接触
直樹は今日もいつもと同じ時間に登校し、いつものように上履きに履き替えた。
その瞬間、何だか足元が冷たいような気がしたが、考え事をしていた直樹は気に留めることはない。
教室に入り席に着いても、彼はまだ考え事を続けたまま。
「おはよう、秋月くん」
その声にパチッと反応し、考え事を止める。
「おはよう」
ここまで来ても、直樹はまだ紀子の存在が自分にとってどんなものなのか、よく分かっていない。
ただ、彼女と喋ることは楽しい時間であり、そして学業以外に学校に来る意味の一つ。
それくらいのことには、気付き始めている。
紀子と話していると、
……大波・小波。
心地良いそよ風が、直樹の心を攫うように撫でて行く。
「ねえ、秋月くん。何でこないだ体育館来なんだん?」
「…行ったよ」
うん。
確かに行った。
「でもやっぱり、僕は運動はちょっと……」
あの時、何故途中で帰ったのか。
その理由を紀子にどう説明していいのか分からない。
直樹は紀子と遣り取りをしながら、カバンから教科書やノートを取り出し、机の中にしまい始めた。
しかし机の中に手を突っ込んだ瞬間、何だか手が濡れたような感覚。
……あれ?
するとその時、紀子が、
「あッ!!」
その声にびっくりして彼女を見ると、
「秋月くん、上履きが真っ黒やん!何コレ!?墨汁ちゃうの!?」
え!?と慌てた直樹が机の中から手を出すと、その勢いで指先から何かがピンッ!と撥ねた。
あれ!?
紀子を見ると、彼女の制服と顔に、黒い斑点。
どうなっているのか分からない直樹は、机の中を覗きこむ。
と、その中は墨汁でヒタヒタに浸かっていた。
……え?
そしてもう一度紀子の顔を見ると、顔に黒い跡。
……墨汁。
机の中に突っ込んだ直樹の手も、真っ黒になっている。
「あ!ごめんなさい!」
直樹は叫んで、ポケットの中から取り出したハンカチで紀子の顔を拭き始めた。
しかし慌てたせいで、直樹はその墨汁の付いた手で紀子の腕を掴んでしまい、彼女の制服は真っ黒になってしまう。
呆気に取られる紀子。
パニックになっている直樹。
そこで、直樹はハッと思い出す。
昨日の帰り道に起こった出来事を。
あいつらだ……!!
「久保さん、ごめんなさい。制服は弁償するし、後でちゃんと謝るから。
ちょっとごめんね」
直樹はそう言いおき、教室を飛び出した。
上履きをぐじゅぐじゅ言わせながら、廊下に足跡を残しながら走って行く。
そして同じ学年の教室を一つひとつ覗き込みながら、昨日の帰り道に会った井本を探す。
が、どの教室にも彼はいない。
くそー!
まだ登校してねぇのか!?
そう考えながらハンカチを濡らして教室に戻ると、紀子は女子に囲まれ、大変なことになっていた。
直樹は彼女の元へ濡れたハンカチを持って駆け寄り、
「本当にごめんなさい。制服とか全部弁償するから。ごめんなさい」
謝る直樹に紀子は、
「いいよ、いいよ」
と、笑顔で言ってくれる。
思わずニヤけてしまいそうな直樹。
しかし、ここは真面目に行かないと、と持ち直す。
紀子は自分が墨汁まみれにも関わらず席を立つと、
「秋月くん、とにかくその手ェちゃんと洗って、その上履きと靴下脱ぎなよ」
そう言って雑巾を2枚、直樹の上履きの下に敷いた。
「こうすれば汚れんやろ?」
そして水場まで、直樹について来てくれる。
水場に着くと紀子は、
「秋月くん、まず手洗いなよ」
言いながら、直樹の上履きと靴下を脱がせた。
「うわー、爪の中まで真っ黒になってるやん」
墨汁が広がって真っ黒な顔の紀子は、しかし自分のことよりも先に直樹の世話をしてくれるのだ。
「習字の授業なんかあったっけ?
私もあの墨汁のキャップ、ちゃんと締めてなくてカバンの中真っ黒にしたことあるわぁ。ハハハハッ!」
直樹のズボンの裾を捲り上げ、足を石鹸で洗ってくれる紀子。
「………」
……幼少の頃から、自分の世話をしてくれたのは、お手伝いの土井さんだった。
仕事として自分の世話をしてくれていた土井さんとはまた違うこの状況を、直樹は考え込むようにじっと見つめている。
そして天啓のように、心にひらめくもの。
『どうやら僕は、久保さんが大好きらしい』
そう理解した直樹の顔は、たちまち真っ赤になる。
「……あ、自分でするからいいよ」
そう言う直樹に、紀子は、
「いいから、いいから」
続けて、汚れた直樹の足を洗ってくれた。
……あぁ……あぁ……墨汁よ、ありがとう……!
………って、
違うよ!!
井本~~~~~~~ッ!!
が、
「………」
足元では変わらず紀子がぱしゃぱしゃと静かな音を立てながら、直樹の足を洗ってくれている。
その頬には直樹の指から飛んだ黒い墨汁の跡。
「………」
『今度は僕が拭いてあげるよ』
とは、恥ずかしくて言えない直樹。
「久保さん、ここにも付いてるよ」
「ここにも付いてるよ」
と、2人で墨汁を落とし合っている。
「先生に言うて、上履き貸してもらおうか」
気遣うような紀子の言葉に、しかしそこで直樹のいつものスイッチが入った。
「いや、結構。これくらいのことは自分で打破しないと。今日はこのまま裸足で過ごす。
その前に、僕はやることがあるから。
久保さん、本当にごめんね。制服は弁償するから。
本当にごめんなさい」
直樹はそう言って、教室に向かって駆け出した。
教室ではすでにホームルームが始まっており、担任が教壇に立っていた。
「おい、秋月。お前、裸足で何やっとんのや?」
それに対し、直樹は応える。
「あの、久保さんはもう登校してるんですが、僕のせいで少し遅れます」
そして視線を流した直樹の目に、飛び込んできたもの。
……井本。
「ああッ!!」
叫ぶ直樹を、井本はポカンとした顔で見つめている。
「先生、ちょっとすみません。彼と話があります」
直樹はそう言って、井本の正面に立った。
ガリガリの細身だが、身長が180もある直樹が目の前に立つとそれなりの迫力で相手は怯むのだ。
井本は少したじろぎながら、
「な、何や!?」
そんな彼を直樹は真っ直ぐに見下ろし、口を開いた。
「君、同じクラスだったのか。
井本くん、よくもやってくれたね。久保さんにまで迷惑掛けて」
まず紀子のことを主張した直樹は少し冷静になり、自分の姿を改めて見てみる。
……この学生服は、つい先日買い換えたもの。
それが、墨汁まみれ。
こういうことがあった場合、直樹はお手伝いの土井さんに裏から手を回して報告する必要がある。
直樹の家庭では、とても大変なことなのだ。
制服を買い換えるということよりも、何故墨汁まみれになったのか。
それを説明するのが大変なのだ。
直樹は井本の机をバンッ!と叩き、
「君、僕と競争するんじゃなかったのか?こんなことしてたら、一生僕には勝てないよ?
安心してよ。仕返しなんか考えてないから。時間の無駄だからね」
それだけ言って、直樹は自分の席に着いた。
その様子をじっと見ていた担任は状況が飲み込めず、
「ま、まぁ何かよぅ分からんが、仲良うせぇ」
そんなことを言っている。
そこへがらりとドアが開いて、紀子が戻ってきた。
「遅れてすみません」
「あー、秋月から聞いとる。何やよぅ分からんが、早ぅ席に着け」
席に戻った紀子は、直樹を振り返って首を傾げた。
「大変なことになったねぇ。制服はもう1枚あるから、気にせんでいいよ」
そしてニコッと笑う。
直樹もエヘッと笑い返す。
直樹は、紀子という波に呑まれっぱなしなのだ。
この日、学校から家への報告が一番怖い直樹は、この墨汁事件を何とか遣り過ごすことに成功した。
……とんでもない1日だった。
腹が立つわ、嬉しいわ……
何なんだ、コレ。
そう思いつつ、いつもの道を下校していた直樹は、昨日の公園の前を通りがかったところで、10人ほどの集団が固まってこちらを見ていることに気付いた。
その中に、井本の顔が見える。
昨日と違い、今日の直樹は自分からその集団に駆け寄って行った。
「また僕に何か用かい?」
すると井本は直樹に詰め寄り、いきなり突き飛ばすと、
「…秋月くん。君は僕らの中で過ごすっていうルールを、イマイチ分かってないみたいやな」
「………」
直樹は冷静に、集団の人数を数える。
「君が何を言いたいのか分からないけれど、あんな下らないことに時間を費やしている君が可哀想でしょうがないよ。
教科書が全部ダメになっちゃったじゃないか。どうしてくれるんだって言いたいのは、こっちの方だよ」
直樹は『人と揉める』ということがどういうことなのか分かっていない。
この人数相手にもメゲはしないのだ。
「僕は何もしてへんって言うてるやろ!!」
叫ぶと同時に、井本くんは直樹にタックルを仕掛け、直樹の体をその場に引き倒した。
ザザザッ!!
間髪入れず10人ほどの彼たちが一斉に直樹を取り囲み、殴る蹴るの暴行を加え始める。
ドカッ!
ドカッ!
ドゴッ!
倒れ込んだと同時に眼鏡が外れてしまった直樹。
眼鏡なしでは何も見えない。
暴行なんかより、眼鏡を探すことに必死になる。
というより、何より今自分がどういう状況に置かれているのか、理解できていない。
自分が暴力を振るわれるなど、これまで一度も考えたことがないのだ。
「……ッ」
地面に這わせた掌が、眼鏡に届く。
急いで掛けてみると、彼らの足の隙間から見える、カバンをたくさん背負わされている、彼。
……マズイ。
直樹はようやく状況を理解する。
おどおどとした彼の姿を見ながら、
今度は僕が、ああなるのか……。
そんなことを考える。
そして次に考えること。
これ、怪我になったら、お父さんとお母さんに何て言い訳すればいいんだ!?
今日は一体、何て日なんだ!!
暴力の痛みなどよりも心配事がある直樹は、されるがまま。
しかししばらくの暴行の後、それらの手足がピタッと止まった。
それから、遠くの方から聞こえてくる声。
「おー!いっぱいおるやんけ!○○中のヤツらがこんだけおったら、誰ぞ1人付き合うてくれるやろ、パクウ」
「そっかー?コイツらが俺らなんか相手にしてくれるとは思わへんねんけどな」
すると直樹を取り囲んでいる1人が小声で言った。
「ヤバイで。○○中のヤツらや!」
次の瞬間、彼らは蜘蛛の子を散らすようにその場から走り去って行く。
「おーい!待てェや!ちゃうって!絡みに来たんちゃうって!!」
その声とは反対側に遠ざかって行く、たくさんの足音。
やがて、目を閉じたまま体を丸めた直樹の元に、違う足音がだんだんと近づいてきた。
「おーい、タケシ。1人残ってんぞー」
声の持ち主は横たわったままの直樹を引き起こし、地面に座らせてくれた。
そこでやっと目を開けた直樹の目前にいたのは、とうもろこしを乗っけたような頭をした1人と、派手な金髪をオールバックにした1人。
とうもろこしの方には眉毛がない。
袴のような学生ズボンに、普通のものよりボタンの多い学生服。
そんな2人が直樹をじっと見ていた。
直樹はハッと我に返り、
…ひょ、ひょうきん…!
いや、暴走族だ!!
それは、直樹とは対極線上で生きてきた人との、初めての出会い。