剥離 2
3人はリビングのテーブルで向かい合っている。
直樹とタケシ、その向こうにパク。
しばらく沈黙が続いた後、直樹が口を開いた。
「それにしてもタケシ、このマンションすごいやんか。テレビとかも大きいし、部屋も何個あんねん。
ヤ○ザってそんなに儲かるんか?」
するとタケシは即座に
「シッ!!秋月、美奈子は知らんのや!」
そう言って、辺りをキョロキョロと見回し、美奈子を探す。
そこへ、相変わらず不機嫌そうなパクが言った。
「美奈子には部屋に入っとき言うとるよ。聞いてへん」
「あ、そ、そうか……え、えーっと……ここな、まぁ先輩っていうか兄貴っていうか、その人のマンションやねん。
このテレビとかも全部、その人のヤツやねん。貸してもろうとる」
タケシは少し斜めに体の向きを変え、直樹に向かって続ける。
「実はな……恥ずかしい話なんやけど、金が貯まらんでな。
前の印刷会社、アソコに文句があったワケやないねん。
せやけど、金が貯まらへんのよ。
梶さんって言うんやけどな、あ、このマンションの持ち主。
前からちょっと知り合いでよぅ、何となく話したら、今の仕事をな、紹介してくれたっちゅーか……」
タケシはとても話し辛そうに、現状を直樹に説明している。
だが、ここで声を荒げたのはパク。
テーブルをバンッ!!と叩き、
「だからよぅ!!俺もゼニ貯めてる言うたやんけ!!ほんでソレはあげるんやなくて貸す言うとんねん!!」
「だから、そういうワケにはいかん言うてるやんけ。何回言わすんや」
……美奈子の手術代のことだと、確信した。
パクは腰を上げ、タケシの胸倉を引っ掴む。
「美奈子の手術がどうでもエエ言うとんちゃうねん!急がなアカンのも知っとる!
せやけどなぁ!ヤ○ザみたいなモンになってゼニこしらえたとしてもや、お金貯まりました、じゃあって抜けれるモンちゃうやろ!!
お前がやってることはごっつい安易な、軽率な行為やぞ!!
ちょっと頭使えや、タケシ!!」
「………」
しかし、ああ言われてもこう言われても、タケシは一切攻撃的な面を見せない。
……タケシだって、そんなこと分かってると思うよ。
直樹はようやく、言っておくべきことを言うことにした。
「パクウ、そう頭ごなしに決め付けるなよ」
そう言ってパクを制し、少し考える。
本当は、あまり言いたくない。
「2人とも、俺の親父と親父の会社、知ってるやろ?」
直樹の言葉にパクも直樹に向き直り、腰を下ろす。
直樹が家のことを話し出すのが珍しいからだ。
「ウチの親父の会社もな、表に出てるクリーンな部分と、外には出せれんブラックな部分があるんや。
俺、子供のときからヤ○ザモンの人らに、結構知り合いがおるんよ。
…あー、知り合いっていうか、まぁ、お小遣いもらったりね、遊んでもろうたりしたことがあるんや」
2人は少し驚いた様子で、直樹の話を聞いている。
直樹は2人に説明した。
ああいう人たちの中には本当に悪い人もいるが、そうでもない人もいる。
「必要悪っていうワケじゃないんやけど、あの人たちがおることでな、うまく社会が回ってるっていう部分も少なからずあんねん。
パクウな、○○の駅前にゴッツイでかいホテルあるやん」
「…おう。ホテル○○○○○○やろ?」
「そう。アソコの経営者ってヤ○ザやぞ」
「「………」」
2人は一瞬絶句する。
「…嘘吐け直樹!お前、エエ加減なこと言うな!俺らが知らん思うて!ヤ○ザがそがいなフツウの商売しとらへんやろ!」
こんなに頑固なパクも珍しいと思った。
直樹は続ける。
「ほんまやって。何やったら○○○○○○って全国チェーンの飲食屋あるやろ。アレもそうやぞ。
嘘やと思うんやったら、調べてみたらエエよ。○○○○って名前の人やから。あの人は○代目○○○会の会長なんや」
直樹の話は10分ほど続いた。
パクもタケシも半信半疑の表情だったが、途中からは呆気に取られたような顔をして聞いていた。
「タケシが何か悪いことをしでかすなんて、決まったワケやないやないか。そやろ?タケシ」
「イヤ、先のことは分からへんねんけど……」
「俺はまだ学生やから……バイトやってるけど高が知れてるし。
あんまり力になれんかもしれんけど、美奈子ちゃんの手術は確かに急ぐもんやからな」
ここでいったん俯いたパク。
「あ――――ッ!!直樹!お前に理詰めで来られたら勝てるワケないやんけ!!お前、東京くんだりから一体何しに来たんや!!
くそーッ!!こうなったらタケシ!将棋盤出せェ!いつものヤツで決めるぞ!!」
将棋盤……?
「何やパクウ、将棋すんのか?」
「そうか、直樹は知らんのやな。俺らはいつも、意見が分かれたときは将棋のへこまわしじゃ!」
「へこまわし?」
その直樹の問いにパクは、
「知らんで結構!」
「……おいパクウ。お前、俺の人生、何や思うとんや。何や、俺はへこまわしで負けたら、足洗わなアカンいうことか?」
「おう、そうや!今から賭け事決めるぞ!
もし俺が勝ったら、お前はこの後すぐに直樹と東京に行ってもらう。
しばらく東京暮らししてもらうぞ。そうでもせんと逃げられへんからな!
美奈子はウチで預かる。
ほんで俺が負けたら、今後一切お前のやることに文句は言わん。これまで同様の付き合いで行く。
どうや!乗らんって言わさんぞ!!」
タケシは
「よし、分かった」
と静かに答えた。
そして将棋の駒と盤を用意する。
「直樹、お前は中立で頼むぞ。コイツがイカサマせんか見とってくれや」
パクにそう言われたが、
イカサマも何も、本将棋のルールもよく知らないが、このへこまわしってヤツ、何だ?
スゴロクみたいなものか?
どうなったら終わりなのかもよく分からない。
その、子供がするような将棋遊びに、2人は真剣そのもの。
直樹もつられて手に汗握る。
一体何時間やったのか分からないが、そのへこまわしで勝負はついた。
タケシが勝ったのだ。
「よっしゃーッ!」
や、
「俺の勝ちや!!」
そんな勝ち名乗りはなかった。
スムーズにそのへこまわしは終わり、それと同時にパクはスッと立ち上がった。
「せやけど腹減ったな。タケシ、お前この後仕事か?」
「イヤ、今日は休みや」
「そうか。直樹は今日、コッチへ泊まってくんやろ?」
「う、うん。……でもホテル代がないんよな……どうしようかな」
「じゃあ俺んトコへ泊まれ。
メシ行くぞ。帰りに美奈子に何か買うて来よう」
そう言って、パクは足早に部屋を出る。
「何しとんねん。早よ行こうや」
「お、おう……」
2人は返事をして、パクの後について行く。
その後も随分夜遅くまで2人とは話をしたが、パクは一切今回のことについて話をしなかった。
……納得なんかしてへんよな。
分かるよ、パクウ。
心配なんやな……。
どっち付かずで宙ぶらりん、そんな自分の立場で、今回何かの役に立ったのか。
タケシの選択ってどうなん?
そう言われても、分からない。
分からない、で正解だと思う。
パクの笑顔でのお喋りを聞きながら、そんな風に思った。
直樹は次の朝、一番早い新幹線に乗り込んだ。
この日も夕方からバイトが入っている。
今回の件で、更に働かなければならないと思った。
パクは納得していないだろうし、タケシも納得の上のことではないのだろう。
考えることが多すぎた。
考え事をやめないクセのおかげで、新幹線での移動は随分と早く感じた。
駅に着くと、直樹は家方面ではなく、病院へと足を向ける。
母は約1年前から、入退院を繰り返している。
病名は胃ガン。
一度手術をしたのだが、転移があり、もう手遅れの状態だった。
一月前、あと1年持てば……と宣告されていた。
このことは母には伝えていない。
おそらく父も、伝えていないだろう。
慶也と直樹は照らし合わせるでもなく、可能な限り病院へ行っている。
父がどうしているのかは、知らない。
直樹は病院への道すがら、花を買った。
白やピンクが入った、清楚な花束。
エレベーターに乗り、慣れた匂いの廊下を進む。
そして、病室へ入る前に直樹が必ずすること。
顔の筋肉を上下左右に動かし、解すこと。
カチャリ。
「お母さん、どうですか?調子は」
言いながら部屋に入った。
母は直樹が訪れるといつもベッドの上に座ってぼんやりと外を眺めている。
「あぁ直樹さん。さっき慶也さんが来てたんだけど、会わなかった?」
「いや、会いませんでしたよ?いいんですか、寝てなくて。お加減は?」
「体調は悪くはないんだけど、やっぱり退屈でしょうがないわ。
直樹さん、今度来るときウォークマンとテープを何本か持ってきてくださる?」
「いや、そのことなんですけど、今日は良い知らせですよ」
先日、医師と話をした直樹。
これからしばらくは自宅療養という形で、調子の悪いときだけ来てくださいと言われていた。
「この水曜から家へ帰れますよ、お母さん。随分良くなったみたいですからね」
「え?それは退院していいってことなの?」
「そう。そういうことです。良かったですね、お母さん」
直樹はここで、ニコッとした笑顔を母に見せる。
「僕、この後バイトがあるんで帰りますけど、この花だけ花瓶に入れときますから。
また明日来ますよ」
そうして花瓶を手に取り、部屋を出た。
……今の母、俺にとっては、嘘が最大の味方。
告知に関してはいろいろなことが言われているようだが、言わずに済むならそうしていたい。
直樹は花瓶に花を生けて戻り、サイドテーブルの上に置いてもう一度
「また明日来ますからね」
そう言って、病室を出た。
エレベーターで降り、エントランスを抜けて病院の前のタクシー乗り場に行くと、そこには慶也の姿があった。
「おい、慶也」
「アレ、兄さんも来てたのかい?今から家に帰るの?」
「うん。いったん家に帰るよ」
「じゃあ一緒に帰ろうよ。兄さん、昨日どこ行ってたんだ?」
慶也に、タケシのことを話すことはないと思った。
だから、遊びに行っていたわけじゃないんだけど、と向こうに行っていたことを説明する。
「兄さん、アッチの人とまだ付き合いあるんだもんな。スゴイよな。僕なんか、もう連絡も取ってないよ」
「お前はほら、社交性がさ、あるから、どこに行っても馴染めるしな。それはそれでエエんちゃうか?」
「えー、僕は広く浅くより、狭く深くの方がいいと思うけどな」
慶也は高校での成績も上位に食い込むほどの頑張りを見せていた。
いつもニュートラルに置いて、いざとなったらどこにでもギアを入れられる状態。
お前の方が良いに決まってるよ。
直樹は他意なく、そう思う。
この時、母の退院の日には何時にここに迎えに来ようと、2人は約束した。
お互い、母のその後については一度も話をしていない。
―――― 彼は俺たちの前で愚痴を言わない。
両親のことを、悪く言わないのです。
一度捨てられ、二度までも……
それに関しては五感を失っているかのように、本当に、まるでなかったかのように振舞います。
今回のことも確実にそれに付随し、延長線上に起こったことなのに。
俺が言い、思うまでもなく、あの2人はお互いの言い分を理解しながら断じていたんです。
俺だって3歩離れているつもりはない。
少しは理解しているはずだ。
だが彼らの思想を見ていると、俺の中枢は何と段だら縞なんだと、恥じて思う。
色に合わせてガタガタで、断層すらできているんだ。
茶渋のようにこびりつき、色づいている俺の部分。
沖積されて出来上がってしまった俺のその部分は、もう方法を厭わなくてもこびりついたままなんだろう。
だって、聞いてください。
俺はずっと、母を暢気でどこか間の抜けた人だと思っていました。
いつも椅子に座っているこの人は、そのうち歩き方すら忘れるんだろうと思っていました。
でも、やさしい母さんなんです。
俺が贅沢三昧し、学び、居座り、ああしてこうして、こうやって来れたのは、母のお蔭。
そして、父のお蔭なんです。
『お父さん』
『お母さん』
俺のお母さんが、もうすぐ死にます。
俺は何をすればいいのでしょうか。
どんな刃物を使おうと、どんな角度から切ってみようと、俺はこの世は生きるものの物だと考えるんです。
どの角度から見てもらっても結構です。
それは最果てまで行っても、変わらない。
そして、俺もその生き物の一点です。
それと同時に思うこと。
もしかすると、あんな風に悲しみ事を考える俺を、俺が愛おしいのではないのだろうか。
どうですか。
俺は、そのようにできていますか。
こう見えても、人に死んでほしくないと考えているんですよ。
母なら尚のことなんです。
丁重に、丁重に、時間が過ぎて行く。
このまま何も変わらずなのか、
そして、いつまでなのか
下劣な自分が愛おしいのではない。
疎ましいのです。
どんな刃物を用いて、どんな角度から切ったところで、今の俺は何も持ち合わせてはいない。
こういうのはどうでしょうか。
いっそ蓋を開けてみれば、
「俺は煮え湯を飲まされた」
過ぎてみれば何もなく、こんなことを俺は笑って言わないですか。
「心配して損したで、まったく」
続けて笑って言いませんか。
お父さんの話は聞いていないんです。
意見もです。
ただ俺は、生きていてほしい。
そう願っている。
宣告されたその時期まで、もうそれほど時間は残っていません。
彼らのことも心配ですが、こっちの方も心配です。
……もうすぐ、お母さんが死んでしまいます。――――
母は家に戻り、以前のような生活を送っている。
「お母さん、痛いですか?」
そう聞きたいが、聞いていない。
変に気を遣うのも、少し違うような気がした。
父は以前と変わらぬ対応を、母にしている。
意図する部分
本当の箇所
そういったものは俺には分からないが、俺もそうしよう。
なるべく普通に、だ。
慶也にもそう伝えよう。
俺だってここの一員なんだ。
間違っちゃいない。
いつも母が座っている椅子は今、母が座ることによって以前よりも大きく見える。
いつもの体勢なのに。
母は週に一度通院することになっている。
いよいよ悪くなったときは、また入院してもらうということを医師から言われていた。
通院は慶也と直樹が順番で付き添うことになっている。
それ以外は、何も変わらない日々。
学校が終わればバイトに行く。
帰って勉強する。
そんな日々が淡々と続いていくものだと思っていた。
……一月後を迎えるまでは。
その日、直樹は徹夜明けでアルバイトに来ていた。
眠い目をこすりながら、デスクワークをこなしている。
最初の頃は何が書かれているのかすら分からなかったこの書類も、大分理解できるようになってきた。
書類を繰りながら、直樹はふと昨日・一昨日のことを思い出す。
先日の三連休を利用して、直樹はパクとタケシに会いに行っていた。
その際、タケシのマンションに泊めてもらう代わりに、仕事を手伝わされたのだ。
仕事といっても単純明快なもので、商品の箱詰め梱包。
「おーい秋月、頑張ってくれよ。ここにあるの全部、朝までに詰め込んでしまわなアカンからな」
「これを朝までかよ!?こりゃ寝ずにせなアカンな…。せやけどタケシ、こんなん商売になるんか?」
「アホやなお前。何も分かってへん。
コレ、ついこないだ発売されたスーパーファミコン、知らんのか?
みんな、欲しいても手に入らへんのやんけ。転売したらウハウハや」
「転売?ああ、価格操作してんねや。付加価値つけてるワケ?」
「そうそう!コレ1個売るだけで○千円の儲けや」
「へぇ…ファミコンがねぇ…」
「ファミコンちゃう!スーパーファミコンや!」
世の中には、いろんな商売があるということを知った。
「……あれ?」
そこまで思い出した直樹の手が止まる。
おいおい、アレは違法じゃねぇだろうな!?
そう思い、調べようとしたその時、後ろから声を掛けられた。
「秋月くん、この案件、先生のところへ通しといて」
その男性は向井さんといって、ここの社員。
直樹の先輩に当たる人だ。
彼はもう、この事務所に勤めて4年ほどになる。
「あ、はい、分かりました」
返事をして立ち上がろうとした直樹の肩を、向井はガッと押さえ、もう一度椅子に座らせた。
「秋月くん、今日残業OK?どう?手伝ってほしいことがあるんだよ。ダメかな?」
別に予定もない直樹、OKを出そうとしたそのタイミングで、また横から口を挟む人がいる。
「ダメダメ!」
そう言って会話に入ってきたのは、弁護士資格を持っている洋子さん。
「アルバイトの一月の勤務時間って決まってんだから。残業はさせちゃダメだよ!
それに今日は秋月くん、私と飲みに行くんだから!ねぇ秋月くん?」
「え?」
そんな話は初耳だ。
直樹はちらりと向井の顔を見る。
……今にも舌打ちしそうな顔。
直樹は知っている。
向井が洋子に想いを寄せていることを。
そんなのは見ていれば分かる。
「あ、イヤ~…そんな約束、してないッスよね?」
「いいじゃん、行こうよ!それとも先約がある?秋月くん、モテそうだもんね」
「イヤ、そんなことはありえないッスよ」
直樹は、洋子よりも向井を立てる必要があった。
変なトラブルはご免だ。
それに、飲みに行くくらいなら寝てしまいたい。
そして寝てしまうより、残業でお金を稼ぎたい。
「イヤ、向井さん大変そうなんで、今日は残業させてもらいます」
そう言って、何とか洋子の誘いをかわす。
と同時に、にこやかになる向井。
……とても分かりやすい。
直樹はこの事務所にバイトに来るようになり、自分の中で約束したことがあった。
司法試験を受けること。
タケシが何かヤバイことになったときに、助けられるように。
それとタケシのように自分で部屋を借りて、一人暮らしをしたかったから。
母があの家にいるまでは、というよりも、母がいなくなってしまったら……
とにかく早くお金を貯めて、一人暮らしをしたかった。
この日、直樹は珍しく9時すぎまで残業した。
…今日の徹夜を含めて、新幹線の時間を除けば、何時間ブッ続けで仕事したんや?
さすがに疲れている直樹だが、向井はお構いなしに
「よし!俺も終わった!秋月くん、今から飲みに行くよ!」
「え!マジっスか…」
「何だよ、イヤなのかよ?もちろん俺が奢るよ?」
「…あ、ハァ…」
当然、こういう付き合いも必要だと思う。
こんな機会の時はなるべく参加するようにはしている。
だけど今日は……
「……じゃあ1時間だけ」
「よし!そう来ないと!じゃあ行こうか」
2人はそうして事務所を出た。
向井と一緒に飲みに行くのは、これが初めてではない。
何度か経験があるので、大体のパターンは読める。
この人は時間を決めてやらないと、最後まで行くタイプなんだ。
そしてお酒も強くない。
30分もあれば、グデングデンになっている。
直樹は相変わらずお酒が飲めないため、素面のままそれに付き合っている。
「ところで秋月くん、仕事は慣れた?」
このセリフが、酔い始めた合図。
「もう随分慣れましたよ。でもやっぱり難しいですね。
知識があってから、それを応用する仕事ですからね。とても難しいです」
「秋月くん、それはね、この仕事だけじゃないよ。全部そうだよ。
人付き合いだってそうだろう?君は学校に友達がたくさんいるのか?」
「まあまあ、ぼちぼちというか…。あんまり時間がないんで、付き合いができないんですけど。
僕、ちょっと前まで関西の方に住んでたんですよ。ツレっていうんなら、向こうに2人いますかねぇ」
「関西?それで変な関西弁使ってるんだな。言葉遣いがおかしいと思ったよ」
この会話も、もう何度したか分からない。
そして次に必ずこう来る。
「秋月くんは学校で随分とモテるんだろうねぇ」
この質問に対しては、どう返事をしても向井さんは声を荒げるのだ。
「イヤ、そんなことないッスよ」
「嘘吐け!!君ィ!背が高くてその顔で!モテないわけないだろう!
俺なんかね!俺なんか……フラれた回数で地球一周できそうだよ!」
「まあまあ、向井さん。ところで、洋子さんってイカしますよねぇ。
資格持ってるし、見た目もキレイだし、最高ですよね」
これが合図で、いつも2人の飲み会は終わるのだ。
「だろ?だろう、秋月くん!彼女はいいよ、本当に!」
「明日も仕事ですよ。二日酔で洋子さんに会っちゃっていいんですか?」
「あ、そ、そうだな。じゃあそろそろ帰ろうか」
ここまでで、ざっと1時間。
直樹にとっての向井。
こういう人は嫌いじゃない。
というより初めてだろう、慕える先輩というのは。
ほどほどの先輩の威厳、力というものを振りかざし、それの3倍ほど直樹に優しくしてくれる。
いつものように、直樹は向井に肩を貸し、店を出た。
向井も司法試験目指して頑張っている。
いつも奢ってくれて、いろんな話を聞かせてくれる。
直樹にとって、初めての先輩。
……それにしても重たいな。
向井は隣で何かブツブツ言っているのだが、よく分からない。
こういう形も、愛おしく思う。
とても良い環境なのだと思う。
テレビで見たことのあるような、こんなシーン。
自分も社会に参加できているような気がして、とても心地いい。
「向井さん、もう今から家に帰るんですよね?」
「おー、帰るよ」
「じゃあタクシー拾いますよ?」
「あー、ヨロシク」
直樹はタクシーを止め、向井を後部座席に乗せる。
屈んで挨拶をしようとしたその時、向井の手が直樹の頭をポンポンと叩いた。
「お互い頑張ろうな。僕も君には負けてられないからなぁ。
司法試験、どっちが先に取るか競争だぞ。お互い頑張ろうな」
「…はい」
直樹はそう返事をする。
走り出したタクシーの窓から顔と腕を出し、笑ってこちらに手を振る向井。
お辞儀をして、手を振り返す直樹。
……これが、向井との最後の遣り取り。
直樹が尊重し、気を遣い、立ててきた、向井との最後の遣り取り。
直樹はもう二度と、あの事務所に行くことはない。
やって来たタクシーを拾い、直樹も帰途に就く。
この時間になると、もうバスがなぁ…。
そんなに遠くでもないし、自転車で来ることにしようか。
今からお金を貯める練習をしておかないと。
いろいろ必要だからな。
運転手が何かと話しかけてくるが、それに軽く返事をしながら考える。
向井のクダの巻き方を思い出し、噴き出してしまう。
遣り取りは目を見張るほどに、驚くほどに順調だった。
窓の外、寒さで澄んだ空気と合わさった街灯の流れは賑やかで綺麗だ。
メーターを気にして、直樹は少し家の手前でタクシーを降り、そこから歩いて帰ることにした。
…そういえば、しばらく走ってへんなぁ。
ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、歩く速度を少しずつ速め、駆け足に変えて行く。
白い息を早らせ、急ぐ必要のなかった帰宅を済ませようとする。
その角を曲がればすぐに家というところで、直樹はふと足を止めた。
夜道に赤い光がくるくると回っているのが見える。
パトカーだ。
「……?」
何台も停まり、周りに人がたくさん集まっている。
直樹は何気なく首を伸ばし、その光景を見遣った。
そしてまた、駆け足を再開する。
頭を過ぎったのは、何かあったのかな…程度。
家の門に差し掛かったところで、玄関の前に誰かが立ち、うろうろしているのが見えた。
そのシルエットは、お手伝いの島尾さんのもの。
直樹は慌てることもなく、駆け足しながら近づいて行く。
足音に気づいたのか、こちらを凝視する島尾さん、直樹だと気づいた途端にすごい勢いで駆け寄ってきた。
「お兄さん!直樹お兄さん!」
その時の彼女の顔は、尋常ではなく目を見開いていた。
ここで、何かあったと直樹も悟る。
…お母さん!?
「ど、どうしたんですか!?」
事態は飲み込めていないが、直樹は慌てる。
そして彼女が言った言葉は、
「け、慶也さんが…ッ!!」
まず、頭の中の収集はつかなかった。
島尾さんが言い間違えた、とも思わない。
直樹は母のことだと決めつけ、家の中へ駆け込む。
そのままリビングへと飛び込んだ。
「お母さん!!」
だが、その光景は母云々のものではなかった。
慶也がソファに横になり、毛布を被せられている。
頭にはタオルが巻かれており、その白いタオルは鮮血で真っ赤。
腕にも巻かれている、大袈裟な包帯。
「!?」
直樹は一瞬でそれを確認し、落ち着くことなく少し視線を変えてみた。
隣には父が座り、向い合うように母が座っている。
震えている母。
おろおろ、おろおろと、何故か手に持ったティッシュを千切っては丸め、千切っては丸めしている。
2人ともこちらを向かない。
考えるのは後にした。
「慶也!!」
慶也の元へ駆け寄る直樹。
毛布を剥がすと彼はほぼ裸で、至る箇所に包帯が巻かれている。
「…ちょっ…ちょっと!何ですかこれ!?お母さん!何ですかこれ!!」
ひどい怪我だ。
包帯に血が滲み出している。
直樹は怒鳴った。
「お母さん!!こういうときは救急車を呼ぶんですよ!!」
急いで電話に駆け寄ろうとした直樹を、そこで制したのは父。
「直樹!」
と、久しぶりに名前を呼ばれた。
「何ですか!?」
直樹はそう振り返る。
「慶也はバイク事故を起こしたよ」
父はそこから始めた。
何を思ったか、慶也はキイの付いた原付を見つけ、それを盗み、乗り回したということ。
先ほど何台も停まっていたパトカー。
慶也はそこで、人をはねた。
その拍子に自分も塀に激突し、体を引き摺りながら家まで帰ってきたと言う。
それが、つい先ほどの出来事。
「慶也!お前何やっとんねんッ!?」
直樹はそう叫びながら、電話の受話器を取った。
もう唸り声しか上げていない慶也、こちらの声が届いているかも定かではない。
「えっと、救急車は…」
まず頭に浮かんだのは110だったが、気を持ち直し119を押そうとしたそこで、また父が直樹を制した。
「待ちなさい」
その言葉に、直樹の手が止まる。
何を待てって言うんだ!?
そしてもう一度、振り返る。
直後、父が直樹に向けた言葉。
それは直樹が取り合えずと表し、培ってきた骨組・骨格を確実にうねらせるものだった。
「お前はこれまで、誰のお蔭で育って来れた」
「………」
―――― 誰のお蔭で育って来れたのか。
そんなことをしている場合ではない、それしか頭になかった直樹、
「生んでくれた父母のお蔭だと思っています」
そして続けて、お二人の、と言おうとしたその言葉を、父は遮った。
「誰がそんなことを聞いた!誰のお蔭でこれまで順風満帆に来れたと思っている!」
「………」
……それを 深く 考える必要がないと、 思って、
お父さん
お母さん
慶也と 接してきました
だから、深くは……
「……それは、深く考える必要がないと、これまで考えてきました」
その答えに、父が自分の考えと照らし合わせたかどうかは分からない。
大きく息を吸い、鼻から出し、次に続く。
「じゃあまず考えなさい。お前がここで何をすればいいか」
いつもなら、ここで思うこともあるだろう。
だが直樹は一刻も早く、救急車を呼びたかった。
「救急車を呼んで、慶也の手当てをしてもらうことだと思いますよ」
急ぎ、面倒臭いように直樹はそう答える。
しかし、父は受話器を持っている直樹の腕を掴み、それを下ろさせた。
「そんなことをしたら、慶也が事故を起こしたことがバレてしまうだろう!」
この人は…!!!
「何言うとんねんッ!!あの頭見てみぃ!あの出血、尋常やないやろ!!見て分からへんのか!!
お父さんの面子は、取り合えずどっかに置いといて下さい!!」
そう言うのと同時に、直樹は母の顔をちらりと見てみた。
相変わらずおろおろと手を震わせている。
状況を読みきれていない直樹、それを確認して舌打ちが出てしまう。
その直樹に、父はいつもと変わらず静かに言った。
「直樹、慶也の代わりにお前が出頭しなさい」
直樹はいったん、その言葉を聞き間違えたと思った。
強張らせていた血液が、下へ下へと流れていくのを感じる。
―――― 笑って誤魔化せ。
直樹はそうしてみようとするが、笑えない。
父の目を直視しながら、今の言葉を聞こえなかったことにすることもできない。
「直樹、お前がバイクを盗み、乗り回し、人を撥ね、慶也も撥ねたことにしなさい。
これは命令だ」
下に流れていったはずの血液が、また逆流する。
すくすくと肥大するものにつられ、頭をもたげ始める。
「………」
「これは取引ではない。これまでの分を私に返しなさい。
お前が誰のお蔭で生きて来れたか、考えなくても分かるはずだ」
体の中で熱いものを感じながら、直樹は力むことができないでいる。
頭を垂れ、父の胸に手を置き、寄りかかるように。
「―――― 貴方、一体何を言ってるんですか……?
この時のために、俺はここにいたんですか。貴方の先見の明は、ここに届いていたって、……そう言うんですか」
膝が折れ曲がって、どうしようもない。
貴方、と言った直樹に対し、父は君、と返す。
「君の自由にさせた覚えはない。
君の全ては以前からずっと、私が握っているんだよ。
認めなさい」
膝をついてしまった直樹は、もう何も言い返せない。
何も言えないが、そこで振り絞る。
「……だったら、今ここで、殺してくれませんか、……お父さん」
その瞬間、父は顔を硬直させ、テーブルの上の急須を鷲掴んだ。
それを、膝をつき自分を見上げる直樹に、思いっきり投げつける。
ガシャンッ!という音と共に、急須は直樹の額に当たる。
直樹は避けなかった。
息を切らせながら、その場を去る父。
直樹は額を庇おうともせず、父の方を見つめたまま。
半永久的に続くとは、決して思っていなかった、あれら。
確信した。
俺は、拾われたんだ、と。
もう、慶也のことは考えられないでいた。
母の横に座り込み、顔を見ることもなく、話をするでもなく、時間が流れる。
そこに、父専属の弁護士がやってきた。
入念な打ち合わせ。
あくまで、あくまで冷静に、弁護士は直樹に言った。
「明日の朝には帰って来れるようにしますからね」
打ち合わせの内容も、その言葉も、直樹はこれ見よがしに自分の中に刻み込む。
そして一言も発することなく、直樹はその弁護士に連れられ、警察署へと向かった。
どんな気持ちかなんて、形容し難い。
幾千万と交わしてきたであろう、いろんな事柄の中で……
その弁護士と2人、車で移動する中、
誰のお蔭で生きて来れた
これについて、深く深く考えてみた。
自首する形になった直樹。
警官の尋問、質疑応答。
それらを打ち合わせ通りに済ませていく。
おそらく多額のお金を積み、慶也が轢いたその人に支払うのだろう。
幸いその人は生きているということだから。
これが夢なら……などとは思わない。
違和感なぞを通り越したその空間を、直樹は紛れもなく肌で感じている。
1時間前まで、自分の旗を夢見ていた。
直樹はそのまま留置されながら、自分の旗の柄・色・形などを破り捨てる。
……言われた通り、全てこなした。
直樹は次の朝一番で、釈放された。
迎えに来た弁護士を素通りし、走って家へと向かう。
「あれ、直樹くん!家まで送るよ。
お父さんにそのように言われてるから、乗ってくれなきゃ困るよ」
直樹はそれを無視した。
よく晴れたその日、直樹はまた白い息を吐きながら、以前ジムに通っていた頃の、あの走りを思い出す。
「ハア、ハア、……ハァ」
息をすることだけに努め、あと100mくらいかな、
そう思ったところで、全力疾走を始めた。
そして迷いなく玄関のドアを力強く開け、階段を駆け上がり、自分の部屋へ飛び込む。
昨夜考えた、必要最低限のものをまとめながら、
多勢と無勢
人選
間引き
……最初から間違っていたのは俺なんかもしれんな。
それは、生まれたときから……
大きめのカバンに全てを詰め込み、一度部屋を見回してみる。
そしてバンッ!と力強くドアを閉めた。
階段を下りようとしたところで、その下に母が立ってこちらを見上げていることに気づいた。
直樹は一段飛ばしで階段を駆け下り、母とすれ違い様ニコッと笑って見せる。
そしてそのまま通り過ぎ、玄関で靴を履く。
「直樹さん……直樹さん……」
か細い母の声は、確かに直樹の耳に入ってきている。
「どこ行くんです、直樹さん」
靴を履き終え、頭を上げた直樹、
答えた。
「どこかへ行きます」
家の雰囲気から、父が会社に行っているということが伺い知れた。
「どこかって……どこへ?」
その問いに答える必要はないと思った。
なるべく笑顔でと努めている直樹。
それに対し、母は言った。
「行き先が分かったら、教えてちょうだいね」
……涙が出そうになったが、直樹はそれをしない。
明るく笑いながら、
「ちょっとお母さん、止めてくれないんですか?これって家出ですよ?」
手を前で組む、見慣れた母の姿勢。
直樹は笑顔をやめ、口を閉じた。
クッと唇を噛み締める。
―――― これが、育ての親 母との、今生の別れ。
最後の言葉は、先ほどのそれ。
慶也の姿は、あの時が最後。
直樹はそのまま家を出て、歩き出す。
一瞬タクシーで駅まで行こうとして、やめた。
よく晴れたその日。
直樹は目を閉じて、天を見上げる。
目を閉じたまま、太陽を探す。
そして、自分の赤を凝視する。
ヤバイな、俺……
俺は目的の、どの辺りから……
もう一度振り返り、我が家だった家を見つめ、
……そうして、歩き出す。




