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飛沫 2

「どうしたんや、美奈子ちゃん?早よ食べんと俺、食ってしまうで?」

直樹が美奈子のために買って来たのは、スポンジにクリームをサンドして砂糖をまぶした、どらやき形のお菓子。

好物に手を付けない美奈子を見て、直樹はひょっとして、と考える。

「……おい、どっか痛いんか?」

腰を上げ、そう問う直樹に、美奈子は首を横に振った。

……顔色も悪くないし、だったらいいんだけど……。

そう思い、直樹はまたその場に腰を落ち着ける。

「……ねぇ、秋月くん」

「ん?何?」

「秋月くんって、今付き合ってる人おるん?」

急にどうしたんだ?

その微かな驚きと共に、そんな風に自分の欲であるとか思念であるとか、人にぶつける何かしらの感情というものを久しく持ち合わせていない。

そう自分を振り返る。

「……イヤ、いないよ」

直樹が答えると、美奈子はまたしばらく黙り込んだ。

耳の端でテレビの音声を流しながら、直樹は何か言いたげな美奈子の次の言葉を待つ。

「……あのね、私ねぇ、秋月くんのこと、好きみたいでね……。前からずーっと好きやったみたいでね……。どうしようかなぁって考えてたんやけど……最近秋月くん、帰って来るのも遅いし、大きい荷物持って出掛けたりするし、家出て行くんかなぁって思って……私みたいなんに、こんなん言われたら迷惑かなぁって思うたんやけど……人並みに生活もできへんのにゴメンって思うたんやけど……一緒に暮らしてるのに……」

美奈子はそこまで言うと、顔を真っ赤にして口を噤んでしまった。

「………」

……正直、驚いた。

突然の美奈子のその言葉を聞き、感情を形容するにはあまりに時間がなく……

でも、ただ嬉しいと感じた。

そんな風に思っていてくれたのか。

すぐに何らかの言葉を返さないと……

だが、返事をするのに少し時間がかかってしまう。

直樹は俯いた美奈子の顔をじっと見つめて考える。


……この皮膚の表面から、腐臭が漂っているような気がした。

俺は今、君に見えないようにしてるからな。

獣のような尻尾

コウモリのような羽

裂けば飛び出す、真っ青な血液

騙してしまって、本当に済まない……

そう思いながら一方で、美奈子と一緒になればタケシとも戸籍上本当の兄弟になれる、とも思う。

しかし、

……いろんな意味で何もかもを邪魔する、俺の研いだような長い爪……


「……そっかぁ。美奈子ちゃん、ほんまに嬉しいわ。そうやな、俺ら一緒に暮らしてて、もう同棲してるのと変わりないしな。ま、邪魔な兄貴がおるけどな」

ここで美奈子は一度顔を上げ、クスッと笑った。

「じゃあアレやな。美奈子ちゃんはちゃんと手術受けて、病気治して、…そやな、一回2人でどっか遠出しよっか?デートしてみなアカンな。ほんで何回もデートして、それで今度は俺からちゃんと言おうかな」

……うまくかわそうなんて、そんなつもりは毛頭ない。

しかしそれ以上に、直樹の心・情に覆いかぶさるものがある。

「ほんまに?!じゃあね、前3人で行ったって言ってたトコあるやんか、旅行で。動物園あるトコ。アソコへ連れてってくれる?」

美奈子は赤い顔のまま、弾んだ声で直樹にそう返す。

「おぅ、そうしよう。アソコに2人で行こう。そのためにもな、ちゃんと熱計って、薬も忘れんようにして、頼むで?一緒に行くんやからな」

「うん、分かった!」

そう言って美奈子は立ち上がり、照れを隠すように急いで自室へと入って行った。


……美奈子の感情や態度、そしてこれまでを思い、直樹は彼女を愛おしくも思う。

だけどな、許してくれよ、美奈子ちゃん。

君の病は治るけど、俺の病みは治せないどころか、取り返しがつかねぇんだ。

もう、さっきにすら、戻れない……。


ふと見ると、こたつの上には封の切られていないお菓子と、薬。

「……あ。おーい!まだ薬飲んでへんやんけ!」

美奈子の部屋から「あ、しまった!」という声が聞こえてきた。

「まったく……」

直樹はお菓子と薬、水を持って美奈子の部屋へと向かう。

そうして思う。

自分への殺生をいつか止められる日が来ると、そう信じたい 

……と。


この夜も直樹は3通の通帳を並べ、じっと見つめていた。

預金通帳が2通、貯金通帳が1通。

それほど深い意味はないが、直樹は稼ぎ方によって振込みをする通帳を変えていた。

組からもらうお金を振り込む、預金通帳。

直樹が内緒でやっている『ビジネス』のお金は、もう一つの預金通帳へ。

キツネ・タヌキ・カエル相手の収入は、貯金通帳に。


直樹は貯金通帳を手に取り、今日の10万円を挟む。

明日、朝イチで入れに行こう。

そうして、3通の通帳の金額を足して思う。

前にパクウの預金を聞いたとき……

それと、タケシが貯めてるお金……

ほんでコレを足したら……

もう手術できるやん!

スゴイやん!!

思わず笑顔がこぼれた。

……でも、もうちょっと稼がなアカン。

何もせずに、2人の大人が2~3年篭もって生活ができる分を稼がないと。

手術と同時に、タケシと俺は世を忍ぶんや。

隠れて、まだ想像もできない場所で、息だけをして暮らす。

逃亡生活やからな。

美奈子ちゃんはパクウに預けて……

タケシが嫌がっても、首根っこ掴んで連れて逃げる。


直樹は、普段している自傷とも言える行為も含めてほぼ計画通りだと、毎晩こうやって通帳を眺めているのだ。


今日が昨日を攫い続ける日々。

執拗に、しかしこの上なく諦め良く。

……こうやって小さな地球儀が回るのも、アリなんだろう。

直樹はふと、預金通帳のうちの1つを取り上げ、開いてみた。

……ここにはまだ、あんまり金が貯まってねぇな。

これは組にも片桐にも内緒でやっている、直樹の『ビジネス』のために用意した通帳。

明日からはコッチに集中しようか。

そう思い、3通の通帳を引き出しに仕舞う。

そして、そのまま布団の中に潜り込んだ。


次の日、直樹は朝から片桐のやっているノミヤの集金に回ってから、事務所に顔を出した。

事務所に入ると、留守番の男が1人座っている。

「何やねん、秋月。遅いやんけ」

「ああ、はぁ……ちょっと集金行ってきたんで」

「みんなもうスカウトに出とるぞ。お前も早よ行けや」

「……今日は片桐さんは?」

「うーん……何か東さんに呼ばれて、東京の方へ行く言うとったで」

「ふーん……」

何気ない返事をした直樹だが、こういう日は都合がいい。

キツネ・タヌキ・カエル相手の仕事と、もう一つの内緒の『ビジネス』 

これが非常にやりやすいからだ。

直樹は早速、今日1日の予定を立て始める。

まずはスカウトで……


このスカウトという仕事。

これは街行く女性に片っ端から声を掛け、クラブやキャバクラなど風俗店への仕事を斡旋する行為。

勤める女性たちの稼ぎの何%かが、組に入るというシステムになっている。

直樹はいつものように、まずはスカウトだと事務所を出た。

ドアを閉めたと同時に、中で電話の鳴る音が聞こえたが、留守番の男がいるので気にもせずに廊下を歩いて行く。

しかし直後、後ろからバタンッ!とドアが勢いよく開き、男が直樹を呼び止めた。

「秋月!ちょっと戻って来て!」

……何かあったか。

直樹はピタリと足を止め、事務所へと引き返す。

「何かな、島本さんのところで暴れとるのがおるらしゅうてな。お前、今から行って来てくれるか。店のモン、いっぱいいっぱい壊しとるらしいから、ここまで連れて来てや」

島本というのは、片桐のたくさんいる女性の中の1人。

片桐の経営するクラブのママをやっている人。

……こんな真昼間に酔っ払いかよ。

鬱陶しいなぁ。

片桐のいない好機を邪魔されて苛立ちを覚えるが、しかしこの命令に背くわけにはいかない。

「……分かりました。行ってきます」

そう返事をし、直樹は再び事務所を出て、車で島本の店へと急いだ。


酔っ払いがどうこうだとか、片桐の女の用心棒的なことだとか、そんなのはこれまでも多々あった。

これらも含め、直樹は自分が片桐一味の下っ端であることを、とにかく面倒に思う。

下っ端なんかやらずに独自にやらせてもらっていたら、もう1ヶ月前には目標の金額が貯まってたんじゃねぇか?

車を運転しながら、そんなことを考える。

……そういえば、事務所まで連れて来い言うてたな。

俺1人で、大の大人をとっ捕まえて事務所まで連れてくなんて、できるんやろうか…。

つらつらと考えているうちに、車は店へと到着した。


直樹は道路の端に車を止め、裏口にある店への階段を駆け下りる。

地下からガシャンッ!というガラスの割れる音が響いてきた。

何やねん、まだ暴れとるんか?

駆ける足のスピードを上げ、ドアを引き開け店内に飛び込む。

同時に目に入ってきたのは、店の中央で腹這いになり両肘をついた男と、彼を取り囲む3人の男たち。

視線をずらすと、カウンターに座ってタバコを吸っている島本が見えた。

彼らは直樹が入って来たと同時に、一斉にこちらを振り向く。

「島本さん、大丈夫ですか?」

島本はいつもの着物姿ではなく、ジーンズにトレーナーというラフな格好。

そんな普通の姿が、いつもより更に蓮葉に見えてしまう。

「ちょっとアンタ、来るの遅いんちゃう?」

「……すんません。一体何があったんですかね?」

オレンジのライトだけが点いた薄暗い店内は、そこそこに荒れていた。

グラスが割れ、テーブルがひっくり返り、ソファが2、3倒れている。

「アイツがね」

今、まさに取り押さえられようとしている男を指差して、島本が話し出す。

「ずっと羽振り良うて、仰山お金落としてくれよったんやけどね。最近金払いも悪いから、もう切ったろか思うたら逆にキレだして、あたしに襲い掛かってきたんやんか。

アンタが来るの遅いから、この子らに頼んだよ。ほんま、恐ろしいわぁ」

直樹はその3人の男たちのことはよく知らないが、おそらく組内の誰かの下っ端。

もう一度騒々しい店内をぐるりと見回した直樹、ゆっくりと倒れ込んだ男に近づいた。

……あーあ、こんなにしてしもうて。

知らんぞコイツ。

彼はもう観念したかのようにその場にじっとしているが、絶えず視線をあちこちに走らせ、カタカタと震えている。

メガネをかけ、無精ヒゲを生やし、短髪に寝癖をつけたその男。

直樹はその顔を見て、アレ?と思った。

どこかで見た顔……。

中学の頃から住んでいたこの地域。

会話はしないまでも、顔見知りの人間に会うことくらいあるだろうとは思う。

だが、そんな曖昧なものではなく、よく見慣れた顔のような気がした。

……コイツ、誰やったっけ?

そう思いながら、直樹は彼に向かって言う。

「まー、随分派手にやってしもうたなぁ。コレ、全部弁償してもらわなアカンわ。なんぼするか分からへんで。自分、ちょっとこれから俺と一緒に来てや」

直樹は彼の腕を引っ張り、起こそうとした。

しかし彼は掴んだ直樹の手を力いっぱい振り払うと、ざりざりと後ずさりし、突き当たった壁際で怯えだす。

上目遣いで震えながらこちらを見る、その姿。

「………」


あの状況、その状況、この状況でいつも思う。

もう慣れたやろ?

しっかりせぇ。


すると直樹の言動をじっと見ていた3人の男たちが、声を荒げながらその彼を引っ掴もうとした。

それを制し、直樹は続ける。

「ワガママ言うたらアカンやろ。大体何でお前がキレて、ママさんに襲い掛からなアカンのや?金がなかったら、こんなトコ来たらアカンやろ」

……しかしコイツ、どっかで見たことある。

直樹は頭を巡らせながら、彼を見下ろす。

まだ肌寒い季節にも関わらず、彼はTシャツにジーンズのみ。

辺りを見回すと、ジャンパーが1枚落ちている。

きっと彼が脱ぎ捨てたものだろう。

直樹はそれを拾い上げ、彼に向かって手を差し伸べた。

「器物破損言うてな、こういうことがあった場合、我々はな、正当にアンタに損害分の金額を請求することができるんや。そこら辺を理解して、大人しゅうついて来てや。……さぁ」

直樹はやさしく彼の腕を掴み、引き起こす。


……しかしその瞬間、直樹はとんでもないものを見つけてしまった。

この彼の左腕。

その内側にある赤とも紫とも言える、無数の斑点。穴。


「お前、これ…ッ!!」

短く叫んで、直樹は咄嗟に島本を振り返る。

その反応に頓着する様子もない島本は、こちらに向ける視線を逸らすことはない。


覚醒剤…!!


瞬間、頭を過ぎって行ったのは、中学生の頃一度だけあった、タケシがシンナーを吸ったときのリアクション。

直樹はこの組事務所に入る際、一つだけ確認したことがあった。

それは、覚醒剤の取り扱いの有無。

当然、東から返ってきた返事は、

「そんなモノ扱ったら、パクられちゃうじゃないか」

直樹は何故か、その言葉を信じていたのだ。

「………」

確率として、この男が島本と関係なくシャブを食っているということもあり得る。

しかし直樹の頭を占めるのは、そんな一昨日見た夢のようなぼやけた可能性ではない。

当然のごとく真っ先に島本を介し、片桐を疑う。

時間にしてほんの数秒。

腕を引っ掴んだまま固まっている直樹を更に驚かせたのは、その彼の言葉だった。

上目遣いで直樹を見つめながら、彼が言う。

「……アレ?秋月くんやろ?間違いなく秋月くんやろ。俺、俺俺!」

「……?」

先ほどから考えていた、見覚えのある彼の顔。

しかしそう話しかけられても、まだ分からない。

「ほら、高校の時に隣のクラスにおった毛利やんか。知らんの?」

……この腕の痕を見た後だからなのかもしれない。

よく見ると、目の下にはクマができ、首の周りには栄養失調でできるような湿疹が見える。

呂律も回っていない。

高校の同級生だと言う彼の顔をじっと見つめる直樹だが、いくら頭を巡らせても思い出せない。

見た顔であることは確かなのだが。

直樹は少しの間頭を探り、すぐに思い出すのをやめた。

それどころじゃない。

彼に対する返事は取りあえず保留にし、直樹は島本に詰め寄る。

「アンタか?アンタが売ったんか!?」

「………」

直樹はカウンターをバンッ!と叩き、

「どないやねんッ!?片桐の命令か!!?」

そう怒鳴りつける。

「さぁねぇ…。アンタ、自分で片桐さんに聞いてみたら?あたしはよう知らんよ」

スッ呆ける島本の態度にムカついたところでしょうがないのは分かっているが、

「ウチの組はなぁ!シャブ扱うたらアカンのやぞ。知らんのか!」

それを聞き、島本はヘッ!と鼻で笑う仕草を一つ見せた。

「アンタね、ヨゴレの分際で誰に言うてんの?あたしは知らん言うてるやろ。女にスゴんどらんで片桐さんに直に言うたらエエやん」

ここで騒いだところで埒が明かないことも、知っている。

「くそッ!!!」

直樹はそう吐き捨て、毛利の腕を引き、店を出た。


「……秋月くん、秋月くん」

縋るように直樹の名を呼ぶ毛利。

「うるせェッ!!!」

直樹はそう返事をし、ダンダンと階段を昇って行く。

……冷静になったところで、コイツとの会話が成立するとは思えない。

車まで毛利を引き摺ってきた直樹。

有無を言わせず、彼をぐいぐいと車内へ押し込む。

そのまま車で走り出したのはいいが、目的地などない。

取りあえず移動しようと思っただけ。

助手席に座っている毛利は、聞き取れないほどの小さな声で何かをブツブツ言っている。

……引っ張り出してきたのはいいが、どうしたらいいのか分からない。


「……家は?家どこ?」

直樹の問いに、毛利は間髪入れず、

「家へは帰りませんよ。僕はアレをもらいに行くんですから」

続けて、彼はヘラヘラと話し出した。

「秋月くぅん、秋月くんはあの人と知り合いなんやろ?めっちゃ薄くてエエんやわぁ。うすーいヤツでエエんやぁ。ちょっと分けてくれるように頼んでくれんかなぁ。俺には冷たいのが必要なんやって。お金は働いて払うって言うてなぁ。うすーいのでエエから……」

……困惑を振り払うこともできなければ、掛ける言葉もない。

自分の方をじっと見つめながら、何度も何度もそう繰り返す毛利に、直樹は黙るしかない。

警察に突き出すのが一番なんだろう。

でもそうなったとき、芋ヅル式に……

今、自分にとって何が一番必要なのか。

自分は一体どうするべきなのか。

直樹の中で、その答えはそれほど難しくはなかった。


国道を走る車は、やがて大きな橋に差し掛かる。

直樹はその路肩に車を止め、彼を車から降ろした。

……顔を見たことがあるくらいにしか記憶がない、おそらく元同級生であろうこの男を、直樹は見捨てる。

「ひょっとして、秋月くんも持ってる?少し分けて」

「………」

一言も掛けることなく、直樹は一人で車に乗り込み、その場から走り去った。

バックミラーに映る覚束ない毛利の足取りを見て、奥歯が砕けそうになる。


東と片桐は今日、東京か……。

絶対許せん。

絶対に!!

直樹は沸々とそう考え、今日やるべき今日の仕事へと向かった。


腹からよじ登ってくる虫唾。

怒りが収まらない。

しかし今日の仕事は、笑顔でないと勤まらない。

これから向かうのは、スカウト。

この仕事を教えられた時に、事務所の人間から言われた。

100人声を掛ければ、その内1人は話を聞いて名刺を持ち帰ってくれる。

そしてその名刺を持ち帰った30人の内の1人は、電話を掛けてくる。

とても確率の低い仕事なので、とにかく片っ端から女性に声を掛けろ。

だが直樹の場合、少し話が違う。

声を掛けると、20人に1人は名刺を受け取ってくれる。

彼女たちの内7~8人に1人は、仕事の斡旋をしてくれと電話を掛けてくる。

他の者と比べて、かなりの高確率なのだ。

直樹はそれに気づいてから、命ぜられたこのスカウトの仕事を利用し、組には内緒で会社を作っていた。

これが、直樹のもう一つのビジネス。

本来こんなナンパのような行為は、自分の中で軽蔑に当たる部類だった。

しかし仕事と思えば何てことなく、自分たちのことを思えばどうってことのない行為。

俺のやっていることは、風俗店で働きたい人間の切欠でしかない。

そう自分に言い聞かせる。


直樹はこのビジネスのために、以前からお世話になっているあの印刷所で、新たな名刺を作った。

組が用意したものとは別に、直樹はこの名刺も女性たちに配っている。

その名刺の真ん中に書かれているのは『ライズ』という会社名。

代表取締役には、自分の名前。

電話番号は、当然組事務所の番号を記すわけにもいかず、ましてやタケシのマンションの番号にするわけにもいかない。

そこで考えたのが、電話代行業。

電話代行業というのは、電話の受け取りのみを代行してくれる会社だ。

直樹の名刺を受け取った女性は、それに記されている電話代行業の番号に電話をかける。

そこのテレフォンレディは、直樹が事前に指示した通りの応対をしてくれるのだ。

今回の場合、

「はい、人材派遣会社 ライズでございます」

と。

名刺を見て電話を掛けてきた女性は、直樹を指名してくる。

すると必ず、

「ただいま秋月は留守にしております。折り返しお電話差し上げますので、お名前とお電話番号よろしいでしょうか?」

そうやって女性から聞いた情報は、テレフォンレディがメモしておいてくれる。

直樹はそのメモを毎日取りに行き、自分から女性たちに電話をして、どういった店が良いかなどの話を詰める。

話がまとまれば、片桐とは全く関係のない店へ個人的に女性たちを派遣する。

そして、その稼ぎの17%を自分が受け取る。

そういうシステムにしていた。


今現在、直樹の息の掛かった女性は30名弱。

誰がいくら稼いだかの情報は、店から直樹へ連絡が入る。

彼女たちはその稼ぎを、直接直樹の元へと持って来る。

店から直樹へ流れる仕組みだと足がつく恐れがあるからだ。

日払いで給与を受け取っている女性がほとんどだが、直樹は17%の支払いを月末で構わないとしていた。

しかし直樹がこの仕事を始めてまだ1月も経っておらず、自分がどれだけ稼いでいるのかピンとこない。

その掴みきれていない自分の状況が、心情を焦らせる。

初めの頃は片桐のシマ内で済ませていたこのスカウト行為が、バレやしないだろうと今や限られたエリアの範囲を超えていた。

とにかく、急がなきゃいけない。

直樹は道行く女性たちに、笑顔のつもりで声を掛ける。

頭の中で組み立てられた螺旋階段を昇り、降り、時折眺めながら。


先ほど見たモノ。

うろ覚えの元同級生の顔。

中途半端な高さに捻り合った螺旋は、磁気を帯び、浮遊物を引き寄せる。

……笑顔でなければならない、このスカウト行為。

この日はとても調子が悪かった。


その夜、直樹はまた眠れずに布団の中でああでもない、こうでもないと体の角度を変えている。

薬物に対して、何故これほどまでに拒絶感を持つのか……。


あんなモン買った、アイツが悪いんや。

卵が先……

鶏が先……

卒業アルバムは東京に置きっ放しだな……。

毛利なんて名前、聞いた覚えもない。

でも顔は覚えている。

アイツは俺のこと、知ってたな……。

……アルバムも持ってきてないことだし、

よし、俺はアイツになんか興味がないことにしよう。

所詮、片桐がやっている悪事の何万分の1。

「………」


回る思考はなかなか止められず、全身を布団の中に潜り込ませようと掛布団を頭まで引き寄せるが、そうすると足がはみ出てしまう。

俺は足が出てると、寝られへんのやよな……。

今日、電話代行業に行ったら、女の子から7人も電話がかかっていた。

なのに、喜べないでいる。

……今日中に、東と片桐はコッチに帰ってきていると聞いている。

眠れないのは、布団から足がはみ出しているせい。

そう決め付け、この日直樹は眠れぬ夜を過ごした。


次の朝、直樹は片桐の事務所に寄り、やってしまわなければならない仕事を片付けている。

片桐はまだ事務所には出てきていない。

直樹はデスクワークを終えると、車で東の元へと向かった。

聞いておかなければ、言っておかなければいけないことがある。

そう考え、早く忘れてしまいたい元同級生の顔を思い浮かべる。

東のビルまで、そう時間はかからない。

車を駐車場へ止め、直樹はあの一般企業と変わらない、しかし何気ない図々しさを感じさせるビルの玄関を潜る。

同じ組と言っても、ビルに入る際には身分証明やボディチェックを受けなければならない。

当然直樹に疚しい部分はないので、その辺に時間は掛からない。

……俺は東に言いたいことがあるだけ。


エレベーターに乗り、あの面接の時以来の東の部屋へと向かう。

廊下を渡り、大きな観音開きの扉をノックすると、中から「はい~」という返事があった。

すかさず直樹はドアを開ける。

入り込んだ部屋には東と、あのお付の男。

東と向かい合うようにして座っているのは片桐だ。

そして、直樹と同じ事務所にいる片桐の腰巾着・佐藤。

4組の目が一斉にこちらを向いた。

……この空間に片桐もいることが、果たして吉なのか凶なのか。

今のところは分からない。

ただ、直樹がここに抗議をしにやってきたことに関しては、何一つ変わらない。


直樹を見た東がソファから立ち上がり、

「おー、秋月くん。秋月くんやないか。元気にやっとるか?」

そう言って歩み寄って来た。

「すぐに辞めてしまうんやないかって思うてたんやけどねぇ。頑張ってるみたいやんか」

東は直樹の両手を強引に握り締める。

握手をするように。

そんなテンションを持ってきたわけではない。

そう思い、口を開こうとしたとき、片桐の邪魔が入った。

「おいコラ、秋月。ワレェこがいな所で何しとるんや。仕事はどないしたんじゃ」

「………」

それには東が返事をした。

「ああ、ああ、片桐。秋月くんはね、私に会いに来たんや。そうやろ、秋月くん。まぁ、こっちに来て座りなさい」

「………」

東は再びソファに戻る。

直樹もそれについて行き、腰を下ろした。

直樹は重い口を開くでもなく、早速今日来た理由を話し始める。

「あのですね、東さん。聞きたいことがあるんですけど」

「お、何やろねぇ?まさかお給料アップって話じゃないやろね?そういう話やったら、横にいる片桐に言うてもらわな。私に言われてもかなわんわぁ」

「……いえ、違います」

と、そこで腰巾着・佐藤が口を挟んだ。

「おいコラ、秋月!お前一体何のつもりじゃ!?何ぞあるんやったら早よ言わんかい!コッチは忙しいんじゃ!!」

うるさい佐藤を少し睨む形になった直樹、再び口を開く。

「覚醒剤のことです」

……この言葉のせいで空気が重くなったのか、それとも自分の肩に力が入ってしまったのか。

どっちなのかは分からない。

だが少し気色の悪い間を、直樹は覚えた。

「東さん、前に自分のところは覚醒剤は取り扱わん言うてましたよね」

「………」

「昨日、ウチの事務所の関係で、覚醒剤の被害者に会うたんです」

「………」

黙ったまま、誰も口を開かない。

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