狙いは――」もしやと云うその前に。
「レーヴァテインは俺のモノだ!!」一層猛く言い放つ。
ガルムは、掲げたその右手に一振りの剣を握っていた。
白金の鞘が神秘の白光を放つその剣。
「キサマ! どうしてソレを――!」
「魔剣、ダーインスレイヴ!!」
ガルムが高々と剣の名を叫ぶ。
同時に鴉が飛ぶ。
窓を突き破り、空へ!
何処までも。一刻も早く逃れなければと。
何から、何故? 答えは明らか、あの剣の名が叫ばれたのだ、一刻も早くここから遠ざからねば!
鴉は心臓が裂けんばかりの力で逃げ飛ぶ。
「おのれええええっ。まことヘルの差金であったか! 抜かせるものかっ面白いっこの俺が、鞘ごと叩き折ってくれるわ! 出でよ! 我が炎の剣、レーヴァテインよ!!」
燃え盛る炎の中より姿を現す、光を纏う一本の細枝。
フヨルスビーズルがその枝をがっしりと掴むと、驚く事にその姿を剣へと変える。
焔に包まれた伝説の魔剣。
―レーヴァテイン―。
巨人が一振り振るえば鞘から顕れ、その剣先に長く炎を吐き出した。
炎は轟々と音を立てながら、一直線に燃え盛り、辺りを焼き払う。
驚く早さで身をかわし飛び避けると、咄嗟にその身を漆黒のマントで包み護るガルム。
「ぐぅっ」
「がははははっ、他愛もない! そんなモノで、この紅蓮の業火が防げるものか!」
勝ち誇り、嘲る大男。だが、次に彼が目にするその光景は、予想だにしなかったガルムの無事な姿。
「……ぬおっ、ま、まさか!?」
紅蓮の業火を物ともしない。そんな事が有るものか。
だがしかし、たった一つ思い当たる。それは……。
「古代竜の革だ。女房のお手製さ」
「くそぉ……あの腐れ醜女があああ!」
行かれる巨人フィヨルスの怒号が、大地を揺るがす。
「おいおい、その侮辱、捨てては置けんなぁ。我が妻ほどに美しい女が、この世に居るものか」
目前に山ほどの巨人が、業火を吹く剣を振るおうとも、ガルムの声は冷徹に変わりがない。あくまで冷ややか。そして其の冷ややかさな物言いが、益々巨人の錨の炎を燃え上がらせる。
「ほざけっ。そのような薄皮一枚、何時まで防げるものか、試してみるかあっ」
怒声と共に再び巨人が大きく剣を振るう。
軽やかにソレを避けながら、ガルムは思考する。
そう、琥珀に輝く瞳の奥で、知を巡らす勇者。
彼こそが、冥界の女王ヘルの夫にして、覇王、ガルムである。
「遅い!」飛び、身を翻す俊足のガルム。
「燃えろおおおお!」
燃え上がる豪炎を纏う剣が右へ左へと大きく振るわれる。
直接に触れぬとも、熱気が彼をジリジリと追い詰める。
『竜の皮とて、この業炎……防げるのは先ほどの一度限り……奴の動きが遅くとも、怒りとともに炎の幅が広がってゆく……なんとか、鞘を抜けぬものか……』
その時、遙か上空より突き進み、矢の如く急降下する黒い光が有った。
光は真っ直ぐに巨人へと向かい、炎を物ともせずにその耳を食いちぎった。
いかに強靭な肉体を持とうとも、突然無防備な耳を噛みちぎられた激痛に、巨人が叫ぶ。
「がはっ、ぐおおおお! なにぃぃぃい!」
一瞬の出来事に、巨人の繰り出す炎の波が揺らぐ。
「よしっ」
ガルムは其の一瞬の隙を天啓と即座に鞘を抜き、剣をかざす。
「ぬおおおおっ耳が、耳がああああ」
一瞬の血飛沫で収まらず、ドクドクと流れる大量の血に塗れながら、其の耳にがっしりと手を当ててガルムを目で探す巨人は、其の瞬間、戦慄する。
高らかに声を上げ、ガルムは余に知らぬ者のない無敵の巨人、フィヨルズビールズへ終焉の宣告をする。
「剣は放たれた! 魔剣よ、巨人の血を吸い尽くせ!!」
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!」
青白く光り姿を現す魔剣、ダーインスレイヴ。
鞘より抜かれしその時は、必ず誰かを死に追いやる。
その一閃は的を過たず、また決して癒えぬ傷を残すのだ。
石城に巨人の叫びが響き渡り、そして又、静まるまでにさしたる時間は掛からなかった。
たっぷりとその身に生き血を注ぎ、吸い尽くした魔剣が、煌めく光を帯びて鞘へと戻る。
辺りには、肉塊とおびただしい血飛沫の跡。
主を亡くし、ひっそりと炎を収めるもう一つの魔剣レーヴァテイン。
ガルムがゆっくりと近づきその手に握ると、一瞬彼の蒼い右腕に散りばめられた、金の結晶が光り輝いた。
城外。
何事も無かったかの様に一人城を出てゆく男。
その名はガルム。
漆黒の鎧、暗黒の革を纏うその右腕は、藍宝石の蒼に染まっている。
彼のゆく道の遙か上空には、一羽の鴉が静かに滑空する。
その鴉の瞳も又……藍方石の蒼に、染まっていた……。
いかがでしょう。
ニブルヘルムでの経緯は、此の後の話の中でおいおい知れることでしょう。
楽しんでいただけたら幸いです。