飛沫 1
―――― 思っていたものと随分違うであろうことは、想定していました。
ただ、俺がイメージしていたものとは随分とかけ離れており、
簡単なところから書いてしまうと、皆スーツなんか着ない。
初日にスーツを着て行った俺に対して、「着替えて来い」と帰らされたくらいです。
ベンツに乗っている人も、ほとんどいない。
これに関して問うてみると、「エエェ~?イヤよ、オッサン臭い!」という返事が返ってきたくらいです。
俺のものではないのですが、与えられている車が4WD。
結構、イヤかなり立派な車ですよ。
車の運転にも随分慣れましたね。
いろんなところへ、一人で行かされますから。
もう3ヶ月も経つので、いろんなことに慣れていい筈なんですが……
仕事にはもう慣れてしまいましたよ。
先ほど書いた、車の運転にも。
俺が今言っているのは、
俺が今、慣れないと言っているのは、人のことです。
もう書くことはないと思っていたこれを、今こうやって書いているのは、悪口を書きたいから。
悪口を言いたいからです。
あの片桐に、俺は慣れることはないのでしょう。
あいつはゲスです。
この3ヶ月の間に、俺が見ただけで5回命を狙われた。
人の恨みをナメている奴は得てしてああいう形に形成され、奥ゆかしいまでの外道な何たるかを得るのでしょう。
俺のいる組が、片桐も含め全部で7人。
人数は少ないのですが、強烈なまでの東の恩恵に与り、あの男はのさばるのです。
ただ一つ。
ここで加えることがあります。
俺は、その片桐のひとかけら。
片桐を取り巻く1つなのです。
いわば、プチゲスです。
日を改めようと、振り返ろうと、俺はその2段階下の片桐の恩恵を受けないと、何もできません。
何度も書きますが、片桐はゲスです。
蛙の子は蛙と言いますよね。
俺は一体、何の子ですか。
これから先、自分で決めていいのですか。――――
この日も直樹は、片桐のお付のような形でその場所にいた。
そしてこの日も片桐はニタニタとニヤケ顔で、大の大人を見下ろしていた。
ソファに深く座った片桐の目の前には、後ろ手に拘束され、足首も縛られた男が1人、呻き声を上げて横たわっている。
直樹はその光景を、他の3人と共に片桐の後ろで眺めているのだ。
「おいおい社長さん。嘘ばっかり言うて、吼たえてもろたら困りますやんか。期限はもう過ぎてますんやで~」
「……せ、せやけど、片桐さん。約束の分はちゃんと返しましたやろうが!」
床にうつ伏せになり、搾り出すようにそう答えるその男。
「ナニ言うてますの。あれじゃあ足らん言うてますやんか。利息が発生しますからなぁ」
そう言いながら、片桐はタバコに火を点ける。
「そ、そがいなこと言われたって、そがいな書類目ェ通していまへんで!とんでもない暴利やないか!」
その言葉を聞いて、片桐は男の髪の毛を引っ張り上げ、顔を持ち上げた。
「借りといて返せん人は、み~んなそう言いますねん。社長さん、そがいなネタ全然おもろないですわ」
片桐はそう言い、片手に持っていた火の点いたタバコを男の鼻の穴に押し込んだ。
「アヅッ!!」
タバコが折れる音なのか、火が消える音なのか。
ギュッという音を鳴らしながら、じんわりと不快なニオイが立ち込める。
男は頭を左右に振り、押し込まれたタバコを振り払おうとする。
それを眺めながら、片桐はもう一度別のタバコに火を点け、今度は男の耳の穴に押し込んだ。
途端ギ、とかガ、などの声を上げつつ、男は床に耳を擦りつけ、タバコから逃れようとのた打ち回る。
散々リンチを加えた後、精神力まで奪ってしまおうという、こんなやり方。
もっとエグイ光景も目の当たりにしたことがある直樹は、頭の隅で考える。
……どうやら今日の片桐は機嫌が良いようだ、と。
直樹は、目の前で繰り広げられる風景に近い光景に、もう舌打ちも出ないほどに慣れてしまっていた。
俺は今、このゲスと表する片桐の真似をしながら生きている。
……あとちょっと、
あとちょっとなんや。
俺らには、金が要る。
自制のタガはその信念。
直樹は顔色一つ変えず、その風景を見つめている。
「おいオッサン。嘘ばっかり吐いとったらアカンぞ。売るモンも何もない言うてから、ちゃんと隠し玉があるやないか。知っとんねんぞ。まったく、勿体つけますなぁ」
はぁ?という声を洩らした男はまた、片桐によって地べたに顔をこすり付ける羽目になる。
「まぁ、もうちょっと待っときなはれ。もうすぐ来ますさかいな」
しばらくの沈黙の後、外から階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
強めに2回、ノックされたドアが勢い良く開く。
息を切らせ、部屋に飛び込んできたのは、茶封筒を握った一人の女性。
今、この目の前で横たわっている男の娘。
「おーおーおーおー、ごくろーさんごくろーさん。さすが公務員。ちゃんと時間守りますなぁ」
ゼイゼイと息を吐きながら、娘は片桐へと近づいていく。
直樹たちその他は無言のまま、一歩も動かない。
慣れているのだ。
「お父さん!大丈夫!?」
泣き出す寸前のように叫び、その娘はうつ伏せになった父の背中を擦る。
そして、大事に持っていた茶封筒を片桐に向かって突き出した。
「退職金です。300万あります。これでエエですか」
「………」
無言のまま片桐はその封筒を受け取り、振り返ることもなく背後の直樹たちに渡す。
直樹たち3人はそれを開け、札束を取り出し、間違いなく300万あるか数え始める。
「しかしまー、アレですなぁ。この小汚いオッサンから生まれたとは思えんベッピンさんですなぁ」
這い蹲ったまま、そこまでの遣り取りを聞いていた男が嗚咽を漏らし始めた。
……こんな光景は、もう慣れた。
直樹は前方に視線を送ることなく、札を数え続ける。
「お父さん、仕事辞めてしもうたけど、これからまた私、頑張るからね。もう大丈夫やで」
言いながら父の背を擦り続ける娘に、片桐が口を開く。
「申し訳ないんですけどな、今数えとるコレが300枚あったとしてもや。まだまだ足りませんねん、コレが。あとお札さん、500枚要りますんやわ」
片桐は娘に、先ほどの書類を突き出した。
「………」
「破いたらあきまへんでー。まぁ、ソレ破いても原紙はコッチにありますけどな」
娘はその書類に、頭を冷やすように、この状況を飲み込むように、目を通して行く。
10分ほどをかけ、彼女は手渡された書類を熟読する。
やがておもむろに顔を上げ、片桐へと向き直った。
その顔は息を切らせ、部屋に飛び込んできたあの慌てた表情とは別人のもので、すっかり落ち着きを取り戻している。
「で、どうすればよろしいですか?」
こういう窮地に陥ったとき、腹をくくるのは女性の方が早い。
直樹の中で、これは確信になっていた。
女性が相手だと、ここから先はとても話が早いのだ。
「お。お嬢さん、話が早いなぁ。ほんまに助かりますわ。そうやないと、なぁ社長」
しかし、泣いていた父親は黙ってはいない。
「千春!そんな話、聞かんでエエ!!今すぐ警察へ行け!お父さんに気ィ遣うな!!」
「おいおい社長。今回の場合、ヨゴレは一体どっちなんや。コッチはちゃんと書類揃うたあるぞ。警察に調べられて困るのは、アンタら家族ちゃいますんか。アア?」
その遣り取りを、娘はまるで無視するかのように声を上げた。
「……私が500万返します」
「やっぱりそうやわなぁ。オヤジがこんなことになっとるんや。一刻も早く助けたりたいわなぁ。心配せんでエエ。ワシが何とかしたるさかいな」
……ここからはお決まりのコース。
片桐は背後に向かって声を掛ける。
「おい田中、505用意せぇ。秋月、車回して来い」
505というのは、いつも使うホテルの部屋番号。
命令された2人は即座に返事をし、田中と呼ばれた男が電話を掛け始める。
手足を縛られたまま床の上でのたうち回りながら、泣き叫ばんばかりに声を張り上げる父親を尻目に、片桐と娘、そして直樹はその部屋を出た。
ドアの向こうから、いつまでもいつまでも聞こえてくる、耳をつんざくような悲鳴や嘆きや嗚咽や怒号。
その交じり合った慟哭たちは、ただただ空気を震わせるだけのもの。
直樹の運転する車の後部座席で、片桐は娘に説明を始めた。
「エエか。アンタはな、今から個人営業のコンパニオンや」
「………」
「今からなぁ、○○県へ行ってもろうて、旅館で働いてもらうことになるわ。人身売買じゃー何じゃームニャムニャ言われたらかなわんさかいな、書類にきっちり書いてもらうで」
「……コンパニオンというのは……」
「まぁ、そりゃ行ったら分かる。せやけどな、前金で500万払うてもらうわけよ。プロ野球選手がもらう契約金とは違うぞ。給料を前払いでもらうんや。一生懸命働いて、早ぅ帰っておいでや」
彼女が今から行かされるのは、とある観光地の旅館。
そこで観光客を相手に、一晩3万円で仕事をすることになる。
俗に言う枕芸者だ。
これから彼女を待っているのは、いつ終わるとも知れない娼婦のような仕事。
人身売買にならないように、あらかじめ個人営業のコンパニオンという形を取らせる。これはいつもの片桐の手。
そうやって送り込んだ彼女たちに外へ出られては困る片桐は、その手段として、また更にお金をせしめるために、半年に一度高級ブランド品を売りに旅館へと赴く。
シャネルのバッグや指輪などの宝石類、時計……
他に楽しみのない彼女たちは、それらを買ってしまう。
そしてまた、借金が増える。
ローンで購入するために、今一体自分がどれだけの借金を背負っているのか、彼女たちには把握できない。
そうやって、自分がどうしてここへ来たのかすら分からないほどの長期間、彼女たちはその地に閉じ込められるのだ。
何年も、何年も。
よくあるそんな形を、片桐も取っていた。
「まぁ、今から旅館に行く前にな、ワシと1回付き合うてもらうで。背中にモンモン(刺青)がありました~じゃあ、お客さんに可愛がってもらえんからなぁ」
「……はい」
直樹はミラーをちらりと見て、思う。
返事をしてしまった……。
これから先は地獄やのに。
ホテルに着き、片桐と彼女は中へと入って行く。
505へ行った2人は、毎回大体1時間ほどで戻ってくる。
与えられたこの1時間、直樹はいつもと同じように車を駐車場に停め、何も考えずに過ごす。
やがて、車内の電話が鳴った。
『よっしゃ、今から行ってくれ。車回して来い』
直樹は指示通り、ホテルのエントランスに車を着け、再び2人を乗せて走り出す。
途中、片桐は事務所の前で車を降り、彼女に声を掛けた。
「ほんなら頼みますよ。辛いこともあるやろうけどな」
それに、彼女は俯いたまま、
「……はい」
と返事をする。
……返事なんかしなくていいのに。
直樹はいつもそう思うのだ。
「秋月、ちょっと出て来い」
その呼びかけに、直樹は車を降りて片桐に近づいた。
「エエか、最低でも600で売って来い。分かっとるな?どこに売ってくるかはお前に任す。お前はこの後、売ってきたら直帰でエエぞ」
「……はい」
直樹はまた車に乗り込み、彼女と共に次の目的地へと走る。
片桐がこういう形で契約を済ませている旅館は、3ヶ所。
直樹はその3つの旅館を、キツネ・タヌキ・カエルと名前をつけて呼んでいた。
それらは、その旅館の女将の顔を見て直樹がつけたあだ名。
名前で呼ぶよりこの方が何も感じないで済む。
そう考えた、直樹の手段。
「……今回はキツネにするか」
口の中で小さく呟く。
2人きりの車内は当然、静まり返っていた。
密度が濃いのか薄いのか。澱んだまま流れもしない空気の重さも、はかることを諦めて久しい。
そして正直言えば、それすら頭を過ぎらない。
車は数十分で、一般道から高速に入った。
その頃には、大抵の女性は俯くのをやめ、周りの景色を眺め始める。
今回の彼女も漏れなく、そう。
スピードを上げて30分も経った頃には、外を眺め出していた。
直樹はミラーを見遣り、後ろの様子を窺う。
あわよくば…とも考えてなさそうなその表情を見て、もちろん考えるところはあるが……
……イヤ、違う。
これはずっと、俺がやりたかった仕事なんだ。
そう自分に言い聞かせ、思考の巡りをストップさせる。
どんどん視界に入ってくる前方の景色にも、後ろへ後ろへ遠ざかって行く両隣の風景にも、直樹の目を引く真新しいものなど何もない。
……手のひらで繰り返し揉み消した、思考の種類と同じ。
「あのう、お腹空きませんか?もうちょっと行ったところで食事ができますけど」
直樹の言葉に、しかし彼女は即座に
「いりません」
と返す。
彼女からしてみれば、俺なんかは人ではない。
このまま事故って死んでくれ、とでも思っているんだろう。
フィルターをかけ、濾過しながらこんなことを何度もやっている直樹。
途中、車内の電話でキツネに連絡を入れておいた。
「今から行きます」とだけ。
高速に乗って2時間。
目的の旅館はそこにある。
直樹の車が旅館の敷地内に入ると、即座に迎えのために飛び出してくる女将と旦那。
……キツネ。
彼女は髪を、これでもかというほど引っ張り上げたアップにしているせいで、目がきゅっと釣り上がっている。
ガリガリに痩せた体。
面長の、厚化粧で化けた、その姿。
キツネは直樹を見て、
「あらあら秋月さん。ご苦労さん」
「あ、どうも。お久しぶりです」
挨拶もそこそこに、女将と旦那は手続きのために彼女を中に連れて行く。
二度と会うことのない彼女たちの姿が建物の中に入り、見えなくなるまで見届ける。
こんな行為が全く何の意味も為さないことは分かっているが、直樹は必ずそうすることに決めていた。
……微妙確信諦念無駄慣習義務観念達観思案、目的
、オカネ
……それでも、
直樹にとって、女性たちをここまで連れてくることが仕事だと思える日は来ない。
玄関の、直樹の定位置で待つこと10分。
キツネの女将が直樹に駆け寄ってきた。
「片桐さん、今回なんぼや言うてました?」
「600です。最低でも600。そう言うてました」
「600かいな……うーん……500にならん?」
「なりません。600です」
「そっか……。ベッピンさん連れてきてもろうたからな。じゃあ600万振り込ませてもらいますわ」
「お願いします」
交渉成立。
ここまでで、直樹の仕事はいったん終わる。
直樹は旅館を出て駐車場へと向かったが、すぐには帰らない。
この後もう一つ、直樹個人の仕事が待っているのだ。
直樹は車に乗り込むと、この地でいつも行く定食屋に向かった。
そこで食事を済ませ、本屋などに寄り、1時間ほど過ごした後、もう一つの職場へと走る。
これはあくまで組には内緒。
直樹が個人でやっていること。
やって来たのは、山道にある一軒のラブホテル。
車は何の戸惑いも見せず、黄色の細く連なったカーテンを潜る。
フロントで手続きをするでもなく、直樹はズカズカとホテルの薄暗い廊下を歩いて行く。
直樹の、いつものペース。
ホテル内を熟知しているその足取りは迷うことなく、ある一室の前で止まった。
二度ノックして、ドアノブを回す。
鍵のかかっていないその部屋にいたのは、先ほどのキツネ。
「すいませんね。待ちましたか」
「ううん。待ってへん、待ってへん」
齢50を過ぎたキツネは結っていた髪を下ろし、そのギスギスに痩せた体にバスローブを羽織ってベッドに腰掛けている。
その光景も、もうとっくに見慣れたもの。
直樹は挨拶だけすると早々にバスルームに入り、シャワーを浴びる。
一応礼儀なので、と浴びるシャワーは行水程度。
ざっと体を洗い流してバスローブを纏い、自分もベッドへと向かった。
電気を点けない薄暗い部屋は、直樹の希望。
これも今後のためと、この空間を我慢だと自分に言い聞かせたのは最初の3回だけだった。
「えーっと、いつも言いますけど、これは買春・売春の類ではないッスから。これは女将さんと俺の、愛の形ッスから。いいッスね?」
「アハハハハ!秋月くんはほんまにいつもマジメやねぇ。そうやったね。前払制やったね。ハイハイ」
そう言い、キツネは財布から10万円を取り出して直樹に渡す。
「これは、えー、高速代含めた運転手料金ッスから。OKッスよね?」
「ハイハイ。OKOK」
ここまでを、お決まりの文句・お決まりのコースとし、直樹はこの後キツネとベッドを共にするのだ。
……俺ら人間から見れば、サルとチンパンジーはさほど違わないように思える。
でもアイツらが交尾をするのはあり得ないらしい。
人間とサルが交尾をすることくらい、あり得ないことらしい。
俺はキツネとタヌキとカエルを、コンスタントに相手にしてるぞ。
生物学的に、コレってどうよ?
そんなことも、たまに考えてみる。
それから30分ほどの時間が過ぎ、直樹は再び服を着て帰り支度を始めた。
枕元に置いてあった10万円をそっと取り上げ、そっと2つ折にし、そっとポケットに入れる。
「秋月くんは、次はいつ来れそうなん?」
「……分かりませんけど、まぁまた会いに来ますよ。いつものように、バレないように裏から出て行ってくださいね」
「ハイハイ」
キツネのその返事を背中で聞きながら、直樹は部屋を出る。
廊下に出てドアを閉めると、ポケットからお札を取り出し、間違いなく10枚あるかを数えた。
「……よし、10枚ある」
そしてまた、先ほどの廊下を間違いなく戻って行く。
ここまでが、直樹のもう一つの仕事。
時給10万円の、こんな仕事。
……今日は直帰でいいって言ってたよな。
夕日を浴びながら、車は順調に高速を走って行く。
対面していないのならば、少しは有心も許される。
直樹は行きとは逆の景色を眺めつつ、そんな自分ルールに思考を委ねてみる。
摩擦を帯びるっていうのは……もっとこう、うまく行かへんもんかな……。
熱を帯びてくると、痛くて恐ろしくてかなわん。
もっとこう、限りなく球に近い形。
凸凹がない、甲乙がない丸いものになれば、全部いなせるんかもしれんのにな。
様々な行為を重ねるたび、揉み消したつもりでも燻りをやめない小さな棘は、無心を装う脳の表面に深浅の火傷を残す。
車内で音楽を聞くでもない直樹。
爪を噛みながら考える。
我が身への殺生はな、どうってことないぞ……多分な。
斜に構えている自分が揺らぐ。
グラッと寄りかかりそうになる思考に左を添え、息切れする我を背から押す。
そして曇り空を見ながらでも、ああ、何ていい天気なんだと言ってみせる。
これでもな、目標があれば生きて行けるもんやぞ。
売り・買いさせるくらいやったら、自分でする。
これは不可抗力です。自分の手腕ではどうにもならないんです。
俺のせいではないんです。
うろたえ、そう言う自分を思い、歯の隙間から漏れる何か……。
今は、言い訳してでも生き長らえる。
責任を問われたら、その時償うよ。
悪党は自分の罪を振り返らないんだろ。
だったら今の俺も、しなくていい。
碁石の白を赤く塗っても、囲碁はできるはずだからな。
車をなるべく急いで走らせ、帰路の中の直樹。
「あ。あのインターに美奈子ちゃんの好きなお菓子売ってたな。寄って行こうか……」
わざとそんな独り言を言ってみた。
直樹が借りているこの車は、タケシのマンションから少し離れたところに駐車場を借りて置いてある。
面倒ではあるが、バレないためにはこうするしかない。
直樹はその駐車場から自転車に乗り換えて、マンションへと帰る。
自転車で駆ければ数分の距離。
この体に纏わりつくのは、臭気を孕んだ汚泥。
こびり付いたヘドロ。
それでも頬に当たる冷たい風に、ようやく呼吸を自覚する。
直樹はペダルを踏む足に力を入れ、マンションのあの部屋を目指す。
「ただいま」
時刻は午後7時を過ぎたところ。
部屋にはタケシが帰っている気配はない。
台所に行くと、シンクの上に美奈子の食器が洗って置いてあった。
金策として勤めているのはいいんだが、俺がいない間に美奈子ちゃんが体調を崩したら……。
それが気がかりであるのは確かだが、手術をしてその心配を元から断つことに専念した方がいい。
そう思っている。
直樹は次に、シンクの隣に置いてあるゴミ箱を覗いてみた。
それは直樹が帰宅した時、必ずすること。
美奈子がちゃんと薬を飲んだかどうか、確かめるためだ。
が、今日は薬を飲んだ様子がない。
……あ、忘れとるな。
そう思い、直樹は美奈子のドアをノックする。
「おーい、起きてるか?」
すると部屋の中から
「うーん」
という美奈子の声。
直樹がそっとドアを開けて中を覗くと、美奈子は机に向かって勉強していた。
彼女のその姿を見て、直樹は訝しく思う。
この日の美奈子はどういうわけか、部屋着ではなくまるで出掛けるかのような服を着ている。
「なぁ美奈子ちゃん、薬飲んでへんのちゃうん?」
「あ!忘れた」
「まったく…。熱は?計った?」
「あ、忘れてるわ。でも調子いいよ」
「アカンアカン!」
そう言いながら、直樹は美奈子の部屋に入って行き、小さなテーブルの上に置いてある体温計を取り上げる。
「アカンでェ。ちゃんと計らな。9度以上の熱じゃないと自覚症状で分からんみたいやからね。ちゃんと計っとかなアカンのやで」
直樹が体温計を差し出すと、美奈子はうん、と返事をしてそれを脇に挟んだ。
「夕飯は?何時頃食べた?」
「えっとね……5時過ぎ」
「2時間くらい経っとるなぁ…。薬も忘れたらアカンやんか。
あ、そうや。ちょっと仕事で車で出る用事があってね。美奈子ちゃんが好きなあのお菓子。あの丸いヤツ、買って来たで。それ食べてから薬飲もうか」
「うん」
……1人で食事をさせてしまって、本当に済まないと思う。
「お茶入れるからテレビの部屋行こうや」
そうして2人は部屋を出た。
テレビを垂れ流しにしながら、特に会話をするでもなくこたつに入っている2人。
直樹は新聞を読んでいる。
いつもならこの空間は、美奈子が機関銃のようにお喋りをし、直樹がそれをうん、うんと聞いているタイミング。
今日の美奈子は何となく物静か。
それが、気にはなっていた。
「……ねぇ」
美奈子が話し始めた。
「秋月くんって今、どんな仕事してんの?」
「え、……うーん、まぁ営業みたいなもんかな」
「ふーん」
何となくぎこちない空気だが、直樹はその辺りをあまり気に留めない。




