試 5
今日はこれまで、あっちでもこっちでも嘘を吐きすぎて……
まるで船に乗った後かのように体が揺れ、宙に浮いているような気がする。
三半規管への衝撃なんかなかったのにな。
……誰のためや?
我慢できるやろ?
ブツブツとそう唱え、自転車に乗って移動する。
役所、法務局などを回り、今日できることを全て済ませた頃には、もう夕日が差す時間になっていた。
コンビニで買ったサンドイッチを公園で食べながら、薄紫に照らされた町並みを眺めている。
……誰にだっていろんな種類の、自分のための優先順位がある。
道行く人を見遣り、
昨日はあの人が踏み台だったかもしれない。
今日これから、あの人は踏み潰されるかもしれない。
……俺も明日、そうなるかもしれない。
ぼんやりと、そんなことを考えている。
…今日1日。
出来すぎやろ。
何か、メチャクチャ怖いな……。
まぁ、差し引きゼロで計算するんやったら、こんなにツイてる日があってもエエんかな……。
万事がうまく行った先の落とし穴。
……飛び越えなアカンねん。
今日の俺の1日。
1円にもなってへんなぁ…。
明日はがんばろ。
直樹の構想の中で、もう明日できることしか残っていない今日。
まだ夕方ではあるが、コートの襟を立て、手袋をはめ、自転車に乗り、マンションの部屋へと向かう。
誰に見せるわけでも見られているわけでもないのに、規制を張り、しれっと過ごしたかのように見せたこの日。
直樹は少し疲れていた。
まだ4時過ぎだというのに、眠くて仕方がない。
夕飯の用意だけして寝ちまうか。
そんな気分で、着いた部屋の玄関を開ける。
「ただいまー」
言いながら廊下を歩いていると、美奈子の部屋のドアが開いた。
「秋月くん、さっきね、パッくんから電話があったよ。7時にいつもの店へ来いって言うとったで」
「あー、ほんま。ありがとう」
軽く返事をして、リビングに座り込んだ直樹。
着替えもせずに、そのまま眠ってしまった。
「……ちょっと、秋月くん!秋月くん!」
体が揺すられて、うっすらと声が聞こえる。
目を開けると、目の前に美奈子の顔。
「風邪ひくやんか、ほんま。パッくんからまた電話がかかってきたよ」
ボーッとする頭を掻きながら、そういえばそんなことを言ってたな、と思い出す。
……本当は今日、このタイミングで、直樹はパクに会いたくなかった。
「もう6時半やで。行かな遅刻するよ」
美奈子の言葉に「うん」と面倒臭そうに立ち上がる。
「……いいなぁ、みんな外へ出て。私も出掛けたいわ」
「イヤ、パクウに会いに行っても、下らん話でダベッてるだけやで?」
「ねぇ、私も一緒に行ってもいい?最近すごく体調いいし」
「でも、外メッチャ寒いよ?」
「大丈夫、大丈夫!ちゃんと着込んで行くから!たまには外の空気、吸いたいんやわ」
そう言って、美奈子は部屋に入って行った。
医者からは、極力運動は避けるようにと言われている。
だが美奈子も、年がら年中部屋の中に閉じこもりっきりというわけでもない。
少し心配ではあったが、今日は付き合ってもらおうかな、と考えた。
直樹はリビングに置いてあったカイロを何個か擦り、それをタオルで巻く。
「もう着替えてしもうたから、アカン言うても止まらんよ?」
そう言って部屋から飛び出してきた美奈子に、
「まぁ、じゃあ今日は特別やで?お腹冷えたらアカンから、コレ巻いとかなアカンよ」
と、タオルで巻いたカイロを渡した。
……今日は特別か。
一体誰の特別やねん。
美奈子はこたつの上に、タケシ宛の置手紙を書いている。
そして2人は、パクの待ついつもの居酒屋へと出掛けた。
なるべく美奈子を歩かせないように自転車で行くことにし、後ろの荷台に美奈子を乗せて走る。
「寒うないか?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
赤信号で自転車を止め、直樹は自分がはめていた手袋を美奈子に渡した。
「こんな寒い日に外へ連れ出したら、タケシに怒られるんちゃうやろか」
「大丈夫やって。最近調子いいし」
信号が青に変わったのを確認し、また自転車で走り出す。
不意に美奈子が倒れた、先日のあの光景を思い出した。
全身の血管が縮む感覚。
背中に汗を掻く思い。
タケシはあんな思いをクリアできずに、何度も経験していたのか。
話しかけてくる美奈子の声を半分だけ聞きながら、いろいろと振り返り、考える。
後のことは後で考えようなんてのはあまりタイプやないけど、今はとにかく金やよな。
……あのムラタのビル、聞いた通り抵当権でベタベタやった。
これ見よがしにブッ建てとるが、まだまだ全然支払いの途中か。
よく銀行が金を貸したな。
あんな、パンクするような会社に。
……上半身辺りで集まっているかのようなこの血液を、早く爪先の方まで巡らせてやりたい。
「よっしゃ、急ぐで!」
「おー!行けー!!」
直樹は立ち漕ぎをして、スピードを上げる。
店に着き、入口を開けると、パクはいつもの席に座っていた。
「ハアッ!?美奈子お前、何でこんなトコに来とんじゃ!?」
入口ののれんを潜りながら、
「たまにはエエやんか」
と美奈子が答える。
「マジかよ…。お前が食うてエエもんなんか置いてんのかな…。まぁエエわ、早よ座れや」
メニュー片手に手招きをするパク。
彼と向き合うようにして、直樹と美奈子は席に着く。
その直樹を見て、パクが言った。
「直樹、お前何でスーツなんか着とんねん。ひょっとして就職活動か?」
「……あ、んー……まあ、そんな感じやけど……」
どう答えて良いのやら。
直樹は曖昧に返事をする。
幸いパクはそれ以上触れて来ようとはしない。
店員を呼び、メニューを見せながら、
「コレとコレとコレ。それと、コレ」
直樹と美奈子の分も注文してくれた。
パクもまた、美奈子の食べられるものは全て把握しているのだ。
「それでパクウ、急に呼び出して何の用事だ?」
「ま、追々話すよ。それより寒かったやろ。直樹、お前も熱燗でもどうや?」
「俺は自転車で来てるからな、飲んだらアカンよ」
……これからヤ○ザ者になろうとしている人間が言うセリフか?とも思い、酒くらい飲めないとやっていけないんじゃないか、とも思う。
目の前に料理が並び、いつものように下らない会話を3人で交わしている。
大声で笑っている美奈子は、今日は本当に調子が良さそうで安心した。
その内、彼女が自分の話をし始めた。
「パッくんな、今秋月くんおるから、私めっちゃ勉強見てもらってるんやで」
「おう、そうか。まー、そういう意味じゃ便利なんがおるわな」
「そうそう。秋月くん、まるでお母さんみたいやわ。ごはん作ってくれて、いろいろやってくれて……」
美奈子の前では、なるべく親・親族の話はしないようにしている。
照らし合わせたわけではないが、やはり酷なような気がして、それが自分たちの暗黙のルールになっていた。
そして今の直樹は美奈子のその辺を思い、自分もまた胸が焦げるような感覚を覚えている。
「私ねぇ、ちゃんと勉強して、看護婦になろう思うてんねんで。パッくん、すごない?」
「おーおー!ゴッツイ家庭教師がおるからな。全然イケるやろ」
「それでな、お兄ちゃんもそうなんやけど、パッくんとな、秋月くんな、いつもありがとうね。
お兄ちゃんがお父さんで、秋月くんがお母さんで、パッくんがお兄ちゃんで……、ほんまにありがとう。
私、友達もおらんから、ほんまにありがとう」
「……アホか。礼なんか言わんでエエねん。そんなモン、子供はな、そんな気ィ遣わんでエエんじゃ」
パクは照れくさそうにそう言う。
「コイツがお母さんいうのは、ほんまにそうやろな。俺らの中でもヘレンさんやって決まっとるからな」
「ヘレンさん?っていうかパッくん、子供って!一体私、何歳やと思うてるんよ?」
「やかましい。ガキはガキなんじゃ。変な気ィ遣うな!」
その会話を黙って聞きながら、俺なんかまだまだ、何の役にも立ててねぇよ、と直樹は思う。
1時間ほど経った頃、少し酔い始めたパクが心持ち姿勢を正して直樹に向かって話し始めた。
「直樹な、完全に酔うてしまう前にちょっとな、話があるっちゅーか……」
「うん?」
「直樹な、お前、もう学校戻る気はないんか」
パクに言われて、いつも思い出す。
気にしていないフリではないのだ。
自分のことながら、今休学中であるということが念頭にない。
だから答えに困ってしまう。
「うーん……のらりくらりって考えてるわけでもないんやけどな。まだ行けへんよ」
そう答えるしかない。
「……あのな、直樹。お前アルバイトやってるやんか。ほんでな、保険とかいろいろあるやん。
ごっついデリケートな部分やからよぅ、俺もコレはおすすめや言うわけやないんやけど。
ウチの工場、一人辞めるんやんか。お前がその気やったら、ウチで一緒に……どうや?」
以前待ち焦がれていた、パクからの申し分のない言葉だった。
直樹は身を乗り出し、
「マジか!?」
そう言ってしまうが、すぐに思い出す。
まだスタートすら切っていない、自分で決めた自分の部分。
それが一瞬で頭の全てを覆う。
……さっき、美奈子が語った自分の目標。
そんなの聞いたこともなかった。
将来看護婦になろうだなんて、聞いたこともなかった。
それを聞いた今、こうやって食事をしながらダベッていることすら、時間のロスだと感じてしまう。
金が必要だ。
急がなきゃならない。
「……パクウ、せっかくやけどな、今俺がこうやってるのは、俺の問題やし。
俺は職場にパクウがおると、馴れ合うてしまいそうでな。自分で決めなアカンて思うてんねん。
ほんまにありがとうやけど」
パクは少し黙った後、
「おぅ、そっかそっか。うん、うん。そうやな。
ま、休学もな、いつまでか分からんし、一応な、こういう話があるっちゅーことで言うてみてん。よっしゃ、分かった。
まぁ直樹、何かあったら言うてくれよ?俺ができることがあるかもしれんからな」
そう言って、パクはまた酒を飲み始める。
……とても幸せだと思った。
自分のことを考えてくれる人間が、少なくとも3人いる。
俺も役に立たなければ。
自分のキャパシティを計り切れていない俺の広さは、まだ随分と余裕があるはず。
こう考えて、厚かましくはないだろう?
……心配をかけちゃいけない。
だから今回、俺がしようとしていることは、何があっても言ってはいけない。
「よっしゃ、ぼちぼち美奈子も寝る時間やしな。お前らの部屋行って飲み直しや」
席を立つパク。
「な!?まだ8時すぎやん!まだ寝る時間とちゃうで!あんまり子供扱いせんとって!」
「だからガキや言うとるやないか。家へ帰るぞ」
それを聞き、直樹と渋々の美奈子も席を立つ。
会計の前に来たところで、美奈子が
「ちょっと待ってて」
そう言って、お手洗いの方へ小走りに行ってしまった。
それと同時に酔っていたと思っていたパクが、少し顔を戻して直樹を見る。
「……直樹、お前無茶するなよ?お前もいっぱいいっぱいしんどいんやからな。
俺も仕事終わってから夜中、ドカチンやってんねん。まぁ毎日ちゃうけどな。
美奈子のことは俺らが考えてるから。お前は自分のことをじっくり考えろ」
「………」
声が耳に入ってきているその間、息を吸い込むのを忘れた。
ただ単に勘のみで、今ソレを言ったのか。
それとも俺から何かが滲み出ているのか。
咄嗟に怪しい今の自分の姿を想像し、
「ヘハッ!何や、ソレ……」
一応答えと呼ばれるものを返しておく。
その時、美奈子がお手洗いから戻ってきた。
「エライ混んでるから、家帰ってからにするわ」
「おいおい大丈夫かよ?漏らすんちゃうやろな?」
「だから、子供扱いはエエ言うてんねん、オッサン!」
……パクが睡眠時間を削り、お金を貯めていることを今初めて知った。
しかし
それでも
自分の中にあるこの意欲を、直樹は表にするわけにはいかないのだ。
夕方帰ったときは、あれほど眠くてしょうがなかったのに。
直樹はなかなか眠ることができず、真っ暗な部屋の中で布団に潜り込み、考え事をしている。
美奈子ちゃんの目標……
何が何でも叶えてやらないと。
…パクウが夜中バイトをしてるなんて、全然知らなかった。
タケシはそのことを知ってるんやろか。
以前タケシが言っていた言葉を、自分の頭の中で何度も繰り返す。
『そらぁ、俺かってこんな仕事したないよ。せやけどあの印刷会社に比べたら給料も倍以上やし。
そやけど、しんどいのはしんどいで。普通の仕事ちゃうしな。
まぁ、しんどいのはドコ行っても一緒やろ。今んトコ、命の懸かるような仕事もないしな。
は~~ぁ……宝くじでも当たってくれたらなぁ。俺もソッコーでな……。
とにかく美奈子をな、人並にな……。兄妹やからっていうんちゃうんやけどな、俺も母ちゃんもこんな顔ブラ下げてるのに、アイツだけは顔がシュッとしとるやろ?
男とかもできてな、結婚とかもな、……させてやりたいんや』
今どこで何をしているのやら、生きているのか死んでいるのかすら分からない家族の妄想をいったん止めたタケシにとって今、美奈子が全てなんだろう。
……給料が倍。
それじゃ間に合わんかもしれん。
ようやく俺にも覚悟ができたからな。
まだ帰宅していないタケシを思い、
お金ができたら、一緒にどっか逃げような。
そう考える。
踏み込んだ場を秘密にしている限り、パクとタケシにもこれから嘘を吐いていかなきゃいけないんだろう。
そんな状況が、どんどん増えていくんだろう。
過程がどうであれ、終わり良ければ。
こう考える現状を、感情を20%弱にして肯定し、突き進む怖いもの知らず。
これでいい。
この思いは、決して誰にも届かせはしない。
次の朝。
昨夜なかなか寝付けなかったにも関わらず、直樹は随分と早い時間に目を覚ました。
美奈子を起こしてはいけないので、ほうきで掃除を始める。
それが終わると朝食・昼食・夕食と3食分の美奈子の食事を用意し、洗濯物も片付け、一通りの家事を済ませた。
時計を見ると、9時を回ったところ。
直樹はよし!と一発顔を叩いてみる。
ちょうどいい。今から出れば10時頃になる。
いろんな店はもう開いているだろう。
直樹は家出した際に持ってきた大きめのカバンに、いろんなものを詰め込んだ。
私服を上下で2パターン
靴
整髪料
スーツ
コンタクトに変える前にかけていたメガネ
帽子は出てから買おう。
それと、えーっと……えーっと……
指を折りながら一つ一つ確認する。
目を覚まし、自室から出てきた美奈子に、
「ごはんは3食分冷蔵庫に入ってるからね。チンして食べてよ」
と、慌てて話しかける。
美奈子は直樹のスーツ姿と、手に持ったカバンに目を遣り、眉を下げた。
「えー……秋月くん、大きいカバン持ってどこ行くん?まさか出て行くんちゃうよね?」
……もう家出はしないよ。
「うん、ちょっとね。今日は遅くなるかもしれないから、夜までごはん作ってるから。
いい?もし万が一調子が悪くなったら、いつも言うてる通りにするんやで?
救急車呼んで、ここの住所言って、パクウの家か会社に電話。ね?」
「……うん、分かった」
美奈子の返事を聞いて、直樹は部屋の玄関を出た。
これからすべきこと。
昨夜はたっぷり時間があった。
考える時間が。
ダテに弁護士事務所でアルバイトなんかしてねぇ。
ダテに勉強ばっかりしてなかった。
そう思いながら、本当に自分の何たるかがダテでないことを願う。
この500万の紙ッキレの向こう側に見出すものがあると信じ、直樹は自転車に跨る。
外は快晴。
自転車で通り過ぎる景色を流しながら、直樹は考える。
昨日のアレは、警察手帳の提示を要求されたというものでもなかった。
今日俺は、その条件になれば、警察にでも何にでもなってやる。
直樹は自転車を商店街の方へと向ける。
途中、ムラタのビルを通り過ぎた。
……昨日よりも債権者が増えている。
昨夜練った計画上、あの債権者たちの存在は重要。
俺が行くまで騒いでいてくれ。
そう願う。
商店街に着くと文房具店を探し、黒い手帳と金色のマーカーを購入した。
サイズはこれくらいでいいと思うんやけど……。
見たことないしな。
表紙に金色の文字で『○○○警察』と書き、息を吹きかけ乾かす。
大体、警察手帳の表紙に何て書いてあるかも知らんのよなぁ。
映画やドラマじゃないんやから、提示を要求されることもないやろうけど、ミスするわけにはいかない。
そのニセ警察手帳をポケットに突っ込み、次はサングラス、そしてキャップも買う。
……出費がかさむ。
でも俺がやろうとすることは、エビでタイを釣ることではなく、エビでマグロを釣り上げること。
何十歩も先を見据え、そのままゴールまで走り抜けてやるという計画。
直樹は昨夜のパクと美奈子の遣り取りを思い出し、溜息ではない息を洩らす。
そうしていざ出発しようとした、その時。
目の前の町並みが意識に触れ、ふと思い出した。
この1本向こうの大きな通り。
急がなければ、と焦る心中を置き去りに、直樹はその通りへと自転車を向ける。
……すっかり様変わりした、紀子の住む家のあった通り。
久保スポーツの場所がどこだったかすら分からないほど変貌したその景色は、紀子の面影を微塵も感じさせない。
直樹はしばらくの間、その風景をボーッと見つめ、ごめんなさいと思考で唱える。
そして今度こそ、本来の目的地へと走り出した。
昨日の経験を踏まえ、自分より随分と年上の人たちが、随分と物事を曖昧に見ていると、そう感じていた。
昨夜眠れずに自分の中で立てた計画。
おそらくあの債権者たちは、隣にある不動産会社の社長とムラタが繋がっているとは思っていない。
きっと調べてすらいない。
直樹はもうすでに確認している。
田辺不動産が、新たに運送の会社を興していることを。
これまでの田辺不動産の資金力、それを考えると新しい会社を興すなんてのはまずあり得ない。
そんな資金があるのなら、不動産の方をもっと手広くやっているはず。
詐欺の常套法。
あれしかない。
本来存在しない金銭の取引を兄弟間で成立させ、証拠として書類のみをこしらえて、その返済を車などの物品で済ませている。
代物弁済予約とでも言おうか。
恐らくそういう形にしているはず。
ムラタ製版印刷所は自立できなくなり、何か良い方法はないかと弟に持ちかけたのだろう。
それで弟の田辺がうまく立ち回った。
資金力がなく、倒産目前のムラタの会社の現状が表沙汰になる前にいろんなものを購入させ、それらを横流しさせる。
トラックを買わせているのが何よりの証拠だ。
その見返りとして、田辺からムラタへいくらかのキャッシュバックがある。
所持金がゼロになるよりはマシと、兄のムラタはその取り込み詐欺に賛同し、今回の件に至っている。
……という推測。
ありえへんやろ。
最近購入したものが何一つ手元にないっちゅーのは。
流すルートを確保してるとしか思えん。
もし俺の考え通りでなかったとしても、それに近しいものであることに間違いない。
曖昧すぎんねん。
素人が聞き込みしただけなのに、情報が集まりすぎる。
計画倒産
詐欺
アルバイトの経験が生きている。
自分で取り扱ったわけではないが、こういう取り込み詐欺は間近で見ていた。
まったく。
やることがブサイクすぎんねん。
計画がメチャクチャで、頭が悪すぎる。
穴だらけじゃ。
これに気づかんアイツらも頭が悪すぎる。
物返せ~、物売った~、ハイそうですか~、やないやろ。
ここで直樹の考えていた計画は、
まずあの債権者たちに「お宅らから受け取った品を、この社長は隣に流しとるで」とバラす。
昨日のあの債権者たちの形相を見た限り、警察へ突き出す奴はいないだろう。
一文にもならないからな。
そして隣の田辺不動産に乗り込み、取り込み詐欺の片棒を担いでいることを問い詰める。
あの会社は儲かっているようだし。
運送会社をたたんでしまえば、支払えない額ではないだろう。
詐欺罪の片棒だ。俺の持っているこの胡散臭い不渡手形も買い取るはず。
元々仲の悪い兄のせいで自分が実刑を食らうなんて、そんな選択はしないだろう。
きっと、買い取るはず……。
直樹は自分の考えを確信にするため、ムラタの会社に乗り込む前に田辺不動産の敷地を覗き込んでみた。
しかし、確信にするためにしたこの行為は、直樹が確立させていた光景とはほど遠いもの。
……何でや?
運送会社も同じ敷地内のはずやったのに。
そこには『田辺不動産』の看板を掲げた建物しか建っておらず、どこをどう見ても運送会社を運営している様子がない。
おかしいな…。
トラックが出払ってしまっている、そんな様子もない。
建物を建てた。壊した。そんな形跡もない。
目の前にはそれなりの広さを持った、更地があるのみ。
試練とでもいうのだろうか。
自分を買い被りすぎてしまったような気がする。
十人十色と言うが、以前アルバイトで見た、同じような案件。
『同じような案件』と言っている段階で、想定の範囲が広すぎた。
直樹の目の前には、あるはずの会社が、ない ――――。
眉間に皺を寄せ、まるで西日に当てられているかのような苦い顔で、直樹はその場に立ち尽くす。
折れ曲がりそうになる膝に手をつき、持ちこたえた。
経験を数値に表すのであれば、ほぼゼロでしかない俺。
こんなもんだろう。
更に頭を使え。
と、そこで先ほどの光景が頭を過ぎってしまった。
たっぷりと人の気配のする、様変わりしたあの商店街。
とても無機質な、見慣れない、丈夫そうなものに加工されていた。
黒目が瞼の裏に隠れる錯覚。
まるで電源が今にも切れそうな自分の姿を思い、頭を振って目を覚まそうとする。
……違う。
お父さんは今後も、借りを作った人たちに対して何かを返そうなんて気は、毛頭ない。
俺はゴールの後、どんな目に遭っても構わない。
人がどうにかなってしまった時、そのどうにかなってしまったことに対して、何人が悲しんでくれるか。
それは人の価値の一部であることに他ならないと、そう思う。
多ければ多いほど、いいのかもしれない。
俺には3人もいる。
見据えた部分は、底まで水分の混じった薄い色ではなかったはずや。
折れ曲がった膝も、猫背も、そう考えることでいったん治めることができた。
取りあえず、やらなければならないことをしなければ。
どう転ぼうが、それは変わらない。
証拠を掴むんだ。
昨日、流れた車のナンバーやその他債権者たちから聞いた物品のことを調べておいた。
それらを満々に生かすつもりではあったが、ソコにないものはしょうがない。
直樹は調査事項をメモした紙をポケットに押し込み、田辺不動産の敷地をぐるっと一周して見て回る。
この田辺不動産もまた、夫婦で会社を経営している。
そして19歳になる息子が1人。
運送会社はその長男が社長として登録されていた。
直樹が歩いて不動産会社の裏手に回ると、そこには背中合わせに一軒の民家が建っていた。
登記簿通り。
この家には、家族が3人で暮らしている。
玄関には丁寧に表札が掛けられており、名前が記されていた。
直樹は2階建ての家を見上げ、考える。
まず、不動産会社。
そして、自分たちの家。
…運送会社。
調べた限りでは、その全てが間違いなく、この敷地内にギュウギュウ詰めで入っていた。
なのに、何で運送の設備がない…?
紙面上では間違いなく、会社が起き上がってここにあるはずやのに。
直樹はいつものペースを持ち直し、駆け足で頭を巡らせる。




