藍方石(アウライト)の女神
こちらは台本を小説に書いたものです。
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【ガルム】
隻腕の男。 漁師の家に生まれるが、其れを嫌い戦場へ。
歴戦の戦士ながらも、右腕の肘の付け根からを魔獣ヨルムンガンドに喰いちぎられる。
失った右腕を取り戻すために、軍神トュールのフェンリスに喰いちぎられた右腕を探すたびの男を惨殺しそのありかを聞き出す。
そのありかはフェンリスの妹ヘルの治める死者の国であった。
入り口は魔獣ヨルムンガンドの目玉の奥。
魔獣を旅人から奪った魔剣によって倒し、ガルムは独り死者の国へと向かうのであった。
【ヘル】
悪神ロキの三人の子供の末娘。
その半身は蒼く染まり、醜い要望をしていると伝承されている。
其の闇は、何処まで続くのか――。
「俺は……夢を視ているのか」
魔獣ヨルムンガルド。
悪神ロキの子であるその強大な海蛇を倒したガルム。
蛇の眼の中に視得た死の国を目指して洞窟のようなその中に足を踏み入れ随分と歩いたはず、だが目前に有る光景は、なんら変わらぬ。
どれほど目を凝らそうとも、慣れる事の無いその闇の中でうっすらと、だが確かに香る一筋の花の香り。
「居る……俺以外の何かが。微かに香るこの匂い。フリージアか……?」
何者かの気配が、ガルムの身体に緊張を走らせる。
隻腕の戦士ガルム。
その背に携えるは、魔剣ダーインスレイヴ。
其れは一度その刀身を現せば、紅く染まるほど血を屠らねば決して鞘に戻らぬというこの魔剣。
魔獣といえど神の子ヨルムンガンドをも凌駕した。
「恐れるな、俺よ。たとえ死の国への道を歩もうとも、生きて地上に帰るのだ」
何人も、生あるモノが踏み入ることが無いであろうヨルムンガンドの眼より続く道。
光の無い暗闇を進む恐怖は、歴戦の戦士ガルムにも襲い掛かる。
自らを奮い立たせるべく呟いたその言葉に、闇の中より静かに囁く女の声がガルムの耳をくすぐった。
声は語る。ゆっくりと冷たく。
声は耳よりガルムの体内へと滑り込む。
それは氷土に吹く風さながらに戦士の心を凍らせる。
「死の国へと続く道を歩みながら、生有る者達の国へ戻ると云うのか」
香っている甘い香りとは裏腹に体の奥底までに薄氷の滑る様に入り込んでくる声。
「何者じゃ」
螺旋を描きながら体内を探り、問いかける其の声にガルムは、失い、其処にあろう筈も無い右腕に力を込める。
「死の国へと続く道は無数に有る。だが今そなたが進む道、それが何処より進んだ道か知っておるぞ」
凍えそうな唇を強く引き締め、悠然と、高貴な雪豹のように優雅に、応えるガルム。
「いかにそなたの声が我が身を凍えさそうとも、恐れるものか死の女王よ。姿を現せ、俺は、地上に居らぬ女をこの胸に抱きにきたのだ」
辺りの闇がゆらりと動く。
ガルムの言葉を嘲笑うかの如くに。
だが其の声音に先程までの冷たさが薄れたことをガルムは敏感に感じ取る。
「人の子よ。そなたの戯言は十分に妾を楽しませた。あの尊大な兄がこのような愚か者に滅せられたのかと思えば、尚更に愉快じゃ」
「ヨルムンガンドを兄と呼ぶ、死者の主。ニブルヘイムの女王よ。地上では決して得られぬ女よ。我が物にする為に俺は手段を選ばない」
死の国の女王と呼ばれ、悪神ロキの末娘と恐れられたニブルヘイムを統べる女王。
其れをガルムは「女」と、我が物として胸に抱く「女」と呼ぶ。
闇に溶け込む其の魔の女神は氷に覆われた冷たい彼女の胸底に得体の知れぬ何かが生まれ始めることに恐れに近い憤りを感じた。
「まだ申すか痴れ者が。愚兄であっても兄は兄。そなた、妾が許すとでも思うておるか」
「女王よ、俺は許しを請うているか。願いは常に一つ。我が行いに一点の悔い無し。恨みも憎しみもどうでも良いことだ」
もう一度暗闇がゆらりと動くと、鉛色の明かりが薄くガルムを照らし出した。
焼けた土色の長い髪。精悍であっても端整な顔立ち。
薄明かりであろうとも突然の光に目を細めたが、再び虚空を見詰める双眸は琥珀の輝きを湛えている。
か
「琥珀の瞳を持つ男よ。名乗るが良い」
「目にすることも叶わぬうちに、名を与えるほど俺はお人よしでは無い。さぁ、地の底に棲まう女よ、姿を見せよ」
「妾に指図をするか」
「己の為に命を掛けて訪れた男の、云うことを聞け」
死者の国ニブルヘイム。
悪神とはいえ神の子でありながら、地底に住まうヘルは死者の国を統べるもの。
その心、決して冷酷ではあらずともその姿、半身を蒼く染め、目を覆うほどに醜いと伝わる。
ヘルの脳裏に甦る。
彼女を見る神々の目、兄達の嘲り、恐怖に満ちた死人たちの溜息。
「どうした、俺の女よ、何故応えぬのだ」
「もう良い……。もう飽いた。妾の気まぐれが消えぬうちに、この地を去れ」
「これは異な事を。二度と生ある者の国へと戻れぬのではなかったか」
「くどい男じゃ」
ガルムは、再び悠然と笑う。
何処から聞こえるのか見当もつかぬ声であるにも拘らず。
一点の闇を見詰め悠然と微笑む
「そなたの声は慈愛に満ちている」
「聞きとうない」
ガルムは確信していた。
神の力は計り知れぬ。
だが、今この女神は、ガルムの言葉を計りかねている。
先程からガルムの身の内で吹きすさんでいた冷たい冷風が、弱まり戸惑っているのだ。
女王は沸き起こる未知の衝動に戸惑い怯えていた。
『なんということだ。我が胸が早鐘の如くに鼓動を刻む。暗い地の底、冷たい死者に囲まれた日々。光に向ける事無く伏せ続けた顔は、影を滲み込ませ、悲しみに半身は蒼く染まった。卑小な人の子、あろうことか兄を殺めた海の匂いのするこの男。その言葉がこれ程までに我が心を揺るがそうとは……。知りたい……この男の名を知って支配したい。跪かせ、永劫、我が玉座に繋ぎ止めたい……』
「俺はそなたの名を知る者だヘルよ。そしてそなたを求めるもの。苦難を乗り越えた戦士の声に応えたまえ」
ガルムは心の内でほくそ笑む。
彼こそは智を巡らせて歩む者であった。
ガルムの本来の目的、其れはなにあろう、その身に再び右腕を取り戻す事。
其の為だけに、生涯に一度も口にしたことの無い「女」と云う生物への言葉を溢れる泉のように紡ぎだす。
闇は揺らぎながら彼に近づく。
そしてまた彼は確信する。
今其処に、彼の眼前に女神は存在して居るのだ。
一際大きく彼は叫ぶ。
「さぁ、ヘルよっ現れたまえ!」
「ああっ」
闇に伸ばされたガルムの左腕が、がっしりと其処に居たモノの腕を掴む。
力強く引き寄せられた其のモノこそ、死者の国の女王ヘルの腕であった。
「これは……」
掴まれたその腕は蒼に染まっていた。
身体をよじって顔を伏せる。
腕だけではなく半身を藍方石アウライトの蒼に染めた女神ヘラ。
ガルムの喉が音を立てて生唾を飲み込む。
思いもかけぬヘラの姿に、溜息と共に呟いた。
「なんと美しい」
女神は其の頬が焼けるように熱くなるのを感じた。
そして、まるでアポロンを拒むダフネのように、求愛される生娘の如くに小さく抗った。
「っ。おのれ、無礼者、放せ、放すのだっ」
腕を取られ抗いながら、女神の威厳を持ってガルムに顔を向ける。
半身すら蒼く染めながらも、煌く黄金の瞳は地に眠る金剛石よりも輝き、観るものを捕らえて放さない。
流れ、波打つ髪は燃える様に紅い。
形の良い唇も、品の良い胸の膨らみも、どれをとってもガルムが今まで出会ったどの女に、勝るとも劣らぬ。
神の血を持つ女とはこれ程までに美しかったかと、ガルムは一瞬、己の目的をも忘れるほどに目を奪われた。
「……美しい。そなた以上に我が目をひきつけた女は今までに居ない」
「……妾は醜い。一千億土の生きとし生けるモノ、いいや、神々や死者までもが知ろ事実。その甘言は命乞いか、神に触れたる恐れを知らぬ愚か者よ、呪われるがいいっ」
ヘルという女神は、己が姿を目にした事が無い。
生を受けたその時に、父神ロキが「醜い」と呟いた。
それが、世に広まり、伝承となった。
血を分けた兄達である、ヨルムンガンド、フェンリス達もこの妹神を嫌った。
彼女を取り巻く従者。
その者達がいかに伝承に異を唱えようとも、彼女は頑なに己の醜さを信じ、疑うことが無かったのである。
「今俺は呪われた。そなたの美しさを忘れることは無いだろう。俺は地上、天上、そして死者の国あらゆるものへの証言をしよう。この手に在る女神ヘルよ、そなたは美しい」
「黙れっ。……黙れ……。そなたの言葉は妾を傷つける。その手を離し、何処へなりと消えるがいい……」
「抗っているのはそなたの言葉だけ。その気になれば触れることすら叶わぬであろう神の子よ。こうして俺に腕を許したそなたはもう、俺の女になったのだ」
其の瞬間、女神の胸が熱く燃えた。
彼女の胸に花開いてしまった恋と云う名の紅蓮の花。
ニブルヘイムの女王ヘルは恋に堕ちた。
神の子である兄、魔獣ヨルムガンドを殺した男。
名も知れぬ、隻腕の戦士に。
「……物好きなことよ。あまたの地上の女、天上の女の中から、地に住まう我を得るために神の子を殺めるとは。妾は誰のモノにもならぬ。そなたこそが妾のモノになるがいい。さあ、我に名を告げよ。名も無き男に許す肌は無い」
「可愛いことだ。其れほどまでに俺の名を知りたかったか。今こそ、そなたに俺の名を与えよう」
「おお……」
女神は息を呑んで恋しい男の名を待ち受ける。
煌く黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ、ガルムは誠実な嘘をつく。
「受け取るが良い。俺の名は、イアリ」
「イアリ……戦士」
「今宵からお前を抱く者、生ある者イアリだ。さあ、共にそなたの褥へと参ろう」
「イアリ。求める者よ。死者の国へ誘おう」
名はその者の本質を表す。
真実の名を告げるということは、その身の全てを捧げるも同然のことであった。
ガルム、そしてヘルも同様にその名は真実の名では無い。
だが、彼はあえてその、【ガルム】という名さえも、死の国ニブルヘイムの女王ヘルに与えることをしなかったのである。