惨殺
こちらは台本を小説に書いたものです。
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外には風雪が吹きすさび、荒れ狂う波は何処までも飲み込もうと、繰り返し岩に打ちあたり続けている。
其処は海と共に暮らす小さな集落。
村の外れに住んでいる漁師ガルムと年老いた母の家。
貧しげな小屋の中。
蝋燭の火が揺れるテーブルに並べられた蜂蜜酒の壜は、向き合って座る二人の男がもうどれ程に酔っているかを語っている。
「う、ううむ……」
「さぁ、どうした。もっと飲め……夜はまだお前の話に耳をそばだてている」
「……そうだな……水を一杯飲みたいのだが」
「生憎と、汲み置きは尽きた」
「汲んで来てはくれまいか」
「俺の母は年寄りだ、それにもう休んでしまった。西の国の戦士は水が好きか、俺はまだ飲める。
どうしてもと言うのなら、汲みに行ってやらん事もないが。それではこの飲み比べ……負けを認めるのだな」
「なんの……此れほどの酒、俺の国では赤子であっても飲み干しているさ」
「宝飾に彩られた黄金のゴブレットに、上等な蜂蜜酒。極上の夜はお前に約束されている。さぁ」
促され、力強くゴブレットを掴むと、満たされている蜂蜜酒をあおる男は行きずりの旅人。
その姿を静かに見つめる男はこの家の主、ガルム。
森に棲む狼よりも豊かな鬣が如く、髪は黒と見まごう深い焦げ茶。
黄褐色の瞳は地の底に眠る琥珀のようである。
「そのゴブレットは、俺がヨルムガンドと戦った時に、持ち帰ったものだ。その代わりに、右腕を肘まで食い千切られた」
「ヨルムガンド……伝説にあるとおり、巨大な海に棲む蛇であったか」
「そうとも……世界を取り巻くほどの強大な蛇。この辺りの海は丁度、奴の頭が沈む。気まぐれに地を揺らし、漁をする民を喰らう」
「……凶悪なロキの息子」
「悪神ロキの血を色濃く継いだと言われるヨルムガンドは……俺の親父も船もろとも飲み込んだのだ」
無理に流し込んだ酒の気が、腹の底から突き上げてくると、男は拳を握り締めぐっと堪えた。
「……ふぅ…… だが、どうやってお前は生きて戻ってこれたのだ。右腕を失ったとはいえ、この様な宝物まで持ち帰るとは……」
「俺も……飲まれた」
ゴクリと鳴る喉の音は酒を飲み込んだものでも、込みあがってくる胃液を押さえ込んだものでもない。
蝋燭の灯に照らされ影を揺らす。ガルムが語る言葉は、低く、深く沈んでくる。
そして、強大な蛇に飲まれながらも今こうして、己の目の前で静かに座る男。
旅人は注意深くその顛末を聞く為に、酒に酔い、搾り出されるような声に、薄幕が掛かった耳へ、活を入れたのである。
ガルムは、酒に澱んだ男の目を見つめ、彼が至極自分の話に興味を持った事を読み考える。
考える……。
そう、それこそがガルムの命を何度も救ってきたのである。
「冷たい海水とともに魔獣の喉へと押し流されそうになるのを堪え、俺は奴の牙の一つを掴む事ができた」
「なんという神のご加護だ」
「……眼下に見える奴の腹は暗い底なしの闇に思えた。激しい水流に抵抗しながら俺は必死にしがみ付き考えを巡らす……。
海水とともに飲まれる様々なもの。その中の船の残骸の木切れ。
丁度、腕一本分の長さもある其れを、手に取る事が出来た俺は、力の限りに蛇の下歯に突き刺した。刺された肉から流れる蛇の血が、俺の口の中にも入ってきた」
ガルムは、あるがままを語っていた。
口の中にあの、海水に混じった血の味が甦ってくる。
たった一本の木切れに、己が全てを預けるあの恐怖が逞しい体躯の中をじわじわと侵食する。
「それで、それでどうしたのだ。どれ程の時間だったのだ、漁師とはそれほどまでに長く溺れぬものなのか」
「長く潜って居られるなどとは云っても、僅かな差だ……だが、銀色の魔獣の血が、俺の身体を包むように流れてくると、其れは目、鼻、口だけでは無く、肌や、耳と、あらゆる所から俺の体内へと入り込み、侵食していった……」
「銀色の血……」
「溶かされた、水銀のようなその血を我が身に受けた……。
不思議なことに俺は……水中であっても魚のように息をすることが出来るようになった。
押し寄せる海流であっても、精々《せいぜい》、風雪に逆らい歩く程の事。俺はしっかりと目を開き、次に魔獣がその巨大な口を開くときを待った……。
何日も……」
「何日も……真か」
「家に戻ると母が、そう言って泣いた。俺は…三日は戻らなかったらしい」
「なんと…魔獣の血で海で過ごせるようになったというのか……」
「時の流れなど実際……俺にはわからなかった。奴の下顎に突き刺した木切れが抜けてしまわぬように身体を揺すっては、深く…もっと深くと差し込む。
不意と疲れに、意識が遠のくのを…己の腕に噛み付いてでも堪えねばならない……。
魔獣がたまに細くあける口の、牙の内側より……外を見つめ、身体を出す隙間を待つ。
それだけに集中していた……だが、その中で」
「その中で……どうしたのだ」
「杯が止まっているぞ。俺の話は酒の摘みだ…宴の花だ。
まずは飲め……」
すっかり話しに取り込まれ、空になったゴブレットを握っていた男。
ガルムによってその杯は再び満たされる。
「さぁ…」
「お、おう……」
促され、杯の酒を口に含む。
覚めかけた身体が、再び酔いに痺れてゆく。
ガルムの静かに語る声が、男を引き込んで放さない。
決して武勇伝ではなく、苦い痛みと、怒りを含む言葉はしたたかに酒に浸された頭にその光景を作り出す。
「惨めにも魔獣の血をその身に受け、白く鋭いその下歯にしがみ付いていた俺は、いつ訪れるかも知れぬ千載一遇のその時を待ち続けていた。
魔獣の口が、再び外界へ戻る為に俺の身体が通るほど開くその瞬間を……。だが、或る日俺は、時折、目を指す光に気づく……」
「光……」
「そうだ、光だ」
「魔獣ヨルムガンドとは、それほど海面に近く出るものなのか」
「同じ様に俺も思った。海中であっても海に生きるものが如く呼吸をする俺には、海の深さなど関わりの無いモノとお前は思うか……」
「そうだな……」
「考えろ……。
一瞬の機会に再び魔獣の口から飛び出す俺を……。
その時の俺は、まさに魔獣の口中の虫の如く疎ましいもの。其れが解き放たれ海上へと急ぎ泳いで昇ってゆけば、今度こそヨルムガンドは俺の身体を噛み砕き、その闇のように深い腹へと治めてしまうだろう」
「う、ううむ……」
「だがしかし……俺の目を指した光は、海上より差すあの、懐かしい陽の光ではなかった……」
惹きつけては、つき離し、巧みな言葉で引き込んでゆく。
まるで神の使いスキルニルをその身に宿しているように、ガルムの言葉は男の心を捉えて離さなかった。
男は勧められるがままに酒を飲み続ける。
「俺の心を刺激するその正体を確かめようと、その方向に目を凝らした……。
時がたち闇に慣れたのか…魔獣の血の成せる業か…俺は暗い魔獣の口中であっても目が利くようになってきた。目を凝らし、見つめるその先は魔獣の上顎。
とりわけ大きい牙の隙間に…闇の中、ほのかに煌く物が見えた……」
「それが……」
「そうだ、其れこそがその」
「……黄金のゴブレット……」
再び、男の喉がゴクリと鳴る。
左手に握った宝飾のゴブレット。
それが、船もろとも人を飲み込むという悪神ロキの子供の一人、アース神族の神々によって海に討ち捨てられた巨大な蛇、ヨルムガンドの牙の隙間に眠っていた物だったとは。
「その存在に気づいてしまうと、逃れる時を待つ俺の目に映るのは最早…此のゴブレットしかなかった。疲れと眠気に襲われ抗いながら、一編の木切れに命を預ける俺……。同じくして、魔獣の牙に捕らわれているそのゴブレットは、ヨルムガンドの口の中…たった一つの、友のように俺の目を捉えて離さなかった。そして、その時が……待ち焦がれたその一瞬がやってきたのだ」
ガルムは、ずっと注がれたままの自分の杯に手をやり、少しだけ唇を濡らす。
脳裏に甦る、痛み、苦しみが、う怒りが、彼の声を張り詰めさせる。
「時折…魔獣が身体をうねらせる。おおかた寝返りでも打っていたのか…。
だが、その日その時、ヨルムガンドの巨大な口が大きく開けられ海水を吸い込んだ。
押し寄せてくる激しい水流に俺の心は躍った。大きく開かれ、そしてまたゆっくりと閉じてくる。
今、この時を逃して外界へと戻る機会はない。逃してはならぬその瞬時に、俺は木切れを捨て勢い良く水を蹴った。
轟音をたてて、押し寄せる水と、閉ざされようと振り降りてくる鋭い牙。生き長らえ、再び陽を此の身に浴びようと懸命に泳ぐ俺の目に入ったのが……」
「お、おう……」
「此の…ゴブレットだった……。
それは、どれ程の時間だっただろう、数分、数秒……。
今となっては解りはせぬが、今こそ、その口から抜け出でんとする時、俺は愚かにも。愚かにも、ゴブレットに手を伸ばしたのだ」
「此れほど美しいゴブレットだ、無理もない。俺であっても……」
「いいや、違う。宝物であるから、欲に目が眩んだのではない。決してそうではない」
「では…何故だ」
「置いてなど行けなかった……。
魔獣ヨルムガンドの口の中、風前の灯の俺のたった一つの心の慰め。
そのまま、魔獣の歯の隙間に挟まったまま、不名誉な存在であるか、さもなくば深く魔獣の腹に飲まれ、その存在すら無き物になるか。
俺は……孤独に気がおかしくなっていたのやも知れぬ……」
「む、無理もない……」
思い起こされるあの瞬間、俯き黙るガルムの脳裏に浮かぶその光景。
たった一つのゴブレットが、何よりも尊く感じられたあの一瞬。
外に聞こえる豪雪の音。
窓を叩く風の音が、旅人になり代わり、次の言葉をガルムにねだる。
「俺は……。
激しい水の流れの中で、叫んでいた……。
『案ずるな、置いてゆくものかっ』と……。
そして、その一瞬の俺の感傷が、木切れを放した俺の右腕をゴブレットの挟まる牙へと伸ばし、左手で目指す杯を掴んだ一瞬、上顎は閉ざされるべく振り降りてきた…。
閉じる水圧と鋭い牙が、俺の右腕を永遠に切り離したのだ」
「なんと……。だが、だが、だとしたらお前の腕も――」
「いいや。流れる俺の血の先に、右腕が噛み砕かれるのを俺は……見たのだ。薄れる意識の中、それだけは、はっきりと目に焼きついている。俺の右腕は、もう、何処であっても存在はしない……」
暗く重い静けさは、直ぐに窓を打つ風雪に打ち破られた。
言葉を無くしたように俯く男に目を細めて、訝しげな視線を送るガルム。
その眼差しが一体何を意味するのか。
「……俺の話はこんなところだ。たわいもない、愚かな男の話しだ」
「いいや、お前は勇者だ……」
「さぁさぁ、余興は終わった。
お前の話はどうした。
約束は覚えているか、今語ったとおり、此のゴブレットはそういうものだ。
俺には……不要なものだ」
「そうだ……そうだったな……。
全ての……お前の家の全ての酒を飲みきれば……ゴブレットは、俺の物……。
お前の右腕と引き換えになった此の黄金の宝物か……。
……だが……オーディーンにかけて此の約束……よもや嘘ではないだろうなぁ」
「……オーディーンにかけて…お前が俺の家の酒を全て飲み干せば、こいつはお前のものだ。
此れを見ていると右腕が疼く……。
だが、易々と手放すつもりもおきぬ。
いかに暮らしが貧しくとも、簡単に売る気にはなれなかった……。
だからお前に捧げよう。
だが、今云ったとおり簡単にはやれん、勝ち取るのだ」
テーブルを挟んで向かいに腰掛ている男。
ぼろ布といってもいいようなマントを纏い、薄汚れた服装の旅人。
熊の毛並みに良く似た剛毛で栗色の髪。
赤ら顔を更に酒で真っ赤に染め、硝子玉のような灰色の瞳も充血し、無数の血管が現れている。
なみなみと注がれる黄金色酒を見る旅人の目が、ゆらりと空中を泳ぐ。
「うっ、ううん……まだ…飲めるさぁ…」
僅かに時は遡る。
旅の途中、嵐を逃れガルムの村に立ち寄った一人の男。
生来の酒好きではあるが、宿代が心もとなく、思うように酒にありつけなかった。
海の恵みを糧にする。
そんな小さな集落では、旅人はとても珍しい。
旅人は語り部さながら、酒場で旅の話を種に、酒をねだって回っていた。
「さぁ、もっと酒を注いでくれ、此処からが話の面白い所なのだ。歴戦の勇者である、この俺の身の上を哀れんだ、我が慈悲深いテュール神は、或る日俺へと語りかけてきた。俺のこの、失った右腕を取り戻せるというのだ!」
「右腕……?」
嵐の中、漁も出来ない漁師達の賑う酒場。
話を種に酒をねだる旅人。
ガルムは、其れほどに興味も無く、背を向けてカウンターでひとり飲んでいた。
だが、今聞こえたその一言に、思わず振り返る。
ぼろぼろになった薄汚れたマントから、高く上へと差し上げられた旅人の右肘から先には、何も無かった。
ガルムは、杯を持って、人々が取り囲む、みすぼらしい旅人の側へと近づいていった。
ざわりと疼く、自らの右腕……。
今、晒されている旅人のそれとまったく同じ様に、肘から先にその存在は無い……。
「俺は、テュールの言葉を聞いて旅をしている。テュール自身が悪名高き狼によって、食い千切られた右腕を取り戻す為に…」
「勇者よ!」
遮るように声高にガルムが呼びかける。
声の方に旅人が目をやると、自分と同じ様に、右の肘先のない男がエールの壜を掲げて微笑んでいる。
「ん?」
「大したものだ、その話。テュールの加護を受ける者か。
ようこそっ、此の村へ。
さぁ俺が驕ろう、もっと話を聞かせてくれ」
「ほ、ほんとうか。それはありがたい、友よ」
「そうとも、友よ。俺は魔獣と戦い右腕を失った。真の勇者同士、ゆっくりと語ろう」
「そうであったか、こんなところで勇者に出会うとは。これぞ、テュールの導きというもの。それではお言葉に甘えて…さぁ、其処をどいてくれ。皆の衆、酒をありがとう。ここからは勇者の時間だ、さぁ、其処を通してくれ!」
話を聞きながら酒を注いでいた者達を、どかどかと掻き分け、旅人がやってくるとつれだって奥のテーブルに座った。
だが、続きを聞くために、そのテーブルを他の者が取り囲もうとすると、ガルムは渋い顔をして男に提案する。
「ここでは、静かに語ることも出来ぬようだ。どうだ、俺の家に来ないか。宿代など気にすることもない。俺の家には、代々伝わる蜂蜜酒が樽にたんまりと入っている」
「蜂蜜酒っ」
「そうだ、美味いぞ。勇者にこそふさわしい黄金色の酒だ」
「それは良い、是非いただこう!
それは…それは本当に愉しみだ……!」
突然の来訪者に驚く年老いた母親を、早々と休ませて二人の男は杯を交わす。
そうして…上質の蜂蜜酒に気を良くしたこの愚かな旅人は、全てを語ったのだ。
「お前の話、テュールがお前に語ったという……。
死の国ヘルヘイムに隠された、テュールの右腕を授かるという話、本当に面白い、良く出来ている」
「何を言う、作り上げたものなどではない、その証しに…」
「証……?」
「いいや…とにかく、本当の事だ」
「心外だな…友よ……俺は秘蔵の酒を、こうして惜しげもなく振舞っているというのに…お前は話の全てを聞かせようともしない…宴は…此処までか…」
「い、いやっ待ってくれ!
友よ…悪かった…その……お前はヨルムガンドのゴブレットを俺に見せ、家中の酒を飲み干せばそれを与えるとまで云ったのに……」
「そうとも、お前には容易い事だろう。俺は宝物などには興味がない。
何よりも、冒険と神々の話に、もう得られない血の滾りが欲しいのだ。
漁師の仕事を嫌って、剣を振るい、戦士となった成れの果てが俺だ。
それはいい、それはいいのだ。今は年老いた母親と、嫌っていた漁師をして暮らしている。何の不満もない。お前は、腕を取り戻そうと旅を続けている。
いわばもう一人の俺だ。俺の夢だ、なしえぬ夢……。一夜の慰めに話を聞きたい、それだけだ」
「すまない…長い旅を続けていると、猜疑心に命を救われることもあるのだ。
だが、これは俺が悪かった。全て話そう、俺の旅の全てを……」
語られた全て……
それは、軍神テュールの伝説の右腕。
神々の企みの成就の為に、犠牲になった右腕の行き先の話。
悪名高き狼フェンリス捕縛の折、危ぶんだ巨大な狼を安心させる為に、その口に進んで右腕を預けたのは、勇猛なる軍神、テュールであった。
「だが…捕縛しても直ぐに解き放つと誓った神々の言葉は偽りだった。燃え盛る怒りの中、狼に食い千切られたテュールの右腕は…フェンリスの妹、ロキの末娘ヘルの司るヘルヘイムイへと堕ちたのだ……」
「其処はもう何度も聞いた。
ヘルヘイムといえば、戦場以外で死んだ全ての死者が行き着くところ。女王のヘルは情け容赦のない女だと聞いている。テュールは、利き腕を失った戦士であるお前に、どうやって取り戻せというのだ」
「ヘルヘイムへの入り口は……確かにあるさ……それを確かめるため…此処まできた……」
酒によって睡魔に誘い込まれそうになりながら途切れ途切れに語る言葉に、ガルムの眉が僅かに上がった。
「ほう…やっと初めて聞く話になってきたな…友よ…さぁ、もっと飲め…我が家の酒は全てお前の舌の為にある…」
揺り起こされて男は、声を上げる、左手にしっかりと掴まれたゴブレットを掲げて。
「友よ、神々の栄光がお前の上に降り注がん事を……」
「さぁ、先を、お前の云う、ヘルヘイムへの入り口は、この辺りに在ると言う事なのか」
「そうとも、ヘルヘイムの死者の軍団を切り開く方法だってあるとも……」
そういうと再びテーブルに上半身を落としてゆく。
ともすればそのまま眠ってしまいそうな男の耳に、心地良く囁くガルム。
「聞いてくれ…友よ、俺はお前の成功を願うものだ。本当に…テュールの加護がこうしていても…お前を護っているいると言うのか…」
探るように尋ねる言葉に酒に痺れる唇をもどかしげに操りながら応えようとする男。
だがその目は既に霞み、目前のガルムの姿すら重なって見える。
最早、身体中を酒で満たされた男は、重なり揺れるガルムの姿に合わせるように、自らの身体を揺すり、夢見るように言葉を放つ。
「いいか友よ……運命とは…自分で切り開くものだ……神は道を示せども…抱き守ってはくれぬ……」
「それでは、常にお前と共にテュールが居る、と云う訳ではないと……」
「あぁ…そうだ……俺は自らの力で、敵を切り開き…腕を取り戻さねばならん…それを成し得る為の武器は……既にこの手の中にある、案ずる事は無いのだ……そうとも……」
「武器…」
「そうだ…武器…だ」
身体中に満たされた酒が、男の言葉を途切れ途切れにさせてゆく。
酔いに身を委ね眠ろうとする男。
其れを許さぬガルム。
身を乗り出して旅人の身体を揺すり、言葉をせがむ。
「どうした、話は終わっておらぬ、酒もまだあるぞ、入り口は、ヘルヘイムの入り口は何処なのだ」
「子供たちは……繋がっている…入り口は…お前の腕を…」
「俺の…腕…?」
「蛇の…目玉……」
「ヨルムガンドかっ」
腕を取り揺すっていた旅人を離し、ガルムが驚きの声を上げる。
その声にも驚く事無く、旅人は静かに寝息を立て始める。
武器はもう、わかっている。
先ほどから、いや最初から気づいていた、その貧しい身なりにそぐわぬ剣……
擦り切れたマントで隠しきれぬ何かが、その鞘から感じられる。
神々の波動……。
ガルムは、咽返るほどの酒の臭いに抱かれて、赤子のように微笑みながら眠る無邪気な寝顔を見下ろし、静かに語りかける。
「友よ……酒はまだまだ残ってはいるが、オーディーンの名に懸けて、そのゴブレットはお前のものだ……ゆっくりと眠れ……」
「なぁに……まだ……飲めるさ……お前は……いいやつだ…友よ…真の友よ……」
遂にガルムの目的は果たされた。
静かに立ち上がり、寝室の脇のチェストを開ける。
微かな扉の軋む音に、年老いた母が目を覚まし起き上がろうとする。
優しく微笑みながらそっと人差し指を自分の唇に当てると、その手を開いて母にまた横になるように、下へ数回下ろしてみせる。
母は、息子がこれから起こす恐ろしい罪も知らずに、寝台に身を横たえ、再び眠りにつく。
其れを見届け、ガルムはチェストから目当ての物を持ち出し、酔いつぶれた哀れな旅人の眠るテーブルへと戻ってゆく。
「お前の言う通り、運命は―己の手で切り開くものだ……」
静かに振り上げられたガルムの左腕には鈍く光る鋼鉄の片手斧。
テーブルに伏せた旅人は、最後に出来た友によってその首を失う。
研ぎ澄まされた刃がまるでバターを切るように襟足に当てられ、肉に切り込まれてゆく。
力を込めて骨を絶つ重い音が、吹きすさぶ吹雪の音よりも暗く響く。
勢いよく飛び散った血飛沫が、曇る窓を赤黒く染める。
流れ滴り、床に広がる血の海が、男とガルムの靴を濡らす。
そうしてその旅人は、己の旅が今宵、終わった事を告げられる。
「お前は引き換えに……その、使命を失ったのだ」
【ガルム】
漁師の息子。家業を嫌って剣を持ち家を出る。
幾つかの戦いを潜り抜け、生まれた村に戻るが、そこで海の魔獣ヨルムガンドに右腕を食い千切られる。
命は取り留めたものの、肘から下を無くし戦士として生きられぬ身の上となり、漁師をして暮らす。
ある晩、謎の旅人に死の国に隠されているテュールの腕の話を聞き年老いた母を置いて、死の国へと旅立つ。
【謎の旅人】
嵐の夜にガルムの村にやってくる。
同じく腕のないその男は、死の国のテュールの腕を取り戻しに行くと語っていた。
テュールの剣を持っていたが、ガルムの家に招かれしたたかに酔ったところを無残に殺されてしまう。