伝説
こちらは台本を小説に書いたものです。
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【テュール】
元、ゲルマンの最高神であったが、今はアース神族の戦神となっている。
美丈夫で、寡黙。
誰もが恐れるフェンリスの世話をできたのはこの男神だけであった。
神の約束の担保に自らの右腕を、フェンリスの口の中に預ける。
【フェンリス】
フィローズヴィトニル(悪評高き狼)とも呼ばれる、悪神ロキと巨人族の女との間に出来た三対の子供の長兄。
弟はヨルムガンド、妹はヘルである。巨大な狼で誇り高いが、やはり獣。
【スキルニル】
フレイの幼馴染で召使である。その名前は「輝く者」を意味する。
神の使い役としてフェンリスを訪れる。
二度も失敗した、フェンリス捕縛作戦の最後の希望ドワーフの造ったグレイニプニルをもってフェンリスを訪ねて来た。
北の果て、氷雪の大地に神々は居た。
災いの予言を纏って生まれてしまったロキとアングルボダの子供達。
神々の手によって一人は海へ。
もう一人は死者の国へと追放される。
最初の子であるフェンリスは、害無き者と考えられ、神々はこれを飼うことに決めた。
だが成長し、強大に育った狼に餌を与える事ができたのは、戦いの男神テュール只一人。
或る日神々は企みをもって狼を訪ねる。
「溶ける事の無い此の凍土に、熱く滾る鼓動が聞こえる……。これは、これは珍しい方々。
さぁさぁ、もっとこちらへ。俺の飢えを満たしてくれるのではないのか」
凍てつく空気を震わせるように響き渡る狼の声。
草原の若草の香りを纏い現われ出でる神々の使者スキルニル。
美しいその顔の奥に、腹の底に、重く圧し掛かる恐れを抑え悠然と微笑む。
「雄雄しき狼よ、冬の獣よ。そなたの強さは如何程のモノか、神々が賭けをしておられる」
「ほほぅ、其れはまた酔狂な事だ」
口元の肉を赤黒く捲れる程に引きつらせ、歪んだ笑みを見せるフェンリス。
嘲る獣に、美しい片眉を少し跳ね上げたスキルニル。
彫像のような其の鼻先を一際高く掲げるとスキルニルは言い放った。
「神々とはそういうものだ」
スキルニルは必死で平静を装う。
だが、恐怖を見抜く巨大な獣フェンリスは、益々意地悪く美しい使者を弄ぶ。
「なるほどそれなら、此の牙で、キサマの身体を噛み砕いて見せよう。お前のその白い身体は、雪を食むより容易く砕けるだろう」
傲慢な其の態度に、スキルニルの誇りが恐怖に打ち勝つ。
最上神、オーディンの信頼厚い我が身に、獣風情が嘲笑を浮かべるなどと……。
そう考えただけで、彼の腹底から怒りと力が沸いて来たのだ。
そう、彼は重大な使命を果たさなければならない。
此の世に、神を嘲笑する獣など在ってはならないのだから。
彼こそは智を語る者。
神々の使者スキルニルなのだから。
「その程度のことならば、森の魔獣となんら変わらぬ」
あっさりと言葉に出したその一言が、魔獣の毛に覆われた耳を弾いた。
「なんだと」
「そなたが真、神の子であるならば、其の力、地に住むドワーフの道具をも凌駕するであろう」
「もちろんだっ。神々のもたらした足枷でさえ、我を治める事などできなかったではないか、忘れたか」
『かかった』スキルニルは胸の奥でほくそ笑む。
「良くぞ申した。では、このグレイニプニルにてそなたを戒める。そなたの力、及ばぬ時であっても、必ず解き放つ、心配せずとも良い」
「そのような口約束など当てになるものか」
「なんと神々を疑うか」
「キサマこそが、信用できん。言葉を操るものよ。その腕、我が口に差し入れてみよ。もし、我を謀ること明らかになれば、すぐさま、この上顎と強靭な牙をもって噛み砕いてくれるわ」
「ううむ」
「どうした、神の使いよ。腰が引けてきたか。愚か者めっ。我を誰と心得るかっ。弟、妹のように、容易く思うなかれ。父神ロキを恐れるが良い」
『獣が、調子に乗りおって』
恐ろしい洞窟の冷気とフェンリスの双眸。
凍り付いたかのようなスキルニルの白い顔。
誰しもが魅了される彼の華やかな笑顔は最早、微塵も無い。
彼の頭に吹雪のように吹き荒れる自問自答。
『あの獣の口に腕を入れろだと?! 神の子といえども彼の悪神ロキの長兄。信じることなど出来得るものか。だが、引き下がる事など出来ぬ。考えるのだスキルニルよ。智を巡らせ、言葉を操るのだ』
凍える闇にまぎれ、氷穴の中、睨み合う二人を、じっと視る者が居た。
餌を与えにやってきた、戦いの神テュールである。
彼は、世話を焼くうちに狼との間に友情に近いものを育んでいた。
彼自身、異なる種族にあたるアースの神々よりも、はみ出し者同士……。
そんな気がしたのである。
「スキルニルよ」
「誰だ」
「俺だ」
暗がりから姿を現したのは、腰まで届かんばかりの豊かな金色の髪をそのままに
アース神ですらその勇猛を褒め称える戦神テュール。
逞しい腕は隆々とその身を飾り、僅かに急所を護る皮の鎧。
それらの全てが、引き締まった無駄の無い筋肉と同化する悦びに歴戦の痕を誇っている。
大きな体躯で少し窮屈そうにスキルニルの後ろを抜けてフェンリスの前に立った。
「血の匂いがすると思ったら、戦う神テュール、我が友よ。やはり、今宵の肉は其処の痩せ細った使いっ走りであったか。なんとも、さもしい事よ、喰うところなど無いではないか」
「おのれ獣が……」
「スキルニル」
「む、なんだ」
「俺の腕をフェンリスに預けよう」
「ほぅ」
「……どういうつもりだ」
「アースの神々が約束を違えぬならば、俺の腕は明日も剣を握る事が出来るはず」
「それはどうかな」狼が嘲笑う。
「神は嘘はつかぬ」
「是非も無い。 狼よ、口を開けろ」
「ふっ、ふははははは。こいつは愉快。
良いだろう。岩をも砕くこの牙が、神の腕を食いちぎるかっ。テュールよ、食えぬ奴よ。
我が身の自由、貴様の腕一本を預かってアースの神々に試させよう。
ドワーフ如きの紐でロキの長兄、悪名高き狼、フローズヴィトニルの四肢を捕らえ、留めて置けるものかどうか。
さぁっ、死の国へと繋がる此の口に貴様の腕を差し入れよテュールよっ」
「おう」
云われるままにその巨大な口に腕を差し込もうと近づくテュール。
だが、その恐ろしい牙、赤黒い舌の奥に深淵が待っていた。
『なんという深い喉だ。俺の腕を飲み込み、まだその奥に闇が見える』
楡の木のように硬い筋肉を纏ったテュールの腕を、易々と喉奥まで受け入れ、蒸せる様な熱い息を荒げている。
テュールも、否、スキルニルもその目ではっきりと見た。
「死、死の国だ……」
悪神ロキと巨人族の美女、アングルボダの間に生まれた赤子は三体であった。
オーディーンによって、末の妹のヘルは生者の世界より放逐され、霧の国ニヴルヘイムに棲み、死者の国を治めている。
その死の国への入り口が、兄であるフェンリスの喉奥と繋がっていると誰が予想できようか。
「何をしている、スキルニル。早くグレイニプニルを試すがいい」
「そうとも、急ぐが良い。いかな我であっても、いつまでこうして此の口、開け続けて居られるか解らぬぞ」
「さぁ」
「さぁっ」
「ううむ……よし、結べ! 四肢をそれぞれしっかりと、前と後ろに括るのだっ」
スキルニルが声を上げ手を振ると、洞窟の岩肌より、異形のものどもが姿を現す。
地下に棲み、暮らすもの。ドワーフ達である。
普通の人間の半分ほどの背丈に、不釣合いに逞しい手足。
十人ほどが手際よく動き回ってゆく。
あの様に細かい細工を、どうやって此の指がと目を疑う、熊の腸かとも思える太く短い指で、くるくると狼の前足同士、後ろ足同士と結び上げてゆく。
「ふんっ。目障りな虫め」
フェンリスの口に預けられた戦神テュールの右腕。
ダラダラと滴り落ちてくる、熱い唾液に真っ赤に腫れ上がっている。
冷たく、用心深く鈍い光を放つフェンリスの双眸に、ゆらりと蠢くものをテュールは見逃さなかった。
「改めてその瞳をよくよく見たが、そんな物をその目の内に飼っておったのか。それとも喉と同じく、繋がっているというやつか」
フェンリスは、口端をほんの少しだけ上げたが、何も答えることは無かった。
その暗い群青色の目玉の内に揺らめく影、その長い影こそが、ロキのもう一人の子。
「ヨルムガンド」低く呟くテュールの声が洞窟の闇に溶け込んだ時。
「うぉぉぉ」獣の咆哮がテュールの腕に響き伝わった。
「よしっ」スキルニルがドワーフたちに大声で叫ぶ。
其れを合図に、狼を捕らえた紐をドワーフたちは渾身の力を込めて引く。
其々の声を、其々が耳にした時、地の鳴るような轟音が洞窟の中、鳴り響いた。
ゆっくりと倒れるフェンリス、巨大な狼の身体を避けてドワーフ達が一斉に飛びのいた。
「う、ううむ」
「なんの、これしきの事」
倒れようとも、フェンリスはその口を閉じ、腕を噛み切ることは無かったが、
同じくしてテュールが身体を揺らして膝を突いた拍子に、鋭い牙が微かに腕を傷つけた。
舌に味わう血の味と、予想以上に手強く四肢を締め付けるグレイニプニルに、フェンリスは狂ったように身をよじって戒めから逃れようと暴れた。
「ふ、ふははははははっどうしたのだ、悪評高き狼よ!
貴様が虫と呼んだドワーフたちの作り上げたその紐は、六つのパーツで組み上げられてる。
解いて見せよ、引きちぎって見せよ、できまい、できなかろうよっ。わはははははは」
「お、おのれぇぇぇぇ、汚らわしい屑虫共めっ」
満身の力を込めようとも、紐は益々ぎりぎりと締め付けてくる。
遂に、狼の肉に食い込み、純白の毛に紅く血が滲み、じわじわと染め上げ侵食してくる。
テュールはフェンリスが前足に食い込んだドワーフの紐に皮を裂かれ、肉が盛り上がり、今にも引き千ぎれんという中、それでもなお、口を閉じようとしないのをじっと静かに見守っていた。
「もういい、気が済んだだろう。双方とも。神々の威信は示された、戒めを解いてやるが良い」
スキルニルは目を逸らし押し黙っている。
「……なるほどな」
「許せテュール。これは……神々の計画なのだ」
「計画」
「脅威はあってはならない。予想以上に育った獣は、大人しくさせておかねばならない」
「自ら餌も与えてやれぬほどに育った。此の誇り高い獣が其れほどに脅威であったか」
「ぬおぉ、神めっ、弱く、愚かで卑怯なものどもめっ。聞こえるかオーディーンよっ、未来永劫此この行いを悔いるが良いいぃっ」
洞窟一面が真紅の光に染まるほど、溺れる程の血飛沫を上げて雄々しき戦の神テュールの右腕が喰いちぎられる。
一瞬で喰いちぎられたその腕は、巨大な狼フェンリスの喉奥より、真っ直ぐに闇の中を死者の国へと堕ちていった。
女神も見惚れる、輝くばかりの純白の毛に覆われていたその身体。
己と、今噛み千切ったテュールの血とで真っ赤に染まる。
冬の深海のようなその瞳から、溢れ出る泪までをも血で色づける。
悪神ロキの長兄、悪評高き狼フェンリスの誇りは傷つけられた。
裏切りに怒り、悲しむ遠吠えは、遠くアースガルドまで届いたであろうか。
「う、うう、スキルニルよ……」
右腕の肘から先を喰いちぎられ、溢れ、流れ出る血の海の中、膝を突いているテュールの側に駆け寄るスキルニル。
己のマントを引き裂いて、血を止めようとテュールの腕に巻きつける。
その手を払い、激痛を堪えながらテュールはスキルニルの胸元を残る左腕で掴んで引き寄せると、ぐっと顔を寄せて静かに告げる。
「アスガルドへと駆け帰り、オーディーンに伝えるが良い。このテュールの右腕高くつく、とな」
「テュ、テュール……俺は」
「ゆけぇっ俺の怒りが及ぶ前に!」
震えるスキルニルを突き放すと、唸るフェンリスを目にも留めず、気丈に立ち上がって何処かへ消えるテュール。
氷に閉ざされた洞窟は血の惨状と化した。
失った雄雄しき神の右腕は何処へと消えていったのか。
四肢を縛られ自由を失った誇り高き狼の行く末は。
神の計画は成されたのか。
そしてそれは、神々には、ほんの僅かな時間の出来事。
人の世の時の流れとは、比べようも無い、そんな出来事。